「仮契約、しようと思うんだ」
「へぇ、いんでねぇの。誰と?」
「私。文句あるのかジジィ」
「べっつにぃ」
平らな胸を張るマナを一瞥し、神妙な顔で告げる幸樹に辰也は視線を向けた。
幸樹は偉大なる魔法使い候補として扱われる高位の魔法使い。未だに魔法使いの従者がいなかったということが驚かれるほどに優秀な男だ。
彼は何かの分野にとりたてて秀でている、という訳でもないが攻撃、防御、支援、回復の魔法を分け隔てなく高水準に使用できるバランスを持っている。悪く言えば華がないのだが、万能であるということは臨機応変な対応が出来るということであり、『紅き翼』の登場以降無駄にド派手な魔法を覚えたがる者が多い現代では酷く重宝されるタイプの魔法使いだ。
「ロリコンか?」
「違う」
「光源氏計画か?」
「違う」
幸樹がこれまで魔法使いの従者を特定の人物として指定しなかったのは、第一に万能であるが故にである。
前中後、すべての立ち位置で戦闘を行うことが出来る故に、すべての立ち位置での戦闘方法というものを自分の中で大まかにではあるが形作れていた。だからこそ特定の従者を定めて戦闘方法を絞るよりもその時々の戦力、作戦、戦況に合わせた方が都合が良かったためだ。
「好きなのか?」
「マナの事だったら好きだよ」
「ぶい」
「妹のように思っているさ」
「いぇ~い」
「これだから童貞は駄目なんだ」
第二は先日殺された幸樹の育ての親である先代団長夫妻の影響からだ。
魔法使いの従者は本来魔法使いの盾として、共に戦う相棒としてある者のことだがそれも今や昔。昔からの意味を残し実践しているのは戦場に出る一部の魔法使いだけとなっている。
もっぱら現代では主人従者の契約方法が接吻ということもあって、将来を誓い合う恋人同士のための儀式として浸透しているのだ。先代団長夫妻は魔法界の魔法学校からそのままNGO団体『四音階の組み鈴』へと入団していた。多感な思春期にはそんな知識が嫌というほど頭の中に飛び込んで来ていたらしく、従者を持つということはそのような意味、と幸樹は教えられていた。
「父と母を僕には守れなかった。だから残された家族は、かけがえのない妹は必ず守る……この契約は僕の誓いだ」
「ガキはそれで良いのか?」
「良い。家族になれた、私にホントの家族が出来た、私はそれが嬉しいから良い」
「じゃあいんじゃねーの。二人にその意思がある訳だし、俺が口挟む問題でもねぇしな」
ケケケと哂う辰也にマナは鼻を鳴らし、幸樹は苦さを含んだ笑顔を示した。
「辰也はこれからどうするんだい?」
「古巣に帰るさ。契約相手がいなくなっちまったし、一年+αの契約だったしな」
「そうか……寂しくなるね」
人が死ぬという事柄が基本的日常である戦場。団長が死ぬ、ということも特別珍しい事態ではない。潰すならば頭から、というのは当り前の考え方なのだ。
今回は内から湧き出た膿によって頭が腐った。
NGO団体として、人のために働きたい、そう言っておきながらも働くのは所詮人間。良心を信じたかったから、その気持ちが本心からだと信じたかったから、迂闊であった故に今回起きた事件に今後はその対策も取られていくだろう。何度とない失敗によって組織は少しずつ昇華されていくものなのだから。
「お前は?」
「残るよ、僕の家はここだから。救いたいから救う、団長の意志を継いで、いろんなところに目を向けながら必ず笑顔で笑顔を作れる組織にしてみせるよ」
「熱血漢だねぇ」
ともかく、今回の事件は四音階の組み鈴に波紋を呼んだことは間違いない。
辰也のように組織を離れる者もいる。
幸樹のように意志を強める者もいる。
マナのように誰かに付いていく者もいる。
誰かの死により人々はさまざまな方向へ向けて歩きだす。
「また会おう、親友。離れていても心は一つだ」
「くっせーっ! 何処よここ、便所か、ガキが屁でもしたのか?」
「してない、死ね」
「だから銃口をこっちに向けるな。あぶねーだろうが」
「あははははっ」
頬を膨らませるマナの姿に、今度は曇りない笑顔を幸樹は浮かべた。じろりと効果音でも背景に付きそうなほどきつく睨む視線は暖簾に腕押し、辰也はポケットから一枚紙を取り出してマナの口に押し込んだ。
「むごぅ」
「まぁでも、どうしてもなんかあったら連絡くれや。良心的価格で雇われてやるぜ」
「貧乏な僕には手厳しいなぁ」
「それも無理だったら酒くれぇ付き合ってやるさ」
ひらひらと手を振り、辰也は二人に背を向けて歩きだした。三人の道が再び交わるまで、辰也は、幸樹は、マナは、自分だけの道を歩いていく。他の誰でもない自分自身が決めた目的地に向けて、自分が選んだ道を、自分なりの歩き方で。
◆
照りつける苛烈な太陽も、見渡す限りの砂地も、イスラーム建築もどこにもない。巨大なケヤキ製の木造広間に幾つか座布団が並べられ、老獪そうな男や女が腰を落ち着けている。
下座には辰也を合わせて四人、十代後半から二十代前半の若者は姿勢良く正座し言葉を待っていた。
「まずは楽にして欲しい。そして礼を言う……この試みに参加してくれてありがとう、生き残ってくれてありがとう」
優しげな容貌をした眼鏡の男は上座より三人へと向けて深々と頭を下げた。白髪交じりの頭頂部は段々と持ち上がり、男はやがて正面を向く。その目には明らかに沈んだものが含まれていた。
「君たちには一年半の期間、日本の外に出てNGO団体の一員として活動をして貰った。この日本で長きに渡って積み上げられてきた技術を芯に、世界を個人として、関西呪術協会の一員として見て欲しかったからだ」
眼鏡の男は神妙そうな表情で、言葉を選ぶようにしてちくちくと紡いでいく。
四人の若者たちは、例えれば国が選んだ留学生のようなものだった。関西呪術協会は古くから日本に蔓延る魔性を駆逐するための、護国を基にした呪術機関である。その発端は陰陽寮の時代まで遡り、時の陰陽頭である土御門晴雄が没してから一度解体され、再び『日本呪術協会』の名前で構築された。
だが直ぐにそれは現在の関西呪術協会という名前へと変わる事になった。
長く江戸幕府が続けていた鎖国の歴史に終止符が打たれから。明治改革の波とともに日本へと入って来た西洋魔法使いたちは日本で恋をし、子供をもうけてそのまま腰を落ち着け、関東魔法協会という彼ら自身の組織を作り上げた。
時の政府は古きを棄て新しきを得ることを第一義としていた。
そのため政府は陰陽寮を解体し、再び作り上げられた日本呪術協会も西洋魔法使いたちの行動を大きく考慮に入れて、関西呪術協会という名前に改めさせたのだった。
しかしこの政府の行動は日本にいる古くからの業を受け継ぐ者たちを怒らせた。これまで骨を砕き身を粉にしてまでお国の為、お国の為と戦い続けていた彼らを政府は蔑ろにしたのだ。不満は爆発し、西南戦争の裏で関西呪術協会は関東魔法協会と全面戦争が行われた。
結果、関西呪術協会は幕府軍と同じく敗北を叩きつけられ、日本の聖地のひとつである世界樹近隣を彼らの拠点とすることを許す事態となったのだった。
「遡れば明治維新、歴史の裏で私たちは敗北を帰した。だが正面よりぶつかり負けた、その事実を私たちの先祖は真摯に受け止めた。古くより受け継いだ高潔な精神、それを私は誇りに思う」
それは双方の陣営に甚大な被害を与えた大戦争だと、関西関東両方の歴史書は語っている。
しかし同時にその戦争は日本の業の奥深さを世界に示すことにもなり、負けることは負けたのだが極東の神秘として日本の術者たちは讃えられる事となった。当時の関西呪術協会は突き付けられた事実に頭を下げ、快く世界樹を任せたとも記す歴史書もあるほどだ。
多少の遺恨を残しつつも、両協会はそれなりに有効な関係を築いていた。二度に渡る世界大戦の折も、手に手を取り協力しあっていた。だが――
「ここにいる者たちの一部が、もしくは多くが、あるいは全員が、関東魔法協会を快く思わない理由は私自身も解る。私も当時その発言を耳にした時、幾度ゲートを突き破りあの豚に刃を浴びせてやろうかと思ったほどだ。仲間を、親を、子を、道具として扱われるその屈辱! ……私にも、痛いほど解る」
眼鏡の男、現関西呪術協会会長である近衛詠春は拳を握りしめて、大きな塊を吐き出すように言葉を零した。
詠春は今から十数年前、とある戦争に参加していた。
それは魔法使いたちの世界で起きた、古くから魔法使いの世界で暮らす民とその世界に移り住んだ民との間で起きた民族戦争。古き民は新しき民に虐げられ、自分たちの文明が生まれた地すら取り上げられた事をいつも不満に感じていた。二つの民族の領地境界では小競り合いが頻発しており、いつしかそれは遂に全土を巻き込む戦争にへと発展したのだ。
詠春自身はただ単純に戦争によって苦しむ人間を減らしたいがために身を投じた。
第二次世界大戦の広がりを抑えるために奔走した父の話を聞き、純粋な気持ちでその戦争へと身を投じた。
しかし――そんな、本来関西呪術協会とは大した関わりのない戦争へと歩んでいった者たちの気持ちを踏みにじる男がいた。
男は当時の関東魔法協会の理事長だった。
魔法世界での戦争、『大分烈戦争』において新しき民は古き民の技術力と底知れぬ潜在能力の前に風前の灯まで追いやられていた。新しき民は、魔法使いたちは負けそうであった。だが今まで奴隷として虐げて来た者たちに負ける訳にはいかなかった。魔法使いであるという誇りがそれを許さなかったのだ。
そんな中、本国と魔法使いたちの間で呼ばれるメガロメセンブリア出身の関東魔法協会理事長であった男は、実に下劣な考えを思い付いた。
男曰く、関西呪術協会は関東魔法協会に敗北した。
故に関西呪術協会は関東魔法協会の傘下であることと同義である。
関西呪術協会は即刻有望な人材を戦争に送り込むこと。
当時の関東魔法協会理事長の発言によって日本の裏世界に激震が走った。そしてその衝撃は、親魔法使い派で穏健派だった当時の関西呪術協会会長の即合意によって更に激しくなった。
多くの旧き業を持つ日本人が戦場へと、一番の激戦区であったグレート=ブリッジに送り込まれ、敵の攻撃で、味方の超広範囲殲滅魔法で命を落としていった。
後の調査で彼ら二人は癒着しており、間を巨額の金銭が飛び交っていたことが判明した。金のために、ちっぽけなプライドのために、日の本の術者たちは冥府へとたたき落とされたのだ。
「関東では当時副理事長で現在理事長の近衛近右衛門氏がすぐさまあの男を更迭し、こちら関西では前会長が首を刎ねる、という少し過激すぎる方法ではあったが流れを止めることに成功した。だが、その命令が下されてから僅かの間で失われた命はあまりにも……多過ぎるっ!」
関西呪術協会の主要戦力、その半数以上がひと月足らずの間に戦場に押し込まれ、命を落とした。
当時の二人は既にこの世にはいない。二人の考えに賛同した者たちも、戦争後の刑事裁判によって処刑されている。だからといって解決するような問題ではない。人の想いは深く、長く続いていく。
「関東魔法協会のある麻帆良、そこに襲撃を仕掛けている人間が関西呪術協会内部にいるのは知っている。拭い切れない怨嗟があるのは、私とて理解しているつもりだ。だがそれではいつまでたっても変わらない、私たちはそれでも変わらなければいけないのだ」
詠春の言葉に座布団の上の重鎮たちはぴくりと反応する。
ある者は詠春を睨みつけ、ある者は遠い目をし、ある者は並ぶ四人の若者たちを見つめ、ある者は目を閉じる。
それぞれの反応の後、再び詠春は語りかけるような口ぶりで言葉を発した。
「だからこそ私は個々人ではなく、関西呪術協会という大きなまとまりとして、何処からか口を添えられたからではなく、自分たち自身から生まれた意志として、外の世界へと力を添えていきたいと思っている。まずは若い君たちに……そう思っての今回の行動だったのだが、結果として十人は四人になってしまった」
木造の広間は静まり返る。
いくらかの沈黙の後、笑顔を浮かべて詠春は問いかけた。
「聞かせてくれないか。君たち自身の目で見て、肌で感じたその想いを」
一人は長い黒髪を大きな三つ編みにした女。
大きな丸眼鏡をかけて、胸元をざっくり開けた扇情的な和服の女。
「名門天ヶ崎家の血を引く陰陽術士、天ヶ崎千草」
一人はつんつんした黒髪からかわいい犬の耳がぴょこんと飛び出した男。
上下学ランの、生意気そうな男。
「狗族の血を引く狗神使い、犬上弘太郎」
一人は白木の太刀を脇に置いて、美しい黒髪を流す女。
巫女服に身を纏ったにこやかな女。
「京都神鳴流が剣士、青山鶴子」
一人は黒髪を後ろに撫でつけた目付きの悪い男。
憮然とした態度でジャケットなんかきている男。
「甲賀中忍、景山辰也」
四人を順々に、一様に見やって、詠春は口を開く。
「聞かせてくれ、飾りげない君たち自身の言葉で」
詠春のことばにまず口火を切ったのは天ヶ崎千草だった。
「きっぱりと言わして貰います。私は関西呪術協会として魔法使いたちに協力する義理はどこにもないと思っとります」
彼女はじぃと詠春を見つめ、はんと軽く鼻で笑ってみせた。不躾な行動に重鎮の幾らかが強い視線を千草に向ける。しかしその非礼を受けた当の詠春は、にわかに色めき立つ重鎮たちを手で制し、彼女を咎めることなく言葉を促した。
「どうして、千草くんはそう思うんだい?」
「そら……いや、その前に一つよろしいか」
「私にかい? 私の答えれる事ならば答えるが」
「それなら聞かせてください詠春様、正義って……なんでっしゃろ?」
正義という言葉は日常の様々な場所で顔を出す。
私たちは国民のために働く、と政治家が正義を語る。祖国解放のために立ち上がるのだ、と本の中の騎士が正義を語る。法に外れたお前は刑務所の中で悔い改めろ、と検事が正義を語る。大義は我らにあり、と過去の武将が正義を語る。お前は悪い子だ、と親が正義を語る。
自分の信じるものこそ本当の正義だと、誰かは語る。
「人の行うべき社会的道義のことだ。仁義礼智信に基づく人格をもって道理の通った法に従う心、個人、集団、それによって成り立つ社会こそが正義だと私は思うよ」
「随分とした、綺麗事で」
「綺麗事こそ正義だからね。例え汚い事柄だとしてもその威光で覆い隠す、そんな強い意味を持った言葉さ」
正義という言葉の意味は昔から幾度となく論じられてきた。様々な哲学者が、様々な形で正義を表現してきた。ここでイギリスにおいて主に19世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家にして社会主義者であった『ジョージ・バーナード・ショー』の言葉に注目してみようと思う。
彼曰く、人が虎を殺そうとする場合には、人はそれをスポーツだといい、虎が人を殺そうとする場合には、人はそれを獰猛だという。罪悪と正義の区別も、まあそんなものだ。
正義は自分の立場によって変わる。悪辣と貶す相手も同様だ。
例えば貴方が無理矢理に女性を連れていこうとしているチンピラを見たとしよう。通行人は誰もが見て見ぬふり。女性の嫌がる表情と声が貴方の耳に飛び込んでくる。貴方にはそのチンピラを倒せる自信と裏打ちされた実力があった。貴方は正義感に多少の下心を混ぜ込んで女性とチンピラの間に入り、チンピラを殴りとばした。
しかし、一日後に貴方は刑務所にいた。
正義は貴方自身のはずだ。悪辣と貶すべき相手はチンピラのはずだ。だが暴力が何よりも悪、とされる場所に貴方がいたとすれば、誰よりも貴方が悪となる。
正義という言葉は強い意向を持つ割にその境界は酷く曖昧である。三つ巴の戦争が起きた時、三つの国すべてが私たちこそが正しい、私たちこそが正義だと謳う。後の歴史には勝った国こそが正義として残るのだろう。
だが本当は解らない。
もしかしたら負けた国の方が正しい主張を持っていたのかもしれないが、すべては灰の中に消えていく。
「だから私は思う。自分から正義と宣言する人の中に正義はない、他人から称される人にこそ正義はあると思うよ」
問いに答えた詠春はじっと顔を見つめてくる千草を見つめ返した。
少しの後、千草は顔を伏せる。何か感じ取ってくれたのだろうか、そう詠春が思っていた矢先、くつくつとした小さな笑い声が木造広間を這っていった。
「毒され取りますな、詠春様」
「……どういう意味だい?」
「そのままの意味です……魔を携え魔を狩る人間が正義だの悪だの、下らん論争を。まるで普通の、堅気の人らみたいに」
ぞわりと肌寒い風が広間を駆け巡る。
骨を舐め肉を這い魂に触れるような風はひゅー、ひゅーと閉ざされているはずの広間を駆け巡る。
「道理など無い不条理の中、生きようともがく蛆虫……それが私らのはずやろ」
千草はずりぃと刷り上げるように顔を上げ、音なく立ち上がった。
「中庸中立の果て、それでも人間らしく生きようと持った仁義礼智信。基づいて混沌に沈み過ぎた者をさらなる混沌で飲み込む……そう在るべきなはずやろ」
「それは……しかし、今は時代が違う」
「それがどうしたんや? 時代が違おうが受け継ぐ業は同じ、幾度も繰り返された不条理の中で生み出された業を私らは、そして魔法使いさんがたは身に刻んできとるんやろ」
吹く冷え切った風は千草の周りをぐるりぐるり周る。
後押しされるように、千草はまた口を開く。
「それやのに私たちは良い人なんですよとでも言いたげに、人を助けて。果たすべき姿勢が違うやろ?……あの戦争の後処理もそう」
千草は関東魔法協会によって突き付けられた赤紙に、両親を殺されていた。目の前の日常を奪われたのだ。
陰陽の名門『天ヶ崎』の家に生まれた千草は、この世に現れた瞬間から混沌の中に、泥の中に身を沈めるのが決まりきっていた。陰陽術士として裏から政界に、財界に、占術の名手として、あるいは殺人鬼として。
だが千草は幸せだった。
英雄だろうと殺人鬼だろうと母親の母乳で育つのが世の常。子供として両親にありったけの愛情を注がれて、千草は幸せだった。父母が死んだ時、まだ五つ六つであった千草ではあるが、その意味は理解出来た。
注がれる愛情は断ち切られた、奪い去られた。それでも千草はその不条理を自分の中で噛み砕いた。蛆虫だから、混沌の中でもがく蛆虫だから。幼いころから両親にそう教わり、蛆虫は簡単に消し飛ばされるということを知っていたから。
その当時は年相応に泣いた、喚いた、怒り怨んだ。だが齢を重ねるにつれて、立派な蛆虫へと成長した千草は両親の死を割り切った。
そして同時に彼女の目に入ったのは、蛆虫の仁義礼智信を忘れ、人間になろうと混沌の外へと泳いでいく魔法使いたちの姿だった。
信じられなかった、理解できなかった、千草には彼らがわからなかった。
「まとめて幹部の首差し出すか、拷問の御膳立てして関西に送ってくれるっちゅうのが仁義やろ。やのにそんな事もせず、あまつさえ犯した非礼を償うため誠心誠意社会に貢献しようと思っている、やって……あははははっ! 笑いしか浮かばんわっ!」
犯した罪を償うということ、その奉仕はどこに向けばよいのだろうか。
社会、あるいは被害者家族。社会だと公言して、それを被害者家族は許すだろうか。深く暗い蛆虫の社会で、それは成り立つのだろうか。
「NGO団体作ってヒーロー気分味わう前にする事があるやろが。蛆虫でもない人間もどきに協力やこうしとうない。それに……何よりも蛆虫でなくもどきに私の父母を殺されたっちゅうなら、私は魔法使いを許せそうにないわ」
言い終わると千草は足を折り正座し、口を閉ざした。
そんな千草の態度にこれ以上の話を聞くのは無理かと判断した詠春は、苦くなっていた自分の顔を立て直し辰也へと問いかけた。
「辰也くんはどう思ったんだい、今回の事は?」
「里に寄ってから来たんですが、入金確認しました。また機会があればよろしくお願いします」
「イヤそうじゃなく」
「そのままの意味です。報酬が仕事のリスクと自分の技術に合いさえすれば必ず完遂して見せます。日本全国、世界全土、例え誰からの依頼だろうと」
辰也の、何を当り前な、とでも言いたげな発言に重鎮たちは苦言を呈す。
やはり忍びは、そんな言葉が主のようで、聞こえる様な音量で辰也を貶す。
「静かにしてくれ、君たちとてそんな彼ら忍びに助けられて来ているだろう」
詠春の言葉に思い付く節があったのか、ふっと言葉をかき消すように重鎮たちは口を閉ざした。
そんな様子にかりかりと頭を掻き、辰也は少しだけ目を細めた。
「それが君の意見かい?」
「はい、自分は個人的にそう感じ取りました。変わりません、今までとも、これからも……忍びですので。忠義を誓う相手の予定もありませんし」
「ウチも辰也はんと同じどす。もちろんメインは京都、西日本になりますが頼まれて報酬さえ貰えれれば日本全国、世界全土まで、魔性駆逐に参ります」
言葉を被せたのは京都に蔓延る魔を駆逐することを目的として設立された武闘派集団、京都神鳴流の剣士である青山鶴子だった。
にこりと紅を刺されて赤くなった唇を持ち上げて彼女は笑う。
「まぁ強いて言えば、少なくともウチ自身は誰に頼まれようとも人は殺しまへん。魔性駆逐を旨としとるウチらがどんな事情にしろ人に対して殺し目的で剣を振るう……考えられんわ。神鳴の錆びは神鳴で落とす、そこだけは例外やけどな」
ぎょろりと、一瞬の間だったが鶴子の眼、その白目と黒目が反転する。だがそれも見間違いだったかのように、彼女は先程と変わらないようなにこやかな笑みを浮かべていた。
「ワイも一緒や! 気に喰わん奴はぶっ飛ばす! 誰やろうとぶっ飛ばす! ワイの中にあるのはそれだけやで!」
わはははっ、と豪快に笑う弘太郎を一目、出発前とほぼ変わらない意見を言う三人を見て、詠春は自分の意見に反対する千草が一番今回の研修で身を厚くしたんだなぁ、と何となく悲しくなった。
◆
「よくやったぞ、景山。流石は甲賀の傑物よ」
「お褒めに預かり恐悦至極です。では自分はこれで」
「まぁ良いだろう。アフターという奴だ、少し付き合わんか。貴様如きでは一生入れんような店だぞ」
右腕で白磁のように美しい肌の京美人を引き寄せて、関西呪術協会の重鎮は笑ってみせた。
ここは京都にあるとある料亭。総本山にて詠春の呼び出しを受けた後、辰也は時間を置いてこの場所を訪れていた。理由は先程渡された分厚い封筒。中には諭吉の描かれた紙が束になり入っていた。
「しかし貴様は長の考えをどう思う?」
「自分は先程の会合の通りですが」
「ハッ、なんとも忍びらしく下種で現実的な考えよ。まぁ構わぬ、日本の将来を憂う儂らとは身分が違うからの」
くぴとお猪口に入った高価な日本酒を一口、がははと重鎮は笑う。その姿に芸子姿の京美人はすりりと胸元に顔を刷りよせた。
「しかし天ヶ崎の小娘は良いことを言った。儂らには儂らの法がある。何も下にし、這い蹲らせようとは思わぬが、それに準じ儂らと同等の報復を受けるまでは魔法使いは淘汰されるべきであろうの」
「はぁ、雇い主が減るのは困る事です」
「ならばいっその事、儂に忠義でも誓うか? 貴様なら高待遇で雇ってやろう」
「……考えさせていただけますか?」
「よいよい、考えよ。ともかく……かん、かんかね――」
「四音階の組み鈴カンパヌラエ・テトラコルドネスです」
「そう、それよ。よくぞそこの団長を殺してくれた。また頼むぞ」
「報酬が仕事のリスクと自分の技術に合いさえすれば」
重鎮は薄暗い部屋の中で腰を振る。
いつも抱き、貪っているはずの芸子の身体はいつもよりずっと熱く、脳を蝕むような甘さを感じさせた。
芸子は月明かりに照らされながら哂う。
その姿は重鎮の腕の中にいるはずなのに、まるで夢幻のようで。
「ふっ、くっ……はっ……」
果てる精とともに、重鎮の命は夢幻へと果てた。
芸子は重鎮から身体を離し、こきりこきりと首を鳴らす。目の前の障子に人影が映る。すぅと音もなく開き現れたのは寝息を立てる芸子を抱えた辰也であった。
「連れて来たのか」
「おぅ、処理もちゃんと済んでるぜ本体」
「そら結構。んじゃとっとと済ませて逃げるとするか」
「あいよーっと」
裸の芸子は乱暴な口調で辰也に命令する。その言葉に従い、辰也は抱えて来た芸子の服を脱がし、その身体に何か細工を施していた。
「しっかり出されてるじゃねぇか、本体よ」
「無駄口叩いてねぇでとっととしろ。早く帰って寝たいんだよこっちは」
「へいへい」
裸の芸子の声は段々と太く、男のモノに近付いていく。やがてそれは辰也のモノと重なり、裸の芸子の姿は消えていた。代わりに眠そうな顔をした辰也がもう一人、その場に立っていた。
「終わったか」
「終わった。んじゃ本体、ちゃっちゃと逃げようぜ」
「その前にテメェは消えろ」
「え~っ」
「疲れてるの、解れや」
「理不尽だぜぃそれむぷぁっ!」
しゅんと芸子の身体に細工をしていた辰也は煙のように掻き消えた。
やがてそこにいた辰也もふわぁと欠伸を一つ。
部屋には重鎮と芸子が一人だけが裸に剥かれて横たわっていた。
「なんでっ、何で私がこんな牢屋に入れられなきゃいけないのよっ!」
「えっ、わからないとか何それ怖い」
「何をしたのよ私が! 何なのよアンタは!」
ごつごつとした石が削られ、敷き詰められ形作った牢獄の中。女は白磁のような肌が傷つくのもお構いなしに、握りしめた拳を木製の柵へと叩きつけた。薄い皮膚が破れ、赤い血が滴る。だが幾人もの血を吸った樫の柵は女の細腕にビクリともせず、ただ憮然と女の激情を受け止めていた。
「そりゃぁ人を殺したからだろ。しかも関西呪術協会の重鎮を。やだねーそんな自己正当化なんざ」
「殺してない! 殺してないわよ! 人殺しなんてする訳ないじゃないの!」
カッと目を見開き、憎しみの念を込めて女は柵の向こうで首を振る辰也を睨みつけた。そんな視線をやれやれと辰也は溜め息で弾きとばす。責任逃れって恐いねー、とでも言いたげに。
女は京都にある、とある料亭に所属する芸子だった。
関西呪術協会御用達の料亭。当主から女将、料理人から芸子に至るまで、ある程度裏世界に関わったそれなりの実力者が肩を並べている。有事の際はそん所そこらの結界の張られた場所よりも強固で安全だ、とも評価されている場所だ。
そんな料亭の一室で、関西呪術協会の重鎮の一人が遺体で発見された。つい数時間前の話だ。第一発見者は今辰也の目の前で喚く芸子の同僚。いつものように昨日重鎮が芸子と楽しんでいた部屋に、起こせと言い聞かされていた時間になったため訪れたのだ。
部屋の中にいるのは助平で有名な重鎮。引きずり込まれて剥かれるのか。その時芸子の同僚は重鎮が料亭を訪れた日ならば当り前のように起こる行為に、少しの気だるさを感じながら部屋の前に座したそうだ。
しかし呼びかけて待てど待てど、中から返事は返ってこない。
部屋の中から音はしない。流石に不思議がった同僚が襖を開けると、息を引き取り冷たくなった重鎮と死んだように眠る芸子の姿があった。
「でもよぅ、テメェの女陰から毒が検出されたんだよ……お前が重鎮を死に至らしめた毒と同じもんが。その上テメェからは多量の睡眠薬。こら愛憎の縺れからの無理心中とみるのが当然だろ」
「違うっ! 違うっ!」
「だがテメェは殺した男を愛してるだの、抱かれて幸せだの漏らしてたんだろ……売女のくせにいっちょ前に」
「ちっ、違うっ!」
「動揺したな? テメェは常連さんに叶わぬ恋慕を抱いちまった。地位も名誉もある、家庭も妻も子もある男に。だからせめてあの世で一緒になろうとした。だが言ったってきっと聞いてもらえねぇ、だから殺した……俺の推理、間違ってっか?」
「違うっ! そんな事、私はしないっ!」
にへらと辰也は無神経に哂う。その笑顔は芸子の神経を逆撫でさせ、更に芸子はヒートアップする。
しかしそれがどうしたと、辰也はにやにやと厭らしく顔を歪めた。樫の柵の間から芸子の手が飛び出し、辰也を掴もうと遮二無二に振り回される。されど必死の抵抗は空を切り、揺らぐ風も辰也の眉ひとつ動かす事は出来なかった。
「ま、そんな言い訳はあちらさんにしてくださいな。おねーさんがどれだけ恋慕の情を持ってたか、熱弁してあげればいーじゃねぇか」
くいと辰也の顎が差す方向に芸子の視線が移った時、彼女の手は凍ったように固まった。
「この女が貴女様の御主人を殺した諸悪の根げ――」
「どけ下種」
「仰せのままに」
すすすと辰也は二歩三歩と下がる。
憤怒に彩られた気が、冷たい牢獄を焼き尽くす。
伸び固まった芸子の手をめしりと掴んだのは、皺の入った皮膚で包まれた女の手だった。ぎちぎちと、枯れ木のような指先が白磁の肌に食い込む。狂乱していた芸子の表情は徐々に垂れ下がり、泣き笑いの顔面が張り付けられた。
「わっ、私じゃありません……違うんですっ!」
「随分な好き物なのね」
「違うんです奥様!」
「大丈夫、私が良い方を紹介してあげるから」
皺の入ったの手は芸子から離れ、印を切るように六方星に振られた。
芸子は笑う。ボロボロと大粒の涙を零して。慈悲を願い請う想いを視線に乗せて。皺の入ったの手の持ち主は嗤う。とてもにこやかに、泣き喚く子供をあやすように。
六方星が描かれた時、芸子の前には一匹の蝦蟇がいた。泥をぶちまけたような茶色の皮膚。ぶつぶつと皮膚中に張り付いた疣からは、じゅくじゅくと黄色い汁が滴り落ちていた。ぐぅえと蝦蟇が大きな口を開けて鳴く。赤黒い舌は口中に溜められた薄汚い粘液に浸かり、鼻の曲がる酷い臭いがした。蝦蟇の舌先が芸子の頬を撫でる。その先端はまるで男根のように太かった。
「きっとすぐに良くなるわ。だって貴女は好きだもの、ね」
皺の入った手の女は優しく笑う。ひきつった芸子の声が辰也の耳に飛び込んでくる。
芸子の視線が辰也を捕らた。縋りつくような視線。それをひらひらと振る手で弾き返し、くるりと踵を返した。
「いっ、いやぁぁァァッ!」
芸子の叫びが辰也の背中を叩く。しかし気にすら止めずに、辰也はずいずいと歩みを進めた。
しばし距離を稼ぎ、芸子の叫びも風が木の葉を揺らす程度になった頃。辰也はジャケットの内ポケットに手を入れて、ライターとマイルドセブンと書かれた青い箱を取り出した。ととん、と親指で底を叩き、顔を出した煙草のフィルターを口に咥える。そして手で風を妨げて、その先端に火を点けた。
ほふぅと白い煙は虚空に消える。
景山辰也は忍びという職業に付いている。職業柄、煙草のように臭いの付く物は意外に気をつけなければならなかったりする。臭いが痕跡となり現場に残ってしまう、というのは愚の骨頂。プロとしてあるまじき行為である。なので辰也は煙草を吸うときはいつも、身体全体に薄い気の膜を張って臭いが付くのを防いでいる。口臭も気にするので口の中も言わずもがな、だ。
(しかしこれは、いつも思うが吸ってる意味があるのかねぇのか)
ふむと煙とともに考えを飲み込み、まぁどっちでも良いかと煙とともに考えを吐き出す。好きで吸っているのだ。自分はそれでいいと思っていて、既に必需品であるのだ。同じくジャケットの内ポケットから取り出した携帯灰皿に吸殻を押し込み、辰也はまた歩き出す。
そういえば吸いだしたのはいつの頃からだったろうか。確かアレは――十五の頃だったか。入り組んだ木造建築を抜けながら、辰也は思い返していた。歩は進み、やがて石畳が門へと続く庭園が開けて見えた。
「御苦労さまです。お金はいつもの口座に振り込んでおきましたので」
「どうも。では俺はこれで」
「聞かないのですか、何も?」
「何も、聞く必要がありませんので」
石畳の中ごろで辰也はひたりと足を止める。すぐ脇の庭園には竹箒を持った男が一人。何を隠そう、関西呪術協会の長、近衛詠春その人であった。
「彼は東の魔法使いや西の術者、それになんの関係もない一般の女性を慰み者にしていました。あの芸子もその暴挙に携わり、幾人もの命をその手で」
ぎゅぃと竹箒を握りしめる。めしりと割れ、地面に広がる竹屑に詠春の苛立ちが示し表されていた。
彼が関西呪術協会という旧き組織の長に就いて、まだ十年も経っていない。海千山千の傑物たちを相手にしてか、就任当初よりもいくらか痩せ、顔色も悪くなっていると辰也は感じた。
「これも私の力不足。あんなことを言っておきながら、君にこんな真似を……」
「長様は自分たちを貶すような綺麗すぎる善人ではありませんし、権力を牛耳ろうとするために働く悪人でもありません。必要だからと割り切り扱ってくれる、実に自分にとっては好感のもてる相手です」
沈痛な面持ちで告げる詠春に、辰也は努めて明るい声で振舞った。
「これまでも、歴代の長様方や重鎮の方々は自分たちを使って来られました。これからも、きっと変わらないと思います。だからといって自分たちは権力を握ろうと、昔のネタで強請るつもりもありません」
自分を少し弱く瞳を燈す光で見つめる詠春に、辰也は足を揃えて礼儀正しく頭を下げた。
恭しく、臣下のように。だが力強く、武人のように。それ以上に静かに、忍びとして。
「光がより輝くからこそ、自分たちの潜む場所は多くなります。どうかこれからも関西呪術協会に栄光あらんことを」
◆
「良くやってくれた。またよろしく頼むぜ、スナイパー」
「報酬が仕事のリスクと私の技術に見合えば、ね」
ぽんと受け取った札束を懐に、褐色肌の女は小さく溜め息をついた。
何度となく繰り返したやり取り。自分の、戦場で磨いた技術で人を殺し、金を稼ぐ。その昔、女が貶し小馬鹿にした男の言った通りの方法で、男の言った通りの台詞を依頼者に返し、女は戦場を渡り歩いていた。
たった一人、いったいどれだけの戦場を渡り歩いたのだろうか。いったいどれだけの屍を築きあげたのだろうか。いったいどれだけの笑顔を奪ったのだろうか。いったいどれだけの間、自分は笑っていないのだろうか。
右手には武骨な銃器を、左手には笑う二人の家族を、唇には血の味、背中には亡骸を。
ハードボイルドに、固ゆで卵に、仕事人として割り切って戦場を渡り歩いてきた。
笑わなくなったのは一種の自己防衛本能からだろう。笑ってしまえば、女は自分自身が壊れてしまいそうな気がしたから。肉袋に穴をあけて、へたり込ませる毎日を彼女は続けていた。
兄が目指した高潔な理想は、綺麗すぎて女には持ち切れなかった。
幼い女が背負うには、あまりにも大き過ぎて、あまりにも神聖過ぎて、あまりにも重過ぎた。
女は依頼人と別れ、自分が宿泊しているホテルの一室へと辿り着いた。
肩に掛けた重いバックを落とし、一人で宿泊するには有り余る大きさのベッドへと倒れ込む。全身を包み込むやわらかさに、女はムズ痒い違和感を覚えた。すると何を思ったか、女はかけ布団をぐるぐると丸め始めた。そして二つ、円柱を作り上げると床に並べ、その間へと滑りこんだ。圧迫感が左右から迫る。だが女はその圧迫感が心地よく、プチリと糸の切れた人形のように意識は消えていった。
まどろむ頭が覚醒した時、女の視界に光の消えたカードが見せつけられた。
いつの間にか手に取っていたそれは女が兄と家族となり、兄が理想を誓ったあの日。女があの男と別れたあの日以来光を消していた。
三つに分かれた道の一つは数ヶ月前、完全に消し潰されていた。
女は精神的に限界に近かった。
来る日も来る日も肉袋に穴を空け続ける日々は、想像以上に女の芯をすり減らしていた。女はまだ幼い。肉体的にはそこらの大人顔負けの身長、スタイルに無駄に成長しているが、精神的にはまだまだ子供だった。
幾ら修羅場をくぐって来ても、命の危険にあったとしても、人によりかかって我が儘を言いたい年頃。女はまだ十代前半だ。
だからそれに手を付けた。首に掛けたペンダントの中、優しく笑う兄と馬鹿みたいに笑う男の写真、その裏側に隠していたメモを取り出した。宝物を扱うように丁寧に、早鐘を急に打ち出した心臓を鎮め、広げたメモには三、四、四の順番で数字が羅列されていた。
女はその数字を頭に刷り込む。何度も何度も頭の中で反芻させ、声に出して呟き、指で虚空を描いた。そしてゆっくりと受話器を手に、番号を打ち込む
一度、二度、三度、呼び出し音が鳴り響く。
それは亀の歩みのように遅く長い時間で、跳ねる兎のように早く短い時間だった。
そしてついに――その時は訪れた。
「あいあい、長瀬でござるよ」
日本語で問いかけてくる幼さの残った美しい電話の声に、女は思わず受話器を握り潰した。