これはとある兄弟の話。
弟がしっかりとした自分を持つまで大きくなった時、弟の家族は兄だけだった。
焼いただけ、鍋に入れて煮ただけ、という弟の食事を作ってくれるのも兄だった。ボロボロで、汚い小屋のような家だったが、そこで待つ弟に『ただいま』をあげるのも兄だった。弟がいつも着用している学ランを、成長する身体の大きさに合わせて仕立てるのも兄だった。
弟に戦い方を教えてくれるのも兄だった。喧嘩の作法、拳の作り方、気の扱い方。すべて兄から教わったものだ。
生きるためには強くなくちゃいけない――それが兄の口癖。弱肉強食という生物の根幹的理念を兄は語り、兄は実践していた。ワイもにーちゃんねーちゃんから教えてもらったものやけど。そう言って誇らしげに笑いながら。
兄の立場は兄のねーちゃんから教えてもらった。
人外の血。狗族という古くは妖怪、旧くはけものの神、現在では亜人として扱われる存在の血を引く兄と弟。
人が人外から国を護るため魔性と断じて駆逐する――それを第一義として設立された機関に半妖怪の兄は籍を置いている。奇異と蔑みと怨嗟の視線は、絶えず兄に降り注いでいると聞かされた。
それでも兄は必死に足掻いていた。
護るべき弟がいるから、折れて負ける訳にはいかないから。どれだけ傷にまみれて帰って来ても、にへへと笑う兄は弟の誇りだった。
弟は兄のように成りたかった。
だから必死にもがき、強くなろうとした。
いつの日か、兄の隣で戦うために。
兄に護られるだけではなく、兄を護るために。
兄は弟のため、弟は兄のため、二柱の狗神は今日も牙を磨く。
これはそんな――兄弟の話。
その日、兄のいない兄弟の家で、近付いて来るひとつのニオイに鼻をひくつかせたのは弟だった。
薄く牙を剥き低い唸り声を伴なってニオイの源を探る。ふさふさの尻尾を股の間に入れて、僅かに眼を細めた犬耳の少年――犬上小太郎は今まで一度も嗅いだ事のない人間の体臭に対して警戒態勢に入った。
それは即座の判断だった。
小太郎が兄、弘太郎と暮らす家は今日の外れの山、その端に小さくポツンと建っている。人間の登山コースからも外れており、兄の関係者を除けば年に一二度、国の役員が調査と言う名目で近くを訪れる程度の辺鄙な場所。
兄から人が来るとは聞いていない――小太郎にはそれで充分過ぎた。
幼いながらも小太郎は自分の立場は理解している。むしろそれは、幼い故かもしれない。
傷だらけの兄の背中は幾度となく見た。その傷を自分が少しでも背負おうと小太郎は自分を鍛え始めた。兄と同じくらいに愚直で純粋だと、兄のにーちゃんねーちゃんから笑われた。今はそれで良いと、頭を撫でられた。
人の好意や意見を素直に受け取れるというのは、人間としての美点だ。目の前の事実に目を逸らさず逃げださず見据えられるというのは、人間としての強さだ。小太郎は幼い故に前者を持ち、少年の気質は後者を持っていた。
だから兄の手を煩わせないために、小太郎は大きく息を吸い、這うように姿勢を低く構える。四足獣のような姿勢。腹を起点に巡る気は、兄と揃いの黒髪を重力に逆らい立ちあがらせた。伏せった耳は向って来る何者かの情報を取り入れようと時折持ち上がりひくひく動いている。
警戒態勢に入っているが、元より小太郎に立ち向かう気などなかった。ただ一般人とは比べ物にならず、裏の人間らしく持つ魔力はニオイに交じり風に乗り、しっかりと小太郎の鼻によって捉えられていた。
このニオイを兄のため自分のため、しっかりと記憶しておかなければならない。
そう考えたのは小太郎が幼い故だろう。小さな男の子は自分には何にでもなれる――と分を超えた感情を抱く節がある。それは子供らしく、実に微笑ましい一面なのだが、今回に限ってその感情は全くの裏目に出ていた。
小太郎は幼い。実践の場に出たことがない。
そう言ってしまえばいくらでも言い訳のきく事柄だが、世の中にはそんな言い訳を素直に聞いてくれる人々だけで形作られてはいない。
結果として、小太郎は逃げるために残された千載一遇のチャンスをヒーロー願望により棄て去ってしまったのだ。
ニオイがどんどん近くなってきた。
そこで小太郎の髪はふにゃんとへたり込んだ。小太郎の鼻に飛び込むニオイは更にと強くなっている。ニオイを発している人間は近付いているというのに、その場でぴょんこ跳び上がった小太郎の顔は喜色で染まっていた。警戒とは一体何だったのだろう、と再三疑問を投げつけたくなるほど小太郎の尻尾はぶんぶんと左右に振られている。
やがて木々の間から顔を覗かせたのは、額に傷を持つ茶髪の青年だった。
「……辰にぃやないやんけ」
明らかに落胆した顔色で小太郎はかくっと首を落とした。すんすん鼻をひくつかせる。確かに目の前の青年からは兄のにーちゃんのニオイがくっ付いていた。が、どうやらそれは残り香だったようだ。
「誰や、お前」
唇をとんがらせて小太郎は手の届く位置までやって来た青年に問いかける。そんな様子に青年は目尻を引き下げ、少年を怖がらせないように作った顔で口を開く。
「急に訪ねてしまってゴメンよ。僕の名前は高宮幸樹……しがない奴隷商人だ」
ぴりりと逆立つ黒髪を前に、青年は優しげな表情で哂っていた。
◆
うっそうと茂る雑木林の中を高宮幸樹は駆け抜けていた。
延びる幾本の枝を時に右腕で払い、時に身体を屈めてかわし、蛇行しながら木々の間を走る。小刻みに洩れる息遣いは非常に安定しており、自動車に匹敵する速度で走る事に死力を尽くしているようには感じられなかった。余裕綽々といった風体で、右左右左と脚は交互に回っている。
左腕は肩へと続き、背中にまわる一本の紐を持っていた。先は小さな袋が繋がり、何か入っているのだろう、ふくらみが見受けられる。がさがさ土を蹴り走る音が聞こえる。そこで更に耳を澄ませてみれば、かすかな寝息がふくらみから自己主張されていた。
寝息を耳に取り込んだ高宮幸樹はにこりと哂いを浮かべ、先程より強く地面を蹴る。
そこに、息遣いも土を蹴る音も寝息も噛み砕く爆音が、後方より高宮幸樹を突きぬけ雑木林全体に響き渡った。
音と同時に高宮幸樹は右脚に力を込め跳び上がり、斜め前にあった木に地面から離れた左足の裏を置き、二段跳びで木々の上へと身体を舞わせた。
開かれた視界には、闇色に染められた雑木林があった。そこで首だけ後ろに回して後方を確認してみた。細めた眼には濃厚な獣の気配と目視できるほどに立ち上った気が飛び込んで来た。感情に任せてへし折られ、木屑となり宙を舞う木々もまた。
「ん~……ま、問題ないか」
目尻を細めて哂う高宮幸樹は、口から漏らした言葉通り焦るでもなく、落ち着いた表情で展開される光景を一蹴した。重力に従い落下する身体をひねるように動かし、悠々と成長した木の枝に足の裏を乗せる。
しなり、折れそうになる枝に対して高宮幸樹は枝を蹴る。本来彼の身体を支えきれるはずもない枝は強靭なゴムように反発し、高宮幸樹を再び上へ舞い上がらせた。
とんとんとん、リズミカルに枝を蹴り雑木林の上を駆ける高宮幸樹。
もしもその光景を誰かが見たら彼を天狗だと謳うだろう。それほどまでに高宮幸樹の行動は、同様にその後ろから重機のように雑木林を一筋の更地に変貌させる爆音の元凶は、現実離れしていると断言できるものだった。
ここ――京都では旧くから化生の噂が後を絶たない。
長年と帝が座し、様々な人間の情念が渦巻き台頭しては消えていき、残照ごと飲みほした古都。文献に多くあやかしや人知を超えた現象が残されているのにはそれなりの理由があるのだ。もしも人の想いが眼に見えて、人の中以外にも長きに渡り残るのであれば、京の都には他の都市の何百倍と言える怨念が空に地に漂っていることだろう。
そもそも人は古来から闇を避け、自然に畏敬の念を持ち生活を続けてきた。
視界の開けない闇の中にどのような魔物が潜んでいても不思議ではなく、日照り、強風、大雨、雷、地震、疫病、といった自然がもたらす様々の厄災は過去の人々にとって人知を超越した恐怖でしかなかったのだ。
電灯が開発され、科学が発展し、人が本当の意味で闇や自然を怖がらなくなってからまだ百年ほどしか経っていない。 もしかしたらそれすらも驕りなのかもしれない。そう納得させる壮大さが自然にはある。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』、『疑心暗鬼を生ず』、『杯中の蛇影』、『落ち武者は薄の穂にも怖ず』。
思い描く異形の正体など所詮は見間違いで恐れる気持から生まれる、と数々の故事で示されている。
だとしても、人間に限らず恐いものは恐いのもまた確かだ。絶対に超常現象など存在しない――と本当には誰一人として言い切れないはずである。個人は個人にしかなれず、他人の感覚で受け取ったモノを完全否定することは出来ないのだから。
実際に現在にも、やれ刀を持ち鬼を殺す女を見ただとか、やれ符を宙に舞わせて火を放つ男を見ただとか、暗がりに潜む影を見ただとか。少し気合を入れて探してみれば、妖しげな話は京都に限らずいくらでも出てくるのだ。
無論、それはくだらない都市伝説の類なのかもしれない。しかし一時は世間を賑わすまことしやかな噂話は京都に限らず、様々な場所で発生するのだ。
ひとつ、その中でも有名なものを紹介するとしよう。
事は今から数年前。突如として京のとある森の中から一陣の光が天高く突き上がり、大地を揺らす轟音が辺りに響き渡った。轟音は地震のようなものとは違い、また重いものが落ちたような音とも違ったらしく、例えるならば何か巨大な生き物が、自らの存在を誇示するように吼えた――そんな音だったと、耳にした人間は口を揃える。
だが事件の後、いくら探してもその光の原因も、音の原因は探し当てることが出来なかった。
やがてその事件は時とともに人々の頭の中から消えていきつつあり、地鳴りか何かだと既存の価値観に合わせた答えを世間は打ち出した。だが、ここで興味深い話を付け加えてみるとしよう。噂の出所は関西のとある三流出版社から出た記事であるため信憑性は定かではないが。
記事に曰く、どうやらその事件の現場は昔から曰くつきの森なのではないか、とのことである。
執筆した記者の独自調査で音が聞こえた範囲と強弱の印象により中心地を割り出したそうだ。記者の調査で突き止めた音源は、京都の中心から少し外れた森の中。関西の警察や消防の幹部が数多く籍を置く『関西警ら協会』が所有する土地だったと記事には書かれている。
関西一帯に広く土地を持ち、そこがすべからく妖しげな噂を伴なう場所であることが多い『関西警ら協会』。彼らは『条件的に問題がある土地を管理している』と公言するが、果たしてそれがどこまで真実なのかは誰にもわからない。
ともかく噂が絶えない京都の雑木林で、二つの非現実は危険な鬼ごっこを続けていた。
天狗と爆音は雑木林の中心から端へと場所を移しつつあった。
電灯に照らされた人々の住む街も、徐々に近付いて来ている。
ひくり。高宮幸樹は眼を細めた。小さく息を吐いた顔は能面のように冷たく、ゆっくりと下降する身体はやがて雑木林の中に音も立てずに着地した。
対照的に爆音の元凶は雑木林の中から上昇した。夜の中、月明かりに照らされた姿は腰まで長く白銀の髪を伸ばした細身の男。狼のような耳を起立させ、金に光る眼は酷い苛立ちと顕しようもない怒りを振りまいていた。
「"犬上流・空牙ッ"!」
掲げられ、唸り振り下ろされた両腕。
指先から放たれた黒い十の爪は高宮幸樹の着地した地面目掛けて奔った。木々を引き裂き大地を抉り、痕跡が存在を主張する。休む事なく男は空を蹴り、弾丸のように土煙へと向かった。地面すれすれで方向転換し、燕のように地面を滑る。気の具現化により足場を生み出す『虚空瞬動』という技術だ。
拳はぎりと握られ、剥き出しになった鋸のような歯はぎらぎらと月光を反射していた。
獣の如き男の眼は、鼻は、耳は土煙の中の高宮幸樹をしっかりと捉えていた。
男――犬上弘太郎はやさしげな表情で哂う高宮幸樹を捉えていたのだ。
岩に岩をぶつけたかのような低く鈍い音。土煙の中から人影が飛び出したのは茶色の髪。それを弘太郎が追う。高宮幸樹は片腕を地面に突き立て、跳ねるように浮き上がり着地した。
左手に力が籠る。噴火しそうな想いを乗せて、変わらず能面のような表情の顔に拳を突き立てた。力学の法則に合わせ後方に吹き飛ぼうとする誘拐犯――が、それより先に放った右拳は高宮幸樹を地面に縫い付けた。
地面は割れ、へこんだクレーターの中心で弘太郎は吼える。
「何もんや、お前は」
「さぁ、誰だろうね」
般若の形相で睨みつける弘太郎へ、高宮幸樹は茶化すかのように口笛を吹いた。ひらひらと軽く振られた手はめぎりとあらぬ方向に曲げてやった。
「ほなら……小太郎はどこや?」
それならば、と話を転換させた弘太郎に高宮幸樹は眉をひそめる。そしてちらと目線を投げた袋を、弘太郎は何のためらいもなく踏み潰した。腕が感情に任せて伸びる。高宮幸樹の喉がへこんだ。
「偽者やない、囮やない、ホンモンのワイの弟や」
「……ちなみに何時から」
「最初から。鼻も耳もあるっちゅうに、実の弟を間違えるか」
「なるほど。じゃあどうして僕のことを……」
のど輪により高宮幸樹を捕えている弘太郎の腕に更に力が籠る。軽く鼻を鳴らして、弘太郎は馬鹿したかのように口を開いた。
「ワイから逃げ切れる気やったんか、騙せる気やったんか知らんが、わざとらしく挑発してきたお前が気に喰わんかったからや!」
少し高宮幸樹の身体は地面と離れた。薄く頭と地面の間に隙間が出来たのだ。弘太郎は叩きつけるようにして無防備な高宮幸樹の顔面に拳を打ち込んだ。
「……ははっ」
妙に、空ついた印象を受けた。哂う声にも、殴った感触にも。
――ここで弘太郎は気付くべきであった。
先程の一撃の前に重なること幾度か。太い幹を砕き地面を陥没させる弘太郎の拳を受けたにもかかわらず、高宮幸樹の顔は尚も綺麗なままだった。
それは冷静になり考えれば、弘太郎にとって一歩引くことが必要な事態である。自分に比べればはるかに小さな気。実力差でなければ特殊な能力か。どちらにせよ、悠長に真正面から堂々と、事を構えるべきでなかったのだ。
だが家に帰れば弟はおらず、強く弟のニオイを身体中に纏わせた男が居て、それが手の届くところに居て、冷静な頭を保ちきれるほどに弘太郎は大人ではなかった。
重ねて叩きつけた拳は高宮幸樹の腕で弾かれ、地面に吸い込まれた。高宮幸樹の肩が、腕が、腰が、脚が弘太郎の指の間を抜ける。さながら蛇のようにずりりと目の前にすり上がり、変わらず歪んで哂う高宮幸樹に弘太郎は考えるよりも先に、背筋を冷やす感覚から逃れるためにもう一度と拳を突きだした。
「何もんやっ、お前は!」
ようやく震えだした心を押し殺すように、強い声で弘太郎は叫ぶ。自分の一撃で後方に飛んだ高宮幸樹は宙で回転して体勢を整えた。足をクッションとして折り曲げ着地、ゆっくりと顔を上げる。
頭に響く警鐘はすでに大きくなり過ぎていた。
「僕の名前は高宮幸樹……しがない奴隷商人だ」
「そないなっ……エエわ! 力尽くで聞きだしたる! "狗音影装"!」
それでも引くことが出来なかった。性格からか、目の前の男の不気味さから逃げるという選択肢を戦うという決定事項が押しつぶした。
影が弘太郎を包み、巨大な狗神が姿を示す。唸り声は大気を揺らし、先程に比べて数倍と膨れ上がった気は、作り上げたクレーターに新たな罅を入れた。
「阿雄雄雄雄雄雄雄雄津ッ!」
狗神は牙を剥き出しに、烈風を伴なって高宮幸樹目掛けて進む。上顎と下顎が合わさり高宮幸樹を雑木林ごと噛み砕いた――はずだった。
だが今弘太郎の口内には何もなかった。
霞のように男の身体は消え去っていた。
肉塊にしたはずの高宮幸樹は弘太郎の鼻先数メートルで薄く、苦く、笑っていた。
弘太郎にはもう総てが遅過ぎた。振り向くべきはもっと以前だった。空ついた印象を高宮幸樹に抱く時だったか。この場所まで辿り着いた時だったか。逃げる高宮幸樹を追っている時だったか。本当はそれよりもっと前、小太郎が偽物だと気付いた時に弘太郎は――
「臨戦態勢での総本山警戒領域への不法侵入、器物破損、純然たる敵意を確認」
鈴の音が声とともに闇夜に響いた。
状況を理解する暇も与えられず、弘太郎は自身を蛆のように踏み潰す莫大な気を感じ取らされた。
「せやから……京都神鳴流師範青山鶴子の名に於いて、これより犬上弘太郎を魔性として認定――駆逐を開始させてらいますわ」
息をする事すら許されない狂った気の持ち主は、赤の袴を穿き白木の太刀を持った弘太郎がねーちゃんと慕う相手。
併せて眼の前で立つ高宮幸樹の顔はズルリと剥け、自身がにーちゃんと慕う相手の顔が見せつけられた。
「んならっ……なんやねんそれはっ!」
「昔から言ってるだろ、もうちょい冷静な頭を持てってよ」
「答えや、辰にぃっ!」
叫びは一刀の下に斬り捨てられた。鞘から太刀を抜き、振るう。ただそれだけ。それだけで視界の端から端へと続く深い亀裂が地面へと刻まれた。
「ここはどこか、弘太郎はんは理解しとるやろ?」
鶴子の声は悲痛に満ちていた。逆らうことを許さない絶対強者の言葉は急速に弘太郎の頭を冷やしていく。
眼の前に居る剣士――青山鶴子は『関西呪術協会最強戦力』であり、『裏世界最強の退魔剣士』なのだ。
神代の化身に匹敵するほどの気量。京都神鳴流に留まらず、あらゆる剣術の流派で天凛を噂される剣士を圧倒する剣才。流派において、協会において、彼女の地位を脅かす存在は過去未来に僅かであるとまで評価される女傑。
どんな状況においても戦場では涼しげな表情を崩さない彼女の顔は今、泣きだしそうな幼子のように弘太郎には見えた。
「聞いとるんかっ! ここがどこか、アンタは理解しとるんやろっ!」
吐き出した声に弘太郎の鼓膜は破れそうだった。声の大きさにではない、その迫力にだ。
弘太郎の視線がぐるり辺りを巡り、足下が崩れ落ちるような錯覚が弘太郎を染め上げた。
眼の前の女は処刑人だ。関西呪術協会という小さな枠を飛び出し『裏世界最強の退魔剣士』という立場に在る鶴子は自分の首を刈りに来たのだ。
弘太郎が今立つ場所は関西呪術教会総本山のほど近く。侵入したあらゆる魔を滅っすることが条件付けられている土地。
半妖であり、狗神と化した弘太郎は――約条を破った咎人でしかなかった。
『紅き翼』。数年前に裏世界――というよりも魔法使いたちの世界――で『英雄』と謳われた一つの集団がある。
『ナギ・スプリングフィールド』。
『ラカン・ジャック』。
『青山詠春』。
『アルビレオ・イマ』。
『ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグ』。
歴史に輝かしき名を残した彼らも、こと退魔というジャンルに於いては青山鶴子という傑物の足元にすら及ばない。
青山鶴子は『裏世界最強の退魔剣士』なのだ。
人間に対して、どのような状況、どのような相手であろうとも不殺を貫き魔性を駆逐し、ただ安易に殺すという行為に走らない彼女はその在り方は一種異様とも言えるだろう。
だが彼女は愚直なまでにその矜持を貫いていた。公式非公式を問わず魔性駆逐の現場に於いて、決して人を殺さない前人未到の所業を可能とする戦力を存分に振るって。
「鶴ねぇっ!」
「……"神鳴流奥義 斬魔剣 弐の太刀"」
雷速。その言葉を体現する一撃は狗神と化した『亜人』犬上弘太郎――ではなく『妖怪』犬上弘太郎が反応するよりも疾く、彼を唐竹に斬り裂いた。鼻先から頭蓋、首、胴、腰、尻、尾を刹那で抜けた飛ぶ斬撃は弘太郎が作りだしたクレーターの上を奔り、木の一本と傷つけることなく虚空に消えてゆく。
ぷしゅぅ、と間の抜けた何かが噴き出す音が辺りにこだました。
「牙阿阿阿阿阿阿阿津ッ!」
太刀を白木の鞘に納める鶴子と静観する辰也の前。命を燃やす叫びが処刑人の鼓膜を揺さぶった。
狗神と成り、膨れ上がっていた弘太郎の身体はみるみるとしぼんでゆく。腕は地面に叩きつけられ、爪は顔中を掻きむしり、眼は血が滲むほどに酷く見開かれ、喉が割れるほどに口は空けられ叫び声を漏らし、身体中の毛は逆立っていた。鶴子の目に映る弘太郎はさながら陸に打ち上げられた魚のようだった。
縋るような光が双眸から注がれてきた。自分自身が斬った、辰也とともに共通の弟分として可愛がった青年から。
思わず鶴子は唇を噛んだ。血の味が舌を刺激する。その隣で辰也は普段と変わらない飄々とした態度を示し、人型の大きさまで小さくなってしまった弘太郎を見つめていた。狗神はもう居ない。居るのは弟分だ。
現在門戸を広く開けている京都神鳴流。
様々な技を用いて魔性を駆逐する彼らであるが、その中でも宗家たる青山家のみに代々伝承される業がある。それこそが『京都神鳴流 弐の太刀』。斬る対象を自在に選択することが出来るという離れ業だ。
魔法使いが自信を護るために展開する障壁も、戦士が自分を護るために展開する気の鎧も、弐の太刀の前では意味を成さない。ただ斬る対象を魔法使いに、戦士に、選択するだけで、青山鶴子は防御不能の一撃を繰り出すことが可能となるのだ。
そして先程青山鶴子が放った『京都神鳴流 斬魔剣』。本来これは魔法や陰陽術などの魔力や気を基にした技、あるいは怨霊悪霊などの霊体を消し去り滅ぼすことの出来る、京都神鳴流の技の中でも最上位に位置する技術だ。そんな破魔の太刀を青山鶴子は僅か数年で、自分だけが持つ独自の業へと昇華した。
曰く、『青山鶴子の放つ斬魔剣は対象の魔力回路や気脈を断ち切る』。
魔力回路や気脈が断たれた場合、魔力や気を扱うモノはその権利を失う。これを一撃必倒と呼ばずして、何をそう呼ぶのだろうか。
「弘太郎はん、アンタはハーフや。耐えられるか、耐えられんか、それはアンタ次第やけど耐えられたらアンタはただの人間になれる。小太郎はん連れて、表の世界で生き。その為の場所も紹介したるから」
「なんっ、でや」
擦り切れたかのような弘太郎の言葉に鶴子は答えない。弟分の声は自分にではなく恐らく――
だが口を閉じた鶴子の後、月光の下には弘太郎の叫び声しかなかった。隣の辰也は先ほどから音ひとつ立てていない。ただ居るだけの幽鬼のようだ。
不意に、薄い目で弘太郎を見つめ続けていた鶴子は凄惨な光景に目を逸らした。自分が作りだした光景、弘太郎には必要な光景。混じりでありながら関西呪術教会に身を置き、その本拠地近くで敵意を示してしまった彼には必要な事だった。
だがそれでも、幼い時から可愛がった、両親を亡くして弟を護るために強くなろうとした弘太郎の意志を根元からへし折る所業に、鶴子は耐えられなかった。
――やがてびくんと今まで以上に彼の身体が跳ね上がった気がした。地面を叩く彼の腕が先ほど以上に強かったのだ。
魔力回路や気脈を断つ際には気がふれるほどの痛みを伴う。しかしきっと弘太郎は耐えたのだろう。魔力や気を失くしてしまえばそれを罰として、これ以上の咎めを受ける必要が無くなるかもしれない。
強張った顔から緊張が微かに抜け、安堵の色を少しだけ宿した双眸が再び弘太郎を捉えた。
そこでは弘太郎の頭が宙を舞っていた。切断された首の断面が、痛みに歪んだままの瞳が、鶴子はしかと見た。赤い雨が前から降ってきた。
「……なっ」
弘太郎の頭と身体の間に無骨な鉄の塊があった。分厚い斧だ。べっとりと血が張り付いている。
呆けた声は自分の口から洩れたのだと鶴子は気づいた。目線が斧を辿っていく。
木製の柄を手に、弟分の首を刎ねたのは、鶴子の幼馴染だった。
鶴子の傍らには闇しか広がっていなかった。
「辰にぃ……景山ぁ辰也ァっ!」
人の顔は人以外のそれに変わる。
宙に浮いた弘太郎の顔は、のこぎりのような歯を張り付け、ねっとりとした赤い舌を出し、唾液を振りまく狼の顔へと変貌した。異形の怪物はきりもみ回転しながら上へ上へと昇っていく。そしてぴたりと動きを止めて、耳をつんざく唸り声をあげながら下降した。
狙われた男はへらへら哂っていた。懐に手を入れて、無機質な鉄の塊を取りだし、辰也は何の躊躇いもなく引き金を引いた。
たーんと一つ。
たーんたーんと二つ。
たーんたーんたーんと三つ。
異形の怪物に六つの穴が空いていた。
鶴子の伸ばした手は鉄の飛礫よりも遅かったのだ。
「わざわざお前のために高野山まで行って浄化して形作ってもらったんだぜ。銀の弾丸……良く効くだろ」
兄が弟を殺す場面に、姉は割り込む事が出来なかった。
「ま、正面からやったら俺も死ぬかもしれねぇしな」
力無く地面にぼとんと落ちた弘太郎の頭。赤黒い血に濡れた髪の毛を掴み、辰也はケタケタと哂っていた。そしてどこから取り出したのか巻き物を開き薄く呟くと現れたのは木の桶。そこに弘太郎の頭を押し込み、蓋をすると、てくてくと鶴子の前に歩み寄ってきた。
「任務完了だな。報酬は後日、青山の家に持ってくわ」
にへらと辰也は哂う。弘太郎の首を持って。
「……いっ、てぇ」
気づけば振り抜いていた。軽快な音を立てた鶴子の平手は、辰也の右頬を赤く腫れあがらせた。
「殺す必要が、どこにあったんやっ!」
「あのな、戦闘続行不可能に弘太郎をするのが今回の依頼なの。まぁここで暴れなけりゃ俺も見逃せたけどさ、暴れちまったじゃねぇの、コイツ」
「せやけどっ!」
「それにたとえ人間になったって、何かの折に気を取り戻したらどーするよ? それに銃でも持ってやって来たらどーする? おぉ、こわいこわい」
快音がまた響く。返す手でさらに辰也の左頬を打った。
「辰也はんにはっ……たっちゃんには人の情ってもんがないんかっ!」
瞼が焼けそうだった。喉も焼けそうだった。
「必要ならばなんだろうとする。つるちゃん、忍びってのはそんなもんだ」
辰也の顔を見ることが鶴子にはできなかった。
◆
髪を揺らす風はあたたかさを含み、甘い花の匂いが漂ってきそうな気配すら感じさせる。
三月某日、長瀬楓は畳の敷かれたとある部屋に、何故だか里に滞在している龍宮真名と、数ヶ月前に甲賀の里に引き取られた犬上小太郎と並ばせられて座っていた。目の前では皺だらけの爺と婆。楓の祖父母と彼女が兄と慕う辰也が向かい合うようにこちらを見つめていた。
「さて、楓に真名ちゃん。お主らは春より関東にある麻帆良学園女子中等部に通う事になった訳じゃが、今さらではあるが言っておきたい事でもあるかぃの?」
小首を傾げ、しゃがれた声で楓の祖父は問いかけた。
「私はお気楽に中学生、なんていうのはご免だが……まぁ昔の知り合いの頼みを無下に出来るほど薄情じゃないんでね。目的の為にも、向こうで色々と頑張ってみる事にするさ」
その言葉に挑発的な視線を加えて返したのは真名。彼女は麻帆良で神社の神主を営む龍宮夫妻の養子として、日本人国籍を手に入れていた。
マナ・アルカナではなく龍宮真名として、春より彼女は麻帆良に通う。
「拙者は、見識を広めるためにも麻帆良に通えるのは良い事だと思っているでござる。様々な物を見て、様々な事を経験して、拙者の刃の意味を見つける事にするでござるよ」
にへへと楓は乗り気な様子で、楽しげに笑ってみせた。
楓は関西出身、甲賀生まれの裏世界の住人。もともと外国で生まれた真名とは違い、関東関西にて面倒なしがらみが根強く残る日本で魔法使いたちの総本山である麻帆良に通う事が許されるのであろうか。
現在関西呪術協会と関東魔法協会は融和に向けて歩きだしているとはいえ、まだまだそれは進展していない。にもかかわらず、彼女は関東へ行っても良いのか。――その上、今この時に麻帆良学園には関東魔法協会理事長の孫にして関西呪術協会の長の娘が通っている。
尋常ではない劇薬にも、至上の特効薬にもなる存在。そんな面倒な人物が居る場所へと西日本の旧き術者の血を引く者を通わせるのは、本来反対されてしかるべきであろう。
しかし、楓に対してそのようなしがらみは何ら影響を及ぼさなかった。それは単に、甲賀の在り方によるものだ。
関西呪術協会近隣にあるが故に、旧くから日本にあるが為に、皆が皆と関西呪術協会に所属していると思われがちな甲賀忍者だが、それは根本的な勘違いによって生まれた噂である。
『甲賀の忍びは主君を定め、主君の為に滅私奉公すべし』。
甲賀の里に旧くから伝わる掟。甲賀の忍者たちは、その主君を定めるために四方八方へ散る事が許されているのだ。実際のところは関西呪術協会の人間を主君として定める、という場合が多いのではあるが。
要するに楓はただの忍者なのだ。彼女は関西呪術教会にも、関東魔法協会にも所属していない。
「ふむ、それは良い事じゃの。……ところで小太郎、お主も二人と一緒に麻帆良に行かぬか?」
「行かん」
やさしげに、探るように投げかけた言葉を、小太郎は切って捨てた。
「俺は強うなるんや、にぃちゃん殺した奴よりも。ヌルい魔法使いどものとこになんか行けるかっ!」
「何年かかる話じゃ」
「うっさい、俺は決めたんや!」
ふん、とふてくされた表情で小太郎は腕を組む。子供ながら意固地になる様子に、辰也はちらりと視線を送った。
◆
寸分違わず規則正しい歩幅で少女は歩く。機械的に計算されたようにぴったりな距離。
右左右左と両足は道を刻む。
道は古ぼけた教会の裏へと続いていた。
そこで立ち止まった少女はゆっくりと腰を下ろす。
目の前には黒い小さな首輪を付けた雄の三毛猫が一匹、大小様々な猫の中心で欠伸をしている。
やがて少女に気付いてか、三毛猫は音も立てずに彼女の前に歩いて来きた。
「こんにちはタツヤ、今日も良い天気ですね」
無表情に、無機質な目で見つめる少女に、タツヤと呼ばれた三毛猫はなー、と鳴き、眼を細めて哂ってみせた。