次回から新しい話に入ります。
そして原作突入だー!
冬から春が顔を出そうとしている二月の某日。
「今日さ~、ちびっこ先生がきたんだよ。十歳だって……頭いいんだろうね」
ぐでりと、気の抜けきった音が風に揺れていた。ぎしぎしと軋む椅子に腰をかけて、背もたれの上で組んだ腕に白く形の良い顎がヘしゃげている。食べカスの付いた口角は少しだけ上がっていた。
「フツー先生って私らより年上だもんね。でもでも、私らより年下だもんね。てことは、やっぱりフツーじゃなくてスゴイんだよね」
声は弾むように紡がれている――澄んだ少女の声だ。
その方向が下から動き、自分の方へと変わった。
「にーにー、どー思う? 私はこれからの学校はもっと楽しくにゃるぞー! て感じで楽しみ楽しみぃ、にゃんだけど?」
がったがったと古臭い椅子が前後に揺れている。少女は問いかけるような視線でこちらを見つめて来ていた。
何時からだっただろうか。ふと、そんな疑問を抱く自分の思考回路に、更なる疑問を抱く。
機械仕掛けに生みだされた視界の中央で、火色の髪が眩しく映る。にかり広がる笑顔は真っ直ぐとこちらを向いており、思わず首を横に走らせた。咄嗟の行動で、悪気はなかったのだが、なんとなしにまっすぐ少女の目を見ることが出来なかったのだ。
誤魔化すように節の在る腕を伸ばす。その冷たい指の先には大きく口を開けた気だるそうな猫が一匹。茶と灰と白、三つの毛色で身体を包んだそれは、自分の思考など知ろうともせず、欠伸をしながらそっぽを向いた。結局と所在ない手はおずおずと引っ込めることになった。
「……私は、特に」
冷静と言うよりも冷淡か無機質か。少女とは対照的な印象を受ける感情の灯っていない言葉は、笑顔の少女の顔を曇らせた――
「ふぅ~! 相変わらずクールだね、絡操さん!」
「そう、なのでしょうか」
「そうそう! 大人っぽいじぇぃ!」
なんて事もなく、少女は笑みを更に深くしてみせた。朗らかな、自分にはできない表情だ。ふと、泳いでいた手は頬に添えられていた。人間のようにやわらかいのに、鉄のようにかたかった。
「おぉぅ、てかてかもぅ昼休みも終わりじゃん!」
驚いたような表情を少女は作る。ポケットから携帯を取り出し立ち上がると、彼女はいそいそと弁当箱を袋に詰めていた。それを脇目に薄緑の髪の少女――絡操茶々丸はジッと目の前の三毛猫を見つめていた。
眼差しの向こうの三毛猫も、自分の目を見つめている。
視線が交差する。数字の羅列では表現し切れないような感覚が茶々丸に生まれた。なんとも妙な気分――そう、ヘンな気分だった。
ガイノイドであるはずの自分が、まるで人間のような気分を味わっていた。
未だ冷たさを観測させる風が吹く麻帆良学園の敷地内、とある教会の裏手。沢山の野良猫がねぐらにしているここで、悠然とたたずむ三毛猫はどの野良猫と比べてみて異質な印象を茶々丸に与えていた。彼がここらのボスだから、でもない気がした。有象無象の猫とも、まして犬や鳥獣ともまるで違う気がする。目の前の笑顔の少女でもなく、今日自分たちのクラス担任となった赤毛の少年ともまた違う。
例えるならばただの三毛猫であるはずのものが纏う雰囲気は――
「絡操さん!」
「はい、何でしょうか」
反射で返したその言葉は、笑顔の少女の肩に当たり、彼女の身体をクルリと回転させる。後ろに回した両手で弁当箱を持ち、小首をかしげて少女は続ける。
「一緒に教室か~えろ」
平均以上の容姿を元に繰り出されたその仕草は、大凡の男性が好むものなのだろうかと、まるで関係ない思考を茶々丸の頭に浮かびあがらせた。
それと同時に先ほどの気分が逃げていく。三毛猫もいつの間にか眠りにまどろんでいるようだ。
「私で良ければ、椎名さん」
茶々丸の口角は一文字だった。先程抱いた気分もいつの間にか消えていた。
それでもその様な事は些細な問題だとでも言わんばかりに、微笑む少女――椎名桜子はあたたかい雰囲気を纏っていた。
茶々丸は胸のあたりに在る歯車が、いつもより滑らかなような気がした。そんな気分が、また機械仕掛けの身に浮かんできていたのだ。
◆
一般に教師という職業に就くためには、様々な条件が課せられる。中でも必要不可欠とも、条件だともいえるのが教員免許の取得だ。
現在日本で教員免許を取得するためには、大学等の教育機関で一定以上の講義を受講しなければならない。教員を目指す人々は、文部省が定めた一定のラインを越える必要があるのだ。それは大人になる過程の子供たちにとって、より良い基準で教育を施すためであり。彼らが感じる様々な疑問に向かえるだけの準備をするため。
考えてみれば誰もがわかる当たり前のことだろう。もちろんと、そのラインを越えた者が他の大人や、例えば彼らの同年代の誰よりも子供たちを教え導くことが出来る――と、言いきる訳ではないが、その可能性が他の者に比べれば高い、という訳で。
無論、教員免許を取らなくとも、教職という立場に就くことは不可能ではない。
『特別免許状制度』というものを知っているだろうか。教員免許状を持っていない人であっても、各分野の優れた知識経験や技能をもっている社会人に対して、都道府県教育委員会の行う教育職員検定により特別免許状を授与し教諭に任用することが出来るのだ。
つまり極端な話、学校を一つも出ていなかったとしても教員に就くことは可能、ということ。これまで積み重ねてきた日々の研鑽が受け入れ側の学校の要望に合えばの話だが。
例えば受け入れ側の学校がネイティブを話せる外国人教員を希望していたとしよう。それならば配属される学年を加味し、彼らに相応な、英語日本語ともに堪能な教員を選択せねばならない。
しかし、どう考えても、どうどうどうやって自分の器量を最大限に広げて考えても――
「くまぱんって思ってますっ!」
堂々と、何の躊躇いもなく、クラスメートにセクハラをかます自称十歳――数えでは九歳だそうだ――の少年が教員であっていいはずがない。ましてや目の前で楽しげに喋る中年の担任を副担任に降格させ、臨時担任という地位にのし上がったというのだから。
(悪夢だ……考えられねぇ)
ぷるぷる紙コップを満たすオレンジジュースが震える。起こる波のように不条理が、絶えず絶えず自分に降りかかっていると。
今日は厄日だと少女は確信した。人生最悪の、麻帆良学園に来て一番の、不条理の波。逆らえないほどの高過ぎる波が自分を飲み込み溺れさせたのだ。
(馬鹿どもが……本当に、馬鹿ばっかりで、ありえねぇさ)
馬鹿騒ぎする級友を冷めた思考で見下して、長谷川千雨は暗いオーラを振り撒き椅子に腰かけうなだれていた。ずぶずぶと鎖で縛られ、重りを付けられ、波に攫われ海底へと沈んでいくような気分だった。
「やふー、千雨ちゃん盛り上がってるぅ?」
「え、あっ……まぁ、ちょっと……」
澄んだ声に言葉に詰まった。不意に返せない自分自身の態度に千雨の頭は軽く負で埋まる。
瞼が落ち込んだ気がした。だがそんな様子など気にも留めたようでもなく、声は次へと飛んでった。
「しょかしょか、ほにゃらばよかった! 絡操さんは楽しんでるぅ?」
「慣れぬもので、どう表現して良いかが」
「いいの良いのっ、きっと楽しんでるって!」
とーんとーんと明るい雰囲気で話しかけて来たのは椎名桜子。幸せオーラ全開。笑顔のまんまで近くに居たクラスメート――千雨が絶対にロボだと思っている――絡操茶々丸とおしゃべりに興じていた。
「……はぁ」
漏らしたため息は暗く重いものだと自覚していた。
元々、千雨は今行われている少年教師歓迎会に乗り気ではなかったのだ。年がら年中騒ぎたい日和、そんなクラスのノリには少々肌が合わないと自分で思っている。
ましてや今回は麻帆良学園に来て最悪の厄日。年下の少年が自分の担任になるという悪夢。部屋から出たくなかった。関わり合いたくなかった。非現実だと、どこか夢だと信じていたかった。
(テメェのせいで私は……イヤイヤイヤ、夢、これはきっと夢だっ!)
だから体調が悪いと告げてそそくさと家路に就くはずだったのに――問答無用でクラスの元気娘たちに腕を引きづられて保健室へ連れ込まれ、保険医からの健康優良体、彼女にしてみれば死刑に近い宣告を受けて、しっかりこの馬鹿騒ぎの場に腰を納めていた。
乱暴に千雨の腕が伸びた。スナック菓子を掴み取り、口に含んでバリバリ音を立ててやる。やけ食いだと解っていたが、もう構わなかった。
――千雨は特段と自分が変わった人間ではないと信じている。この状況に馴染み、のんべんたらりと過ごす方が変わっているのだと、千雨は信じ切っていた。
そもそもこのクラス自体、千雨に言わせれば可笑しかった。他のクラスと比べて留学生が多いのは、まだ納得できる。明らかに大学生や社会人に見える中学生が居るのも、どう見ても小学生な中学生が居るのも、百歩譲って許容しよう。
だが教室の端に座る自分よりさらに端。金髪幼女の傍らで桜子と話す茶々丸はどう考えても、どう頭を柔らかくしても、千雨には理解できなかった。頭から機械の角が生えているのだ。指や肘や膝の関節が明らかに人工の物だ。瞳だって良く見てやればその奥にカメラのレンズのような物が発見できた。
ロボだった。もう人でもなかった。脳みそが熱暴走しそうだった。
「なぁ綾瀬、私は可笑しいのか、世界が間違っているのか。ガキが担任なんて常識はどこで生まれたんだ?」
だから問いかけた。このクラスで常識を持っていると彼女が感じる一人に――バカレンジャーなどという妙なあだ名を受けているのだが。
紙コップのオレンジジュースでスナック菓子を纏めて胃へと流し込み、千雨は縋るような気分で口を開いた。深い紺の瞳は言葉を吸いこみ、消化された文字列が小さな口から紡がれた。発信源は長い濃紺の髪の、身の小さな冷めた印象を与える少女だった。
「まぁ一般的に考えれば可笑しいのです」
「だよな! 私がどっか可笑しいってわけじゃねぇよな!」
首を縦に振る綾瀬夕映に口調が荒くなる。目尻に合わせて張っていた気が弛緩するのを感じ――
「ですが、個人的にですが、この状況はとても好ましいです」
ぎゅりりヘの字に口角が曲げられ、目付きも悪くなった。顔が強張ったのを如実に千雨は感じた。
彼女はペットボトルを手に取ると、空になった紙コップにオレンジジュースを注いでくれた。会釈する千雨に小さく手を振り、夕映は手に持った紙コップを一気に呷り、ジュースを注ぎ、もう一度呷ってから続けた。
「ひとつはのどかのこと」
呟いて千雨は横を向いた。ゴキブリのような触覚頭の少女と談笑する暗めの少女はほんのり頬を赤く染め、ちらちらと赤毛の少年教師の方を見つめていた。
あぁ、なんとも分かりやすい。恋は盲目と言うが、それは級友にも浸食を進めるようだ。
「もうひとつは……」
そこでグッと、彼女は押し黙った。もったいぶるように夕映は人差し指を掲げる。勘ぐるような思考とともに身構え姿勢を正してみせた千雨は、頭の中に蔓延る思考の糸から一本、鋼鉄の針金があることに気付いてしまった。
大きな溜息が洩れた。接がれた言葉は千雨の予想通りだった。
「十歳の少年が担任教師。なんとも摩訶不思議な事ではないですか。むくむくと、私の中の好奇心がわき上がってくるのですよ……彼には何かある、と」
爛々瞳を輝かせる夕映に、千雨のオレンジジュースは再び波を立てる。
忘れていた。この友人は文学少女の皮を被ったまったく別の何かだったのだ。
厄はまだまだ終わらない――そう確信できる自分自身が千雨は悲しかった。
◆
少年教師ネギ・スプリングフィールド。大学卒業程度の語学能力を操る十歳の臨時教員。
この字面を見て、子供を預けたいと思う親は限りなく零に近いはずだ。
教職に求められるのは、何も学力だけではない。生まれて二十年と経っていない子供たち。彼らに様々な常識教え、経験を積ませ、人として大凡真っ当な感情を育てるために、教員という職業はあるのだ。
学校の役割は学力の向上と健全な青少年の育成。いくら優秀だろうと、十歳の少年にその両方をこなすことが出来るとは考えにくい。まぁ副産物として、不完全な教員を支えることで生徒が成長する――という可能性は否めないが、それは少年が教師をするという問題とは論点が異なっている。
だったら教員免許を取ったうだつの上がらない駄目教師でも良いはずだ。
単純に考えるならば、人としての厚みは積み重ねて来た年月とともに成長する。引き篭もり、外界へ壁を積み上げ、成長を拒否した人間に比べれば、小学生や中学生の方があるいは、人として厚みがある場合もある。
ただ、これは一般論だ。特に激しい挫折で立ち上がる気力を無くすでもなく、小さな挫折が許せずそこで足踏みをし続けるでもなく、ただなんとなく気だるさから腰を持ち上げることをやめるでもなく。それなりな挫折をそれなりな努力や気合で越えて来た人間ならば、年の功はひどく正統であるだろう。
少年教師ネギ・スプリングフィールドは教員としては不適正。これが普通で、正式で、常識的な答えであろう。
にもかかわらず、彼が臨時教員として採用されたのには――裏がある。
本人からすれば傍迷惑な、大人たちの『こうあって欲しい』という願望。
「つまりあの少年は将来を望まれたが故に、この麻帆良学園に?」
「そう考えるのが妥当だね」
「されど、何故ここなのでござるか?」
漏れ出す明かりの外。花摘みだと項垂れる千雨に告げて教室を後にした少女二人は、薄暗い廊下の壁に背を預けて語らい合っていた。艶めかしい緑髪を後ろで束ね、尻尾のように伸ばした長瀬楓は数年前とは段違いに成長した二つの毬を、組んだ腕で持ち上げるようにして問いかけてきた。
「さぁ、私にはさっぱりだよ」
「知らんのでござるか」
「予想は出来るけどね。世界で数か所しかない聖地のひとつ――それが麻帆良さ」
くっくっと喉の奥を鳴らして褐色の少女は笑う。相も変わらず年齢と身体が不相応に成長している龍宮真名は微かに口角を持ち上げて、やはり年齢と不相応なまでに大人な笑みを浮かべてみせた。
「だが何かここである必要があったのだろうさ。何のため――なんてややこしそうな理由は少年の成長を望む彼らのよりも私はまだ瑞々しく若いものでね、見当もつかないよ」
「拙者もさぱーりでござる」
「楓は頭が緩いからな」
茶化すように、真名はまた笑う。そんな自分の態度に隣の彼女は無反応。いつもならば売り言葉に買い言葉、バーゲンセールで言い合いが始まるはずなのであるが――今日はしばしの沈黙。と、言うよりも静寂か。ピンと張りつめた糸のように、少女たちの空間が閉ざされた。
アルカイックスマイルの掲げられた楓の下、細められていた彼女の糸目。
重い瞼は、ゆっくりと持ち上げられた。
「拙者はそちらに疎いのでござるが……少年は、お主らの間で酷く重要な存在」
「正解だ」
「悠々と架け橋を吹き飛ばすほどに」
「ん、それも正解だろう」
「つまりは――」
「――そういうことなはずさ」
私は魔法使いではないがね、と付け加え。ふふんと真名は挑発的な視線を楓に向ける。
「何故拙者に?」
首をかしげて問う彼女に、今度は年齢相応で破顔してみせた。
「人生に張り合いを作るのは争いなのさ」
応対するように楓の表情も緩む。安穏としたヌルい空気。それが真名には心地よかった。脳裏にいくつとある引き出しのひとつが腐るような感覚が、真名には妙に落ち着いたのだ。
温泉のような空気を斬り裂いたのは凛とした声だった。声の主も、ぴんと張った糸のような印象を受ける少女だった。黒い髪をサイドポニーに結わえ、身の丈ほどある白木の棒を手に持っていた。その眼差しは、刃のような鋭さを真名に感じさせた。
「ああ、そこにいたのか。仕事の依頼だ」
声を聞いた楓がこちらに顔を向けて来た。ヌルい表情は隠れていた。にんにんと微笑む顔は、自然だが不自然に真名の眼に映った。
ちろと片の糸目が持ち上がる。そこに在る光は白木の棒を持つ少女よりも――
「どうした、行かないのか?」
怪訝な表情に焦りを混ぜ合わせ、凛とした雰囲気の少女は問いかけてくる。
「いや――まずは内容を聞いてからだ。報酬が仕事のリスクと私の技術に見合えば、だよ」
言葉に対して真名は内より暗い空気を纏い、仕事人としての思考で身体を染め上げていく。
どんな学校にでもある普通の廊下は殺伐とした危うさを醸し出し始めていた。
◆
――それは闇に溶けていた。
くるくると辺りを見渡してもそれは居らず、しかし全身が警鐘を鳴らしていた。
踏み込んだのは金のため。ただいつものようにとあるルートから仕事を受けて、仕事先がたまたま麻帆良だったため、男は麻帆良にいたというそれだけの話。
男は傭兵。雇われて動くつわものだ。
右手に剣。幾人の血を吸い、幾匹の魔を打ち破り、幾度と戦場を駆けた。月光に濡れたそれは、根元から無造作にへし折られた。左手に銃。幾人を貫き、幾匹の魔を冥府に逆落とし、幾度と戦場を抜けた。月光を滴らせるそれは、見るも無残に砕け散った。
文字通り折れ砕けたという訳ではない。剣は相変わらず惚れ惚れするような刀身を傷なく残しているし、銃も手入れの珠物か強い威圧感を未だに示している。
だが男にとって、剣は折れ銃は砕けたのと同じだった。それどころか在るはずの脚はなく、在るはずの腕もなかった。首筋に手を添える。まだ繋がっているのに斬り取られたような気分だった。
男の口から音が漏れる。自嘲を帯びた息が彼の鼻を鳴らした。
警戒を怠った記憶はない。多額の報奨金に人生を眩ませる、安い男のつもりはない。金額相応以上の危険があると確信し、されど自分は仕事をこなせると確信し、踏み込んだ地にそれはいた。
戦場が地獄なんて言葉は嘘っぱち。ただどこでも、人間の欲望にまみれた人の世ばかりというのが男の信念だった。次元の向こう、魔界ならばいざ知らず、この世に地獄などあるはずもないのだ。
男の職場はずっとそうだった。これからもそれが自分の職場だと。
男は――今日まで――思っていた。
恥を忍んで生きる価値など無し。この国、日の本にはそんな信念が蠢いていたらしいが、男には関係ない。懐のナイフを確認し、ブーツに仕込んだ魔法陣を念頭に置いて生き抜くための術を探していた。腕がなくなろうとも、足がなくなろうとも、首が繋がっている限り戦い抜かねばならないのだ。例え歴戦の相棒を失っても、跪くのは愚図のやること。依頼の達成は諦めたとしても、命までも諦める訳にはいかなかった。
男は繋がっているような、繋がっていないような脚を持ち上げ一歩踏み出した。当たり前の挙動に身体がふらつく。また、口から息が漏れた。
男が現状を省みるならば過信していた。抑え込んだはずだったが、それは顔を覗かせ茨として男を傷付け縛ったのだ。自分の実力と依頼の難易度は天秤を取れていなかった。
忍び込むのは至難なのは解っていた。
人の皮を被った人ならざる者がいるのも解っていた。
ただ気を付けるべき人外を把握しきれていなかった。
同時に忍び込んだ同業者は紅い翼の一端や闇から聞こえる福音へと叩きこみ、目当ての情報だけ仕入れてとんずらこくつもりだった。当初から仲間意識などなかったし、それで今日も職務をこなしたと男は思っていた。
「……ははっ」
三度目の声が男の口から漏れた。気づけば男の尻は地面に縫い付けられており、手に持った剣と銃は土の上に横たわっていた。
だから男は肩を落とし、懐から取り出した煙草を取り出そうとする。嘲笑が思わず顔に浮かぶ。力が入らず、小刻みに震えるだけの指先は、煙草を手に取ることすら許してくれなかった。
嗚呼なんと、愚かで小さきことか。鍛え上げ、どんな仕事でも達成できる実力を手にしたと思い込んでいた自分は、ただ頭が沸いていただけに過ぎなかったのだ。
もう男の首から下が痺れて力が入らなかった。しかし反して男の頭はしっかりしていた。春の夜風が男の脳裏を吹き抜けていく。
男は思い出した。幼い頃、自分に戦い方を教えてくれた祖父から聞いたおどろおどろしい物語を。
「手を挙げろ! 動かば斬るっ」
ハッとし、総てを理解し、だからこそ男はからからと大きな声で笑った。怪訝な顔を浮かべる美剣士に、ただ米神を注視する狙撃手に、後方で揺らぐ影に向けて。
「気ぃつけな、お嬢ちゃんたち。日の本の闇には蛆が居るんだぜ」
大人らしくニヒルに決めてみせたのだ。
機械だらけの部屋。近未来的なそこに巨大なモニターが幾つかあった。そのひとつに映り込んだのは赤毛の少年。幼げな顔を見ると、思わず小躍りしたくなる心を抑えるのが面倒だった。積み重ねてきた幾星霜の日々――すべてはここから始まる。
今までの努力は、ただこの瞬間のために。
ひっくり返すのだ、世の中を。この手で、この手で、自分自身の手で。
自分がようやく立ったスタートライン。道筋は見えている。下見も、基盤も、重々。後はただ転がすだけ。山道を転げ落ちる雪玉のように、ただ大きく、ただ速く――後戻りはもう出来ない。
だからこそ――
「くっくっく、相変わらず惚れ惚れするような実力ネ」
お団子頭の少女はその道を固めることに余念がないのだ。
悪人面で嗤ってみせる彼女の前には一人の男が居た。黒髪を後ろに撫でつけた、細く鋭い眼の男だ。ジャケットを纏いジーパンを履いた男はどこにでも居るようで、どこにも居ないような矛盾を抱えている、そんな印象を鈴音は彼に感じた。
現実に男は鈴音の眼の前に居た。だが正面を埋め尽くすモニター群の中にも男は居た。
「しかしどっちが本物なのかナ?」
口に出した疑問に男は柔和そうな雰囲気をみせた。続けてにかっと快活そうに笑みを浮かべると、大げさに両手を振った。
「心外だねぇ超、心外だわ。重要な相手の前にはきちんと顔を出す。これって社会人の常識よ」
「向こうの相手は関東魔法協会の理事長だガ」
「俺は正直ものだぜ?」
「ト、言うことは私の方が重要な相手だと言てると考えていいのかナ?」
訝るような視線に対し男はくつりと哂った。
「まぁ何にせ、これからもよろしく頼むヨ」
故に、お前程度には底を見せないと言わんばかりの顔を作り、鈴音は笑う。
眼の前の男は鬼札だ。強烈な力を持っているが、ひとつ間違えば道は崩れてしまうような男だ。だがこの程度使いこなせなければ、きっと自分の目的を遂げることはできないのだ。
影が揺れると、男は目の前に居た。コロンか何かだろう、柑橘系の香りが鼻に飛び込んでくる。男はそのまま鈴音の前で膝をつく。気づけば男に手を取られていた。
「末長いお付き合いを」
恭しく、臣下のような振る舞いで男は頭を下げた。男の指が鈴音の手の甲を滑る――本能に手を触れられた気がした。背筋にえも言えない感覚が走る。
それでも鈴音は表情を崩さない。
飲み込んでやるのだ。甲賀の傑物と謳われたこの男を。己の道の礎とするために。
鈴音の口元は三日月のように裂けていた。