跳び出した蛆の落ちる先   作:すぷりんがるど

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黒き影は女帝に伸びる

 出会いはいつの頃だっただろうか――

 

「ねね、ねねっ、絡操さんはネギ先生の居場所とか知らない?」

 

 火色の髪の少女はぱたぱたと愛らしく手を振っていた。

 教会の裏手、茶々丸が持ってきた猫缶に群がる小山の中心に近づきながら、桜子は首をかしげて問いかけて来たのだ。その目は微かに潤んでいた。いや、潤んでいるというよりぼやけているとの表現が似つかわしいだろうか。さながら熱病のように、何かに魅入られた不可思議な表情を桜子は示していた。

 桜子の首がもう一度かしげられる。

 併せるように茶々丸は十八番の鉄面のまま首をかしげた。胸にデータ判別できないデータを生み出す桜子の仕草に比べ、自分の身ながら所作はぎこちないと解析した。

 

「私は見ていません」

 

 返答の声は同世代――茶々丸は麻帆良女子中等部の二年生だ――にしてみれば少し低く、かたかった。

 視線は重なり、その道筋は二人共に揺らぎがない。桜子は盲心的に何かを追っている風体で、茶々丸は真っ直ぐと相手を見ることしか知らなかったためだろうが、バチリと火花でも散るのではないかと感じさせるほどに、二人はしばらく見つめ合っていた。

 

「う~ん、こっちに来たと思ったんだけどにゃ~」

 

 右手の人差指で下唇を押し上げるように、むくれた顔を桜子は晒す。額には皺が集まり渓谷を作り、細められた目は一概にも可愛らしい眼差しといえるものではなかった。今の状況にイラついているように茶々丸には見て取れた。

 その姿に茶々丸は、その像を消すように口を開いた。

 

「……何故」

「ふぇ?」

「何故、ネギ先生を?」

 

 酷く珍しい言葉だった。もとい目の前の相手に質問を投げかけるという行為は別段ありふれた情景であるが、茶々丸の口から飛び出せば、という前口上を置くだけでその行動は珍しくなるのだ。

熱い血など巡っていない、冷たいオイルの通う茶々丸は珍しく、桜子に質問した。

 応答するようにぱたぱたと、桜子は両手を羽みたく動かした。腰をかがめ、整いすぎているほどにシャープな茶々丸の顎を覗き込むように、にへらとちょっぴりだらしなく、それ以上に明るく。言葉に押され、ころりと桜子の表情は反転した。

 

「にゃ~んかわからないけどね、ネギ先生見てるとスゴ~く胸の辺りがキュキュンキュンッってなるんだよ」

 

 桜子の瞳は熱に濡れていた。熱く、甘く、苦く、悲しい炎が――少なくとも茶々丸の知る限りの知識の中では――灯る機会のないはずの彼女の眼の中に浮かんでいた。

 

 故に茶々丸は、この現象を知っていた。

 世の中に氾濫する知識のすべてを知りその身に納めることは不可能だ。

 『アカシックレコード』や『アカシャ年代記』のように、人類の魂の活動を示すものがどこかにある――などと神話には語られているが、どちらにしてもそんな膨大な情報を人間の頭脳に納めるとは脳が拒否するであろうし、紙に起こすとしてもそれだけで地球全土が埋まると言っても過言ではないだろう。

 つまり何が言いたいかというと、誰しもが何かしら知らない事象を抱えて生きていく、ということ。例えば日々新たに生み出されていく科学の知識だったり、例えば世界全土に津々浦々とある一般常識だったり、例えば物語の中でしか語られるはずの無い超常的現象だったり。

 人間誰しもがどこか無知であることはもはや常識だ。そして例え本当だったとしても、既存の世界観から外れたモノは非常識となり、嘘となる。

 魔法はある。これは本当であるが、嘘なのだ。

 茶々丸にとっては本当で、桜子にとっては嘘であり、桜子は嘘に支配されていた。

 

 見上げるように見つめる桜子の顔。ピンで留められた髪の上へと茶々丸は無造作に右手を掲げ、ぺちりと弱々しくその額を打った。配慮たっぷり、多大な心配で包みこまれた視線は火色の髪をふるり揺らした。

 まがい物の手を下ろされた桜子は大きく丸い目を更にまん丸と、きょとんとした表情で茶々丸を見つめていた。

 

「どったの?」

「いえ、その、蚊が……」

「蚊? 春だからかにゃ?」

 

 細い遠慮しがちな声が茶々丸から漏れた。かりかり、猫が額をかくように桜子は自分のおでこに手を伸ばす。

 その様子を茶々丸は視界に納めることが難しかった。正しいと思った行動ではあったが、結界良い方向の目の前の級友は回復したと思考されたが、宛ら隠すように茶々丸は右手を自分の背後に隠した。きりきり軋む胸の歯車が、茶々丸には煩わしかった。それは生まれて始めて茶々丸が感じた不快感だった。

 大凡見積もって二年ほど。記憶メモリーの奥底から引っ張り出しても確実にババになるであろう自分の行動が、まるで重りのように圧し掛かってきた気がした――そんな気分を思考したではなく、感じていた。

 そんな不可思議な事態におろつく茶々丸を知ってか知らずか、桜子はにんまりと先とは違った爛漫な瞳で悪戯っぽく微笑む。

 

「絡操さん、蚊だっ!」

 

 ぺちりと茶々丸の肩が叩かれた。

 熱はもう消えていた。

 

「蚊だ、蚊だっ、蚊だぁっ!」

「あの、その、私は蚊に刺されるような身体では……」

 

 ぺちぺちと茶々丸の身体中を叩いてくる。

 突拍子の無い桜子の行動に、始終オロオロとしていた茶々丸がいつもの鉄面美を取り戻したのはそれから十数分。桜子を探しに来たクラスメートに彼女が首根っこを掴まれてからだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 出会いはいつの頃だったか覚えていない。だが出会いの切欠は一匹の猫だった。

 

 なぁ、と一匹の三毛猫が鳴く。

 『麻帆良の大ボス』、『流離いの一匹猫』、『猫キング』。様々な異名を、主に一人の少女から名づけられた三毛猫は今日も今日とて憮然とした態度。媚びるでもなく、諂うでもなく。悠然と石垣の上に体を寝かしていた。

 その周りにはたくさんの猫、猫、混ざって犬に、更に猫。三毛猫は毛並みの良い三色を陽光に晒し、金の瞳を納めたまぶたを薄く開く。

 そこを見やり、一直線に歩みを進めて来た火色の髪の人間が一人と、白と黒の子猫が二匹。なぁなぁ。抱えた子猫二匹は二本の腕から抜け出そうと躍起になっていた。ぐねりぐねり。小さな身体を軟体動物のようにうねらせて、小さな顔が二つ膨らんだ胸と腕の間で暴れまわる。すんすん。鼻を鳴らしてもがいて足掻き、遂にちっぽけな牙はかぷり突き立てられた。

 

「あたっ」

 

 ちくりとした痛みに思わず声が落ちた。僅かに力が腕から抜ける。その隙を幼いハンターたちは見逃さず、細い腕とやわらかなふくらみの間から白と黒が抜け出していった。まるで灰に混ざるように重なり合いながら、同じ呼吸で滑り出した二匹はとてと地面に着地し、すったかたーと三毛猫めがけてかけ出した。

 

「むぅ、まだパパの方が好きかぁ」

 

 少し不満気なのだと声に出してから確信した。しかしその実、楽しい気分がすぐにそれを覆い隠すのだろうと予想も出来た。

 ぎしりと軋む椅子に腰をかけて、桜子は小さくため息をついた。目を細めて二匹の猫は身体を擦り寄せている。心地よさ気に安心しきった表情で、白は顎を背中に乗せて、黒はゆるり動く尻尾を手で追うように、子猫たちと三毛猫はひとつの饅頭になっていたのだ。

 

「こんにちは、椎名さん」

 

 はしゃぐ二匹とまどろむそのほかいっぱい。一匹の猫を中心に形作られた猫サークルを眺めながら、ふわふらと意識が幸福感の彼方に連れていかれそうになっていた桜子は、そんなまだまだかたい口調で現実世界に引き戻された。

 

「ふぁ、茶々丸さん?」

 

 こてと首を寝かして、ぼやけた視界と垂れたよだれを手でぬぐう。ふるふる首を揺すって手招きし始めていた眠気を断ち切り、持っていった意識の先にはいつも以上にピシリと身体を固めた猫仲間が立っていた。

 きちりと正した姿勢は地面と直角だ。私服姿の自分とは違って、いつもの制服姿の茶々丸はかりかり足下にすり寄ってくる猫もなんのその。食い入るような目線で桜子を見つめていたのだ。

 

(ふゅ? どーしたんだろ)

 

 むむむぅとしかめ顔で頭をひねってみるが、どうにも状況が桜子には呑みこめない。恐らく手に提げたピニールの袋から見て、茶々丸は猫たちにごはんをあげに来たのだろう。

 桜子自身も、ぽかぽか春の陽気に誘われて、今日は所属している部活も休みであるし、実家で飼っている猫二匹と遊びに行こうと思った訳で。どうせならば外に出て、自分と飼い猫二匹を引き合わせてくれた三毛猫に会いに来ようと思った訳で。猫缶いくつかをカバンに入れて、とある教会の裏手にやってきたのだ。

 連れて来た二匹の姉弟――クッキとビッケはパパにご執心で、ほんのりの不満と猫好きの桜子からすれば天国のような猫群像にそれ以上の満足を抱え、桜子はゆっくりと流れていく時間に身を任せようとしたところだった。

 

「おぉい、どーしたの?」

「…………」

 

 完全停止中という言葉が級友の姿にはしっくりきた。声をかけても帰って来ない茶々丸に、桜子は無視されたのかと悲しい考えを抱いてしまう。それはこの同級生があまり人と話すのを見たことがないためだった。自分を除けばいつも一緒にいる留学生のエヴァンジェリンに超鈴音、秀才少女の葉加瀬聡美以外とはあまり口をきいていない。クラスで嫌われている訳ではなく、むしろクールな彼女の所作は好かれているのであるが、ちょっぴり浮いていたのだ。

 

(……嫌われた? はぅ、どーしよぅ……絡操さんとは茶々丸さん、桜子ちゃん、とか呼んで呼んでしたいのに)

 

 だからこそ――という深い考えを抱いたモノでもないが――桜子から見れば落ち着いてカッコイイ感じの茶々丸とは仲良くしたかった。せっかく猫という共通の話題が生まれて、少々じゃれ合う程度にはなれた一年といくらかを不意にするにはあまりにも、あまりにももったいなかった。

 はわわわと頭を抱える桜子とは対照的に相変わらず直立不動の茶々丸。呻く桜子の声を聞いてか徐々に起きだし、二人に群がり始めた猫たち。

 実に、ほのぼのとした光景だった。

 

「春の空は青く素敵だねぇ」

 

 低く通る男の声は確かに落とされた。しかし周りにいる猫たちが聞いた音は、悩み、固まる、二人の少女の耳を抜けて虚空に消えていった。

 次に落ちたのはなぁと鳴く猫の声だった。

 

「ふぎゅっ」

 

 つぶれた蛙のような鳴き声が漏れた。三毛猫はととん、猫のそれを越えた跳躍で桜子の顔をひと踏みすると茶々丸の頭の上にどっかり身体を置いた。そして鼻擦る眼前でビシビシ肉球を使って彼女の額を叩き始めた。

 

「――ハッ」

 

 なぁとひとつ猫は鳴く。

 

「どったの? どこか痛いの? おなか? 大丈夫?」

 

 覚醒したその姿に気づくと、怒涛の勢いで茶々丸に詰め寄った。自分に気圧されるかのように、人形のように――だがいつもよりもふんわりとした印象で――茶々丸は首を縦に振る。

 

「あの、はい、すいません」

「いいのいいの。なんにもないなら良かったにゃ」

 

 肩を落として微笑む桜子に、茶々丸はほんのり小さくなる。泳ぐように視線を回して、口を金魚のようにパクパクしていた。

 

「さ、さぅ……」

「ほじゃほじゃ絡操さん、みんなにごはんあーげよ」

 

 にかにか楽しげにカバンの中から猫缶をいくつか。腰をかがめてぱかっと蓋を開けた途端、桜子は猫にうずもれた。

 その脇で半開きの口を閉じた茶々丸は、ほんのり目尻を下げて――

 

「はい、桜子さん」

「にゃにゃにゃっ! 桜子ちゃんイヤーが反応したよっ」

 

 妙にキラキラと猫缶まみれの顔を輝かせた桜子と、脚にすり寄ってくる猫たちと、相変わらずと額を叩いている三毛猫に、もう一度茶々丸はおろろと視線を泳がせた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 うららかな春の陽気に肌寒さを残した風が吹き抜けた時、桜子は揺れる前髪によって意識を現実へと引き戻された。茶々丸と一緒に昼食を済ませた後に、猫だらけの教会の裏手で桜子は眠っていたようだった。布団となってくれていた彼らの体温があまりに心地よかったのだ。

 石畳の上に置かれていた背中が少し痛む。土埃で汚れているであろうそこを気に留めるでもなく、桜子は猫がするように目元を手でぬぐった。起き上がり、続いて伸びをする。かわいらしい小さな欠伸を一つ落として、ようやくはっきりしていた視界の中に、桜子は見たことのない男の子が居ることに気がついた。

 年の頃は十歳ほど。先日担任となった子供先生と同年代に見えた。針金のような黒い髪を逆立てて、少し目つきの悪い眼差しで桜子を見つめている。しかしその眼差しは一人の友人によって遮られているようだった。桜子と、その少年の間に茶々丸が立っていたのだ。

 知り合いだろうか。桜子はそうふと勘繰った。だがその疑問を深く考える前に、目の前の事実に注意を奪われた。

 桜子の膝にはまだ重さが残っている。それはちょうど猫ほどの重さで、膝の上に陣取っていたのはここら一帯のボス猫だった。三色に染まった毛並みは野良猫にしてはひどく整い、艶があった。僅かに持ち上げた瞼の奥にある金の瞳には理性さえ感じさせる。気位高く、人に触られることを良しとしない三毛猫が桜子の手の届くところにいたのだ。

 恐るおそる、桜子は三毛猫へと手を伸ばした。徐々に指先と鼻先との距離が縮まっていく。その仕草に気づいてか、三毛猫はけだるそうになぁと鳴いた。びくり、桜子の動きが硬直した。液体窒素の入った箱に中にでも押し込まれたかのような気分だった。それほどまでに、今の桜子は緊張しているのだ。

 自分も、茶々丸も、振れたことのないその身体に、もうすぐに――

 

「なぁ、そいつはねぇちゃんの猫か?」

 

 そんな折に、少年からの声が桜子へとかけられた。

 少年の声は独特のイントネーションを含んでいた。同じクラスの、関西から麻帆良へとやってきた少女と似通っていて、しかしどことなく尖がった音を耳に残す言葉だった。少年は黒い学ランを身に纏っていた。どうやらここの初等部の生徒ではないらしかった。

 桜子が声を聞き取ったのと、三毛猫の首筋に触れたのはほとんど同時だった。猫の身体に似つかわしくない硬い感覚を指先に感じ取った瞬間、それはばっと立ち上がり彼女の手が届かない場所にまで走って行った。

 三毛猫の視線はこちらを窺っているように桜子には思えた。膝の上から飛び出し逃げ出し、しかし彼女が目の届く範囲でまた腰をおろして、もう一度なぁと気だるそうな鳴き声をあげた。

 

「あ~あ、逃げちゃった」

 

 ぶすついた声だと自分でも解るものを漏らし、桜子は立ち上がった。そのままに少年を見やる。僅かに、彼の表情が曇った気がした。不機嫌そうな顔をしていたのだろうか。

 

「私の猫じゃないよ。タツヤは野良だもん」

「タツヤゆうんか?」

「私と絡操さんはそう呼んでるよ」

 

 吃驚した顔で尋ねかけてくる少年は、じとっとした目付きでこちらを見ている三毛猫の方を向いた。その視線が訝しがるような光を含んでいたのは、決して間違いではないだろう。

 しかしその理由は桜子にはとんと検討もつかないもので、軽く尻のあたりをはたいて土埃を落とすと、茶々丸の隣に立った。彼女は相変わらず、クールな様子で少年を捉えていた。警戒しているように一歩踏み出す級友。それが桜子は少し嬉しくて、それ以上に寂しかった。

 

「絡操さんの知り合い?」

「いえ」

 

 彼女の返事はいつも通りに形式一辺倒なものだった。

 桜子にはそれがわからなかった。不良じみた風格が混じる少年ではあるが、桜子にとって目の前に居るのは少年に違いなかった。なぜここに居るのか、どうして三毛猫を食い入るように見つめているのか、茶々丸がどんな理由があってまるで自分を守るような態度を示すのか、どれもこれも桜子には解らなかった。

 たが、最後の事柄だけは、そのままにしたくなかった。

 

「椎名桜子」

「はぁ?」

「だから椎名桜子、私の名前。君の名前は?」

 

 ただそれだけの、単純な理由。問いかける桜子に対して惑うように鼻をぐるり回すと、少年は年の割には低い声で返してきた。

 

「犬上小太郎や」

「ほかほか、んじゃ小太郎くんよろしくぅ!」

 

 そう告げると制止するかのように手を伸ばす茶々丸を振り切って、桜子は小太郎の頭をなでた。見た印象と変わらず、彼の髪はかたかった。触れる自分の手を短く受け入れて、すぐに我に返ったように振り払う小太郎。そんな姿に桜子は思わず綻んだ。

 

(何だ、イイ子じゃん)

 

 眉をひそめる小太郎に、桜子は悪戯っぽく微笑んだ。

 

「なになに、照れてんのかにゃ?」

「ちゃうわ阿保っ」

「なははははっ!」

 

 伸ばす手を振り払い、避ける小太郎にもうひとつ笑みが深くなる。睨みつけてくる小太郎は、意地っ張りで無愛想な、ちっぽけな仔犬のようだった。

 とんと後ろに引きさがり、うぅっと唸り声を上げだした頃、気づけば隣に茶々丸が居た。にへらっと考えなしの笑顔を茶々丸に差し出す。彼女の顔はいつものように鉄面美だったが、呆れたような様子を含んでいるように桜子には見えた。それが、嬉しかった。

 

「そいでさ、小太郎くんは何しに来たの?」

 

 うららかな春の陽ざしをそのまま貼り付けたかの表情で、桜子は耳をぴんと立てているような小太郎へと問いかけた。

 桜子の疑問は至極真っ当なものだった。人があまり寄りつかない――猫好きたちには秘密のスポットとなっているが――教会の裏手にこの少年が来る理由が不思議だったのだ。単に猫と触れ合いに来たのとは違うようだ。猫好きは通じ合うのだっ、と桜子はいつも豪語している。しかし彼にはどうもピンと感じるものがない。

 問いかけた桜子には何の悪気もなかった。ただ興味がわいて飛び出した疑問だった。だが世の中は、桜子が知っているよりもずっと広く、ずっと深く、ずっと暗い――それだけの話。

 ぞわり、背筋に氷でも入れられたかのような空気を桜子は感じ取った。そそぐ春の気温は暖かいはずなのに、肌寒さを感じさせる風よりも空気が冷たくなった気がした。

 

「ああ、せや、忘れるとこやった」

 

 不良じみた雰囲気の少年は、殊更その気配を濃くし始めた。冷気の原因はにたりと獣が牙を剥くかのごとく笑う眼の前の少年だ。

 打ち出した小太郎の声は影のように黒かった。

 

「そっちのガラクタねぇちゃんなら知っとるやろ。ここの土地で最強の魔法使いは誰や?」

 

 波紋作る単語は夢幻の中だけに許されたはずのものだった。

 黒き風が、火色の髪をたなびかせた。

 

 

 

 

 

 絡操茶々丸は困惑していた。

 それは口を開くなり不遜な態度で、最強の魔法使いに合わせろ、と告げた少年の言葉による訳ではなかった。

 茶々丸は『ミニステル・マギ』だ。

 ミニステル・マギとはラテン語で『魔法使いの従者』を意味し、字面の通りに魔法使いを補助するモノのことである。その関係は恋人であったり、友人であったり、主従であったりと様々ではあるが、魔法を放つ時に無防備となる魔法使いを護るのが彼らの役割であることは共通している。

とある大魔法使いのミニステル・マギとして、そう在るべく、そう為るべく生み出された――それこそが絡操茶々丸の存在意義だ。

 故に、小太郎の問いかけに茶々丸は困惑するはずがなかった。今までに幾人か、彼のように不遜な態度なり、怯えるような態度なり、見下すような態度なりで茶々丸の主人に会わせろと要求してきた者たちはいたのだ。尤も茶々丸の主人は余り他人から愛され尊敬される魔法使いではなく、蔑まれ恐れられる魔法使いであるため、その機会は非常に少なかったことは間違いないのだが。

 茶々丸は主人に常々彼女に言い聞かされている。私に会う度胸の在る者ならば連れて来い、と。だからこそ――茶々丸がこの麻帆良の地で最強だと思考している――主人の下へ小太郎を連れていくことはまるで問題ないのだ。

 問題ない――のだが、困惑の元凶は別にあった。

 

「なんで猫のねぇちゃんも来るんや?」

「さーくーらーこっ! 良いじゃん、私だって魔法使いなんだよ?」

「……どこがやねん」

 

 火色の髪が楽しげに揺れている。腕に白と黒の子猫を抱え、軽い足取りで歩を進める少女こそが、茶々丸の規則正しい思考回路を乱していた。

 茶々丸の知る限り、桜子が魔法使いであるという事実は存在していない。恐らく彼女は遊びか何かだと勘違いしているのだろう。十歳ほどの少年が魔法使いに会わせろと言って来たのならば、魔法を認識していない桜子からすればそう断ずることは容易だ。何せ現実に魔法はあり得ないはずと、そう広く世間では考えられている世界なのだ。

 しかし、小太郎は人ではなかった。彼女の視覚センサーは彼が亜人だということを見抜いていた。並の魔物や妖怪を超える気を徐々に高ぶらせている小太郎の言葉は遊びなどではない――本気なのだということが予測出来る。

 このまま小太郎が茶々丸の主人の下まで行けば、桜子が知るべきではないことを知るであろうことは火を見るよりも明らかだ。小太郎の言葉が夢物語ではなく現実であると、桜子自身が気づく未来がはっきり茶々丸の思考により導き出されていた。

 しかし、茶々丸は彼女を止めることが出来なかった。

 

「あの、椎名さん。私が案内しますので、その、椎名さんは……」

「にゃににゃに、仲間はずれ? ずっこいぞーっ」

「いえ、あの、けしてそう言う訳では……」

 

 うおーっ、と吼えるような仕草の桜子に、茶々丸はただ乱れ始める思考回路を必死に纏め上げようと足掻くことしか出来なかった。

 茶々丸はマギステル・マギとなるべく、誰かに仕えるべくして生み出されたガイノイドだ。故にその性質を組上げるプログラムは人に従順で謙虚な人物像を作り上げていた。茶々丸はまず他人に対して意見しない。だからこそ、行く、と言い切る桜子を止める方法が解らなかった。

 否。この場合解らない、という言葉で表現するのは少しおかしいかもしれない。主人に仕えるべくして生まれた茶々丸は、主人のために他人の要求を断る方法をプログラミングされている。一流の従者として、心地よく主人に活動してもらうためのノウハウを茶々丸は知識として持っているのだ。勿論、その中には主人に対して害の在る存在を遠ざける方法もある。

 しかし、茶々丸はその説得方法を目の前の桜子に使っても良いのか――そんな従者として生まれた茶々丸にとっては不条理ともいえる疑問を、そんな疑問を本来抱くはずのないガイノイドの彼女は抱いていた。

 

 茶々丸にとって桜子は特殊な存在として彼女の思考回路に位置付けられている。ただの級友とも違う、仕えている主人とも違う、自分を造り出した創造主とも違う。

 笑えば嬉しいという気分を数字の羅列の中に作り出し、落ち込んでいればどうにかしてやりたいという気分を血の通わない冷たい身体に生み出す――茶々丸にとって桜子は奇妙な存在だ。

 それがどういう存在か、世界に生きる大多数のモノたちは知っている。されどこの世に確立してまだ二年、親密な人間関係を作って来なかった茶々丸は、つまりのところ世間知らず。それが世間一般『友達』に対しての感情だと、数字と歯車と魔力によって形作られている茶々丸には解らなかった。知識では在ろうとも、実感が茶々丸には無かったのだ。

 だからこそ、楽しげな桜子へと届かない手を伸ばすことしか、茶々丸には出来なかった。

 この先で触れるべきではない事象に桜子は触れようとしている。しかし今の楽しげな桜子の表情を不機嫌にさせることが茶々丸は――怖かった。

 まるで人間のような思考だったことに、茶々丸の頭にある冷却部品が唸りを上げる。

 ぐるぐると視界が廻り、ずぶずぶと泥沼に頭部の集積回路が沈んでいくようだと思考した。

 気づけば彼女の主人が座すログハウスは目と鼻の先だ。

 

「魔法少女桜子ちゃん! 爆・誕っ!」

「……阿保か」

 

 ビシィっと眉の上あたりでピースし、腰を曲げて姿勢を低くポーズする桜子へ、茶々丸が許されたのはただ見守ることだけだった。

 脳内メモリーを電気信号が走る。それはいつもよりも鈍く、いつもよりも不規則に、歪む軌跡を残して走っている、そんな気分だった。

 

 

 

 

 

 硝子の世界の中、ルビーの海が揺れていた。幼い手が世界を掴み、小さな唇へと海が流れ込んでいく。

 気だるげな様子で溜め息を吐いた金糸の髪の幼子は、肌をぴりりとした刺激に眉を潜めた。従者に作らせたスパイス効く肴よりも強く、彼女を高ぶらせるその根源は、木造りの家の外より伝わってくる。

 その感覚はひどく懐かしいものだった。この地に縛られて以来振れることのなかった、しかし長きに渡って彼女が晒されていた場所の匂いがした。

 幼子はちりちりと肌を痺れさせるそれに、裂けんばかりに口元を持ち上げた。久しく感じていなかった鉄臭い空気に呼応したのか、小さな歯はまるで鋭利な刃の如く尖り始めているようだった。

 椅子から腰を下ろすと、躊躇うことなく彼女は扉の方へと足を運んだ。いつもならば従者に行わせ、ただ自分は座っているだけの事柄を、自発的に彼女は行ったのだ。今この場に従者はいない。だが例えこの場に従者が居たとしても、きっと彼女は同じようにおのずから足を運んでいただろう。

 それほどまでに、今自身に狙いを定めるかのように突き飛んで来る殺気とでも言うべき感覚は、彼女の喉を潤す熟成されたワインよりも脳髄を陶酔の果てへと導いていた。

 手に取るように解る――扉の向こうに居るそれは青く若く弱い存在だと。しかし、故にこそ、彼女は自分の顔が凄惨なほどにだらしなく緩んでいることを確信した。

 糸を垂らして操るマリオネットの如く、震えているのが解る、恐れているのが解る、泣きだしたい気持ちを抑えているのが解るのだ。そして――それでも気迫微塵と揺らぐことのない憐れな子羊により金髪の幼子――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの心の臓は激しく打ち鳴らされていた。

 

「クケケケ」

 

 哂い声がエヴァの耳に飛び込んできた。童のように純粋に、気狂いのように純粋に、興奮抑えきれないとでも言いたげな声が先程まで座っていた椅子の近くから発せられていた。

 エヴァは刻んだ笑みを更に深く刻み直した。早打つ胸の鐘は全身を震わせている。彼女の本質とでも言うべき場所が狂喜乱舞している。さながら初恋を歌う無垢な少女のような気分で、エヴァは座する家の扉へと手をかけた。

 

「阿阿阿阿阿津ッ!」

 

 開いてまず、彼女の神経細胞を刺激したのは無茶苦茶な獣の喚き声だった。次に彼女の感覚細胞を刺激したのは顔面に突き刺さった拳だった。気で強化された一撃に、小さなエヴァの身体は耐えきることなど出来るはずもなく後方へと吹き飛んだ。

 背中が壁に叩きつけられ、棚からいくつもの調度品が床に落ちて形をなくした。痛覚が絶叫をあげ、痛みとなって全身を駆け巡る。だがそれすらも心地よく――

 

「……ハハッ」

 

 反射的にエヴァは笑っていた。

 

「おおっ……おオ雄雄雄阿阿津ッ!」

 

 その声に襲撃者――白銀の髪たなびかせて狼の気配感じさせる少年は、一瞬怯むかのように音を途切れさせるが、更なる激情を込めた咆哮で身体を鼓舞して砲弾のように突っ込んできた。

 床に落ち、倒れ込んだ自分に馬乗りになると、襲撃者は血眼になりながら拳を幾度となく振りかぶり、振り下ろしてきた。

 そこに躊躇いなど一切なかった。ただ自分を打ち殺さんばかりの襲撃者は壊れた機械のように拳を振り乱していた。

 

「マスッ――」

 

 故にこそ、早鐘となっていた心臓はちっぽけな血と糞と肉に塗れた袋をぶち破るかのように鼓動を強くしていた。

 故にこそ、エヴァは自分を守ろうと走りだした従者を手で制して留まらせ、その奥で呆然とした表情を示すクラスメイトを意識の外に投げ出した。

 勝てぬと本能で理解していながらもエヴァに少年が踊りかかってきたからこそ、彼女の本能は彼女の意識を本質的なそれへと塗り替え始めていたのだ。

 

「クケッ、クケカクケケケケッ!」

 

 くいと人差し指を動かす。ただそれだけで、自分の上に乗っていた襲撃者の重みは無くなっていた。

 代わりに狂った哂い声がエヴァの居城にこだましていた。

 

「嗚呼、傲慢な者よ、不躾な犬よ、私に一体何の用だ?」

 

 額より垂れる血を朱い舌が舐め取る。ワインなどでは感じることのできない甘露がエヴァの口内を埋め尽くしていくようだった。

 頭がずきずきと痛む。力を縛られた身体ががくがくと震える。それ以上の快楽がエヴァの足を支えて立たせる。

 眼前の壁には大きく穴が空いていた。へし折られた壁の端には白銀の毛が幾本も引っ掛かっている。その奥、エヴァの座する場の外より苛烈な気が噴き出し、穴から這い出してきた。

 宛らそれは銀の弾丸だった。本来己を殺し尽くすはずの存在になり変わるかのような圧でもって、少年は再び穴からエヴァの方へと向かって来た。

 その様子にエヴァは焦るでもなく、優雅に指をもう一度動かした。

 ――狂声が弾丸を破壊した。

 打ち伏せられた襲撃者の上で、頭の大きな人形が壊れたように泣いていた。ここ最近、日常の世話をやらせている従者よりも濃い深緑の髪の人形だった。

 

「遊ブカ? モット遊ボウゼ御主人」

 

 クケケと哂う人形に対してエヴァの双眸は否定するような光を湛えていた。

 重ねて指を動かす。二等身の人形の脚が、襲撃者の背中へとめり込んだ。

 

「何を寝ているんだ、貴様は」

 

 襲撃者から大きく呼気が外へと漏れる。目を見開いたその髪色は、いつの間にか黒に変わっていた。恐らく体内で練ることが出来る気が切れたのだろう。

 

「答えろ、何故お前は私に敵意を示した?」

 

 しかしそれはエヴァにとっては些細な事。敗者の事情など知ったことではない。彼女が気になるのはただその一点だけだった。

 恐れられ、讃えられ、避けられ、謳われ闇の化身となったエヴァに、こうなる未来は見えていたとしても挑みかかり、自分の本能を刺激した少年の原動力が知りたかったのだ。

 エヴァの問いかけに、荒い呼吸を繰り返す少年は、うち伏せられたという事実があるにもかかわらず、身下げるような視線を投げつけて来た。

 そして、彼が口に出した答えは実に彼女の琴線にふれるものだった。

 

「この世は弱肉強食やからやっ! アンタを倒して俺は力を示す!」

 

 歳の頃は十ほどの少年の答えに、まずエヴァは自分の耳が可笑しくなったのではないかと疑った。次に睨みつけてくる彼の態度からそれが本気の言葉だと気付き――エヴァの口は耳元まで裂けた。

 だん、とエヴァは少年の頭を踏みつける。

 退屈で、安穏とし、穏やかさに彩られ、染まり始めていたエヴァの世界に影が落ちた。ふと記憶にメスを入れてみれば、この日の本に息づいていた術者はそんな螺子の外れた思考回路を持つ者ばかりだったのだ。いや、もっと掘り返してみれば正義面して跋扈する魔法使いたちとて、何ら変わりはなかったのだ。

 そしてエヴァは納得した。故にこそ、目の前のちっぽけな少年が狂ったように自分の本能を刺激したのだと。

 弱肉強食という旧き原初の理を、どんな事情があってかは知らないが信奉している少年がやってきたからこそ、エヴァは――

 

「ならば理のままに跪き、足を嘗めろよ駄犬」

 

 自身を縛り付けた魔法使いの息子がこの地にやって来て、それの踏み台となれと言わんばかりにその赤毛の少年の情報を流した者たちに――爪と牙と血をくれてやろうと決めたのだ。

 




小太郎と最初に会うのは夏美ではない……桜子だぁーっ!
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