跳び出した蛆の落ちる先   作:すぷりんがるど

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長らく放置してしまい申し訳ありません。
リアルの方が少し落ち着いたのでようやく更新再開です。
今後とも『跳び出した蛆の落ちる先』をどうぞよろしくお願いします。


間のお話~堕ちてきてしまった剣~

 そこは良く言えば古き良き、悪く言えば懐古的な雰囲気を持っていた。こぽこぽと音を立てて香りを漂わせるコーヒーメーカーが存在を主張する。噴き出す蒸気は髪に張り付く煙草の煙と混じり合い、空間に幅を利かせていた。少しばかり鼻に付く。だがその香りが嫌いではなかった。

 古めかしい木目調の椅子と机。思い描く昔ながらの喫茶店を体現したような店内の中、少女――長谷川千雨はカップを手に取りベージュの液体を口へと流し込んだ。ほんのりの甘さとまろやかな苦さ。喉をつたうそれはすっかり冷えていた。

 

「ん~、やっぱりここのプリンは格別でござるな」

「そう言ってもらえると作る甲斐がある」

「私は好きじゃないがね」

「……ほぉ」

「いや、はるかさんの作るプリンが、という訳ではなく、プリン自体が好きじゃないんだ」

「やれやれ、プリンが嫌いとは人生の半分は損をしているでござるよ」

「言ってろ」

 

 時折りに――というよりも見る度に本当に同級生か、と感じるクラスメイトと咥え煙草の店主との声をBGMに、千雨はぺらりと机の上に広げた雑誌のページをひとつ進める。紙上には色とりどりのコスチュームに身を包んだ少女たちと、彼女たちの身の上を簡単に示す一文が添えられていた。

 ぺらり、紙の擦れる音がする。千雨の指は動いていない。それは彼女の正面から聞こえてきた。

 大きな丸眼鏡の奥に置かれた、自分でも目付きが悪いと感じる瞳が持ち上げられる。視界には自分とは違って分厚く小難しそうなタイトルの本に顔を落としたクラスメイトが移っていた。彼女もまた、冷えているであろうコーヒーを口へと含む最中だった。

 

 カウンター合わせて十数席ほどの店内にはクラスメイトと店主、それとよく見かける優しげな風貌の老紳士が一人いるだけ。

 千雨が居る場所は喧騒に溢れた麻帆良学園都市にありながら喧騒とは無縁の場所、三十路になるかならないかの女店主が経営する小さな喫茶店の一席。目の前に居る小さなクラスメイトも、カウンターで会話するクラスメイトも、そして店主も、干渉してこずのんびりとした空気感を提供してくれる、彼女が週に一度か二度訪れるお気に入りの空間だ。

 だからこそ、千雨の胸には日常の騒々しさによって誤魔化されていく微かな違和感が去来する。

 

(……好きじゃねぇはずなんだがな、あのクラス)

 

 千雨は年齢の割に冷めた気質を持っている。それは本人も自覚するところで、だからこそ自分と合っていない自分の学級にいつも悪態をついている。無論、口に出せば面倒になると解りきっているために心の中での話だが。

 

(いや、別にアイツらが嫌いな訳じゃなく、ただどう考えても普通の観点からすれば可笑しいと思う訳であって――)

 

 がしがしと後頭部で纏めた髪を掻いて、彼女は溜め息をこぼした――諦めが含まれている溜め息を。

 千雨の在籍する学級は麻帆良学園女子中等部だけでなく、学園全体から見て確信できるほど屈指のお祭りクラスだ。財閥令嬢に理事長の孫に多数の留学生、大学生や小学生と見まごう同い年に先日やってきた子供先生。作為すら感じさせるほどバラエティーに富んだ人材がそろったクラスに、何故か普通だと思っている彼女は在籍している。

 そんな不思議空間に自分が居ることが――というよりも自分もその一翼を担っていると思われることが嫌な訳で、千雨は悪態をつく。無駄だと解っているのではあるが。

 

(……まぁでもアイツとは幼稚園から同じとこ通ってるし、昔は遊んでた気もするし)

 

 矢継ぎ早に言葉が脳裏に並べられ、いつもは見え隠れしないように封じ込めている感情へと伸びていく。宛らそれは映画スターが歩く赤絨毯のようで、歩かなければならない規定路線のようで、おずおずとちっぽけな想いが顔を出した。

 

(あのお祭り娘……椎名のやつは大丈夫なのか……?)

 

 想いに浮かぶのは桜色の髪の少女。中等部から多くの外部生を受け入れる麻帆良学園の中、千雨が昔からよく知る内部生の一人。かつては家に遊びに行ったこともあり、つっけんどんの態度ばかりになった今でも昔と変わらない態度で接してくれる彼女の級友。

 

(まぁ私がどうしなくても椎名には仲良しのやつらがいるし、最近ではあのロボ娘ともつるんでるみたいだし、だから私が心配する問題でもないんだが……だがっ!)

 

 千雨は乱暴な手つきでカップを取り、僅かな残りを一気に飲み下すと、ぶふぅと女子中学生らしからぬ鼻息を漏らしてみせた。

 その音に目の前の級友から訝しがるような視線が返ってくる。微かな時間訪れた確実な沈黙と、やがてまた本に落ちた目線。それに誘われるかの如く、千雨の額は木製の机へと押しつけられていった。

 もう何も聞こえない。頬が酷く熱い。

 

(あああっ! 全部意気消沈の椎名が悪いっ!)

 

――要するに千雨はひねくれ者なのだ。

 

 顔を伏せたままに大きく深呼吸を一度。綺麗に掃除された床から視線をおさらばさせて、そのまま手早く机の上に広げた雑誌を鞄に詰め込み、財布を取り出し伝票を持ち、千雨は席を立った。

 

「スイマセン、お支払いお願いします」

 

 カウンターを横目で見ながら短く言葉を締めると、彼女はレジの方へと真っ直ぐと歩いて行った。財布を開き、中から小銭を取り出してやる。目の前には煙草の煙を纏った妙齢の女が立っていた。整った顔立ちにエプロン姿のこの女こそが、千雨の贔屓にしている『喫茶ひなた麻帆良店』の店主なのだ。

 伝票と一緒に出した小銭は頼んだコーヒーセットと同じ額。ぺこりと頭を下げて、足早に去ろうとする千雨。だがその時はからずも視界に入った店主の表情に、千雨はひくりと口元を歪ませた。それはいつも憮然とした表情の店主の顔は変にニヤついていて、ぎりぎりと横を向いた先のクラスメイトも同じような顔をしていたからで――

 

「長谷川は……面倒見がいいな」

 

 心でも見透かしたかのような店主の一言に、千雨はもうどうしようもなく、とりあえず足を動かした。だんだんと彼女の耳に入る音が増えてくる。喧噪のなか、煙草の香りはもうしなかった。

 

 

 

 

 

 長谷川千雨は考える――とりあえず目の前のごちゃごちゃから片付けようと。

 つい先ほど抉られて、その窪みをどっぷりと満たしてしまった事柄を兎に角スッキリさせようと考えたのだ。

 彼女を悩ませる事柄は至って単純。昔を知るクラスメイトの椎名桜子の元気がない件についてだ。

 

(……てかなんで私がこんなこと悩んでんだ?)

 

 だんだんと夕焼けが消えて夜がやってこようかという時間帯。喫茶店を出て少し歩いた千雨には浮かんだ疑問を解決しよう意気込んだ矢先、別の疑問が鎌首をもたげてきた。

 確かに千雨と桜子の間に交流はある。だが彼女よりも深い交友を築いているクラスメイトが桜子には居るのだ。普段の自分ならば、彼女たちの方が桜子を励ますのに適役だと感じ、思い悩むことはないだろう。そしてクラスで一二を争うお祭り娘を心配する人間はたくさんいるのだ。

 だが変に今回の一件は千雨にそんな合理的な答えを浮かばせなかった。それは桜子がいつものほやんとした雰囲気を殆んど見せずに真剣な表情で悩んでいるからでもなく、そんな様子がもう数日と続いているからでもなく――

 

(絡操茶々丸……アイツとの間に何かあったから、か)

 

 地面に転がっていた石ころを蹴り飛ばしながら、千雨は疑問の正体にあたりをつけた。カラカラと石ころは道の脇にあるベンチの方へと転がっていき、近くにいたのであろ三毛猫が吃驚したような風体で駆けて行った。

 千雨はその後ろ姿を見つめながら、正体が被った薄皮を剥いでゆく。

 その中心に居たのはこれまたクラスメイト。真剣な表情で千雨が人間ではないと確信している茶々丸と話す姿を何度も目撃された事――そのちっぽけな事実が、大抵のことは笑って切りぬける長谷川千雨の知る椎名桜子を悩ませる事柄が尋常ではない何かに近づこうとしていると確信させる証拠だ。

 

 そもそもここ麻帆良学園都市には奇妙な都市伝説が多々存在している。やれ空飛ぶ少女を見ただとか、やれ黒マントの下にエロ下着を着た幼女を見ただとか、ほうきにまたがった魔法オヤジを見ただとか、怪物と戦う銃刀法違反者を見ただとか、妙な噂に事欠かない。

 それがすべからく唯の噂だったとしても、麻帆良学園はどこか可笑しいと千雨は感じている。

 例えば麻帆良格闘系の部活の間ではよくよく乱闘が起こっている。どちらが強いかという命題によって酷く揉めるらしいのだ。人目もはばからず殴り合う彼ら、それを更なる武力で鎮圧する教師――これは麻帆良では日常的に行われている光景だ。

 だが一度ネットの海に潜ってみれば、ニュースや新聞を眺めてみればどうだろうか。乱闘騒ぎでも起きようならば、それを武力で教師が鎮圧しようものならば、まるで一大事件のように取り扱われ、学校は謝罪し、評論家が批判を繰り返すだろう。

 

 麻帆良学園都市はどこか可笑しい――例え他の誰一人ともそう感じなかったとしても、それすら千雨にとっては可笑しい事であり、己は間違っていないと信じているのだ。

 故に、千雨は今回の桜子の一件が引っかかる。喉に刺さった小骨のような違和感に、その奥にあるであろう真実が、千雨の冷めた思考に熱を持たせる。そして先日、正に身に降りかかった『9歳児が担任になる』という非常識は燃料となり、熱は小さくとも間違いなく彼女の心臓にまで火をくべるに到ったのだ。

 

 すっかりとした夜風が千雨の肌を震えさせる。入口ばかりの春を消し去り、まだ暗ければしっかりと冬を残した気温は口から洩れた息を白く染め上げた。

 

(何かあった事は間違いねぇ。椎名とロボ娘の間で何かあったんだ。だとしたらマスターとか呼んじまってるあの金髪幼女とも関わりがある訳で、アイツは前任にタメ口聞いてた訳で……)

 

 そこまで辿り着き、千雨は乾いた笑いが自分の口から洩れていることに気がついた。

 と、同時に足元が崩れていくような感覚にも襲われた。

 心臓が跳ねる。燃料は油田にでも鶴嘴をぶち当てたかのように噴き出し、とどまるとこを知らず、痛いほど鼓動に鞭を打つ。

 

(……ちょっとコイツは、ヤバいんじゃねぇか)

 

 千雨は聡い人間だった。これまで抱いてきた小さな不信を繋ぎ繋いで察する事の出来るほどに聡い人間だったのだ。

 そしてその鋭さが、踏み込むべきではないと千雨に警鐘を鳴らしていた。

 子供が担任教師になる。それはちょっとお茶目な翁の悪戯――ではなく、ギャグテイストに歩んでいける桜子をシリアステイストに確変させる程の何かが裏に潜んでいるであろう事が解ってしまった。

 

 故に――千雨の思考は新たな回路を作りだし――答えを――

 

「おや、思ったよりものんびりしているのですね」

 

 ――と、出そうとした答えは自分と同じように冷めた色をした声によって霧散させられた。

 首を横に向ければ紺色の髪の少女がいた。千雨と同じ制服の、同じクラスの、先ほどまで同じ喫茶店にいた、綾瀬夕映がそこに立っていた。

 

 

 

 

 

 ロードローラーと呼ばれる重機がある。道路や基礎建築の際に用いられ、その圧倒的質量の鉄輪でもって道路を圧し固め平坦にならす鉄輪ローラーの事だ。スムーズローラーとも、単にローラーとも、日本の官公庁などでは締固め用機械と呼ばれるそれは、とある漫画の影響でひどく有名な重機となっている。それこそダンプカーやパイルバンカーやショベルカーのような看板重機と同じほどに。

 そんなロードローラーに長谷川千雨は乗っていた。それは千雨にとってよくある事だった。苛立ったり、悩んだり、焦ったりする時はよく巨大なそれに跨りひたすら平坦を作るのだ――勿論、妄想の中での話だが。

 妄想によって頭の中に生み出したロードローラーで以ってぐしゃぐしゃになっていた思考を平坦に、元の形に戻してゆく。先ほど出てきかけていた答えはコンクリートに混ぜ込んだ。今では立派に地面の一部でその奥底だ。

 

 蓋をして、てくてくと千雨は歩く。寒さ残る夜を自分よりも一回りは小さな綾瀬夕映の歩幅に合わせて。

 こうやって二人で寮――麻帆良学園女子中等部は全寮制だ――へと帰るのは初めてではない。同じ喫茶店を行きつけにしている身として、クラスメイトとして、タイミングが合えば一緒に帰る。

 二人の間には沈黙が横たわっていた。これも珍しい事ではなかった。話題があれば話をし、無ければただ並んで帰る。踏み込んでこず、かといって一緒に帰ることを止めはしない、そんな距離感が千雨にとっては心地よかった。

 心臓はもう跳ねていない。一定の、正常なリズムを刻んでいる。

 

(とりあえず、今日は考えるのは止めだ。明日会った時に大丈夫かって、何かあれば相談に乗るぜって……それで、良いよな)

 

 千雨はそう区切りを付け――

 

「そういえば最近椎名さんと絡操さんの仲が良いのですね」

 

 すぐさまに蹴散らされた。

 心臓がまた跳ね回ろうとする。ちりちりと燻っていた火に再び燃料が投下されていく。

 こつこつと地面を叩くローファーの音が耳障りだった。

 遠くで行われている乱痴気騒ぎが飛び込んでいく。

 こつこつと足がまた前へと進む。

 騒ぎが大きくなり、それを囲んでいるのだろう野次馬が目に入り、トトカルチョでもやっているのか食券が宙を舞い――岩と岩とを高速でぶつけあったような鈍い轟音が辺りの空気を圧し下した。

 

 足の先にあるのは開けた学園都市の広場のひとつ。そこをおそらくドーナッツ状に囲んでいた人の群れは段々と四散し、千雨の視界には倒れた大学生くらいの男たちと、彼らを見下ろすように立つ元担任の姿がうつりこんだ。

 少し寄れたスーツを着た壮年の男性。無精髭の口元には煙草を咥え、眼鏡の奥にある瞳はあくまでも優しげで――だからこそ千雨にはその光景が異様に見えた。

 いつもの光景。見慣れた麻帆良の情景。誰一人として不思議がらない――自分もつい先ほどまで可笑しくとも当たり前だと感じるようになっていた日常は、覆い被っていた影を取り去って千雨の前に現れた。

 鞄を握る千雨の手に力がこもった。帰りたかった。早く家に帰って趣味であるコスプレ写真でもブログにアップして、布団に入ってまどろみの彼方へと去ってしまいたかった。

 

(酒って、こんな時に飲みたくなるのかね)

 

 自嘲気味に笑い顔を作り、千雨は夕映の肩を軽くたたくと再び歩き始めようとした。

 だがその歩みは前からやってきた聞いた事のない声によって止められた。

 

「あら綾瀬さん、こんばんは」

 

 声はおっとりとした印象を抱かせるものだった。千雨と夕映の前には一人の女が立っていた。その女は千雨に妙な印象を――というよりも恐らくこんな感じだろう、という人物の概要を与えてくる女だった。

 年齢は二十代半ばほど、落ち着いた色のセーターと長いスカートとを着用し、丸眼鏡をかけている。黒髪は肩を少し過ぎたあたりまで伸び、おっとりとした風貌は顔立ち以上に彼女の持つ空気感に拍車をかけていた。

 

「はい、こんばんはです」

「今帰りかしら? まだまだ寒いわねぇ」

「はいです。……ああ、長谷川さん、こちら図書館島で司書をされている立花さんです」

 

 夕映は立花と呼ばれた女の視線に気づいてか、千雨の方へと向き直ってそう告げた。

 ぺこりと立花がお辞儀をする。千雨はつられるようにして頭を下げた。

 図書館島の司書――そういえば目にした事があるような気がする。立花の職業を聞いて、千雨は妙に得心した。なんというか、実に似合っていたのだ。

 

「伝説の司書?」

「いえいえ、普通の司書さんなのです」

「伝説の司書さんの話ね、私も噂には聞いたことがあるわ。残念ながら綾瀬さんの言う通り、私は普通の司書さん。また暇な時には遊びに来てね」

 

 そういうと立花はうふふ、とほほ笑んだ。それに合わせて胸が弾んだ。実に巨乳だった。

 

「立花さんも帰りですか?」

「そうなの。帰って何を作ろうかなーって悩んでたらこの騒ぎでしょ。はらはらしながら思わず見てちゃった。相変わらずみんな元気よねぇ」

 

 ちらと去っていく元担任の後姿を眺めながら言葉をひとまず止めると、立花はまた口を開いた。

 

「そういえば綾瀬さんのところには子供先生が来たのよね」

 

 子供先生――今の千雨には聞きたくもない単語だった。

 

「はいです。それがどうかされたのですか?」

「ええ。実はさっき女子中等部の校舎に本を持って行ったんだけどね、その時に黒髪の男の子がいたから、もしかしたら友達なのかなーって」

「いえ、私は知らないのです。長谷川さんはどうですか?」

「いや、私も知らないが……」

「そう。あの男の子、麻帆良の初等部のこの制服じゃなかったし、もしかしたらそうかもーって思ったんだけど、そういえば子供先生って海外から来たのよね。だったら私の勘違いだったみたい」

 

 腕を組んで立花は首をかしげた。セーターを盛り上げる巨乳がそのしぐさによってさらに強調されていた。道ゆく男の視線がそこに集まっているのは、おそらく千雨の気のせいではないだろう。

 

「じゃあ遅くなりすぎないうちに二人とも帰るのよ。長谷川さんもまたね」

 

 それだけ告げて手を振ると、立花は人混みの中に消え、やがて見えなくなった。

 かりかりと千雨は頬を掻く。周りの男どもにはアンタが今夜のおかず――そう考えてしまう千雨はやはりひねているのだ。

 

「では長谷川さん、自分はこれから借りていた本を図書館島まで返しに聞きますので」

「そうか、じゃあな」

 

 吹く冷たい風がそうさせるのか、早口で言い終えた夕映は図書館島の方へと向けて歩きだした。そして五歩か十歩、進んだあたりで立ち止まると、夕映は千雨の方に向き直って口を開いた。

 

「人を幸福にするものはどれだけ沢山のものを持っているかということではなく、手持ちの物をどのように楽しむかである――イギリス、バプステト派の神父であるチャールズ・スポルジョンの言葉です。私は出来ることだけをすればいいと思うのですよ」

 

 一礼し、夕映は踵を返した。

 風が吹いていた。まだまだ春の兆しを見せたとはいえ、冷たい冬の風だ。

 千雨にはそれが心地よかった。

 心臓のリズムはまた日常に戻っていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 人生には重要な岐路がある。

 右へ行くか左へ行くか――そんな岐路には奇しくも二つの種類がある。

 高校受験、大学受験、就職、結婚、離婚、その他諸々、様々にこれから訪れますよと警告してくれる、言葉としてこんな状況があると教えてくれる岐路と、突如何気なく起こした行動によって起きて後から気付く岐路。

 準備ができる岐路と準備ができない岐路。

 だが須らく何かしら起こした己の行動によって、周りの影響によって、岐路は生まれ、人間は踏み出さなければならず、人間は踏み出してしまうかもしれない。

 そして進んだからにはもう元には戻れないのだ――そこに自覚があろうとも、無かろうとも。

 

 

 

 その日は長谷川千雨にとって大きな岐路だった。

 彼女の積み上げてきた世界観と人生観を破壊するほどに大きな岐路だった。

 踏み出した自覚はなかった。ただ埋められていた地雷へと向けて彼女は気付かないうちに歩き出していたのだ。

 それは本当に些細な切欠からで、麻帆良女子中等部の寮へと帰る前に気になっていた子供先生の関係者かもしれないという少年を一目見ようと――ただそれだけだった。

 

 腕から力が抜ける。自然落下した鞄は草の上に落ち、ぽかんとだらしなく口は開いていた。

 目の前には少年ほどの体躯の者がいた。それが少年なのかどうか、そもそも人なのかどうかも千雨には理解できなかった。

 確かに腕がある、脚もある、顔もある。だがそのどれもが白銀色に煌めく毛に覆われていて、あり得ないはずの尻尾と耳が生えていた。

 ぎらりと光る牙は宛ら鋸のようで、爪は鉈のようだった。

 自分のものとは似ても似つかない爪の間には、どこかで目にした事のあるような赤毛がごっそりと握られている。

 

 その日は長谷川千雨にとって大きな岐路だった。

 その後の人生を変えてしまうほどに、大きな大きな岐路だった。

 春と冬が混じり合った満月の夜、長谷川千雨は世界の裏側を知った。

 

 蔓延る影がにたりと哂った気がした。

 




久しぶりなので少し短め
ちうちゃんの参戦だ―!
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