「キャァァッ! ネギ先生ィッ!」
その日は甲高い叫び声によって始まった。
声の主はショタコンで名高い委員長、雪広あやか。よろよろふら付きながら、だが弾丸の様な速度で目標に駆け寄りながら、彼女はその整った顔立ちを真っ青に染めていた。
彼女だけではない。教室に集まった麻帆良女子中等部2-Aの誰もが驚いた様子で、痛ましげな視線をガラリと開いた扉へと向けていた。
そこには少年が一人立っていた。赤毛に小さな体躯の愛らしい彼女たちの担任――ネギ・スプリングフィールドは、顔中に絆創膏を張り、頭には包帯を巻き、膨れ上がった皮膚を隠すことも出来ずにいた。何かがあったことは誰が見ても明らかな、そしてその何かが外的衝撃によって作り出されたことが、如実に解らせてしまう風体をネギはしていたのだ。
「何がっ! いえ、誰がこんな事をっ……」
鼻先が触れ合う距離までに顔を近づけたあやかは、触れようにも触れることが出来ず、微かにネギの頬との間に開けた空間に手を彷徨わせていた。純粋な心配に彩られたその視線の先、暗い瞳のネギはふっと耐えかねたように顔を背けた。あやかの瞳の色が変わった。
正のベクトルは負のベクトルへ。怒り滲ませ般若の形相を作り上げたあやかは、どこと経由することもなくネギの隣に立っていたツインテールの少女へと向けられた。
「あっ、あああ明日菜さんッ! これはいったいどういうことですのっ!」
逸らすことを許さない、射殺すような光だった。あやかの剃刀のような目付きにツインテールの少女――神楽坂明日菜は当然逸らすこともなく、彼女もそれを受け止めた――いつものようにはじき返すではなく、受け止めたのだ。
あやかだけではない。気づけばクラス中の視線が自分に集まっていることを明日菜は感じていた。後ろに居る寮の同室である近衛木乃香からも心配そうな雰囲気が伝わってくる。そして、彼女の隣に控える今日合わせて登校することにならざるを得なかった綾瀬夕映からも、同質の、そして全く異質の感情をより合せた空気が注がれていた。
明日菜はちらりと騒ぎの芯となっているネギの方へと視線を向けた。相変わらずと彼は昨晩以来、彼がこのような姿になった時と変わらないほの暗く落ち込んだ様子だ。
「昨晩コンビニに言った時に寝ぼけて溝に落ちたんだってさ」
ふぅと溜め息をひとつ落とし、明日菜は呆れた態度でそう言った。間に息を挟まず、一辺倒の棒のように言葉を始めて締めくくった。けたけたと軽く笑いながら、おどけた様子で、明日菜はネギの頭を小突く。
ぐわっしと腕があやかによって掴まれた。
「ネギ先生っ! 本当なんですの?」
「……はい」
「どうして……どうして貴女が付いていながらッ!」
ネギの声は本当に蚊の鳴くような声だった。ぎりりと締め付けるようにあやかは明日菜の腕を握りつけてくる。意志を外に晒す顔には失望が添えられていた。
あやかが鋭い視線を向けてくるには理由があった。それは彼女がネギを特別に愛でていたからでもなく、とある過去のトラウマにより年下の少年に執着を持つようになったからでもなく、一重にネギが彼女と木乃香の部屋で生活しているからであり、ネギにとって明日菜は――あやか自身は甚だ不満では在るのだが――クラス公認の世話係となっているからだ。
故に、明日菜はあやかに尋問のような体制を取られているのだ。
他のクラスメイトたちも続々とネギの傍に集まって来ていた。彼を心配して励ましている。
しかしあやかは明日菜を離そうとしなかった。微動だにしない自分の目線にあやかのそれは真っ向からぶつかって来ていた。抜き身の刃を交わし合うような時間は十秒にも満たない程度だったのかもしれないが、明日菜にはその数倍以上は長く感じた。あやかの眼は本気だったのだ。
「本当に偶々で、明日菜さんは何も悪くないのですよ」
均衡を破る切欠となったのはクールな一声だった。
「私が図書館島から寮に帰るとき、溝にはまっていたネギ先生を発見したのです。買い物途中についうっかり、そうネギ先生は言っていたのですよ」
ずぞぞとえりくさーと書かれた紙パックジュースを飲みながら、夕映はいつもの冷めた声に違う何かをほんのりと添えてそう告げた。それだけで自分の仕事は済んだ、とでも言いたげな彼女は、そのまま団子のように集まるクラスメイトの脇を抜けて自分の席へと歩いていった。
「本当なんですのね?」
「嘘ついたって仕方無いでしょ。しかもあんたなんかに」
明日菜は声に合わせて胸を張った。
「昨晩明日菜さんとネギ先生が帰らなかったのは?」
「綾瀬さんからネギのこと聞いて、そのまま保健室に行ったからよ」
本当だった。明日菜とネギと夕映の三人は、怪我をしたネギを開放するために昨晩保健室に泊まり込んだのだ。麻帆良にある学校の保健室は深夜でも開放している。幼年部から大学院まである麻帆良学園の部活動には様々な年齢の学生が所属出来る体制を取っているモノが多い。その為どうしても不意の怪我が起きやすくなっていたりする故にだ、と一説には言われていたりする。
何にせよ、保健室から直接教室に、という状況は珍しくなかったりする。木乃香が一緒に居るのは朝食を届けに来たから。ちなみにこのクラスの桜咲刹那などは愛用者だ。
「では本当に偶々溝に落ちただけなんですのね?」
「それ以外に何があるっての、このドジ馬鹿ネギが阿保なのよ」
嘘だった。張った胸がきりりと痛んだ。だがそんな様子をおくびにも出す訳にも行かなかった。
明日菜は自分が馬鹿だと自覚していた。しかし眼の前の友人を不用意に悲しませるほどに愚かではなかった。真実はこっそりと、自分と、ネギと、ネギを運んできてくれた夕映の胸にしまっておくべきなのだ。
言えるはずがない――ネギは魔法使いで、狼のような男に襲撃されて傷だらけになったなどとは、言えるはずがないのだ。
「ネギくん、なんかすごーいお腹が痛くなったから早退するねっ!」
授業開始のチャイムが鳴り、ようやく委員長が本来としての姿を取り戻し、生徒たちが着席し、ネギが出欠を取ろうかという頃、掲げるように手をあげて件の少女は鞄と一緒に教室の外へと飛び出していった。
その様子を横目で見ながら、隣の席の長谷川千雨は欠席かと何処か興味の外で認識しながら、夕映は不謹慎ながら顔がニヤけるのを抑えることが出来なかった。
扉が乱暴に閉められ、火色の髪の少女が教室から居なくなり、本日2-Aで空いている席は四つ目となった。他の二つはこのクラスのサボり常習犯の二人の物だ。再び教室がざわめきだす。しかし沈んだ声で出席を取り直すネギに段々と騒ぎは消え去っていった。
「綾瀬夕映さん」
「はいです」
正直なところ、出欠の返事も心ここにあらず、といった生返事だった。だがテンションをあげていつも声を出していないことが幸いしてか、クラスのほとんどがそれに気づいていないようだった。まぁ若干名、彼女のいつもとは違う様子に首を向けてくれた友人もいたようだったが、夕映はそれに気づいていなかった。
彼女の脳はただ一点の事柄に支配されていたのだ。
(魔法使い……魔法使いですか)
恋とも違う熱っぽい視線がネギへと注がれる。びくっと、ひくひくんと、友人が反応した事も夕映は気づかない。有り得ないはずの非現実に、有り得ることを知った幻想に、どこかで求めていた異世界に、夕映は魅せられていたのだ。
思い返せば可笑しなことはいくつもあった。幾ら他と比べれば無茶な出来事が横行している麻帆良学園とはいえ、数えで十歳の少年が担任教師になるなどとは追随を許さないほどの横暴なのだ。そしてその子供先生は天才で、いつも杖を背中に背負っていて、どこかスレた雰囲気を持つ元担任と昔からの知り合いで、仙人のような麻帆良学園理事長に特別視されている。
しかしその全てが――麻帆良の特殊性も含めて――魔法という一言で解決できる。
(まるでハルナの持っているライトノベルの世界なのです)
夕映は小躍りでもしたい気分だった。
彼女の反応は別段特別ではない。中学二年生、酷く多感な思春期。『厨二病』という言葉もあるように、自分は特別であると思いたい年頃なのだ。
そこに特別と為り得る要因が降ってきた――本の世界に魅せられた夕映で無くとも、跳び付きたいと願うのは自明の理であろう。
(図書館島、トラップの数々……となれば地下にはもしや魔法の本が? 世界樹も妖しいのです。発光には魔力などが関わっていても不思議ではないですね。それに空飛ぶ少女は魔法使いに間違いないのです)
水を得た魚のように、彼女の脳裏には数々の麻帆良の不思議が浮かんでは消えていった。
(のどか、貴女の好きになった人はやはり特別な人だったのですよ)
うんうんと一人で納得しながら――その一方で想われている友人は夕映の妙に熱っぽい視線にあたふたしていた――彼女は人生の岐路ともいえる昨晩の出来事に想いを馳せていた。
夕映が『ネギ・スプリングフィールドは魔法使い』だと知ったのは本当に偶然の出来事だった。
昨晩に千雨と別れ、図書館島に借りていた本を返しに行ってまた新しい本を借りて量に帰る途中、彼女はふと顔見知りの司書から聞いた一言が気になったのだ。外国から来たネギの知り合いかもしれない他校の少年――言うなれば第六感のようなところに引っ掛かったのだ。
故に彼女は寮までの帰り道を少し変えてみた。女子中等部校舎の辺りまで周って帰ろうと思い――そこに運命があった。
夕映が目にしたネギは満身創痍を体現する姿だった。口元は切れ、顔は青痣で腫らし、小奇麗なスーツは土埃にまみれ、足は小鹿のように震えながら立っていた。そしてそのふらつく足を支えていたのが、宙に浮く彼がいつも背負っていた杖だった。
ネギを目にした夕映は極めて冷静だった。着任して幾日、どうも何かを誤魔化すような癖のあるネギに対して何の手札も無しに出ていっても意味がないと考えたのだ。夕映はまずポケットに手を突っ込み、シャッターを押した。
二枚か三枚と空間を切り取り保存し、送信した後で彼女はネギへと歩みよって尋ねた――貴方は魔法使いなのですね、と。
大方の予想通りにすぐさま杖を隠してネギは誤魔化し始めた。杖は手品で怪我は転んだだけだと一生懸命に、だが実に穴だらけの理論で。
そこで誤魔化されてやっても良いものだが、獲物を見つけた獣のように夕映はネギを逃がさなかった。結局、明日菜へと電話をかけてポロリと裏を零させたところで彼は観念した。
ネギ・スプリングフィールドは魔法使いらしい――納得した。
麻帆良には修行をするためにやってきたらしい――納得した。
学園長や元担任も関係者らしい――納得した。
魔法は秘匿されるべき技術らしい――納得した。
赴任初日にネギは明日菜に魔法使いであることがバレたらしい――最も納得できた。
ネギは紙上でしかないと思っていた幻想の住人で、自分もその仲間入りが果たせるかもしれない――それだけで夕映は夢心地だった。
故に、夕映は失念していた。夕映が見たネギは傷だらけだった。つまりそれは彼の居る幻想の世界は絵本のように愛と希望と優しさに溢れかえった世界ではなく、血と硝煙と憎しみに溢れかえった世界でもあるという事を。明確な答えが目の前にあったにもかかわらず、正しく幻想に覆い隠されて彼女の視界を曇らせていたのだ。
ただ夕映は蕩けるほどに甘い蜜に猛進し、ただ夕映はどのようにしてネギから魔法を教えてもらうか――彼女の頭にはそれしかなかった。
◆
洋式便所の前で蹲り、嗚咽を繰り返すのはこれで何度目だろうか。昨日のコーヒーセット以降彼女の胃は何ひとつ食物を受け入れず、酸味と痛みだけの胃液がまた口から吐き出された。
今の気持ちを一言で言い表すならば――自責の念、という言葉がしっくりくるだろう。もしも時を超える力があるのならば、全力で昨晩の自分を殴り飛ばしたかった。
(意味が解らねぇ、訳が解らねぇ……なんでっ、なんで私がこんな目に……)
涙も枯れ果てたと思っていたのにまだ瞳が焼けるように熱く、想いが外へとこぼれ落ちる。千雨はただ数時間前の愚かな自分に後悔しか持っていなかった。
(余計な事考えるからこんな事になるんだっ! なんでだっ、私はただ草のように静かに暮したいだけだってのに、なんで……なんで私なんだよっ)
身体中が気だるかった。このまま眠って、枯れるように死んでしまいたかった。だが――
「ねぇちゃん、大丈夫かいな?」
心配そうに扉の向こうから掛けられる声がそれを許してくれず、自分はまだ生きているんだと自覚を強いてくる。
(テメェのせいだろうがっ!)
声を大にして叫びたかった。しかし昨晩、扉向こうの彼がなんだかんだと自分を助けてくれた事と思うと、それが彼女には出来なかった。言葉の暴力を思う存分に叩きつけたかった。だがそれが非生産的で馬鹿なことであると理解できるくらいに聡く、それが彼に対して悪いことだと理解できるくらいに義理人情のある千雨は、決して言葉として外に排出することが出来なかった。
結局ふらりと夢遊病者のような足取りで立ちあがり、鏡の前で末期患者のような自分の顔に悪態をつくことくらいしか、彼女の行動は許されなかった。
ドアノブに手をかけ、引っ込め、意を決してひねる。
「おぉ、大丈夫そやな。そいや昨日から何も食うてないやろ……食う?」
扉の先には黒髪の少年。無邪気な笑顔で抱えるように持った紙の器からフライドチキンを取り出して差し出す彼に、千雨は自分の頬がひきつる感覚をこれでもかというほどに強く感じた。
大空という名の山脈を太陽が登り始めた頃、麻帆良女子中等部の制服を着た桜子は街並みの中で浮かんでいた。同級生たちが学業に励む中、周囲から注がれる訝しがるような視線を一身に浴びて。だがそれを意に反した様子もなく、桜子はぎゅっとその細い指先で携帯電話を握りしめていた。
手のひらの中に自分が求める情報がないのは解っている。その歯痒さからか、彼女の指先には潰さんばかり一層と力がこもるのだ。
何故息をきらせた彼女が不釣り合いな時間帯に街並みをうろついているか――その答えは会いたい人が居たからだった。
数日前より自分の元気を吸い取ってしまった一人の少年。彼がきっと桜子の担任である子供先生を傷つけたのだ。桜子は彼がネギを傷つけた場面を見た訳ではないし、証拠のような仰々しい何かを持っていた訳でもない。だがそうなのだと感じさせる何かが今、彼女の身体を突き動かしていた。
原動力は所詮、勘に過ぎない。それでも桜子には十分だった。
目的の少年が何処に住んでいるかなどは知らないが、それでも走らずには居られなかったざわつく心が彼女を教室から飛び出させてどれだけの時間が経っただろう。チアリーディングで鍛えた肺は安定した呼気を送りだし、桜子の全身に力をくれる。皿のような眼で辺りを見渡しながら、桜子はまたかけ出した。
西洋建築を想わせる石造りの町並みが視界に現れては流れてゆく。太陽はどんどんと高く昇っていく。段々と胸が熱くなり、足が熱くなり、切れ切れの呼気が口から漏れ出していた。やがて歩みは遅く、遂には止まってしまった。
乾いた唇を噛む。ぽたり、大粒の汗が地面を染めた。
「小太郎くん、どこにいるのさ」
声となった名前は目的の少年のもの。ぐいと制服の袖で濡れた額をぬぐって言った。声は明確な意思を感じさせたが、その装甲は徐々に崩れ始めていた。走っても、走っても、小太郎が見つからないのだ。
小太郎と桜子はまだ会って数日程度の仲だった。故に彼の好みだとか、何処に住んでいるだとか、如何して麻帆良学園にいるのかだとか、何ひとつとして知らなかった。
ただ桜子は小太郎の特殊な事情を知っていた。それは犬上小太郎という少年が――真っ当な人間では無いという事。狼のような耳と尻尾を生やして白銀に煌めく毛を纏う彼は、空想上で『狼男』などと言われる存在なのだ。
幻想と現実が入り混じった世界に自分が生きていると自覚したのはほんの数日前の出来事だった。偶然に桜子は小太郎と出会い、偶然に彼が狼男だという事を知り、偶然に世界は幻想と重なっているという事を認識させられ、教わった。
「絡操さんならっ……」
そう考え、すぐに震える身体が思考に蓋をした。全身が泡立つように、つま先から頭のてっぺんまで衝撃が駆け抜けた。合わせてぼわり、街並みの中に金色の髪が浮かび上がる。続いて紅い眼、裂けた口、鋭い牙。小さな体躯の幼子は、クラスメイトでバケモノだった。
呼吸が乱れる。荒く、抑えようという意思に反して身勝手に、遮二無二に暴れ始める。
(止まれ、止まれっ……止まってって!)
迫りくる壁に襲われている気分だった。呼吸の間隔は感情とは裏腹、加速度的に狭くなる。疲労が後押ししたのか、気づけば膝が崩れて蹲っていた。
あの時、小太郎が人間ではないと知った時、桜子の中に抗おうという意志など垣間見る暇もなかった。完全に食いつぶされたのだ――狼男を手玉に取る巨凶によって。突き立てられた圧倒的な恐怖と絶望と諦めが訪れたあの時、逃走本能と手を取りあったのだ。
次の日、自分の気真面目さを呪いながらも入った教室に彼女がいなかったことで、思わず涙をこぼして友人を心配させたのは記憶に新しい。帰り道、小太郎に頭を下げられたことも。だからこそ、桜子は小太郎を憎むことも避けることもできなかった。教会の裏手、猫たちの楽園にいた茶々丸からの謝罪を拒むことも、桜子にはできなかった。
故に桜子は茶々丸から事情を聴き、小太郎を探していたというに――
「もう……いやっ」
逃げたくても逃げられない矛盾だらけの思考回路が彼女を絡めとっていた。
「お嬢ちゃん、どーかしたのか?」
愛らしく整った顔は台無しにして、持ち上げたのは蜘蛛の糸でも捜す願いからだった。
彼女の視界に映ったのは心配そうな表情を浮かべた三十程の男。咥えた煙草の煙が目にしみて、ダムが決壊するように溢れ出した。
「違うっ、俺が泣かせたんじゃねぇっての!」
取り繕う男の声を聞きながら、桜子はわんわんと人目も気にせず泣きじゃくった。
「……ごめんなさい」
真っ赤に腫らした瞳のまま、俯いて手に持った缶を握りしめる。変形もせずその場にたたずんだ缶からは、ほんのり柑橘系の甘い香りがした。
「ったく、泣きやんでくれたから良かったものを、あのままだったら俺はブタ箱行きだぜ?」
「うぅっ」
「お嬢ちゃんだって補導されてたな、間違いねぇ。それも俺が誤魔化したから何とかなった訳だ」
大げさに手首をさすり、桜子の正面に立った男はじとっとした目つきで見てきた。桜子は困ったような顔で視線を泳がし、ぽつりと呟いた。
「ごめんなさい」
「いや、別に謝ってほしい訳じゃねぇさ」
「……ごめん、なさい」
何度目かもう覚えていない謝罪を呆れたため息で男は受け止めた。ぎしりと座ったボロくさい椅子が軋む。とある教会の裏手、まばらに集まり思い思いにくつろぐ猫たちを視界の端に収めながら、桜子は恥ずかしさでいっぱいだった。
肌寒さと温かさが同居した風が二人の間を吹き抜ける。どれだけ口をつぐんで居ただろうか。いたたまれなくなり、桜子はおずおずと尋ねてみた。
「その……聞かないんですか?」
「何をだ?」
「それはにゃんで君は泣いてたんだー、とか?」
返答は呆れたような声だった。
「聞いてほしい訳?」
かちりとライターで煙草に火をつけながら、男は聞き返してきた。彼女のイメージするそれとは違い、ほんのりとした甘さとすっと抜けるハッカのような匂いが混じりあっていた。
心臓はまだ高鳴らされていた。空に昇った太陽が生み出す影から手が伸びてくるような感覚が、彼女の血流を追い立てる。ずりり、影のない日向に椅子を引きずってから、桜子は申し訳程度に小さく頷いた。
一度口から零れると、後から後からそれはやってきた。煙を四散させ、携帯灰皿に吸殻をため込み、桜子がすべて吐き出すまで男は一度と手口を挟んでこなかった。
話し疲れて枯れた喉にぬるくなったジュースが注がれる。結局、桜子は胸にあったものすべてを吐き出していた。それは自分が何を言っても大丈夫だという予感めいたものによるものだった。
「妄想は紙にでもぶちまければ良いんじゃねぇの」
思った通り、欠伸と一緒に男はそう告げた。別に男からの共感が欲しかったわけではない。付き合わされた男からすれば酷くはた迷惑な話だが――要するに桜子はぶちまけて自分で勝手にスッキリしたかっただけなのだ。
最後の一本を取り出し、空になった煙草の箱――外国の言語で注意書きなどがされていた――を握りつぶして、男はジャケットのポケットの中に押し込んだ。
「…………」
落ち着いた胸もとを撫で下ろして、桜子は男の方へと視線を投げた。いつの間に火をつけたのか、また煙くゆらす男はめんどくさそうな顔になっていた。
「なに?」
「えっと、その、お兄さんはどー思うかなって?」
男の外見はおじさんが侵食し始めていた。人が見ればまだお兄さんで通用するかもしれないが、女子中学生のフィルターを通せば十中八九おじさんのものだった。それでも桜子が男をお兄さん、と呼んだ理由は考えるまでもないだろう。
「実はスーパーな力を持ってた主人公が修行して覚醒してラスボスを倒すかな」
作戦は半分成功で半分失敗した、という感じだった。
「にゃにゃっ! そうじゃにゃくてっ!」
「だが主人公の両親が本当は凄い英雄で、大して頑張ってないような努力を経て周囲からは万歳されながらごり押しするのはクソだな」
「だーかーらーっ!」
何か思うところがあるのか、妙に神妙な顔つきで男は頷いた。そして口から煙をもらしながら、男は桜子の方へと歩いてきた。そういえば初対面で名前も知らない男の人と二人っきりなんだ――と、今更ながら緊張して自然と背筋が伸びるのを感じた。猫好きからは有名だが、人通りの少ないこの教会の裏手。口に出すのも恥ずかしいことをされるとは思っていないが、ちょっとビビっているのだ。
「……イヤ、主人公は悪くねぇのか」
ぽつと言葉を落とし、男は言葉を続けた。
「ま、主人公がラスボスを倒すのは何にせ、ヤツらが進んでるからだ。前向いてるか、後ろ向いてんのか、俯いてんのか、そりゃ知らねぇが、踏み出さなきゃ進めねぇわな」
「じゃあ私は……」
「イヤイヤ、妄想は自分でするもんだからな、俺に意見を求めんなよ」
大げさに手を振りながら呟く男の声に、靄付いていた心の中で先ほどの自分の行動が現れた。
何が起きているのか――自分より年下の少年と、やっと仲良くなれたクラスメイトの身には、何があるのか知りたい。頭が良い訳でもなく、人より元気で行動的なのだけが取り柄の自分は、だから走っていた。結局と、桜子の感情はそこに帰結するのだ。
「さて、お嬢ちゃんの用事も終わった訳だし、俺の用事も聞いてもらおうか」
「用事?」
その言葉に眉を潜ませ思考に耽っていた桜子の表情が崩れる。男は頑張れば桜子の手が届くであろう距離に立っていた。すすっと顔を引いた。合わせるようにして、男は三歩後ろへと下がった。
「……喫茶ひなたってとこに行きたいんだが、場所を知らねぇか?」
男の顔は呆れかえっていて、と同時に何処か寂しさを桜子に感じさせた。
ネギは一人、俯き歩いていた。チャイムがおぼろげながらに耳に飛び込んでくる。まだ授業のある時間帯、彼は担当するひとコマを他の教員に代わってもらい、暮らしている寮へと帰る途中だった。
君がそんな様子では生徒の勉強の邪魔になる――厳しい顔つきで学年主任である新田にそう勧告されたためだ。
一人、歩くネギは所在なさ気だった。たったひとり国本を離れて日本にやってきてまだ僅か。行く宛もなく、言いようのない寂しさが彼を襲っていた。
そんな彼の耳に、次に飛び込んできた音は歓声だった。吸い寄せられるようにネギの足は音の方へと進んでいった。一人、という事実を自覚するのが嫌だったのだ。
音源には人の輪があった。その中の一人の女性が彼の姿に気づくと、手招きをしてきた。あれよあれよという間にネギは人の輪の一番前にいた。中心にいたのは、仮面を被った道化師だった。
ぽんと自然な動作でボール宙へと放り投げる。ひとつ、ふたつ、その数はどんどんと増え、十のボールが道化師の手の中、まるで意志でも持っているかのようにジャグリングされていた。
踊ってるみたいだ――素直にネギはそう思った。
ぱっとすべてのボールを受け止めて道化師はお辞儀する。歓声が一層と強くなった。その声に煽るような仕草で道化師は胸を張る。一回り、歓声が大きくなった。
満足したのか道化師はボールを地面に置いた鞄にしまうと、ぽかんと口を開いていたネギの方へと歩みよってきた。目の前で祈るように手を組む。隙間のなかった両手の間はだんだんと広くなり、開いた手の平には先ほど鞄にしまっていたボールが現れていた。
「僕に、ですか?」
尋ねてみると張り付いた笑顔の仮面が縦に振られる。受け取るのを確認した道化師は、次々と観客にどこから取り出したのかボールを渡していく。そしてジャグリングしていた立ち位置に戻ると、両手で手招きをしてきた。
輪になった観客からボールが投げられる。道化師はいとも簡単そうにジャグリングをし始めた。次々とボールが投げられるが、実に見事に、時にあたふたと、受け止め宙で踊らせていく。
舞っているボールは九つになっていた。そして今だに自分の手の中にはボールがひとつ。道化師に見つめられながら、観客から視線を集めながら、ネギはボールを投げた。
輪になっていた観客がまばらに散っていた頃、ネギはいつものような少年らしい笑顔を浮かべていた。あの後顔面にボールをぶつけて倒れた道化師は、パントマイムや椅子を使った軽業、トランペット演奏などで観客を楽しませた。ネギもその中の一人だった。
(日本にもピエロっているんだなぁ)
先ほどとは正反対のきらきらした目で、ネギは後片付けをする道化師を見つめていた。
道化師の演目の中でネギが一番が気に入ったのはパントマイムによる英雄譚だった。
それはどこにでもあるようなクラッシックでスタンダードな物語。一人の少年が悪い魔法使いを倒して姫を救うという筋書き。道化師は木でできた剣と楯を使って、見事に表現してみせたのだ。
(父さんも、悪い人から襲われるってことがあったのかな)
ふと絆創膏の上から傷に触れてみた。そう考えるとなんだかこの傷が誇らしいものにネギは感じた。
(父さんは世界で一番強くてカッコいい魔法使いだけど、大変なこともあったのかな? ……だけど――)
乗り越えてきた。英雄と称賛される父親は、きっとそんな存在なのだ。
それを思うとなんだか自分がちっぽけに見えた。落ち込んで、迷惑をかけた、情けない自分。憧れの父親とは遥かに違うネギ・スプリングフィールド。
故に、ネギはギュッと口元を引き締めた。しなびた赤毛に生気が走っていくようだった。
「ネギぃっ!」
と、名前を呼ぶ声にそのまま様子でネギは振り返った。駆け寄ってきていたのはツインテールの少女。ネギが同室でお世話になっている明日菜だった。
近くまで来た彼女の顔は不思議そうな色をはっきりと示していた。
「アスナさん、なんでここに?」
「もう昼休みよ。それよりアンタ、もう大丈夫なの?」
明日菜の疑問にきょとんとした表情を作る。そんなネギの顔に不思議の色をさらに強くし、眉を歪め、最後に疲れたため息を吐き出してみせた。
むにゅんと両のほっぺたが引っ張られる。女子中学生らしい細い腕にどんな力が隠されているのか、引きちぎられそうな痛みにネギは襲われた。
「なにするんですかっ!」
「ん? お仕置き」
涙目になるも明日菜に止めるつもりはないようで、ネギはバタバタと身体を震わせることしかできなかった。
彼女が満足そうに手を離したとき、ネギのほっぺは焼餅のようにぷっくら膨らんでいた。真っ赤な跡が残っているのはお約束だ。
「ネギ」
強い口調だった。呼びかけられたネギは頬を擦りながら彼女を見返した。緑と青のオッドアイは真っ直ぐと意思を注いて来ていた。
「何があったのか知んないけど、何かあったなら私に言いなさい。私はバカだけど、ガキんちょ見捨てるほどバカじゃないのよ」
胸が熱くなった。にししと笑う顔が包み込んでくれているようだった。
ぱちぱちと拍手が聞こえる。どうやら道化師が二人の様子を見ていたらしい。笑顔の仮面を張り付けたまま、ネギの前へと歩み寄ってきた彼は右手を差し出してきた。
「そのっ……ありがとうございますっ!」
道化師の右手を握りしめて、思わず感謝が飛び出していた。
ネギは襲われた理由が何ひとつ思いつかなかった。だが道化師の滑稽な姿を見ているうちに、自分は――英雄である父親の血をひく自分が、泣き寝入りする訳にはいかないと考えたのだ。彼のお陰でネギは元気を貰えたのだ。
「へっ? 私も握手?」
次いで明日菜の方へと差し出してきた手を、彼女はおずおずと握った。するとどうだろうか。道化師の右手が煙のように消え去ってしまった。
のたうちまわる道化師に蒼白な顔となった明日菜、あわわと思考が乱れ出したネギ――というところで道化師はばんと身体を大の字に広げた。右手はしっかりと付いており、膨らんだズボンの裾もとから木でできたような手の模型がずり落ちてきた。
それを見るとあわてた様子で道化師は逃げて行った。
「なに? 手品?」
状況の飲み込めない明日菜を尻目に、ネギの顔にはまた笑顔が浮かんだ。
少年は進むことを決めたのだ。
頼れる人がいるという事実がネギから寂しさを奪い去った。
何が起きたのかは本心から理解できていない。
だがそれを乗り越えた時の一歩は憧れた父に近づくための一歩だと信じて。