太陽は空の頂上に到達していた。
「ごちそうさまにござる」
にへらっと自前の糸目をさらに細くして、着用している麻帆良女子中等部の制服には不釣り合いな長身少女はぺこりと頭を下げた。傍らに立つ――これまたコスプレに勘違いされそうに大人びている――褐色肌の少女はニヒルな笑みを浮かべ、ひらひらと手を振っている。
言葉を受けた店の主人らしい女は客として彼女たちが訪れて来たにもかかわらず、少し不機嫌そうな表情だった。
「学生のお前らがこんな時間にこんなとこまで昼飯を食べに来るな」
ノスタルジックな店内の中、壁に掲げられた時計が女主人の不満を後押ししていた。示す時刻は十二時と半ばを過ぎた頃。彼女らが学ぶ校舎まで普通に歩けば三十分近く掛かる場所に店は位置していたのだ。昼過ぎの授業が始まるまで残り十分程。麻帆良を走る路面電車を利用したとしても、遅刻は逃れられないだろう。
ただ、彼女たちは普通ではなかった。
「良いじゃないか、真面目に授業には出る訳だし、校則違反をしている訳でもない」
「…………」
褐色肌の少女――龍宮真名の意見に女主人は呆れ顔だった。その証拠にちりりと火のついた煙草の灰が、重力に耐え切れずぽとりと床に落ちていた。
「私たちはお手頃な昼食を食べて気合を入れて授業に臨める、はるかさんは昼食分儲かる。双方にとって良いことしかないと思うんだがね」
「で、ござるな。それに毎日来てるわけではないでござるし」
「昼来なかったら夕方に来るだろうが」
「うむ、拙者たちはこの店の売り上げにひじょーにこーけんしてるでござるな」
「まったく、楓の言うとおりだね」
女主人は煙草のない右手で額をおさえていた。次にしっしと楓と呼ばれた少女と真名を追い払うような仕草をした。
「長瀬と真名は仲が良いのか悪いのか解らんな。売り言葉に買い言葉かと思えば――」
と、そこでエプロン姿の女主人――浦島はるかは言葉を止めて、ちらりと律義に時を刻む壁掛け時計に視線をやった。時計はどこで買ったのか、幾何学的な形をしていた。なんでも辺境の国の民族工芸品らしい。
ともかく、つられて楓もそちらに目線を移す。もう予鈴が鳴り響こうかという時間だった。
「まぁいい。中学生は中学生らしい行動を取るためにとっとと行け」
はるかの声に促されるようにして、楓は真名を連れだって扉のほうへと向かっていく。そこでからん、扉に備え付けのベルが古ぼけた音を立てた。
楓はその音に違和感を覚えた。麻帆良に来る前からの知り合いである――といっても祖父母が世話になっているらしい年に一度ある関西呪術協会の新年会で顔を合わせる程度の関係だったのだが――はるかの店を訪れる客は、自分たちのような常連ばかりだった。食事の最中に店内を見渡した限り、この時間帯に来る客は余さず店内にいるか、もう食事を終えて出た後だった。
ご新規さんとは珍しいでござる――と、楓は口に出せば非常に失礼なことを考えていた。まあ道楽経営らしいはるかが聞いたところで気にも留めないであろうが。
そんなことよりもずっと、気に留め考えなければいけないことが、楓の目の前で起きていたのだ。
「いやーまいったまいった、迷っちまったわ!」
扉をくぐり、店内に入ってきたのは一人の男だった。わざとらしいほどに大げさな声を上げる姿は、静観とした店の雰囲気からずれていた。ジャケットを羽織る三十路ばかりの男――楓が兄と慕う景山辰也の顔を見たのは、実に一年ぶりだった。
辰也がとりあえず目のついた席に――といってもその席を見つけるまでに色々あったため、落ち着いて腰を下ろすにはかなりの時間を要していた。
理由は幾つかあった。まずは久方ぶりに再会した楓から怒涛の質問攻めを受けたからで、次にからかうような視線を伴う真名の言動に振り回されたからで、最後にようやく彼女たちを授業に向かわせたところで針の莚に立たされるような錯覚を受けたからだ。
カウンター越しにいるはるかとの間に、あからさまな壁を作られたように感じた。落ち着けるはずの椅子も、剣山が敷き詰められているような気分だった。
「よぉ、久しぶりだ――」
「ご注文は?」
と、どうやら取りつく島もないようで、形式的なはるかの言葉は冷たかった。
「昔馴染みが訪ねて来たってのに、その態度はないんじゃねぇの」
「私の昔馴染みは日本中飛び回りながら剣を振ってるよ。それより客なら注文しろ」
ほんのり小さくなって、辰也は店内を見渡した。喫茶店という言葉を体現した店内には、物珍しい民芸品が数多く鎮座していた。そのどれもが妙に古臭く、石で出来たようなものまであった。
「じゃあブレンドコーヒーで」
口を開くと同時に湯気を立てるカップが差し出された。口に運んだその香りは、掛け値なしに辰也好みだった。
ちびちびと、それを飲んでいく。そんな辰也に眼を合わそうともせず、カウンターの中に置かれた椅子に腰かけてはるかは英字新聞を広げていた。
「また来るよ」
そう言って店を出た老紳士を最後に、店内には辰也とはるかの二人になっていた。コーヒーのカップはもう空だった。
「で、何しに来た?」
煙草に火をつけながら、はるかはそう切り出した。新聞はまだ開かれている。辰也の位置からでは彼女の顔は見えなかった。
「用事がなけりゃ、来ちゃいけなかったのか」
「さあ? 胸に手を当ててみれば良いだろう」
女に口先で相手をするのが馬鹿なのだ、と教訓めいたことが辰也の頭に浮かんだ。この時期ならば京都にいるであろう女の顔も思い浮かべつつ、深く嘆息する。
「へいへい、わかりましたよっと。俺はクールに用件を告げるさ」
半ば諦めた様子で――元よりアベックのような会話を期待していた訳でもないが、つと表情を真剣にした。新聞を閉じてくれたおかげで、やっとはるかの顔がはっきりと見えた。
以前目にした時と比べて、彼女はすっかりと大人になっていた。それもその筈だ、辰也がはるかと顔を見合わせて話をするのは実に十年ぶりくらいになるのだから。
「お前の甥っ子はしっかりと京都で頑張ってるさ。もう一流の腕前だってよ」
「……もしかしてそれを言いに来たのか?」
「まぁ、仕事がてらだが、そうだな」
「鶴子の差し金か。相変わらずいらんところに気を使うヤツだ」
かちこちと時を示す秒針の音が耳に付いた。そもそも『忍び』という時代錯誤甚だしい業種についている辰也はその肉体を限界まで鍛えこんでいるのだが、その為だけではないだろう。
ぷぅと白煙がはるかの口から吹き出す。そんな彼女に辰也は手を差し出した。
「一本くれ。さっき手持ちが無くなっちまってさ」
返答はなかった。ただ一本、煙草とマッチを投げて寄越されただけだった。手に取るそれは、いつも以上に軽く感じた。
「用件はそれだけか」
「まぁ、そうだわな」
言葉が続かなかった。神妙で、重苦しい空気だった。少なくとも昼食時を逃したらしい客の一人が、店内に入るや否や踵を返すほどには。
いつものように腹から生み出した気によって全身を覆いながら――ではなく、生身の肺で感じた煙は苦かった。
「楓と真名はどんな様子だ? てか仲良かったんだな」
「それも鶴子だ。お前がいつも出ていない事になっている向こうの新年会でだよ」
またまた幼い頃から見知った顔が浮かんだ。どうやら順調に彼女はお節介おばさんへの道を歩いているらしい。妹とその入り婿に本家を継がせてから、鶴子は自由気ままなようだ。
「それで、ここに店を出したのがバレてな。それからは入り浸るようになった」
「ま、仲が良いのは善きかな、ってとこか」
けたけた手を叩きながら聖人君子じみた表情を作ってみるが、反応はやはり絶壁だった。
次第に辰也の声も小さくなっていく。正味胸中を吐露するならば、沈黙が痛かった。そして願うことならばこんな状況を作り出した京都の幼馴染に毒のひとつでも吐きたかった。
「……誰のせいだ」
が、そんな考えはすぐさま塵芥と消えた。視線を合わせようとしない横顔も、声のトーンも変わらない。だからこそそれだけが真実だと、幾千幾万の並びたてられた文節よりも如実に、はるかの意思が伝わってきた。
「――とにかく俺の用事はそれだけ。楓には子供の手助けするのも成長に繋がるって言っといてくれ。真名には……まぁアイツは大丈夫か」
口に咥えた煙草からは煙が入ってこなかった。もうすべて灰となり、落ちてしまっていたのだから当然だろう。吸殻を懐の携帯灰皿に入れて、辰也は財布を取り出した。
「長瀬にも、真名にも、自分で言えば良いだろう」
「常連なんだろ? 俺はまた仕事だし、気にせず仲良くしとけ」
カウンターに万札――小さいものがなかったのだ――を置いて、辰也はもう一度はるかの方を見つめた。
やはり彼女は辰也の方を見ていなかったようで、新しい煙草にまた火をつけ煙をくゆらせていた。
口元を隠すようにして肺に紫煙を運ぶその左手で、光るものが存在を主張していた。
「結婚、したんだな――おめでとう」
「お前のことだから知っていたんだろ。いつ結婚したのかも、誰と結婚したのかも」
はるかの声は乾いていた。別にそれは結婚相手と上手くいっていないようでもなかった。カウンター奥の棚には旦那らしい男と、金髪の少女と、微笑みながら写った写真が飾られているし、はるかのとはサイズの違うエプロンが壁に掛けられていたのだから。
「知らねぇよ。そんなこと、何ひとつだってさ」
乾いていたのは自分かもしれない――辰也はふと、感じていた。
◆
現状を一言で説明するには、かの有名な台詞が役に立つのだろう。そうネタに走れるくらいには千雨は冷静だった。否、冷静という表現は的を得ていない。考えることを放棄した、という方が正しいだろう。
「つまり俺にどないしろっちゅうねん」
目の前に自分を誘拐した白銀の――今は黒髪だが狼男がいる。
「あれっぽっちの血と髪では時間がかかると言ったのだ。もうあのぼーやごと私に捧げろ駄犬」
目の前にクラスメイト――どうやら吸血鬼らしい金髪幼女がいる。
「椎名さん、これは真ん中に置いてください」
台所で包丁を振るうメイド――エプロン姿のロボ娘がいる。
「はーい。あ、千雨ちゃんも座りなよ」
ここ数日間に渡り自分の頭を悩ませていた――元凶の昔馴染みがいる。
「……おぅ」
僅かな沈黙は千雨なりの抵抗だった。無為になるとは解っているが、それでも甘んじて現状を受け入れたくなかった千雨の牙だった。
結局意味を為さず、座らされ、一日ぶりの食事を胃に押し込むことにした。腹が減っては戦は出来ぬと古人が言ったように、湯気を立て胃袋を撫でる素敵な香りから無理に逃れる必要もないと思ったのだ。
そう言えばロボ娘が作ったんだよな――と何処かで思いながら口に肉と野菜の炒め物をほおりこんだ。それは母親やどこぞのレストランのシェフが作った料理よりも数段と美味しく、『一家に一台メイドロボ』というテロップが頭の中に浮かんでいた。
一通り平らげ、タイミングよく出てきたコーヒーとデザートまでご馳走になり、膨らんだ腹を撫でながら千雨は至福を感じていた。そこに尖った声が投げつけられた。
「小市民だな」
「うるせぇ、自覚してるんだよこっちは」
鼻で笑う金髪幼女、エヴァの仕草に頬が熱くなる。女の自分が見てもほぅと熱いため息が出そうなくらいに、彼女の所作のひとつひとつが実に優美だった。それは宛ら銀幕の世界の住人のようで、思わず千雨は自身の行動を省みてしまうのだ。
大きく息を吸って吐く。深呼吸で気分を落ち着けると、千雨は改めて周囲を見渡す。まず彼女の目に留まったのは黒髪の少年だった。
「それよりも貴様、私はまだ貴様から礼をもらっていないんだがな」
その言葉に彼女の首が傾げられる。脳内会議に出席している千雨の分身も、全員一致で理解不能の札を上げた。
「解らないという顔だな。ならば教えてやろう――貴様はそこの駄犬に助けられた。故に礼をしろ、跪いて足を舐めろ」
エヴァの顔は悪戯っぽくからかうようで、だが有無を言わせぬ獅子のような威圧感を醸し出していた。
「なんで私がそんなことしなきゃらなねぇんだよ! 足を舐めろ? 助けられた? 意味がわかんねぇ!」
思わず声を荒げ、しまったとすぐさま思い直して口を塞いだ。与太話か真実は解らないが、この家――麻帆良の森の中にあるログハウスの支配者は間違いなく目の前の彼女なのだ。それは食事中甲斐甲斐しく世話をしていたメイド――茶々丸からも、彼女の振る舞い毎にビクりと肩を震わせていた昔馴染みの桜子からも、そしてただ一人の男である小太郎からも、それは見てとれていた。
特に小太郎は警戒するように、時折抜き身の刃のような視線をエヴァに送っていたにもかかわらず、彼女は泰然自若とでもいった風に君臨していた。
先の発言は失言に違いないのだ。
「怯えるなよ人間」
にたりと見せつけるように口元が裂ける。紅い舌と、白い牙が、千雨の視線を奪い取った。
「言いたいことがあるなら言ってみろ。言葉使いも、態度も、気にせんさ」
千雨は筋肉が硬直する、という感覚を初めて味わっていた。
原因は考えるまでもない――考えたくもない、目の前の幼子の皮を被ったモノから。言葉を続ける以外の選択肢は幻想の中にも抱けなかった。
「じゃあ聞くが助けられたってどういうことだよ。私はそこのガキに誘拐されたんだ。椎名みたいに訪ねてきた訳じゃなく、連れ去られた……どこに間違いがあるってんだ」
「言葉そのままの意味さ。あのままそこの駄犬の姿を見たお前は抱えられてここまでやってきたんだろう?」
「誘拐じゃねぇか」
「そうだな、誘拐だ。だがあのまま貴様が居れば群がる魔法使いによって連れ去られ、尋問され、記憶を奪われていた」
魔法使い――という非現実にまた千雨はふらつきそうになるが、彼女の意識が食いついたのはそこではない。
目を潜め、重要な部位へとメスを入れた。
「記憶を奪われるって、どういうことだ」
「そのままの意味さ。貴様は昨日の出来事の根こそぎ消されていたってことだよ」
記憶を消す。そんなことが本当にできるかどうかは疑問だが、吸血鬼や狼男や魔法使いが居る世界なのだ。都合の良い魔法があっても不思議ではない。だったら――
「消された方が良かった」
ぽつり、心中が音となり室内に木霊した。
瞬間、当たりの空気を締め付けていた威圧感はまるで元より無かったかのように消えていた。はっと顔をあげてエヴァを見る。その瞳に宿る光からは、完全に千雨が存在しなくなっていた。
「底まで小市民、か」
それだけ言い残すと彼女は踵を返して階段に足をかけ、
「足を舐めろと言ったのはそこの駄犬が私の下僕だからだ。まぁ貴様に舐められては私の足が汚れるな」
そのまま二階へと消えていった。
(意味わかんねぇよ)
心の中で毒づきながら、裏腹に言いようのない情けなさを千雨は感じていた。
「スマン、俺のせいやな」
二階に上がった主人の世話をしなければ。思考回路にそんな命令が下るが、千雨に向けて頭を下げた小太郎の姿を確認し、今の状況を伝える方が優先すべきか、と行動順位を変更する。珍しく外部の人間に対して興味を持ったエヴァのために、茶々丸はこの場に留まることを決定した。
「いや、事情も知らねぇのに私も言いすぎた」
小太郎の謝罪はあっさりと受け入れられた。茶々丸の知る千雨は現実主義だが情に熱い人間でもある。二年間クラスメイトとして過ごしてきて、そんな人物評価を下していた。少なくとも訳の解らぬ子供のように、相手の言い分も聞かずに怒鳴り散らすタイプではないのだ。
「その代り教えろ。お前が追われてたってことは何をしたんだ?」
「そうだっ! 忘れるところだったよ!」
と、そこで千雨を遮るようにして桜子が声を上げた。エヴァが居なくなったためか、滑らかな動作で小太郎の方に詰め寄ると、指を立てて問い詰めた。ぷんと膨らませた頬は私怒ってるんです、とでも言いたげだ。
「ネギくん、傷だらけだったよ! あれって小太郎くんがやったんでしょ!」
「はぁっ! ……ってことは私が見たあの赤毛はあのガキので、血と髪とかマクダゥエルが言ってたのはそのことか? と考えれば吸血鬼が学生なんかやってんのは――」
ぶつぶつ呟きだす千雨を尻目に、ぷぅと頬を膨らませてみる。鏡の方を茶々丸は確認した。実に、似合っておらず、滑稽だった。
「それがどうかしたんか?」
そして跳び出した小太郎の言葉に、世間一般的に滑稽とされる表情を桜子と千雨は顔に張り付けた。ぽかんと口を開け、ぱちぱち瞼を数度閉じたり開いたりし、開いた口はさらに大きくあんぐりした。
だが小太郎にそれを気に留める様子もない。ただ純粋に、それが当然なのだと、有無を言わせぬ迫力のようなモノを持っていた。
「正面から殴り合い申し込んだ。んでアイツが負けた。せやったら悪いのはアイツやろ?」
「でもでも、にゃんでそんなことまでやらなきゃいけないのさ」
解らない、と桜子はかぶりを振る。彼女に言わせれば数日前に魔法の存在を知り、小太郎が人ではないといことを知り、そして彼が自分の主人により完膚なきまでに叩き伏せられたばかりなのだ。
暴力とは無縁の世界で生きて来た桜子にとってその刺激は異常なまでだったようで、いつも胸の歯車を軋ませる爛漫な笑顔に影を落としたのは、茶々丸にとって――ショックな、そんな感情を生み出す出来事だったのは思い出すまでもなく、記憶領域に刻まれている。
「アイツが弱くて俺が弱いからや」
その声が小太郎の全てだった。
『弱肉強食』。今、張り付けた子供のような笑顔で、アンティークの棚の上からこちらを虚ろな目でこちらを見ている――欠片と身体を動かさないのでそれを茶々丸に知る術はないが――チャチャゼロが縦横無尽に駆け巡っていた時代、自分の主人もまたその論理を掲げて生きていたらしい。
茶々丸は二年前に製造されたため言伝にしかその姿を知らないのだが、古臭いその思想を芯として通し、小太郎は生きているようなのだ。故に、エヴァは彼を気に入り世話を茶々丸に命じたのだ。
本来ならば襲撃者として麻帆良の上層部に知らせなければならない彼を、匿うようにと、力になってやるようにと。
「でもっ――」
「止めろ椎名。こいつらは生きてる世界が違うんだよ」
桜子を制する千雨に、茶々丸は小さな違和感を感じた。彼女らの行動にではなく、何もせず傍観者となっている自分にだ。無論、そうなるとして、現状を報告すると決めたのは他ならない彼女なのだが――口も挟めない茶々丸は茶々丸という存在が歯痒かった。
普通なら現れるはずもなく、最近現れ始めたバグを、茶々丸はこっそりと脳内フォルダに隠した。
「ほんならねぇちゃんら、俺は今日帰るわ」
唸る桜子の姿を一目、たははっと笑って小太郎はそう告げた。
桜子はまだまだ納得できてない、という顔だった。なんでも授業までサボって小太郎を探していたようなのだ。
しかし桜子のその様子を無視して小太郎は続けた。
「まぁ真っ昼間はここの魔法使いにバレるかもしれへんから夜中にやけど」
茶々丸を友人だと言ってくれる桜子に対してどうすれば良いか、やはり茶々丸には解らなかった。だが――肩に手を置き言葉をかける千雨を視界に収めると、今まで感じたどんな違和感よりもドロついた、そんな表現の似合う何かが胸の奥の無機質に張り付いた。
◆
集中して耳を傾ける。
「ついてくるんか?」
「うん……せめてお見送りくらいしにゃいと」
「私は椎名の付添いだ。ま、ロボ娘が居ればもう誘拐はされねぇだろ」
「マスターから力になるように、といわれておりますので」
少女たちの声に交じって聞こえるのは覚えのある少年の声。
腹から湧き上がる気を纏い、集中して耳を傾ける。
「ほぉ……情報集めに来てみれば日本産の狼男か。これは高く売れる」
「目標変更ですねっ」
耳にしたのは聞いたこともない男と女の声。
時刻は子の刻。太陽はすっかりと眠りに就いた静寂の世界。闇に溶ける影が息をした。
(流石は麻帆良、バーゲンセールだな)
月は雲間に隠れている。街灯の明かりだけが申し訳程度に照らす麻帆良のメインストリート。学園祭の時期になれば巨大な山車が練り歩く石畳の上、存在しないように影は存在した。
影は埋め尽くす黒に同調するような衣服を纏っていた。頭の先からつま先まで闇に染まった――皮膚が露出しているのは口と両目くらいのもので、そこもまた漆のような染料で黒に塗られていた――影は、世界の一部として石ころのようにただ在った。
どぷんと水に入るかの如く影は闇に沈んだ。砂粒のひとつも立てず、影は石畳を這うように伸びる。目視した見知らぬ男たちは、影が知っている男たちだった。
(情報屋も兼業してんのかね? あーやだやだ)
彼らは近年戦果の目覚ましい二人組の傭兵だった。年若い女と無口そうな壮年の男。紙の上でしか影は彼らを知らなかったが――
「他の女はどうするんです?」
「殺して終いだ。どうせ数時間後には他の国さ」
かなりの力量を持つ者たちらしい。小太郎など片手間に掻っ攫える実力を持ちながら、周囲を鋭敏なレーダーのように警戒しているところからも窺い知れる。ぎりぎりと、気づかれないと踏んだ距離からもう数メートル離れた地点で、影は浅く息を吐いた。
(鶴子なら正面からでも余裕だろうが……才能ってのはホント悲しいわ)
『最強』の一角にふと思いを馳せて、影は思考の中からそれを取り除いた。
影には二人組を打倒したい理由があった。ならばやるという選択肢しか、影の中にはなかったのだ。
ここ数年に渡って麻帆良を訪れる機会が影には増えていたが、まだまだ信頼関係などという架け橋は両者の間に存在していなかった。しかしこれから麻帆良を訪れる機会がもっと増えると影は確信していた。故に、影は手土産が欲しかったのだ。
二人組はそれぞれの獲物を空気に潜らせていた。女の手には蛮刀が、壮年の男は十文字槍を、それぞれ握っていた。風に乗り、こびりついた血糊が鼻腔に侵入してくるような気分だった。
(正面からガチ勝負だったらヤバいだろうが――強い方が勝つわけじゃねぇって事で)
影は手袋に覆われた指先で、これまた布に覆われた喉を撫でる。黒に染められた唇が開いた先には、落とし穴の底の底よりも真黒な口孔があった。
深淵の闇のような喉の奥から音が聞こえる。空気を震わすこの音は――虫の羽が空気を震わせるものだ。
食道を通り、舌先に触れて、口から飛び出した音の正体は差し出した指に止まった。胡麻擦りする大きな複眼の持ち主は一匹の蝿。益虫としても働くが世間一般に駆除される害虫だった。
彼らはどんどんと影の口から外に現れ、あっという間に百を超える数が影の全身に止まり、一斉に前肢をすり合わせていた。
それは異様な光景だった。まるで死体の――影は腐った肉の塊のようだった。蝿に覆われ衣服か何かのように纏うその姿は、耐性の無い者が見れば嘔吐してしまうほどで、影が人だとすれば目撃者に歪んでいることを確信させる、そんな光景だった。
だが影自身はどこ吹く風で、懐から取り出した錆び切ったナイフのようなものを手に、かぱりと口を開いた。それを合図に影の身体を止まり木にしていた蝿たちが、残さずに口内へと飛び込んで行き――影は闇とひとつになった。
二人組の傭兵の内、女はまだまだ若かった。齢は二十になったばかりで、傭兵という物騒な職業に就いているがオシャレもしたい、美味しい物も食べたい、彼氏も欲しい、子供だって作ってみたい。将来は蛮刀片手に赤ん坊を背負って戦場を渡り歩き、血飛沫の中で一緒に笑いたいと夢も持つ、まだ年若い女だった。
そんな女が男の傍を離れたのは散開して日本産の狼男に向けて襲撃をかけようか、という折だった。二人の間を羽音立てて駆け抜けた虫を感じて、女は虫の消えていった方から回り込むと言い出したのだ。あわよくばぷちっと、潰してから向かいたかったのだ。
特に反対される訳でもなく、女は男と別れて歩き出した。足音を立てぬように細心の注意を払いながら、奇麗事を並べる奇麗な魔法使いたちに見つからぬように。そして今から刃の通るであろう柔らかい肉の感触に思いを馳せて、女は顔に愉悦を浮かべていた頃だった。
そんな女は動かなかった。横薙ぎに振るった蛮刀をそのままに、じっとたたずんでいた。どうやら足元を見ているらしかった。
足の甲からは刃というのもおこがましいほどに錆付き、原形を留めていない鉄の塊が突出していた。ちょうど虫――どうやら蝿だったらしい――が再び目先を通り、運が良いと斬り払った時だった。
拙い――そう感じたのは遅かったようで、縛り付けるような痺れが足元から吹きあがってきた。それは針金が骨に絡みつきながら上へと伸し上がっていくようで、女は判断までにいくらか時間を要してしまった。
破傷風、麻痺毒、二つの単語が彼女の頭を駆け巡る。辿り着いた答えは逃走だった。
女は気を練り上げてふら付きながらも転移札を懐から取り出すと、力の篭り切らない腕でぽたりと自分の血が垂れた地面を切り取った。襲撃の痕跡はともかくと、己の痕跡だけは残すわけにはいかなかった。
女はまだ若い。オシャレもしたい、美味しい物も食べたい、彼氏も欲しい、子供だって作ってみたい。それに夢だってあるのだ。聖地か何だか知らないが、小奇麗に規則正しい家柄の人間ばかりが集まった痒みの走る土地で、女は醜態を晒したくなかった。
転移の光が女を包み込む。逃れた先で、恨みに身を焦がす女は足の甲を貫く鉄の塊を抜き取とることにした。段々と頭が熱くなり、呆けてきている気がする。兎に角、治療が先決なのだ。
女は転移先にしていた場所に備えておいた魔法薬を手に取ると、惜しむことなく掛け流しながら足を抜いた。鉄の塊はやはりナイフのようで、一緒に転移してきた地面から生えているようだった。鉄の色など欠片と失ったその刀身には、いくつもの小さな孔まで開いていた。
次に女は紐で太ももを鬱血するほど強く縛った。そして膝の辺りに蛮刀の切っ先を当てると、躊躇うことなく足首の方へと向けて滑らせる。破傷風菌も、麻痺毒も、これ以上身体の中を巡らせる訳にはいかなかった。
たれりと黒くなった血が落ちる。ふぅと女が一息ついた時、彼女は自分の足の中で蠢く何かを見つけた。
ぱっと空気が震える。ぱぱっと羽音によって空気が震える。
それは黒くなった女の血で化粧した蝿だった。
羽の音がどんどん大きくなる。引き寄せられるようにして女は振り向いた。錆付いたナイフの突き立っていた石畳の表面が崩れる。そこにあったのは人の顔のようなナニか。
「はじめましてこんにちは……って今はこんばんわ、だな」
顔が発した声は酷く不快だった。まるで鼓膜を引っ掻かれているようで、女は真っ二つにせんとその顔を唐竹に切り裂いた。
顔は確かに二つになった。そして四つになり、八つになり、十六つになり、無数の蝿となった。
気づけば太ももを縛る紐は外れていた。痺れがまた、女を駆け上がっていく。
そして女は蝿に埋もれた。
女の蛮刀は雲間に隠れた月光に濡らされることもなく、闇にある重い塊として捲られた大地の上に落ちていた。
転移の光を感じた時、壮年の男はすぐさま逃走の為の気を練った。
コンビを組んでいる女に何かがあったのだ。危険を押してまで励む仕事はないと男は考えていた。目先の金に眼を眩ませて死んでいった同業者たちを何人も見ている。傭兵という職業は、生き残ることが第一なのだ。
転移札を利用しなかったのは、女と同じ場所に異なるタイミングで移ったとして、そこに敵対者がいないとは限らないからだった。コンビを組んでいるとはいえ、あの女の肉体は素晴らしいとはいえ、己と天秤にかければ微塵と動くことはないのだ。
男は現状出せる実力も十二分なほどに理解していた。男の本業は傭兵だ。暗殺者ではなく、隠密でもなく、戦争屋なのだ。対多数となる魔法使いたちの戦場に身を置くが為に、男の戦い方はド派手で、本気を出せばすぐに居場所がバレてしまう。それは愚かだ。
足の裏で地面を掴み、飛び出そうとしたところだった。ぽひゅーと間の抜けた音と共に赤い煙が空へと打ちあがった。そして一泊ほど経つと、ぱぁんと花火のような破裂音と夜空へと満点に広がる煙が見て取れた。
(バレている、か)
暗がりから自分目掛けて投げつけられたナイフを槍ではたき落とし、男は目星を付けて独りごちた。面倒なことになった、と。
だが男の胸中はそんなに悲観的でなかった。ナイフの投擲は的当てのように正確無比だ。故に、男は相手がまだまだ未熟だと判断した。同時に目や喉や心臓を狙わず、足元を狙ったその者は甘ったるい世界で生きているとも。
耳を澄ませば砂粒を踏む音も聞くことが出来る。回り込むようにして段々と自分と距離を離しながら、今度向かってきたナイフは曲線を描いていた。男は槍で再び砕き散らすと、地面を弾いた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。『瞬動』と呼ばれる移動術を用い、三足跳びで槍が貫いた首の上に乗っている顔は、予想通りまだ幼さを残す青年だった。額には十文字の傷、髪は天然ものらしい茶髪、整った顔立ちは突然の凶刃により醜く歪んでいた。
月すら雲間に隠れ、男の姿を見た者はこれでいなくなったはずだ。男は槍を青年から引き抜こうと力を込める。だが、妙な抵抗がそれを阻んでいた。これではまるで、掴まれているようではないか。
唐突に、死んでいるはずの青年の頬が膨らんだ。そして行動の算段をする間もなく、青年は苛烈な光と強烈な音を発して爆散した。
男の視界がブラックアウトする。咄嗟に纏った気によりダメージというものは無きに等しかったが、閉じた瞼は光速よりも遅かったのだ。
視界を奪われた男は心臓に気を込めて、鼓動を加速させる。血流を脳に送り、暗がりの世界を男に取り戻すためだ。
男がぼんやりと周囲を認識し始めるまでには十秒と掛からなかった。そんな彼が回復した両目でまず見たものは、壁に立つ街並みだった。ごとりと頭が石畳と接触する――そこで男は自分が倒れていることに気がついた。力が入らないのだ。立とうにも、気を練ろうにも、さながらボタンをひとつ掛け間違えているかのように。
男の身体が重くなっていく。強烈な痺れが次いで彼の全身を蝕みだしたのだ。
やがて諦めの境地に至った男は闇の中に揺らぐ影を見た。それは口の中を蝿の死骸でいっぱいにした、男のような身形をしていた。
かげやまたつやにんぽーちょー
そのいち:はえつかい
からだのなかにはえをかってるぞ
はえをつかってぶんしんみたいなこともできるぞ
はえをくちゃくちゃかむことでどくいきなんかもはけるぞ
ほかにもはえをつかっていろいろできるぞ