悠璃が割れたガラスを見に行くくだり、細かく書きすぎた為、やや地の文が多めです。
本筋とは関係ないので、台詞がある辺りまで斜め読みして下さっても結構です。
傷の手当ての部分も同様です。
その音は、二階から聞こえてきたようだった。
私は彪瑠と顔を見合わせた。
彼は、今しがた私から受けた“椅子グルグル攻撃”の所為で目を回してダウンしている。此方へ向けてくる瞳も焦点が定まっていない。
この子の生まれたときから、ずっと姉をやってきた筈なのに、弟にこんな弱点があるなんて知らなかった。
そして、一時のつまらない嫉妬心から、
自分の所為でこんな状態になってしまった弟を放置して、この場を離れるのは忍びない。
しかし、今の騒音を無視することも出来ない。
ついさっき、何かがこの家で起きた。
弟の為に此処に残るか──
家の安全確認の為に動くか──
「ご免なさい、タッくん。ちょっと何があったかだけ観てくるわね。直ぐに戻ってくるから、ジッとしてるのよ」
どのみち、今の彪瑠の為に薬や飲み物などを準備するのには、一旦席を立つことになる。
そのついでに、本当にチラッと、何が起きたかだけを確認して、直ぐに此処へ戻って来よう。
もし、これが私の取り越し苦労で、実際は特に大したことが起こっていないのなら、それはそれで
私は、音の原因を探るために席を立とうとした。
そのとき──
プルルッ、プルルッ……。
室内に設置してある電話が鳴った。
今の音は、内線を知らせるものだ。
ディスプレイを見ると、浴室からだと表示されている。
私は、受話器を手に取った。
「はい」
『何だ、今の音は?』
やはり、お
流石に対処が素早い。
恐らく、今の音を聞いて心配になって掛けてきたのだろう。
その声には、適度な緊張感はあったが、余計な動揺の色はなかった。
「まだ判りません、お祖父さま。ちょうど観に行こうとしていたところです」
『いや、お前たちはそのまま大人しくしていなさい。今から私が見に行く』
すると、祖父の声の後ろから、祖母の
『今あなたに出て行かれると、風邪をひかれたり、転ばれたりしないか、私はそっちの方が心配だわ。
ゆっくり体を乾かしてから行っても結果に大きな差はないんだから、ここはひとまず落ち着きましょうよ』
『しかし
『一時の心配事の為に慌てて動いて、万一体でも壊してしまったら、その方がコトでしょう?』
祖父は、しばらく自分の妻の言葉を吟味していたようだったが、やがて腹が決まったようで、此方へ向けて指示を出してきた。
『今、お
彪瑠もそこに居るのか?』
「はい、すぐ隣に」
『今のは、恐らく窓ガラスの割れた音だ。
割れたガラスの破片は、非常に危険な物体だ。
さっきも言ったように、お前たちはそのまま静かに待っているんだ。
いいな?』
「はい、分かりました」
『よし』
内線はそこで切られた。
私は、受話器を置いてから、再び彪瑠と顔を見合わせた。
「…おじいちゃんの、いうとおりにした方が良いと思うよ?」
先程よりも幾分か回復してきたらしい弟が心配げに云ってきた。
いつの間にか、心配する者とされる者の立場が逆転していることに、私は内心で微笑んでいた。
弟の回復の早さに、驚きつつも安堵していた。
これなら、少しくらい私が離れていても大丈夫だろう。
そうなると、もう一つの心配事の重みが増してくる。
実は、先程から少し胸騒ぎがするのだ。
私は少し考えてから応えた。
「確かにそれが正論でしょうけど、状況の確認だけはしておこうかと思うの。
大丈夫よ。ちゃんと安全に準備してから行くから」
「…気をつけてよ。なんなら、ぼくも一緒に行こうか?」
立ち上がろうとしていた弟を、私は制した。
回復しかけているとはいえ、今はまだ、この子には矢鱈と動いて欲しくない。
「あなたこそ、そのまま安静にしていなさいよ。姉さまのことなら心配しないで。本当に様子を観に行くだけ。お祖父さまに云われたとおり、余計なことはしないから」
「それがもう“余計なこと”だと思うけどなあ……」
「いいから、ここは姉さまに任せなさいな」
私は洋服箪笥から、最近は着なくなっていた長袖と長ズボンを取り出して、今着ている夏服の上に重ね着し、底の厚いスリッパを履いて部屋を出た。
「本当に気をつけてよ?」
私は納戸へ来ると、厚手の軍手を取り出して両手にはめて、更にその上にゴム製の手袋を重ねてはめた。
続けて、誰の物か分からないスキー用のゴーグルを見つけ出して装着し、同じように見つけた古い運動靴を一足持って、音の発生源と思われる二階へと向かった。
階段を昇りきって二階の廊下に到着しても、どこにも被害の跡は見当たらない。
ということは、何処かの部屋の窓が割れたのだろう。
私はまず、階段の一番手前にある、弟の部屋 ──父きょうすけから譲り受けた部屋── の前まで来ると、ドアに耳を当ててみた。
ドアの向こうから、風の音が聞こえてくる。
どうやら、一発目でいきなり当たりだったようだ。
私はスリッパから運動靴に履き替えて、慎重にドアを開くと、そっと部屋の中の様子を窺った。
やや冷たい風が頬を撫でる。
思っていたほど被害は大きくないようだった。
何処かから飛び込んできた空き缶が、部屋の中央あたりに転がっていてカラカラと揺れている。恐らくこれが風で飛ばされてきて、窓
窓は、片方のサッシに
さすがに硝子の破片を片づけることなどは、専門の業者さんに任せるべきだと思うが、このまま風雨が吹き込むままにしておけば、弟の部屋の被害は更に広がってしまうかも知れない。
(雨戸だけでも閉めよう)
私は、注意深く破片を避けて窓際まで辿り着くと、鍵を外しサッシに手を掛け、用心しながら窓を開いた。
雨は、殆ど止んでいると云っても良いくらい弱まっている。
そして、雨戸を閉めようとしたとき、ふと“何か”を感じて、眼下へ視線を落とした。
庭先に姉、悠璃の姿が見えた。
傘がお
着ている服は、あの豪雨があったにしては濡れてなさそうだから、やはり何処かで雨宿りしていたのだろう。
傘を持っていない方の手には、ビニール袋を提げている。
恐らく麻奈実さんあたりが、天気予報や空模様を見て、普段の紙袋だけでは心許ないと判断して、商品を更にビニールで保護してくれたのだろう。
悠璃は、そのまま順調に玄関まで辿り着くかに見えた。
しかし、突然何かに向かって手を振り、駆け出そうとして躓いて転んでしまった。沼のようになっていた地面に。
両手が塞がっていた悠璃は、傘と袋を地面に落として、まるでヘッドスライディングでもしたかのように泥の中に腹這いになっている。
(あちゃ~…)
私は、さっさと雨戸を閉めて姉を助けに行こうとしたのだが、それよりも早く、泥水をバシャバシャと跳ね上げながら、姉のもとへ駆け寄る影があった。
言うまでもなく、彪瑠だ。
弟は、何か言いながら姉を助け起こそうと手をのばし、悠璃もその手を掴んで起きあがろうとしたのだが、今度は二人共バランスを崩し、彪瑠の引く方向に姉弟揃って再び泥水の中に倒れ込んでしまった。
さっきよりも豪快な転びぷり。
これでは何もしなかった方がマシだったかも知れない。
(やれやれ…)
すっかり呆れきった私は、目の前の光景をワイプアウトさせるように雨戸を閉め、彪瑠の部屋を出てから、再びスリッパに履き替えた。そして階下へ降り納戸に戻ると、重ね着していた服を脱いだ。
(ふう…)
これでやっとスッキリした。
この時期にあの格好はかなり蒸す。
私は、
そして、今の袋よりも一回り小さいナイロン製の袋を見つけだすと、その中に、外した手袋類とゴーグルを入れて、今日の日付と『割れたガラスの検分時に使用』と書いたメモをガムテープで貼り付けて、丈の低い棚の上に置いておいた。
服を入れたビニール袋にも、同様のメモを貼っておいた。
廊下へ出ると、玄関で風呂上がりらしい祖父母が、自分たちの孫姉弟と対面しているのが見えた。
私は、恐らく必要になるだろうと思い、一旦納戸へ戻り、モップやバケツなどの掃除用具を持ってから玄関へと向かった。
下駄箱の横には、
お祖父さまがよく観ている時代劇映画(私の首尾範囲外だが、昔の映画にしてはなかなか面白い)のクライマックスが確か土砂降りの中での大迫力の戦闘だったが、
お祖父さまは、叱りつけるというよりは、むしろ呆れた様子で二人の孫に問いかけていた。
「全く、出掛けていた悠璃だけならともかくも、どうして彪瑠までもが、そんな姿になるのだ?」
「それがね、ちょっと聞いてよ、おじーちゃん!」
悠璃が、まるで生徒が教師に発言するときのように手を挙げて言った。
「私ね、《たむらや》さんから帰る途中で空の様子を見て、『あ、こりゃあ降るなあ』って思って、近くにあったお店の軒下に避難してたから、本当は家に来るまでは、ほとんど濡れていなかったんだよ! それを、こいつが紛らわしいことをするから……」
「ちょっとまってよ、お姉ちゃん! 人のせいにしないでよっ!」
彪瑠が姉の言葉に猛然と反論した。
この様子を観ると、もう体調はすっかり回復しているようだ。
「あのときぼくは、お姉ちゃんに『庭がドロドロになっていて危ないから、転ばないように気をつけて』って、ジェスチャーで伝えようとしていたんだよ。
それをお姉ちゃんが、勝手にかんちがいしたんじゃないかっ!」
「あんなジェスチャーでわかるわけないでしょ!? 」
「じょーきょー的にフツーわかるじゃん!?」
「こらこら、もう止めなさいよ、あんたたち」
祖母が不毛な姉弟喧嘩を窘めた。
「それよりも、二人とも、随分と派手に転んだみたいだけど、怪我とかしてないの?」
「え? そういえばちょっと手がヒリヒリするかも」
「あ、私も…」
二人が差し出したのは、どちらも左手だ。
それをよく見ると、二人とも手のひらの皮が擦りむけて、ほんの少しだけ血が出ている。
祖父は、それを見ながら、
「ふむ、転んだときに手をついたからだな」
と、割と冷静に分析した。
擦りむいたのが二人とも左手なのは、転んだときにお互いの右手をつなぎあっていたからだろう。
「こうしてならべて見ると、おんなじ血の色なんだね、ぼくらって」
「何バカ言ってんの、タケ。そんなの当たり前でしょ?」
妙なところに感心している弟を姉が突っ込んだ。
「そんなことよりも、早く消毒しなくちゃ…!」
心配げに動き出そうとした祖母を、祖父がひきとめた。
「いや、今回はアルコールや消毒薬の類は要らない。
それより二人とも、足を拭いたら、そのまますぐ風呂場へ向かいなさい。水で傷口をよく洗うんだ。
このくらいの傷で騒ぐようでは、蚊に刺されても生きていけん。
璃乃、すまないが、二人が通った跡を綺麗に拭いておいてもらえんか?」
祖父に声をかけられた私は、既に用意してある掃除道具を見せた。
「もう、準備は出来ています、お祖父さま」
「ほう、用意が良いな」
祖父は、意外な顔をして感心してくれた。
私は、悠璃と彪瑠の通り道をモップで拭きながら、浴場へと辿り着いた。
そこには、シャワーで傷口を丁寧に洗い流している二人がいた。
祖母に言われて、同じ浴室の水道で、さいぜん使った道具類を洗って、バケツに入れて脱衣場の洗濯機の横に立てかけた。
そして、洗面台で手を洗ってから、浴室にいる姉弟の様子を見に行った。
「傷口が綺麗になったら、タオルで優しく水を吸い取って、この絆創膏を張りなさい。入浴するときは、なるべく傷口を濡らさないようにな。
二、三日くらいしたら、その絆創膏が自然にはがれてくるだろうから、その時はそのまま取ってしまいなさい。
といっても、優しく
。無理やり剥ぎ取ってはいかん。皮膚を傷めてしまっては台無しだ。
その絆創膏が自然にはがれたあとは、かさぶたが天然の絆創膏になるからな」
祖父はそう言って、既に傷口を洗い終えた悠璃と彪瑠に、祖母の持ってきた撥水性の絆創膏を渡した。
祖母は、泥
「二人とも、もうその服脱いじゃって、そこのバケツの中に入れときなさい。あとで洗濯するから」
その言葉を聞いて、二人は『え?』って顔になった。
「ちょ、ちょっと、何いってんの、おばあちゃん。それって、ぼくら二人で一緒にお風呂に入れってこと?」
「そうよ」
祖母は、まるで何でもないことのように応えるものだから、つい私も口を挟んでしまった。
「あの、お祖母さま、それはちょっとまずいのでは……?」
「急にどうしたの、あんたたち? まあ確かに、そろそろ、みんなで一緒にお風呂に入らなくなってくる年頃だけれど、今は場合が場合だし、久しぶりに今日くらいは良いんじゃないの?」
「ぼく、お姉ちゃんのあとから入るよ」
「彪瑠、それではあんた風邪をひいてしまうでしょう?」
すると、最初は赤面して黙っていた悠璃が、私たちが騒いでいるのを見ているうちに、急に何かを吹っ切ったように、一気にその様子を豹変させた。
「ん、なーにー? タケ、あんた、もしかして恥ずかしがっているの?」
「そ、そんなんじゃないやい! ただ、友だちとかも、お風呂にはもう一人で入っているっていうしさ…」
私は、姉の謎の急変に戸惑いつつも、弟に加勢した。
「姉さま、今、彪瑠も言ったように、私たちだってもう一人で入っているわけだし……」
「どうしたの、璃乃まで? 本当は、あんたも寂しいんじゃないの? もしかして一緒に入りたいのォ?」
「姉さま? 急に一体、どうしちゃったというの?」
「璃乃ちゃ~ん、タケ~♡ 私は今はまだギリギリ、ウェルカムOKだよ~♪」
この人、誰?
姉さまが…悠璃が壊れた!?
困惑した私は、祖父母の方へ救いを求めた。
しかし……
「璃乃ちゃん、さっきも言ったけど、このままの状態で彪瑠を待たせたら、本当に風邪をひかれてしまうわよ。ねえ、おじいちゃん?」
「うむ。今の場合、これが一番理にかなってるんだ」
今の祖父の発した言葉は、つい先程、自分自身が祖母から受けたものである。
祖父は、その皮肉に気づいたためか微かに苦笑いした。
それとも照れ笑いか? この人が?
祖母は、そんな夫の反応を暫し楽しんでいたようだったが、やがて若干シリアスな口調で、
「……それに、悠璃ちゃんも言ってたみたいに、あんたたちみんなで仲良くお風呂に入れる時期は、今がギリギリで、本当にもうそんなに残ってないかも知れないないのよ。
こういう時期ってね、あんたたちが思っているよりもずっと早く、あっという間に過ぎてしまうものなんだから……」
と言って、何か遠いものを視るような眼をした。
ふと気づくと、私たちの間には妙にしんみりとしたムードが漂っていた。
祖父母の顔には、共に何処か寂しそうな表情が浮かんでいた。
放置されたシャワーだけが、私たちの沈黙を無視してザバザバと水しぶきを上げている。
そんな空間に
どうすれば善いのか判らなくなってきた。
自分が何を考えているのかさえ解らなくなってきた。
そして、その挙げ句に私がとった行動は、後から考えてみても、余りにも不可解なものだった。
何故私は、あのような莫迦な行動に出たのだろう?
一体、如何なる衝動が私を突き動かしたのだろう?
「
私は、未だ出しっぱなしだったシャワーの傍らに並ぶ我が
そして──
ガバッ!
「わっ、いきなり何すんの、璃乃ねえ!?」
「苦しい、苦しいよ、璃乃!」
──思いっ切り二人を抱きしめて、自分の身体に泥水をなすりつけたのだった……。
《つづく》
※ 作中の傷の手当ての描写は、飽くまでも私自身の子供の頃の経験によるものです!
(あの頃は、毎日のように新しい傷をこさえていたもので)
割れたガラスの処置の描写も同様で、呉々も鵜呑みにはしないで下さい!