「赤コ〜ナ〜、102パウンド〜 フレサ・ムニェカ〜!」
疎らな観客の疎らな拍手の中、トップロープを潜ったルチャドーラが右腕を高々と突き上げる
頭頂部に緑のモールでワンポイントをあしらった深紅のマスク
カクテルビームがそんなドーラの華奢なボディラインをリングの上に浮かび上がらせる
「続きまして青コ〜ナ〜、225パウンド〜 セルド・ブルハ〜!」
獣の様な叫び声を上げて巨漢のルチャドーラがリングによじ登る
漆黒のマスク、猪ともゴリラとも形容出来るその姿は正に野獣…
向かい合う二人のドーラ… 一瞬の沈黙…
『カ〜〜〜ン!! 』
その日の… 否、その日も赤ドーラは明らかに精彩を欠いていた
幾度となく絶望的体格差を覆してきた得意の空中殺法
だが、その日も跳躍は高度を得られず、動きは見えない糸に絡み付かれた様に鈍い
「ウォォォォッ!!」
「クッ!?」
何とか既での所で黒ドーラの攻撃をかわしてきた赤ドーラだったが、遂にその細い腰をそれより太い腕に捕捉される
軽々と持ち上げられる赤ドーラ
『ドッスンッ! 』
「ウゥッ………!!」
そのまま勢いよく叩き突けられる
詰まる息、回る視界…
巨大な圧力がのし掛かって来る
遠くなる意識の先で聞き慣れたカウントとゴングの音が聞こえ、そして静寂に包まれた
夕暮れの街をイチゴはさ迷う
身体の節々が痛む 右足が上手く上がらない
何時の間にか大分風に冷たさを感じる様になった 冬はもう直ぐそこだ…
イチゴは踵を返し、もう一度商店街の人混みの中に紛れる
お肉屋さんの熱々コロッケ…
お魚屋さんの軒先には丸々と太った秋刀魚が並ぶ…
人参、じゃがいも、ブロッコリー… シチューにしたら美味しそう…
人形館のみんなの笑顔が浮かぶ
コロッケを頬張る食いしん坊なあの娘…
苦手な人参をこっそり隣の皿に移す、おしゃまなあの娘…
食後のデザートにみんなが大好きなクッキーを…
大粒の涙がイチゴの頬を伝う
嗚咽を必死に堪える
泣かない 泣きたくはない 泣かないと誓った筈だ
そしてみんなを笑顔にすると誓った筈だ
(なのに…!)
首に掛けたがま口を右手で握る
帰れない… 帰れないよ…
みんながお腹を空かせて待っているのに…
イチゴがルチャ団体から契約解除を申し渡されたのは三時間前
元々がアマチュアに毛が生えた程度のマイナー団体
慰労金などある筈がない
ファイトマネー、勝利給だけが全て
それは初めから分かっていた
所詮その程度の団体 そしてその程度のルチャドーラ…
好きなルチャでお金が貰えるのなら… 大抵のドーラはそれで満足だろう
だがイチゴは違った
彼女には"家族"があった
彼女がルチャを始めたのは"家族"を養う為だ
学校にもまともに通えず、身元保証人も居ない彼女がまとまったお金を得る手段は、犯罪を除けばルチャしか無かった
勿論、ルチャなど経験も知識も無かった
岩にかじり付く…
まさにイチゴの根性と執念が、華奢でどちらかと言えばおっとりとした性格の少女を一人前のルチャドーラ、"フレサ・ムニェカ"へと変えたのだ
「エフォッ! ベホッ! ゴホホッ…!? 」
突然込み上げてくる何か…
異様な咳を繰り返すイチゴは何かを感じ慌て路地裏に駆け込む
「ブォォォォッ……!?」
滝の様な吐血 足元が鮮血に染まる
身体の中が熱い だけどとても寒い
怖い… 怖いよ… やだよ…! 死ぬのは怖いよ!
(神様… どうして… どうして私に… 私達に…)
何時の間にか通りの喧騒が消えていた
何時だろうか…? みんな心配してるかな…?
ううん… ご飯も用意出来ない私なんか… みんな怒っているよね…
「ゴメンね…」
コンクリートの壁に寄りかかる虚ろな瞳のイチゴが、血糊にまみれた唇でポツリと呟いた
「まだスリーカウントは取られてないわよ…!」
「!? 」
どこかで聞き覚えのある声 明らかに自分に掛けられたその声
イチゴは青ざめた顔をその声のした方に向ける
「!! 」
生気を失い掛けた瞳が僅かに輝きを取り戻した
「……師……匠……!?」
その視線の先、路地裏の更に奥、何処からか溢れる街明かりにぼんやりと輪郭を露にする一つの影…
「随分苦戦している見たいね…」
子供をからかうかの様な口調
その主がゆっくりとイチゴの前に立つ
ピンクのマスクのルチャドーラ
間違いない、師匠だ!
あの日、ルチャの余りに高い壁の前に立ち塞がれ、今日と同じ様に公園で涙と絶望にくれていたイチゴ
その前に今と同じ様に突如現れ、彼女にルチャの基本と真髄を叩き込み、一人前のルチャドーラにしてくれた人生の恩人
マスクマン… もとい、マスクウーマンとしての定め、何処の誰かは知る由も無いが、この人が居なければ、ルチャドーラとしての自分など当然存在してはいない
「師… 匠ぉ……」
イチゴの目から先程とは成分の異なる涙が流れる
それを彼女の前に屈んだピンクマスクが、頬を撫でる様に両手で掬う
「うぅ…… 師匠… 私、死んじゃうの… 骨癌だって… もう助からないって…」
今まで誰にも、ザクロにさえ打ち明けられなかった秘密を師匠を前に吐露する
イチゴにとって只一人、甘えられる存在が目の前の彼女なのだ
「死にたくないよ… 私が死んだら… みんなは… みんなと……!」
イチゴの心の中でずっと張り詰めていた物が均衡を失い、音を立てて崩れていく
誰にも見せる事の無かった、臆病で内気で寂しがりやな本当の自分が現れてくる
「うぁぁぁぁん…… どうして… 私は… 私はなんの為に生まれてきたの……」
涙を止めていた堰が切れ、滂沱の如く地面を濡らす
きっと彼女は抱き締めて欲しかったに違いない
だが、彼女の期待は真っ向から裏切られる
『パシィィィッ!! 』
強烈なスパンク 乾いた衝撃音が路地裏に響く
「見損なったわ… どうやら私の見当違いだった様ね…」
「………?」
あの特訓の最中も見せた事は無い、師匠の冷酷で怒りに満ちたオーラ
ヒリヒリする頬を押さえながら、呆気に取られた様にその姿を見上げるイチゴ
「もう少し骨のある娘だと思ってた… "家族"の為なら、どんな苦難も乗り越えられる根性のある娘だと…!」
「乗り越えられるよ! どんな事だって! でも……! でも! 病気には勝てない…!」
"家族"への想いを侮辱された気がしたイチゴが今度は語気を荒たげる
「イチゴ… ルチャの命は何だったかしら… 」
そんなイチゴに背を向け、ピンクマスクは呟いた
「……ルチャの…… 命……?」
イチゴの視線が傍らに落ちたショルダーバッグに注がれる
「……………」
操られる様にそのバッグに手を伸ばす
ルチャの命、と問われれば、その答えは一つしかない
バッグの中身をまさぐる手が止まる
ゆっくりと引き抜かれたその先には、真紅のフレサマスク…
ルチャの命、それはマスクだ
マスクを身に付ける時、人はドール又はドーラとなり、エストレージャになる
マスクには精霊が宿り、人を神と引き合わせる
かつて古代マヤ文明に於て、マスクは王族や神官が身に付けるスピリチュアルアイテムであった
人が誰しも心の奥底に持つ変身願望 それを具現化する鍵こそがマスクなのだ
イチゴ自身、このマスクを身に付けた時はママ先生である自分を忘れた
"家族"の為に敵にプランチャを叩き込む
敵を傷つけ、痛めつけ、その姿が苦痛に悶えれば好機とばかりにアドレナリンが噴出される
正に闘神
そこには誰にも優しく面倒見の良いママ先生、イチゴの姿は無い
「イチゴ… 人としての貴女の命はもう長くはないのかも知れない… でもね… それは誰にも訪れる宿命… ただ遅いか早いかの違いだけ…」
苺を型どった己のマスクをじっと眺めていたイチゴが顔をあげる
「でもね… ルチャの命は永遠よ 例えその舞台の演者が入れ替わろうとも、ルチャが伝えるテーマやメッセージは変わらない… それを見る者の心に永遠に響き続けるわ…」
「…………永… 遠……」
イチゴは胸元のマスクを強く握り絞めた
「イチゴ… 貴女は何の為にドーラになったの?」
「…………?」
イチゴは再び視線を師の元に向ける
質問の意味が分からなかった
イチゴが"家族"を養う為にルチャのマスクを被った事は、何より師匠が一番良く知っている筈…
「……それは…」
「イチゴ… 貴女は"家族"への愛を形にしたかったんじゃないの!」
イチゴのたどたどしい返答を遮ってピンクマスクは一喝する
「!! 」
体重の乗ったティヘラを食らったかの様な衝撃
イチゴの脳裏に電撃が走る
「イチゴ… 初めて会った時、貴女は言ったわよね… "家族"の為なら命を捧げられるって… 貴女は"家族"の為に死ねるんじゃ無かったの?」
「捨てられる! 嘘じゃない! 今でもその気持ちは変わらない!」
再び愚弄するかの様な問に咄嗟に反論する
「じゃあ、最後に見せてやりなさいよ! ルチャドーライチゴとしての貴女の生き様! いつか別れは来るのよ… 残さなければならないのは、お金なんかじゃない筈よ…!」
「!!……… でも…! でもどうすれば…!? 私、もうルチャドーラじゃ……」
感窮まり悲鳴に近い叫びを上げるイチゴ
そんな彼女の前にピンクマスクは再び屈み込み、その両肩に優しく手を置いた
「貴女の花道、この私がきちんと飾らしてあげるわ…」