崖の縁のミウたん   作:新六毛

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二人の約束

「……サーチします………」

ノートPCのディスプレイを虚ろな瞳で眺めるエマ

飴細工の様に細い指先が、静かにマウスを操る

 

『拡張性心筋症』

 

その文字が綴られたページを、ゆっくりとスクロールさせていく

昼下がりの市立図書館

不気味な程の静寂が包む閲覧室の一角

彼女の座する周囲には、更に幽気とも言うべき澱んだ空気が包み込んでいた

やがて小さく俯くと、左手で体を支える様に立ち上がるエマ

「…………駄目でした……」

消え入りそうなその声を耳にした者は、誰も居なかっただろう

既に大分重くなった身体を不恰好に庇いながら、ゆっくりと閲覧室を後にする

 

 

 

大きな窓から夕陽の差し込む電車の車中

学校帰りの学生達が、若さと生きる喜びを囀ずる様に、たわいもない話に花を咲かせている

手摺に寄りかかる様にシートの端に座るエマに、そんな光景はまるでTVモニターに映る別世界の様に、現実味の無いものだった

今の彼女の目にはあらゆる物が色褪せて見えていた

それは決して揶揄的な表現ではなく、彼女の感覚は急速に厚い岩の壁に塗り込まれる様に、感度を失っているのだ

「こんな…… ザコに…………」

エマは己の左胸に右手の拳をぐいと押し付ける

彼女には自分の身体を蝕む病魔がそこに見えていたのかも知れない…

まだまだやりたい事は沢山… 沢山あるのに……

言葉にならない無念を訴える如く、強く握られたその拳の上に、ひたりと透明な滴が垂れた…

 

 

 

 

 

「しょせんザコですよね~…」

秋の天皇賞、紙くずと化した馬券の束を風に散らしながら、エマは寂しい苦笑いを浮かべた

人生の精算、そう言って彼女は残された僅かな時間を刹那的に生きた

 

街の片隅で小さなカフェを営みたい…

手作りクッキーと、お洒落なラテアート…

それを目当てに集まる常連達…

他愛もない会話と、ゆっくり流れる時間…

 

そんな細やかな夢の実現の為に、コツコツ貯めた貯金が今、紙屑になった

もう良いのだ… どうせ自分には要らない物…

この世の未練を断ち、寧ろ清々しい気持ちすら沸き上がる

エマは今日は幾分軽い身体を、晩秋の夕陽の中に踊らせた

 

「うっ……!?」

 

突如胸を走る激痛 全身の血の巡りが止まるのを感じた

直ぐに痛みは引き、代わりに意識が白み始める

身体の力が急速に抜け、エマはコンクリートの地面に突っ伏した

ゆっくりと閉じられた瞼の隙間から、透明な滴が一粒零れ、コンクリートに黒い斑点を作った

 

 

 

 

 

「ラテアートを描くのも、結構大変なんですよね…」

マグカップのエスプレッソに注がれたミルクの上に、爪楊枝とチョコクリームで可愛い熊を描くエマ

「うわ~~! 凄いです~~!」

ベッドの隅に腰を掛け、それを覗き込んでいた少女が感嘆の声をあげる

お人形の様な少女の飴色の長い髪が、差し込む午後の優しい日差しを浴びて艶やかに輝く

お人形の様… それは決して揶揄ではない

エマは努めてその髪から視線を反らす

「マロンちゃん、そろそろ戻らないと回診の時間よ」

包交車を押してエマの病室に入って来た看護婦が、少女に声を掛ける

「は~い… エマお姉ちゃん、またです~」

ベッドから飛び降りると、看護婦と入れ替わる様に病室を出て行く少女

振り向き様にエマに手を振り、元気に駆けて行く

その様だけを見れば、とても彼女が小児癌を患い、日々辛い抗癌剤治療を受けているとは想像もできまい

「まるで本当の姉妹みたいね~」

検温と新しい点滴の準備をしながら、看護婦はエマに話掛ける

エマは適当に相槌を打つと、窓の外、小児科がある隣の病棟との渡り廊下を見遣る

ちょうどマロン… と呼ばれた少女が差し掛かり、此方に一際大きく手を振る

エマもマロンに手を振り返す

それが二人のお休みの合図… 此をしなければ明日マロンに叱られるのだ

 

 

正式に拡張性心筋症の診断を受け、心臓移植以外生存の可能性が無いと診断された時、エマは躊躇なく自然治療という名の安楽死の道を選んだ

病を自覚した時から決めていた

幼い時から病弱で、見寄も居ないエマは、誰も知らない病室で独り死と向き合う闘病生活だけは送りたくなかった

もう覚悟は出来た

所詮、人はいずれ死ぬ 違いは遅いか早いかだけだ…

どうせ死ぬなら大好きな桜の樹の下で死にたい

春まで命が持てば、何も言う事はない

東京競馬場で不整脈に倒れ、この病院に担ぎ込まれた時も、エマは頑なに入院を拒んだ

だが、既にエマの身体の動向は、自分の意思の範疇には無かった

石の様に重い身体をベッドに沈める日々…

エマは恐れていた悪夢の実現に自暴自棄になる

 

「機械を見ると壊したくなるんですよね…!」

ある時は自らの左胸に繋がるコードを引っ張り、その先に繋がる心電記録計を倒そうとした

気付いた看護婦にが慌て抑えこみ事なきを得るが、その後の看護婦の激しい叱責にも反省の素振りなど見せず、顔を背けて憎まれ口を叩く

「やっぱり私はゴミですね… ゴミは自分で処分します…!」

看護婦の平手がエマの頬を捉えた

「貧乳がぶつのですね…!」

聞き分けの無い、子供の様なエマの号泣が治療室に響いた

 

医師や看護婦と幾度となくぶつかり、それが更なる自己嫌悪に結び付く

ただ早く、己の魂がこの身体から解き放たれるのを待つ暗澹たる日々…

 

 

マロンに出会ったのは、そんな絶望の狭間、一時の微かな癒しを求めた中庭のテラスだった

白いベンチに腰掛け、熊のぬいぐるみを抱き、いつまでも俯く少女に声を掛けたのは、ただの気紛れの筈だった

いや、その少女の痛々しい姿に自分を重ねたのかもしれない

涙で充血した瞳をエマに向ける少女

 

どれ程悲しみを与えれば、この幼い少女にこれ程悲壮な表情をさせるのか…?

 

その少女の肩に静かに手を置いた時、エマの心の中で何かが変わり始めた

 

 

 

少女に深い悲しみを与えたのは、残忍にも彼女の親友だった

なんと酷い話だろう…

 

小児病棟の院内学級で知り合った、同い年の女の子

幼い頃から病院暮らしのマロンにとって、生まれて初めて出来たお友達

その日、マロンの夢だったお友達を招いてのお誕生日会

複雑な家庭事情により両親が面会に訪れないマロンは、親代わりの小児科婦長にお願いして、ビスケットとココアを用意して貰い、親友の訪問を待った

 

……結果的に親友は訪れなかった……

 

マロンの誕生日のその日、大好きなお友達は天国に旅立ったのだ……

 

 

 

マロンの瞳から再び大粒の涙が零れた…

エマはその日から、マロンの新しいお友達となる事に決めた

お喋り、お絵かき、ラテアート…

身体の重いエマにやれる事は少なかった

それでも一生懸命、彼女は友達を励ます為に頑張った

病に冒されてから、常に死ぬ事だけを願い、考えていたエマ…

だが、マロンの顔に少しずつ笑顔が戻る度、エマの暗かった心にも暖かな灯火が点り、揺らめいていくのを感じていた

ちょうど厳しい冬を乗り越えた桜の蕾が花開く様に…

 

救われたのは……自分の方かもしれない……

 

 

 

心臓移植のドナーが見つかった、という知らせを聞いた時のマロンの感涙を、エマは今でも忘れられない

自分が重い病に冒されながらも、エマの病気が治ると知り、顔をくちゃくちゃにして泣き叫んだ

「神様… ありがとうです~……!」

エマもその夜、顔をくちゃくちゃにしながら滂沱し、神を…仏を罵った!

何故… なぜ自分なのか…? 何故、彼女を救わないのか…!

 

 

手術の日、マロンはエマにラテアートを見せに来ると約束した

エマが元気になって、マロンも病気が治ったら、二人でラテアートで有名なカフェを始めよう

二人でずっとずっと一緒に暮らそう

そう約束し、指切りをして別れると、マロンはまた渡り廊下の向こうからお休みなさいのバイバイをした

 

 

 

……結果的に、その日、マロンは来なかった………

 

手術の用の検査着に着替え、医師から手順やリスクについて説明される

何枚かの同意書にサインし、いよいよ手術室に運ばれる時になっても、マロンは姿を見せなかった

エマは自分の手術の成否より、マロンの身を案じた

ストレッチャーに乗せられ長い廊下を行くエマ

ある所で、不意にあの渡り廊下の先が視線の向こう現れた

 

「!!」

 

エマは見てしまった…

病室から勢いよく飛び出してきた子供用のストレッチャーと、それを取り巻き、慌て走って行く医師と看護婦達……

 

あの角は…… あの部屋は……

 

 

 

12時間にも及ぶ大手術は成功し、2日後には流動食を口にする

1週間後には掴まり立ちが出来るまでに回復し、1ヶ月のリハビリを経てエマは退院した

エマはその間、マロンの事を看護婦に聞く事は一度も無かった

看護婦もまた、何も言おうとしなかった

 

 

 

冷たい北風が吹き抜ける、目抜通りに面したオープンカフェ

エマは今日も独り、ラテアートの制作に励む

熊、フェレット、土竜、お馬さん… レパートリーも十分増えた

アルバイトも複数こなし、少しずつ貯金も増えてきた

二人の夢は少しずつ、少しずつ現実になりつつある

後は…………

 

「!?」

 

不意に誰かに呼ばれた気がしてエマは振り向いた

だが、そこには誰も居ない…

冬の透明な青空が何処までも何処まで続くだけ…

一羽の白鷺が高く遠く、そこを優雅に舞って行くだけだった…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「絶対に、絶対に、可愛く撮って欲しいですぅ~!」

ベッドの上で熊のぬいぐるみを抱き、ピースサインをする糞ガキ…

「チッ… チッ… チッ……!」

ミウたんはデジカメの調子が悪い様に見せかけて、何度も舌打ちをする

秋の天皇賞で、絶対に手を着けてはいけないお金を見事にスッたミウたん

迫る支払いの期日… 尻に火が付き、実入りの良い短期バイトに挑む

仕事は見寄の無い年寄りや病人の介護と言う胡散臭いもので、今日も今日とて、ビデオレターを撮りたいという糞ガキの余計な一言でタダ残業…

もし雇い主の理事長が見てなければ、99%継続OPTを喰らわす所だったが、週末に迫る家賃の支払いを凌ぐ為、今は歯を食い縛り自分を押さえる

「絶対に、絶対に、今日中に送って欲しいですぅ~!」

「チッ… チッ… チッ……!」

パソコンの調子が悪い様に見せかけて、何度も舌打ちをするが、糞ガキはお構い無しにひょこひょこパソコンを覗き込んでくる

「エマお姉ちゃん… もうすぐ会いに行くですぅ~… 待ってて欲しいですぅ~!」

「お疲れ様でした…」

糞ガキと理事長を残し、ミウたんは明日の大井競馬での万馬券を夢見て、ケンケンパーをかましながら帰路に着くのだった

 

 

 

この夜、エマはミウたんの誤送信した秘蔵のBLアニメ

「肉食信玄×草食謙信、川中島の純愛一騎討ち!」

を見て心臓発作で倒れるが、それはまた別の物語である

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