「で、これでやっと全員揃ったんだな……?」
部屋の隅で身体を震わせる人物を一瞥し、智葉は満足気に頷いた。
「そう見たい……モグ… …」
何袋目か分からない菓子袋に手を突っ込みながら、ハムスター女が同意する。
「よし、じゃあそうと決まれば懇親会でもするか!」
智葉の宣言に居合わせた全員が目を白黒させる。
時計の針はまだ正午も回っていない。
「いや、まだ、お昼過ぎよ……?」
燕脂女の苦言に、その場の全員が首を縦に振る。
1人だけ取り残されたような部屋の空気に、
今度は智葉が目を白黒させる番だった。
「アンタらねぇ……何を勘違いしてるか知らないけど、同僚同士で親睦を深めるのも立派な仕事でしょうが?」
人間はベッドの上か、酒の席でしか分かり合えない。
これが彼女の持論だった。
すると突然、身を震わせていた『カタカタ女』が何かに弾かれたように飛び上がった。
「その必要はあらへん!とっくに調べは付いとる!」
「ひぃっ!カタカタ女が喋った!」
「カタカタ女じゃないわ!」
何とも緩いちゃちゃのんの驚きを掻き消すように『カタカタ女』はゴホン、
とわざとらしく咳払いをした。
「まず、アンタ!」
「ひえっ……!」
ビシリと指を刺されたちゃちゃのんは驚いて身を竦ませる。
そんな様子を気にも留めず、『カタカタ女』は続けた。
「本名佐々野いちご!元商品カスタマーサービス所属!好きな食べ物は苺のショートケーキ。業務の傍らアイドルデビューを目指し、自主制作のCDやグッズを社員に押し売りしていた事が発覚してショムニに転属!」
「あれ以来秘密にしとったのに……!」
青褪める『ちゃちゃのん』改め、いちごをよそに『カタカタ女』は、
相変わらずお菓子を貪るハムスター女を標的に据える。
「次!本名宮永照!元総務部経理課所属、趣味はスイーツ屋巡り。社内の来客用の茶菓子を度々、酷い時には根刮ぎ着服していた事が発覚しショムニに転属!」
「だって、お菓子が私を呼んでたから……」
また一つ、お菓子を口に入れながら照は不服そうな顔をした。
『カタカタ女』はその視線を無視してオッパイお化けを睨みつける。
「次!本名石戸霞、元人事部所属!特技は占い。その尋常ならざる的中率を誇る占いで、社員の天職を次々と言い当てて大量の退職者を出した張本人!」
「あらあら、酷い言われようねぇ……」
「えっ、じゃあやっぱり去年の大量離願退職騒ぎって霞の仕業だったのね……」
燕脂女の言葉に、意味ありげに笑う霞。
——やはり、この女の底は知れない。
その場にいた全員がそう思った。
「つ、次や!人の心配してる場合じゃあらへんで竹井久!元営業部1課所属で特技は魔性の微笑み!不倫相手だった某IT企業社長の本妻が山越に乗り込んで来た騒動の元凶!ウチの重役達の愛人でもあるため解雇は免れたもののショムニに転属!」
久は感心したのか小さく手を叩いている。
実際のところ『カタカタ女』は良く調べている、
通常ならば異動の原因など知りようも無いからだ。
となれば、彼女は情報を得るために社内を駆けずり回ったに違いなかった。
そして長く続いた調査報告も、いよいよクライマックスなのだろう。
相当熱が入って来たのか、手頃な椅子を踏み台にして『カタカタ女』は拳を振り上げる。
「辻垣内智葉!元商品宣伝部所属!社内でセクハラをしてきた重役に鉄拳をお見舞いした上、実家が暴力団の元締めである事が発覚、しかしそのことに逆に日和った人事が報復を恐れ、止む無くショムニに転属、この札付きのワルめ!」
空気が熱を失う。
恐らく社会で真っ当に生きていこうとするならば、決して関わりを持ってはイケない方達。
その固有名詞が、本人と『カタカタ女』以外の全員の顔を青褪めさせた。
芝居が掛かった身振りに拍車が掛かる『カタカタ女』と、
身を寄せ合って震える4人を余所に、智葉は困惑気味に頬を掻く。
「いや、実家はそうなんだが……私はカタギだしなぁ……」
「う、うるさいねん!兎に角や!」
さして動揺を見せない智葉の態度に泡を食ったのか、
『カタカタ女』は口から唾を飛ばしながら捲したてる。
「ウチは、アンタらみたいなのと仲良しこよしする気は、これっぽっちもあらへんからな!?」
発せられたハッキリとした拒絶の言葉。
演説を続けた『カタカタ女』の息切れだけが寂しく部屋に響く。
長い沈黙を破ったのは智葉だった。
「じゃあ、アンタはなんでショムニに来ることになったんだい?」
先程までの空気とは打って変わり、
智葉の重くのしかかるような声の息苦しさに『カタカタ女』のみならず、
成り行きを見守る4人もゴクリと生唾を飲んだ。
「ウチのことはええやろ、アンタらと対して変わらんしょーもない理由や」
そう言いながら顔を俯かせた『カタカタ女』の表情は誰にも見えない。
その反応に智葉はニヤリと口を歪めた。
「竹井!いちご!宮永!そいつを押さえろ!」
次の瞬間、逆らえないという強迫観念からか反射的に動いた3人によって、
床に組み伏せられる『カタカタ女』。
彼女が突然の出来事に何事かを喚きながらもがく目の前で、智葉は霞の方を向く。
「霞、あんたなら分かるんだろう?」
「あらあら、穏やかじゃないわねぇ……」
文句を言いながらも、霞は目を閉じて精神を研ぎ澄ます。
彼女は水晶球に手を差し伸べると、怪しげな呪文を唱え始める。
やがてその声が聞こえなくなった頃、霞は目を見開いた。
「見えたかい?」
「ええ、見えましたが貴女は本当に人使いが荒いのね……」
「仕方ないだろ、何事もハッキリさせたい性分なんだよ」
「いいけど、でも、コレって……」
何かが歯に詰まったような霞の物言いに、
『カタカタ女』が頭まで押さえられたままであらん限りの大音量で叫ぶ。
「やめや!そんなんアンタらが聞いたかて——!」
「いいから早く!」
智葉の怒号が飛ぶ。
その剣幕に霞は観念したように口を開いた。
「本名末原恭子、元海外事業部1課所属。今度の海外大手とのアライアンスの立役者ね」
明かされた『カタカタ女』の素性に、誰かが驚きの声を上げた。
驚いたのは智葉とて例外ではない。
「へぇ、凄いじゃないか。海外事業部と言えばウチでもエリートのハズだけどねぇ……」
「まだ、ここからよ」
何やら神妙な面持ちで、霞は1度息を吐いて続ける。
「商談が上手く進んでいた矢先に企画書、議事録などの資料を没収。担当を上司と入れ替わる形でプロジェクトチームから外された見たいね、それとほぼ同時にショムニに転属された……」
「手柄を上司に横取りされて左遷ってワケか……」
「酷い話じゃぁ……」
恭子を押さえていた手を話し、ハンカチで盛大に鼻をかむいちご。
1人分の重しがなくなったことで、恭子は残る2人を弾き飛ばして立ち上がった。
「ホラな?しょーもない話しやったろ?社会じゃよくあることや、今更気にしてへんよ——」
目と鼻を真っ赤にしながら恭子が悲痛に言葉を絞り出す。
「どうせ、ウチも落ちこぼれなんや……」
興味があるのかないのか、
両手が自由になった照が新しい菓子袋を破る音が室内に響いた。
*****
「あ、でもそう言えば」
突然、久が飄々とした声を上げる。
「その件の社長決裁が降りる会議って、今日の夕方からじゃなかったかしら?」
意味深に微笑む久の顔を見て、智葉は思わず指を打ち鳴らした。
「でかした竹井!流石愛人!」
「ちょっと、その呼び方は止めてよね」
2人のやり取りに訳が分からず、恭子はオロオロと視線を走り回らせる。
「な、アンタら何言うとんのや……?」
「何、って簡単さ、まだ時間はあるんだ。横取りの証拠を集めればあんたの上司をしょっ引けるかも知れないだろう?〝カタカタ女?〟」
智葉の言葉に力強く頷く5人。
「じゃあ、行くよ!アンタ達!」
号令と共に部屋を飛び出して行く面々。
その背中に恭子は複雑な感情が湧く。
気が付けば思わず叫んでいた。
「なんでや……何でウチの為にそんなこと……!」
その叫びに、最後にドアを潜ろうとしていた智葉が、
脚を止めゆっくりと振り向いた。
「別に、アンタのためにやるんじゃない。私はただ早くこの〝面倒事〟を片付けて旨い酒を飲みたいだけさ」
それだけ言うと、智葉は部屋を出て行く。
1人残され静寂に支配された部屋で、恭子は独りごちる。
「もう、無駄や言うとるのに……」
*****
『総務部給湯室』——
取り敢えず給湯室、と照が目的の為に脚を運んだのは古巣の総務部。
会社の噂とお菓子は往々にしてまずこの給湯室に集まることが多い、
照が社会に出てから学んだ事であった。
丁度昼下がりのこの時間帯は、ガラス越しに蠢く数名の人影が見て取れた。
久しぶりに脚を踏み入れるその部屋のドアノブを、照はゆっくりと捻る。
チラリと顔を覗かせた〝怪物〟の顔に給湯室の午後の平和は乱された。
「ひいっ……!バケモノっ……!?」
「出たな……スイーツブラックホール!」
「これが、あの〝大喰い宮永〟……!?ショムニに転属になったはずじゃ!?」
次々に聞こえてくる通り名兼罵詈雑言。
それを照は無表情に聞き流し、戸棚の茶菓子を眼にも止まらぬ速さで口に運んだ。
その速度と正確さは、最早武芸と言っても差し支えない領域だろう。
誰かのお土産だったのか福砂屋と書かれたカステラを咀嚼し終えると、照は静かに呟いた。
「ちょっと聞きたいことがあって……」
*****
時を同じくして、某所にひっそりと佇む地下アイドルの劇場。
そのステージの上にいちごは立っていた。
「と、言うわけなんじゃー!皆んな、何か情報があったら教えて欲しいんじゃー!」
会社の制服とは真逆のヒラヒラとした洋服に身を包んだいちごが、
眩しく光るステージの上で呼び掛けると観客から起こる歓声。
「これで何か分かるはずじゃ……」
いちごが頼ったのは人脈である。
地下アイドルをしている彼女の〝友人達〟にはインターネットに精通している者が多い。
彼らはきっと、いちごにとって有益な情報をもたらしてくれるはずだ。
いちごはいつまでも消えない歓声を聞きながら、祈るような気持ちで一杯だった。
*****
所変わって山越商事役員室。
そこに久はいた、重役の1人と共に。
「何だね、竹井君?私も忙しいのだが……」
髭面の男は椅子に座ったまま、溜め息混じりにそう言った。
「大変申し訳ありません、ただ大事なお話がありまして……」
久は入り口に立ったまま恭しく一礼する。
もう1度溜息を吐き立ち上がった男は、何の警戒もせずに窓から外を見つめている。
好機とばかりに、久は獲物を見つけた豹のように男に近寄った。
「でも、こうしてお時間を作って頂いて……貴方に会えて、本当に嬉しいです……」
声の調子をワントーン上げた猫撫で声。
ここで久が同時に放ったのは、彼女の持つ殺し技の1つ『上目遣い』である。
だが、息が触れる程に肉薄して放たれたそれも失敗に終わる。
流石は重役、といった所だろう。予想以上の難敵のようだ。
「ゴホン……!早く要件を言いたまえ」
動揺を隠すように咳払いをする重役の男。
ならば、と久が繰り出す奥の手。
「すみません……実は……」
普段よりも1つ余分に開けられたシャツのボタン、
深く折られた腰の角度によって妖艶な胸の谷間が白日の下に晒された。
これが久の必殺『胸元チラリ』——
これまでこの技で落ちなかった男など存在しない。
彼女が絶対の信頼を置く武器である。
久は頭を下げたままチラリと視線だけで男の様子を伺うと、
今まで落としてきた男達と全く同じ顔に変貌を遂げていた。
目尻をこれでもかと下げ、だらしなく鼻の下を伸ばしている。
——また1人、獲物が毒牙に掛かった瞬間であった。
*****
山越商事防災管理センター、そう書かれたドアの前に智葉はいた。
ビル内の危機管理を一手に担うその場所に、あるであろう物を手に入れるべくして。
「邪魔するよ!」
勢いよく開け放たれたドアと地鳴りのような大声。
組んだ足を机に放り投げ、帽子を目深に被せて居眠りをしていた守衛が何事かと飛び起きた。
「火事か!?地震か!?」
「違うよ、人間さ。ちょーっとばかり〝お願いしたいこと〟があってね……?」
腕組みしたまま、猛禽の唸るような声を出す智葉。
その覇気に守衛はもうすぐ定年を迎えようかとする歳になって初めて、
弱肉強食と言う世界の力関係を理解した。
*****
部屋に取り残されてから早く数時間、恭子は途方に暮れていた。
智葉は証拠を集めると息巻いていたが、
そんなものはとっくに改竄されるか、
もしあったとしても知らぬ存ぜぬで通されてしまうだろう。
しかも、上司をしょっ引くと行ってももう時間がない。
今から他の部署から手を回す、と言う工作も不可能だ。
「何で、こんなことになってしもたんやろなぁ……」
恭子はデスクの上で肘をついたまま深く溜息を吐いた。
すると、突如入り口のドアが破られんばかりに激しく開いた。
ギョッとして恭子が振り向くと、
そこには目を爛々と輝かせる智葉を筆頭にショムニのメンバーがいた。
「なーに、しけた面してんだい?行くよ!」
「行くよ?行くって、どこへや……?」
恭子の質問を智葉は豪快に笑い飛ばした。
「どこへ?どこへって決まってんだろう?社長決裁が降りる会議の、その場所さ!」
「は?何ゆーてんねん、行っても無駄や。そもそも部屋に入れる道理がない」
「道理が無くても正義はある」
正義、その言葉が恭子の胸に突き刺さる。
どろりとした感情が胸に渦巻いて、恭子は言葉に詰まった。
「無駄とか無茶とか、やって見ないと分かんないだろう?ほら、あんた達!カタカタ女を捕まえな!」
「やっぱりこうなるんかー!?」
恭子は智葉の鶴の一声で飛び掛った4人に捉えられ、
神輿のように部屋から担ぎ出される。
——社長決裁が下される会議室に向けて。
*****
長丁場となった会議も漸く最終案件。
山越商事現取締役社長『大沼秋一郎』は僅かに痛む目頭を軽く揉んだ。
「お疲れの所長引いてしまってすみません、社長」
「いや、良いんだ。すまん」
会社のために社員のためになればこそ——
社長とはそうあるべきだと先代から口うるさく言われたこの金言は、
今でも秋一郎の働く原動力だ。
最後の議題でもある海外メーカーとのアライアンスも、
きっと山越商事にとって良い方向に進むだろう。
反対意見を挟む余地は無い。
勿論、プロジェクトのリーダーはそれなりの評価を与えて然るべきであろう。
「では、最後にM&N社とのアライアンスの件ですが……」
司会の男の声は、数人の騒がしい声によって遮られた。
「やっぱダメやって!もう無理や!こんなコトして会社におられんくなるで!?」
響く関西弁と、それを鎮めようとする数人の声。
司会の男が、騒がしく入って来た6人を指差して咎める。
「何なんだ君達は!?会議中だぞ!さっさと出て行きたまえ!」
「ああ、出て行くさ。ちゃんとカタが付いたらな」
凄む智葉に圧されて、震え上がる司会の男。
呆然とする重役達の顔を見渡して智葉は口を開いた。
「会議中失礼するよ!あんたらがこの会社の御偉方かい」
「大体誰なんだお前達は!?社長もいらっしゃるのに失礼だぞ!」
重役の1人が激昂して立ち上がる。
——誰なんだ?
その言葉でピシリと異質な緊張が走る。
静かに眼鏡を外し、ポニーテールを解く智葉。
後ろに放り投げられた眼鏡はいちごが慌ててキャッチし事なきを得た。
「誰だ、だと?社員の顔も知らないのかい。私らはね〝ショムニ〟だよ——!」
張り上げられた雷鳴のような声はフロア全体に響き渡った。
*****
「ショムニだと……?あの掃き溜め部署が何の用だ!?」
声を上げたのは別の役員。
それを無視して、智葉はビシリとある人物を指差した。
「あんたが確か海事1課の課長さんだよな……?」
「ああ、そうだが。何か用かね?」
指を刺された人物は、不自然な程冷静にそう答えた。
予想通りと、智葉は続ける。
「随分ご立派なお仕事をされてる見たいだけど、ちょっとウチのモンが一言物申したいらしくてね」
「ほぅ……?」
眉毛を片方だけ釣り上げて訝しげな顔をする海事課長。
狼藉を止めるべく、飛び掛かろうとした社員の1人を秋一郎が静かに制する。
それを目敏く見とめて智葉はニヤリと笑う、
そのまま後ろで震える恭子を引っ張り出した。
「こいつの顔、見覚えあるだろう?そして、あんたが何をしたかも覚えてるはずだよ」
「ちょ……やっぱりやめとこ!?今ならまだ未遂でクビ飛ぶまではないかもしれ——」
と、恭子が言い終わる前に顔に鋭い痛みが走る。
横っ面にビンタが飛んできた。
そのことに恭子が気付いたのは、
頬が焼けた鉄を押し当てられたように熱を持ってからだった。
「な……?」
その場の全員が呆気に取られる。
水を打ったように静まり返る室内。
「あんたの人生は決められたレールが無くなったら走れなくなっちまうような、下らない人生なのかい!?後はあんた次第だ。落ちこぼれだなんだと腐って行くか、腹括ってスッキリするか!さぁ、決めな!〝末原恭子〟!」
その智葉の言葉に恭子は拳を握った。
強い力の込められた拳の骨が、めきりと軋みを上げる。
「ああ、ええわい。分かったわ、全部ブチ撒けたるわ!課長!、いや元課長!アンタのしたこと全部な!」
腕を捲り上げ、恭子は凄絶な啖呵を切った。
*****
しかし、海事課長は恭子のその姿を見ても些かの動揺も見せない。
こちらもやはり古狸、相当な強敵らしかった。
「私のしたこと……?ハッ、末原君突然やって来て何を言うかと思ったら、異動の逆恨みかね?」
「逆恨みなんてしてへんよ、私はただ真実を明らかにしに来ただけや」
「真実?何のことかね、よく分かるように言いたまえ」
「アンタが、ウチの進めてた案件を横から掻っ攫ったちゅう話や」
「つまりこの件を私が君から横取りしたと?それは穏やかじゃない、何か証拠でもあるのかね?」
「ぐっ……」
そう、証拠なのだ。
現に当事者である恭子がどれだけこの場でそれを追求したとしても、
決定的な証拠には成り得ない。
ただの異動を逆恨みした不良社員の狂言として処理されるのが落ちだ。
恭子の背筋を嫌な汗が流れる。
そもそも智葉に圧されてここまで来てしまったが、
勝ち目のない闘いだったのでは無いだろうか?
そんな不安ばかりが恭子の脳裏を過る。
しかし、恭子の心が折れそうになるのを寸での所で留めたのは、いちごの声だった。
「証拠ならあるんじゃー!」
「いちご……?」
「ほう、証拠があると?見せて貰おうか」
見世物を見るように顔を歪ませ、続きを促す海事課長。
いちごはゴクリと唾を飲み込んで、後手に隠していた紙の束を取り出した。
目の前に突き付けられたA4用紙に、今まで顔色1つ変えなかった男が目を剥いた。
「これは、企画書、議事録、進捗報告書なんかの書類の内容変更の履歴じゃ!いつ誰がどのファイルをどんな風に変えたか一目瞭然じゃ!」
ファイルの改竄は容易に出来ても、〝改竄の記録〟の改竄は一筋縄では行かない。
いちごはそれ利用したのだ、
最も、いちごの案ではなくいちごの〝友人達〟の案ではあったのだが。
「な、何故そんな物が……」
「まだ、ある」
棒突きのキャンディを口に入れたまま、声を上げたのは照。
ごそごそとポケットから取り出したのはボイスレコーダーである。
再生ボタンが押されたその機械から流れ出したのは、
海事課長が飲み会の席なのか、呂律の回らない口調で恭子から手柄を横取りした顛末をさも武勇伝のように語っている音声だった。
「これは、あなたが先月の飲み会の席で言ってたのを噂好きな海外事業部の人が録音しててそれが回ってた物、総務部まで出回ってて助かった」
「それは、酔っ払ってて私も覚えてないな……」
次第にしどろもどろになる海事課長の様子に、ざわつき始める重役達。
ここぞとばかりに、久がずいと前に出る。
「それに、その事を知ってる人が、この中にもう1人いるわよね?」
と、久がぱちりとウインクを送ったのは青褪めた顔をしている重役の1人。
久が今日新しく毒牙に掛けた、その人であった。
本当か、と周囲に詰め寄られるその髭面の重役。
その姿を横目で見ながら霞が手を上げる。
「それに、あなたは以前からこういった事を繰り返していましたね?私のところに相談に来て退職して行った方達の中にも、恭子ちゃんと同じ被害にあった方が沢山いましたよ?」
霞が浮かべる、場違いな満面の笑み。
「今日、その方達に連絡を取ってそのことも再度確認させて頂きました」
菩薩の笑顔と修羅の凶相を思わせるその笑顔は、
青褪めた海事課長の顔から色を完全に失わせた。
「そして、最後だ。私は防犯カメラの映像を全て確認させてもらったよ、終業後に1人パソコンを弄ってデータを改竄してるのも、シュレッダーに掛けた恭子の書類を可燃ゴミに捨ててるのも全部ね」
それがトドメとなったか。
抜け殻のように力なく項垂れる海事課長。
ヒールの音を甲高く鳴らしながら、その抜け殻に近づく智葉。
その頭上で彼女は叫んだ。
「——筋、通さんかい!!!」
*****
「待ちなさい」
会議室に重く響く声。
その声の主は山越商事社長、大沼秋一郎だった。
「君達が言いたいことは分かった」
社長!と、咎めるような声が響くが秋一郎はそれを黙殺する。
その智葉のそれにも負けずとも劣らぬ老獪な眼光と沈黙が室内を支配した。
「会社が守るのは、世間体じゃなくて社員だ、そうだろう?社長」
智葉はジロリと秋一郎を睨み付ける。
「無論、ここまで酷いパワハラがあったとするならば、彼は解雇相当が相応しい」
そして、と秋一郎は続ける。
「末原さん、だったかね?君は今からでも海外事業部に戻ることも出来る、勿論社長決裁だ、誰にも文句は言われんし、言わせんよ」
その言葉で歓喜に湧き立つショムニのメンバー。
だが何故か、恭子だけはその秋一郎の提案を喜んでいる風ではなかった。
「いや、ええんです。確かに、最初はそれをウチは望んでました」
「なら、何故?」
秋一郎の問いかけに一拍置いて恭子ははにかんだ様子で口を開いた。
「もう少し、このメンバーで仕事して見たくなったんです」
では、失礼しますと踵を返して部屋を出る恭子。
逆に呆気に取られたショムニのメンバーが慌ててその後を追う。
6人が出て行った会議室は嵐が去った後のように静まり返った。
「〝ショムニ〟か……」
秋一郎は椅子に深く掛け直して1人呟いた。
*****
「いやー、上手くいったのぅ!」
会議室を出てからの道すがら、いちごが文字通り飛び上がって喜びを表現する。
先程のやり取りを蒸し返すように久も口を挟んだ。
「もう少し、このメンバーで仕事して見たくなったんですキリッ」
「声マネやめや!しかも全く似とらへんし!しかも何やキリッって!」
和気藹々とするメンバーの中、智葉は腑に落ちない表情をしていた。
「あら?智葉ちゃん、どうしたの?」
心配そうに智葉の顔を覗き込む霞。
その霞の言葉に脚を止めた智葉は、恭子の背中に質問を投げ掛けた。
「恭子、あんたアレで本当に良かったのかい……?」
すると、久を小突いていた恭子がくるりと振り返る。
恭子はしばし口籠るような反応を見せた後、顔を赤らめて呟いた。
「良かったんや、ただ今度来たチャンスはキッチリ自分で掴む。それまではショムニにお世話になる、それだけのことや」
その姿に、智葉は嘆息を漏らす。
問題児ばかりの庶務2課、それがやっと動き出した。
ただ、ここからは間違いなく前途多難となるだろう、
あれだけの大立ち回りを重役会議で披露したのだ。
どんな仕打ちが待っているかは分からない。
——だが、だからこそ面白い
智葉は勢いよく両手を打ち鳴らすと、号令を発する。
「じゃあ、気を取り直して懇親会だ!行くよ——!」
高らかに響く返事。
廊下にいた数名の社員が何事かと訝しげな視線を送ってくるが、
今の彼女達にとってはそれすらも今日の勝利を祝う凱歌だ。
6人はそのまま、夜の街に溶け込んで行った。