——毎日毎日毎日毎日。
否応なく繰り返される。
——日常日常日常日常。
勢いで上京して来たのは良かったものの彼女を待っていたのは、
所謂、お局様からのイビリと〝満員電車〟だった。
そこで、ある日彼女は思い付いた。
狭い空間の中でゲームをしようと。
ルールは極めてシンプル。
電車の中で見知らぬ男の手を掴み、たった一言〝叫ぶ〟のみ。
たったそれだけ。
その瞬間の相手の表情。
それが彼女に与えられる〝ゲームクリア〟の報酬。
〝それ〟を手に入れた瞬間にだけ彼女は自分の生を実感出来た。
だから、それを今日も繰り返す。
今日の〝ゲーム〟に望むべく、
彼女は人で溢れる満員電車に乗り込んだ。
「きゃぁぁぁ——!!」
満員電車の中で響き渡る女性の悲鳴。
日本国内でも有数の痴漢発生回数を誇る埼京線の車内に置いて、
似たような事件が発生するのはさして珍しいことではない。
その騒つく車内で、山越商事専務取締役『南浦聡』はまたか、と他人事の感想を抱く。
——そして、思ってもいなかった。
「この人、痴漢です!!」
自分がその容疑者になろうことなど。
*****
「なんで、ちゃちゃのんがこんなことしないとイケないんじゃぁ……」
「いちご!口より手を動かしな!」
いちごのぼやきと智葉の叱責がコンクリートに反響する。
薄緑の作業着とゴム手袋を着けた『ショムニ』の6人は、
社内のトイレ掃除の真っ最中であった。
各々、手にはデッキブラシや雑巾などの掃除用具を手にしている。
このような社内の雑務全般を請け負うのは本来の〝庶務2課〟の姿ではあるのだが、
一様にメンバーの顔には不服の色が滲む。
「あー、もう腰やら肩やら痛くてしょうがないわ」
「もう嫌じゃぁ……」
「あらあら、でももう少し頑張りましょう?2人とも?」
「お菓子食べたい……」
「アンタいつもそればっかりやな……」
と、非難轟々である。
それを見かねた智葉が遂に檄を飛ばした。
「仕事があるだけマシなんだ!暇ばっかりしてたら女が腐っちまうよ!ほら、キリキリ働きな!」
デッキブラシを床に突き立てる智葉に5人は溜息と共に作業を再開する。
しかし、その作業はすぐに中断されることになる。
——血相を変えて飛び込んで来た男の登場によって。
突然の来訪者に目を丸くするショムニの面々と、
汗で前髪をべったりと額に張り付かせた男。
その男は余程急いで来たのか、肩で激しく息をしている。
「おい……!辻、垣内!早く役員室に来い……!」
「何だい、そんなに慌てて。社内にゾウかゴリラでも出たのかい?」
尋常ではないその様子に6人は首を傾げた。
そんな様子に、遂に男は顔を一層紅潮させて叫ぶ。
「いいから!早くこぉい!」
*****
山越商事BLDの最上12階、そこに社長室秘書課は存在している。
社長を始め専務や役員といった会社のブレーン達を実務の面でサポートする部署。
それが秘書課である。
そしてその長を務めるのが——
「ふぅ、今日はどやんかゆっくり出来るごたるね……」
——白水哩である。
「そうですね、ここの所会合だなんだと慌ただしかったですから」
「全くばい、まぁ、忙しかとは良かこつばってんねぇ……」
綺麗に切り揃えられた金髪の女性からの労いに、
哩は大きく背伸びをしながら答える。
伸ばされた腕が天井まで届かんばかりに引き伸ばされる感覚を一頻り味わった後、
だらりと腕を下げると深く息を吐く。
身体の動きに合わせ、長い髪が肩を滑り落ちた。
「他ん2人は?」
「今日は休みを取ってますよ」
「そやんか……」
実際、彼女がオフィスで暇を持て余している、
という状況は中々見られるものではない。
入社当初からその仕事振りでメキメキと頭角を現し、
史上最短且つ最年少で室長の座を勝ち取った彼女は、
社長のみならず他の役員達からの信頼も厚い。
そのせいか、社内で『鉄の女』と揶揄されることも珍しくなかった。
「しかし、仕事ばしせんと身体の鈍ってしょんなかね……」
欠伸を噛み殺しながら哩は呟く。
仕事一筋で生きている彼女にとって、
この状況は逆に苦痛に近い物があるのか。
その姿を見て、金髪の女性はくすりと小さく笑う。
「あらあら、それじゃあコーヒーでも淹れますね?」
「おう、悪かね美穂子」
「いえいえ」
美穂子、と呼ばれた女がコーヒーを淹れるために席を立つ。
その後ろ姿を哩が見送ると、
デスク備え付けのビジネスフォンが無機質な呼び出し音を鳴り響かせた。
*****
「全く、一体なんだってんだい」
鼻息荒く廊下を歩く智葉。
突然呼び出された役員室はこのビルの12階に位置している。
せっつかれて乗り込んだエレベーターから降りて廊下の角を曲がると、
智葉は見知った人影を認め軽く舌を鳴らす。
「嫌な奴に出くわしちまったな……」
廊下の奥から鼻息荒く大股で近づいて来るのは智葉にとっての怨敵、白水哩。
このフロアに秘書課があるのは〝知っていたが〟よもやここで出くわすとは、
智葉は苦虫を噛み潰した。
哩もどうやら智葉の姿に気が付いたのか、
トーンを1オクターブ上げた嫌味ったらしい声を廊下に響かせる。
「おや、辻垣内じゃなかや。こやん所でなんばしよっとか?迷子なら防災センターに行かなんぞ?」
「哩ゥ?相変わらず〝高い所にお住まい〟だね、猿山の居心地は余程良いと見える」
——悪夢の再現。
湧き上がる2人の覇気が廊下の大気を震わせる。
一歩、また一歩近と2人が近付度に増大するの殺気は、それ自体が凶器に近い。
近づく者全てを引き裂いてしまうような、そんな錯覚すら見せる。
やがて、2人は必殺の間合いに入る。
電圧にすら異常を来したか点滅する蛍光灯。
しかし、それを止めたのは第三者の気配だった。
喉元にピタリと刃物を押し付けられたような冷やかな感覚と、
廊下ごと押し潰されてしまいそうな程に圧倒的な存在感。
冷や汗に額を濡らしながら、2人は飛び退いてその気配の方向を向く。
すると、丁度廊下の角を1人の人間が曲がり此方に来るのが見えた。
気が付けば、今まで廊下を支配していた存在感はぱたりを姿を消している。
そこに現れたのは山越商事代表取締役社長、大沼秋一だった。
驚愕の表情を浮かべる2人に、大沼は朗らかに手を振って応えた。
「御機嫌よう、2人とも、今回の件だがよろしく頼むよ……?」
何か恐ろしいモノを見たように萎縮する2人に、
ふむ、と顎に手を当てて何かを思案する大沼。
「まぁ、取り敢えず中に入りたまえ。詳しい話はそこでしようじゃないか」
言いながら、大沼はドアノブを捻り部屋に入って行く。
「何だったんだ……今のは……」
背中に智葉は背中を伝う嫌なモノを感じながら呟いた。
*****
「と言ってもねぇ……被害者が間違いなくお前さんだって証言してるんだよ……」
「だから、私はやっていないと何度言えば分かる!?」
生コン打ちの壁に囲まれた狭い部屋に、怒号が反響する。
「それに、痴漢で捕まった奴は大体アンタと同じように言うのさ、俺はやってない、ってね」
よほど退屈なのか手慰みにヤスリで爪を削っている刑事。
やがて、満足が行ったのか組んでいた脚を解き、彼は〝容疑者南浦聡〟に向き直った。
「痴漢被害という奴は物的証拠が残らないケースが殆どだ、今回だってそう。だから、被害者の証言が全てなんだよ」
「じゃあ、私がやった証拠もないはずだろう!?」
「だから、言った通りさ。証拠が残らないから証言頼り、だとね」
冷淡に言い放つ刑事。
南浦は歯痒さで拳を握り締める。
「ま、いいさ。どの道このままだと状況は変わらんよ」
刑事は薄笑いを浮かべる立ち上がる。
そのまま壁際に立つ部下らしき男に、よろしく、と短く伝えると部屋を出て行ってしまった。
その姿を黙って見送る南浦の拳は怒りに震えていた。
*****
「ゆーてもなぁ……」
「専務が痴漢ねぇ……」
「男なら魔が差したってこともあるんじゃないかしら?」
「久ちゃんが言うと説得力が違うんじゃぁ……」
「でも、そんな人には見えなかった……ぽり」
役員室で哩と共に智葉が聞かされたのは、
山越商事取締役専務『南浦聡』の痴漢容疑による勾留の報。
実質的な会社のナンバー2である彼がそのような状態にあるとすれば、
会社としても動かざるを得ない。
しかし公には公表出来ないとの判断から、
智葉と哩の2人に事実確認のお鉢が回って来たのだ。
大きなプロジェクトを会社全体で抱えているこの時期、
その中にあっても動きやすい秘書課とショムニから2人が選抜されたのである。
「どうしたもんだか……」
智葉は釈然としないまま腕を組む。
確かに照の言う通り、専務の南浦は職人気質で豪放な人柄で評判の人物である。
それに、役員室を飛び出して行った哩の慌てようだ。
もしかすると、自分と同じ疑惑を彼女も心に浮かべていたのかも知れない。
「まず、話を聞きに行くしかないか……」
「でも、それが今日の話なら南浦専務には会えないわよ?」
と久が言う。
久の説明によれば、拘束から48時間は被疑者は留置場に入る事になる。
その間、弁護人または弁護人になろうとする人間以外は何人たりとも被疑者には接見は出来ない。それが日本の〝ルール〟らしかった。
「なら、その間に自分で被害者を探すしかないか」
「でもバリ……どうやって探すのムシャ……」
「いるじゃないか、ウチには優秀な霊能探偵が。それに案外〝被害者が被害者じゃない〟かも知れないぞ?」
「別に探偵って訳じゃないんだけど……」
智葉の言葉に首を傾げる4人と、唇を尖らす霞。
無理もない、彼女の特技はあくまで〝占い〟なのであって千里眼やその類の超能力ではない。
確かに、今回に限っては無理難題だと言えるだろう。
しかし、智葉は唇を吊り上げる。
「ああ、それと、言ってなかったが今回の件、我々のボーナス査定に響くらしいからな」
その瞬間、5人の絶叫が部屋に木霊した。
*****
白水哩は、考え込む。
役員室で聞かされたのは、専務取締役である南浦聡の痴漢容疑での勾留。
次第によっては会社自体が傾きかねない大事件。
しかも、時期が悪い。
会社としても大きなプロジェクトを抱えている現状、
何があっても公にせずこの件を処理しなければならない。
しかし、何の情報もないのだ。
何とかしろ、という方が無理な話だった。
秘書課のオフィスに戻った哩は、
チェアに深く腰掛け直しながら重苦しい息を吐く。
「どんな話だったんでしょうか?」
鮮やかな金髪を揺らしてコーヒーメーカーにお湯を注ぎながら美穂子が問い掛ける。
その質問に、哩はこめかみを揉み解しながら答えた。
「正直やおいかん、どやんなるかも分からん」
「でも、貴女とあの怖いメガネの方が解決するんでしょう?」
「そうたい、ばってん私には解決する手段のなか」
「でも貴女の顔にどうにかなる、って書いてあるのは気のせいでしょうか?」
見透かすような微笑みに哩はハッとする。
自分でも気付かないうちにそんな表情をしていたのだろうか。
哩は考えを振り払うようにかぶりを振る。
美穂子はそんな様子の哩の目の前に、淹れたばかりのコーヒーを置きながら続けた。
「哩さん?因みに、専務は昨日まで例の件で中国に出張に行かれてました」
「そやんたいね」
「それに、朝一の飛行機で〝荷物を持ったまま〟出社なさる予定だった筈ですよね?」
「荷物を持ったまま……」
ぱちんと膝を打つ哩。
机に置かれたマグからは湯気が絹糸を引いたように立ち昇っていた。
*****
「見えたわよ」
ゆっくりと目を開けながら呟いた霞の声に、
ショムニのメンバーは顔を見合わせ歓声を上げた。
——ただ1人、智葉を除いて。
不作法に机に腰掛けたまま彼女は口を開いた。
「で、被害者はどこの誰なんだい?」
「名前は◼︎◼︎◼︎◼︎、麻雀用品メーカーのBlooMに勤めてる見たいね」
「あら、業界人」
「そうみたいだな」
感心する久に智葉は頷いて答える。
続いて、恭子が驚愕の声を上げた。
「しかもBlooMと言えば、相当大手やんか……」
——麻雀用品メーカー『BlooM』
現在の国内において御三家と呼ばれる巨大メーカーの一つ。
東京に本部を置く、その1社の名前が出たことに恭子は驚きを隠せなかったのだ。
そんな恭子に照がアーモンドチョコを口に放り込みながら呟く。
「面接でも受けたの……?ボリ」
「うっ……聞かんといてくれ」
「とにかく!」
騒つくメンバーに智葉が喝を入れる。
「面は割れたんだ!もう後は話を聞くだけ!」
「で、でもー、智葉ちゃん?まさかのアポ無しで行く気かいのぅ?」
おずおずといちごが口を開く。
煮え切らない様子のいちごに、
智葉は腰掛けた机に掌を叩き付けて向き直る。
「当たり前だろ!アポなんて取っててズルズルと予定を引き延ばしにされたらどうするんだ」
「まぁ、それは智葉に任せるけど。例の秘書さん……白水さんだったかしら?には連絡しなくて良いの?」
2人で役員室に呼ばれたんでしょう、と続ける久。
その言葉に智葉は分かってる、と短く返答する。
「モノゴトには、タイミングって奴があるんだよ」
そう言うと、智葉は颯爽と庶務2課を後にした。
*****
流石は一流メーカーの本社、といった所だろうか。
山越とはエントランスの広さが違う。行き交う人間の数も違う。
だが、智葉はそんなことには目もくれず一直線に受付に向かった。
「ここに、◼︎◼︎◼︎◼︎という奴がいるな?」
智葉は、欠伸を噛み殺していた受付の女に威圧的に迫る。
受付という奴はどいつもこいつも、と智葉は内心舌打ちをした。
その智葉の鬼気迫る形相にビクリと肩を震わせて、
受付の女が返して来たのは業務的なテンプレート。
「◼︎◼︎とお約束でしょうか?」
「急用なんだよ!」
正に噛み付かんばかりに智葉は身を乗り出す。
その剣幕に圧されたのか、受付の女は涙目で電話を掛け始めた。
電話での幾つかのやり取りの後、恐る恐る女は智葉の方を向く。
「申し訳ありません、◼︎◼︎は只今他の電話に出ておりまして……」
「なんだとォ……?奴のオフィスは何階だ!?こちとら人の人生握ってんだよ!」
猛虎が吼えた。
その轟くような声にエントランスにいた全員が智葉の方に視線を向ける。
「ひっ……な、7階です……ごめんなさいぃ……」
「最初からそう言ってれば良かったんだよ」
7階、目的の人物はそこにいる。
智葉は弾かれるようにエレベータールームに向かった。
*****
「しかし、社長。最終的に、あの2人に任せて良かったのでしょうか?」
重役の言葉に、大沼は外を眺めながら一拍置いて口を開いた。
「仕方ないだろう、他に注目を浴びずに動ける者が社内にはおらん」
それに、と大沼は続ける。
「彼がこのまま消えてしまっても、喜ぶ人間がいるんじゃないかね?」
振り向いた大沼の口元は、
悪戯を仕掛けた子供のような笑みを貼り付けていた。
その表情と言葉に重役は口籠り、取り出したハンカチで額を拭う。
「それにな、見てみたいんだ。社内の落ちこぼれが本当に〝落ちこぼれ〟なのかを、な」
そう言うと大沼は再び外に目を向ける。
摩天楼の隙間から見える夕焼けは、大沼の目にはいつもより紅く見えた。
*****
株式会社BlooMの7階、終業時刻へ向けて人が浮き足立つ時間帯。
——そこに虎が現れた。
勢いよく吹き飛ばんばかりに開かれたドア、
呆気に取られて身を硬直させる社員達を前に智葉は再び吼える。
「失礼するよ!ここに◼︎◼︎って奴がいるね!?」
しかし、返事はない。
だが、オフィスの一角に一瞬集まった視線を智葉は見逃さなかった。
狼藉者を捉えるべく飛び掛かって来た数人を視線だけでたじろがせ、
智葉は、ヒールを鳴らして目星を付けたデスクに歩み寄る。
間違いなくそこにいるのは〝暫定〟被害者。
その真後ろまで来た所ではた、と智葉は脚を止めた。
「あんたが、鶴田姫子だね——」
「そやんですが、何か用ですか?」
姫子の挑発的な笑みに、智葉は口元を釣り上げた。
*****
「ここで、良かですか?」
智葉が姫子に案内されたのは屋上。
聳え立つビルの合間を縫った風が渦を巻いて吹き荒ぶ、だだっ広いヘリポートである。
そこで夕日に顔を紅く染めながら、智葉と姫子は向かい合っていた。
「ああ、いいよ」
「暇でもなかですけん、手短に良かですか?まずアンタは誰ね?」
腕を組んで仁王立ちする智葉と、手摺にもたれながら余裕の表情を浮かべる姫子。
「山越商事庶務2課所属、辻垣内智葉だ」
「はぁ、その辻垣内さんが私に何の用ですか?」
「何の用もクソもあるか。今朝方、ウチの専務が〝痴漢冤罪〟に巻き込まれた件でね?」
言い終わり、一歩智葉は詰め寄った。
風が唸りを上げて2人の髪を巻き上げる。
『痴漢冤罪』
智葉が引っかかっていたのはこの可能性だった。
社内での専務の評判と人柄を考慮すれば、
彼がその手の犯罪に手を染めるのは如何にも考え難かったのだ。
「あ、あぁ、朝のオジさんの会社の人ですか。それに痴漢冤罪?痴漢の間違いだろたい?」
薄笑いを浮かべる姫子。
「そうだな、確かにその通りかも知れない」
勝ち誇ったその態度に、遂に智葉は〝ジョーカー〟を切る。
「だがそれはウチの専務が〝両手に荷物を持っていなかったら〟の話なんだよ」
智葉にビシリと指を刺された姫子は、余裕の表情を崩す。
「なっ……そやんこつ!ばってんが荷物の軽かったならでくっどもん!」
「お生憎様、あの日ウチの専務は中国へ出張の帰りでね、旅行用のボストンバッグとお土産の中国酒を持っていたそうだ」
「床にぶりやってでん、さるっどが!」
姫子が激昂したように叫ぶ。
その様子に、智葉は追い打ちを掛けた。
「あの満員電車でか?ノートパソコンやら資料やらを踏まれる危険のある床には置かんよ」
2人の間に漂う沈黙。
すると智葉の言葉に俯いていた姫子が、くるりとスカートを翻し背中を向けた。
「そうたい、身体ば触られたとは嘘たい」
呟きが、更に激しさを増した風に乗って智葉の耳に届く。
「もう疲れたとよ……」
姫子の絞り出すような声に、智葉は無言でメガネを外し目を細めた。
「もう何もかんも嫌になったと、最初はほんのストレス解消のつもりやった。誰かば悪者に仕立てるとはこやん楽しかつか、て思った……ばってんがもう……」
言い終わらない内に姫子は手摺に手を掛けた。
その行動は予想外。
智葉は眼鏡を投げ捨てて、栗が弾けたように駆け出す。
——が、間に合わない。
しかし、手摺を乗り越えた彼女の身体が宙に投げ出される直前、
智葉の横を疾走する1つの影。
「姫子——!」
声を上げた影の正体は哩だった。
彼女は手摺を乗り越えようとする姫子の身体にしがみ付くと、そのまま地面に転がる。
「哩さん……?」
「そうたい、哩たい。姫子、もう理由も聞きとうなか」
スラックスの裾に付いた埃を払いながら哩は立ち上がった。
「立て、姫子」
明らかに怒気を孕んだ哩の口調。
その瞳は困惑と怒りの色を宿している。
有無を言わさぬその語気に、姫子はよろよろと立ち上がった。
「あ…あぁ、哩さん……なんで……」
「覚悟は出来とるね馬鹿たれが」
何とか姿勢を保つ姫子の横っ面目掛けて、哩が手を振り上げた。
*****
——だが、哩の掌が姫子の頬を弾くことはなく。
炸裂音の代わりに響いたのは智葉の声。
「やめな、哩!」
「辻垣内?」
「こんなクズ、殴る価値もない!ストレス解消だぁ?あんたなんかよりずっとツラいことを経験してる奴なんてごまんといるのさ!あんたはただのクソガキだ!社会人を舐めんじゃないよ!」
智葉の怒号に崩れ落ちる姫子。
「確かに理不尽なことの方が多いがね、だったら割り切って徹底的に楽しもうじゃないか?それが出来るのが人生なんだよ。つまらないって溜息つくより、くだらないって笑ってる方がずっとマシさ」
「辻垣内……」
「それに、哩、あんたら知り合いなんだろ?後は任せたよ。んー今日は、一杯やるか……」
そう言うと智葉は眼鏡を拾い上げ、その場を後にする。
いつの間にか風の止んだヘリポートに響く、
姫子の泣き声だけがグラデーションに滲み始めた空に吸い込まれて行った。
*****
「ボーナス楽しみなのじゃぁ!」
「お菓子沢山買える……」
「アンタら、ほんっと悠長やな……」
「あら、恭子も楽しみなクセに、よーし今年の冬は奮発しちゃおうかしら!」
「あらあら、久ちゃんたら……」
昨日の騒動から一夜明け、庶務2課のオフィスに咲く黄色い嬌声。
南浦専務の痴漢容疑も、あの後姫子が狂言だったと申告したことで晴れて冤罪が証明された。
智葉の『BlooM』での大立ち回りも〝ほぼ〟不問とされ事なきを得たのだった。
「でも、智葉ちゃん。あの2人が知り合いだったって知ってたの?」
霞が首だけ回して、また机に腰掛けている智葉の方を向いた。
「まさか。あわよくば手柄を独り占めだったんだが、アレは想定外だったよ」
そう言うと智葉は頭を掻く。
元々、電話で伝えた特徴を聞いた哩の動揺から智葉は2人は知り合いである。
と、踏んでいたのだがそれをここで暴露するのは野暮だろう。
「まぁ、何にせよ良かったじゃない。南浦専務も会社間の絡みがあるのか知らないけどあれから無言のままだし!人命救助も出来たんだし!一件落着よね?」
「まぁ、そうなんだがな……」
ぱんと手を叩く久の姿に、智葉は口籠って頬を掻いた。
「どうしたのじゃぁ?」
「いや、ボーナスの件なんだが。流石に暴れすぎたらしくて、減額らしいんだわ」
庶務2課のオフィスに智葉の笑い声と5人の絶叫が響いた——
*****
静かな部屋に響く携帯の着信音。
1人きりの秘書課のオフィスで哩は届いたメッセージを確認する。
差出人の欄にあるのは後輩の名前。
本文には短いメッセージ。
目頭が熱くなるのを堪え切れず、哩はハンカチを取り出した。
ぼろぼろと溢れる雫で机を濡らしながら鼻まで擤もうとティッシュ箱に手を伸ばした瞬間。
「おはようございます、哩さん」
扉を開けて入って来たのは美穂子だった。
「みみみ、美穂子、おはようさん」
慌てふためいて手の甲で目を拭い、鼻をすする哩。
そのあられもない姿にバッグをデスクに置きながら、美穂子はいつも通りの笑みを浮かべた。
「どうしたんですか、そんなに目を真っ赤にして。取り敢えずコーヒー淹れますから」
「あ、ああ、私も手伝うけん……」
わたわたと哩は立ち上がる。
机に置かれたままの携帯の画面はメッセージを表示したままだった。
××月/××日(wed)9:48
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From:鶴田姫子
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To:白水哩
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哩さん、先日はすみませんでした。
私も、ここから色んなことば徹底的
に笑って楽しんでやれるごつ、精一
杯頑張ります。
応援よろしゅうお願いします。
ps:今度飲みに行きましょう!