物心ついたときから、私は独りだった。
悲しそうにしていた男の人――たぶん、お父さんだろう――を見たのを最後に、アメリカの施設に預けられたんだ。
その施設は、今思えば酷い所だった。食事は一日一食あればいいほう、怪我をしても手当なんてしてもらえない。せいぜい唾でもつけておくぐらいだ。私以外にも預けられているこどもはいたけど、皆痩せ細った体を抱え、毛布にくるまって一日を過ごしていた。例外は食事のとき。まるで犬に餌をやるみたいに、管理人のおじさんはパンを放り投げる。それを争って奪い合う私達を見て、その人は本当に楽しそうに笑っていた。傷だらけになって食べれない子もいるのに……
管理人のおじさんはいつもお酒を飲んでは私達に当たり散らしていた。そのお酒を買うために、私たちはよくお使いをさせられた。気に入ったお酒を買ってこないと、容赦なく殴られる。必死にお店の人に頼み込んで買ってこいといわれたお酒を探す。でも、私達の汚れた姿に、大抵は嫌な顔をされた。たまに優しい人がいても、
「君みたいなこどもがお酒なんか飲んじゃいけないよ!」
そう言って怒られた。痩せてフラフラとしか歩けない私達は、この年でアルコールかドラッグに溺れた異常者に間違えられていた。
† † † †
そんなある日。いつも通り私達に餌を与える管理人のおじさんに、遂に施設のこども一人が反逆した。この施設じゃ最年長の男の子が、お酒を呑みながら見物する管理人のおじさんに近づき、氷に突き刺さったアイスピックを手に飛び掛かったんだ。
「何しやがる! このクソガキ!」
でも、飢えで痩せ細った私たちと大人では差がありすぎた。すぐに突き飛ばされて、床に叩きつけられてしまう。うぐぅって呻き声が、はっきり聞こえた。でも、管理人のおじさんは、その子を何度も何度も殴り続けていた。奪い返したアイスピックで。
「このゴミが! 死ね! 死ね!」
ああ、本当に死んでしまいたい。血しぶきが飛んでくる中で、私はそう思った。
「ええい、クソッ! 誰のお陰で食えると思ってんだ! このゴミが!」
気が済んだのか、立ち上がって回りを見渡す。みんなパンを奪いあうのも忘れ、モノを言わなくなった男の子の死体を見ている。でも、誰も声を上げない。圧倒的な暴力に無力な自分たちをよく分かっていたから。そんな私達を見て、管理人のおじさんは口元を歪めた。
「ふん、まあ明日にはお前らともお別れだ」
そう言うと、部屋から出ていってしまった。
† † † †
次の日。管理人のおじさんはいつもより早く施設を出た。管理人とは名ばかりで、いつも施設をあけているあの人には良くあることだ。でも、この日はいつもの「餌」の時間になっても帰ってこなかった。そして、次の日も。3日ほどして、飢えに耐えきれなくなった私は外に出た。汚れた服を引きずって、路地裏を歩く。ぼろぼろのまま歩くには、大通りは明るすぎた。ごみ箱を漁って、消費期限の切れたお菓子やパンを拾う。虫が湧いていても、その部分を捨てて、他のところを口に入れる。吐しゃ物のような味がした。時々、施設を抜け出してやってきたことだ。
他の小さい子は、もう外に出る体力もないけど。
そうやって一週間ほどごみを漁っていると、新聞に目が止まった。施設の写真が載っていたからだ。字が読めないから見出しの意味すら分からなかったけど、思わず手に持って記事を眺めて――、ズタズタに引き裂いた。降ってきた雨を凌ぐために施設へ戻り始める。
でも、戻った施設には黄色いテープが張り巡らされていた。
「……ここが着服事件のあった施設ですか?」
「ええ。個人経営で、企業家がイメージアップのため慈善事業の一環として手を出したものです。ただ、利益優先の体質だったせいでうまくいかず、放棄されてしまって」
警察官と一緒におとなが2人しゃべってる。金髪の男の人と、珍しい黒髪の女の人だ。私は思わず物陰に隠れ、聞き耳を立てていた。
「こどもたちは?」
女の人が訊ねる。
「ええ、施設の中で発見されましたよ。ただ……」
金髪の男の人が答え、言いよどむ。警察官が、代わりに続けた。
「みんな、餓死してたんです」
「っ!」
私は怖くなって路地裏に逃げ出した。ついに雨を凌ぐ場所も失ったんだ。
――これからどうしよう?
私は路地裏を歩きながら考える。でも答えは出ない。歩き続けてくたくたになった。あたりも暗くなって、私は蹲るようにしてその場に倒れた。眠るときのように意識が遠のく。
――ああ、やっと、死ねるのかな?
そんな時、毛布が掛けられるのを感じた。
† † † †
目が覚める。目の前には真っ白な天井。
「あら、目が覚めたのね?」
そして、覗き込んでくる女の人。さっき警察官としゃべっていた人だ。
「……」
無言で女の人を見つめる。きれいな人だ。向こうも見つめ返していた。そして、
「……ねえ、あなた、私たちの家に来ない?」
† † † †
それから、私は日本の海鳴というところに行った。施設でも路地裏でもなかったら、私はどこでもよかったから。ここには他にも小さな子――アリスやアキラがいて、女の人は先生と呼ばれていた。先生のもとにはいろんな人が訪ねてくる。
「こんにちは。これ、差し入れです」
「あら、杏子さん、こんにちは。いつもごめんなさいね」
杏子さんという人もその内の1人だ。よくお菓子を持ってきてくれる。でも、初めてみたときは、
「はい、これ、施設のこどもたちに」
「あら、ありがとう。アリサ、初めてでしょう、ご挨拶を……」
「いや!」
思わず私は、叫んでいた。私はもうあの施設のこどもではないつもりだったから。それを言うと、先生はごめんなさいと謝って、頭をなでてくれた。少し涙を浮かべていたけど、なんでだろう?
その後、杏子さんも同じようにごめんなさいと謝って、別のお菓子をくれた。
「はいこれ、あなた達の家族に」
家族。
そう言われて、私はお菓子をアリスたちの所へ持って行った。杏子さんのお菓子を食べながら、アリスはいつものように遊んでくれとせがんでくる。
「ねー、アリサお姉ちゃん、私、公園に行きたい! アキラと、先生と一緒! ねー、いいでしょう?」
そんなアリスのわがままで、その日は公園で遊ぶことになった。先生はまだ幼いアキラを抱いて、3人で歩く。公園には何度かみんなで遊びに来ている。楽しかった。私たちの他にもいろんな家族連れが来ている中、それに混ざって遊ぶのは、なんだか本当の家族みたいだったから。
「あれ、誰だろう?」
でも、その日は遊べなかった。私と同い年くらいの男の子が倒れていたんだ。
先生はすぐに警察へ連絡を入れた。
「ええ、はい……そうですか。……では、とりあえず病院に連れて行きます。……いえ、知り合いが勤務しているところが近いですので。……はい、場所は……」
とりあえず、うちの近くの病院へ連れて行くことになったみたい。私たちも一緒に行く。でも、結局暗くなるまでその子は目を覚まさなかった。
† † † †
「卯月 孔くんよ。みんな、仲良くしてあげてね」
「……よろしく」
それから何日かすると、その子がこの家に引き取られるようになった。紹介された時、私はすごく嫌な気分になった。路地裏で漁っていたごみの中に沸いている気持ちの悪い虫を思い出したぐらいだ。思わず目をそらす。
「ふ~ん、じゃあ、孔お兄ちゃんだね。アリスはアリスっていうの、あのね……」
アリスが楽しげな声が聞こえた。おそるおそる顔を向けると、少し戸惑ったような顔をしたアイツが見えた。
――この嫌な気分はなんだろう?
そう思っていると、目があった。嫌悪感が増す。顔がゆがむのが分かった
「アリサ、どうしたの?」
先生が話しかけてくる。
「なんでもない」
私はそれだけ言うと、リビングへ戻った。
† † † †
それから、アイツとの共同生活が始まった。正直嫌だったから、できるだけ避けるようにした。アイツもそれをわかっているみたいで、
「アリス、俺は向こうで先生と話してるから、ローウェルと遊んでてくれ」
そういって距離を置いていた。初めはつまんないとわめいていたアリスも、私が早く遊ぼうとせかすと、いつの間にか駄々をこねなくなった。少しさびしそうにするアリスに心の中で謝りながらも、私はどうしてもあいつと一緒に遊ぶことはできなかった。そんなある日、先生から声をかけられた。
「アリサ、孔のことは嫌いかしら」
「嫌い」
「そう……どうして?」
「だって、なんか嫌な感じがするし。笑ったところなんか見たことないから、遊んでも面白くなさそうだし」
私は理由もわからず嫌っているのを誤魔化すように喋った。分かっている。そんな理由なんかじゃない。なんていうか、もっとこう、見ただけで嫌悪感を催す何かがあったんだ。でも、先生は続ける。
「ねえ、アリサ。私はあなたと会えてよかったと思っているわ。でもね、初めはあなたも笑ってくれなくて、すごく悲しかったの」
そうなんだろうか。確かにここで暮らし始めた時はアリスと遊ぶのも戸惑った気がする。
「それは、孔も同じ。きっと、孔もあなたが笑ってくれなくて悲しいと思うわ」
私は黙って下を向いた。笑いかけるなんて、できそうになかったから。
† † † †
お父さんが見つかった。そんな連絡を受けたのは、それから少し後。時々夢の中で思い出す、あの悲しそうな男の人を思い浮かべ、私は会いたいと思った。何で施設なんかに預けたのか聞こうと思った。文句も言おうと思った。絵本でみた家族のお父さんみたいに甘えようと思った。先生というお母さんはいたけど、お父さんはいなかったから。
でも、ここから出ていくのは嫌だった。アリス達と別れたくはなかったから。またいつでも会えるからという先生の言葉に納得し、私はお父さんの所へ行くことにした。先生にアリス達には話さないでとお願いして。
引き取られる日。私はひとりでいろんなところを回った。大丈夫、また来れる。そう思いながら。そしたら、急に意識が遠くなって、気が付くと床に転がっていた。
「おう、目が覚めたか、お嬢ちゃん?」
そういって声をかけてくる男の人。誘拐されたと告げられる。それから悪夢が始まった。
† † † †
真赤な空間。いや、通路だろうか。私はそこを流される。後ろを振り向くと、あの化け物がいた部屋が見えた。思わず、もっと早くと前に走る。すると、少し先の壁に穴が見えた。穴の先には白衣の男の人。私はその穴に吸い込まれそうになる。そんな時、杏子さんが目の前に出てきて、
「そっちに行っちゃだめぇ!」
手を伸ばした。その手を掴もうとするけど、届かない。穴の中に吸い込まれた。杏子さんの涙が私の頬にあたる。そして、
「っ! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁあ!」
私は叫び声をあげた。また、あの部屋に戻されたんだ。周りにはスライム。他に、アイスピックを持った施設の管理人もいる。必死に目の前の扉を叩く。
「開けて、開けてよ! 助けて、杏子さん! 先生っ!」
どんどん近づいてくる化け物。私は必死に助けを求め続けた。
† † † †
どのくらい叫んだだろう。突然、ガラスが割れるような音と一緒に景色が変わった。薄暗い部屋に光がさし、目の前に涙を浮かべるアリスと険しい顔の孔、それに初めて会う女の子がいた。驚いて固まっていると、飛びついてきたアリスが壁にぶつかって痛がっている。普段と変わらないアリスに、私は気が付けば笑っていた。それと同時に気付く。私は死んだんだ、と。
「アリサお姉ちゃん、本当に、幽霊さんになっちゃったの?」
驚いて私に尋ねるアリス。また一緒にいれると喜んでくれた。でも、私は手を伸ばす杏子さんを思い浮かべた。あのとき、頬に触れた涙。そして、そっちに行っちゃダメという叫び。
――ここにいちゃいけない。
そう思った。だから、杏子さんのペンダントを持つ孔に頼んだ。杏子さんのところに行かせてと。
――それじゃあ、さようなら……ううん……、また今度、アリス、孔、なのは。
そういって別れを、いや、また会う約束をする。その時、
「またな、ローウェル」
そういわれた。今まで感じたことのない違和感を覚える。嫌悪感じゃない。ついさっき言われたアリスの言葉を思い出す。
――うん、うん!じゃあ、なのはお姉ちゃんのこと、名前で呼んであげて?
――えへへ、じゃあ、これでみんな友達だね!
だから、私は名前で呼ぶように言った。少し戸惑いがちだったけど、孔は笑って私の名前を呼んでくれた。
「またな、アリサ」
なんだ、孔、笑えるんじゃない。
――悪魔全書――――――
妖精 アリサ・ローウェル
※本作独自設定
悪魔に喰われて死んだアリサ・ローウェルの霊。生前、父親のデイビット・バニングスが企業したばかりの会社が経営難に陥った際、生活苦からアメリカの施設に預けられた。しかし、その預けられた先の施設で職員が金を着服してこどもを置いて蒸発してしまう。街をあてもなくさ迷っている所を視察に来ていた今の施設の先生に保護され、海鳴の施設で生活していた。当初は始めの施設で虐待があったこともあり暗い印象があったが、同じ孤児のアリスやアキラ、孔と過ごすうち本来の勝ち気な性格を取り戻す。海鳴施設の中では年長者で、お姉ちゃん的な役割を果たしたが、理由もなく孔に辛くあたる自分に戸惑うことが多かった。
悪魔に喰われて殺された際に感じた強い恐怖感を利用され、それを増幅させる魔方陣に閉じ込められるが、孔によって救出される。アリスやなのはにも励まされ、最期は笑顔でこの世を去った。
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