少し遅めの昼食の懐かしい『オアシス』のカレーに舌鼓を打ち、腹ごなしにと
それまでの好天が一転し、ザーザーと降り始めた大粒の雨に。雨具を持たぬ私たちは、人も疎らな通りを駆けて行く。
「はぁ……久しぶりに故郷の土を踏んだって言うのに……。雨なんて嫌になっちゃうわ」
「止みそうな気配もないし、しばらくはここで雨宿りだな」
松笠市ドブ坂通りの、洋品店の軒先に都合よく二人滑り込んだところで、軽い嘆息と共に姫がぼやきを零した。
姫――
世界三大企業の一つである『キリヤカンパニー』の総帥に若くして上り詰めた女傑であり、私の雇用主にあたる。
世界が認める若きカリスマの一人として、世間の注目を集める彼女を疎ましく思う輩は当然多く、敵の多い彼女にとって、自分の身を守ることは常に重要な課題であり。武門の名家と呼ばれる家に生まれ、武道でそれなりに名を馳せた私――
「乙女センパイも傘くらい持っててくれればいいのに」
「そういうことは佐藤に任せていたからな。それに、いきなり遊びに行くと言ってホテルを飛び出したのは姫じゃないか」
雇用関係にある以上、敬語で話すのが常なのかもしれないが、彼女と私とは旧知の仲で。彼女は今でも変わらずに私を『乙女センパイ』と呼び慕ってくれているし、私も昔からのあだ名の『姫』を通し、実の妹のように可愛がっている。
今日も予定がないのをいいことに、二人でホテルを抜け出した。
ちなみにいま話題に上った佐藤――
彼女を含めた私たち三人は、かつてこの松笠市に所在する私立『
それというのも、姫や私の勧めもあり、彼女の交際相手(私の部下で中々の切れ者だ)をご両親に紹介するために、急遽里帰りをすることになったのだ。
本人は最初は渋っていたし、見送りに訪れた駅のホームで列車を待っている時は、強張った面持ちでいたので少し心配だったが――。列車に乗り込む前、あいつと目を合わせて微笑む様子を見るに、もう、大丈夫なのだろう。
「私が遊びに行きたいって思ったんだからしょうがないんですー」
自分がやりたいと思ったことは他人の迷惑を省みずにやり遂げる、こういうところは昔から全く変わらない。
私は呆れながらも、微笑が零れた。
姫は、顔に雫が垂れてくるのが気になるのか、雨気を吸って色味を増したブロンド髪を振るって水気を飛ばしている。
デイパックから猫のイラストの描かれたタオルを取り出し、頭を撫でるように拭いてやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「まったく。警備の都合もあるというのに。今日だって無理を言って他の者たちを置いてきたんだからな」
「まあまあ、ここは日本だし、そこまで気を張る必要はありませんて。それだけ乙女センパイを信頼してるってコトですし。
だって乙女センパイなら、ゲリラ兵に育てられた凄腕のスイーパーとか、重さ数トンもあるハンマーを自在に操るもっこり美女が相手でも、片手で捻り潰してくれるでしょう?」
「む。さすがにそんな輩が同時に来たら、両手を使わないと厳しいぞ」
「それで十分ですって」
私の返答がお気に召したのか、姫は満足気に笑っていた。
粗方の水気を拭ってやり終えたところで、今度は自分の身体を拭いていく。
会話が途切れたが、気まずくなるようなことはない。私たちを包む空気は温かなものだった。
多忙な日々を送る私たちにとって、無為にしていい時間などはなく。思えばこうして何もせずのんびりとした時間を過ごすなど、近頃あまりなかったことだ。
私にとっても久しぶりの、――思い出のこの町。
雨音に耳を傾け、雨の匂いで肺を満たし、この時間を、この空間を満喫する。
ゆったりとときが流れる。
ふと会話が途切れて以降黙ったままの姫が気になって、ちらと横を見やると。姫は――色取り取りのスカジャンが並ぶ飾り窓に寄りかかり、ぼんやりと通りの方を眺めていた。
その横顔はとても穏やかでいて……、寂しげで、儚げで。同姓の私でもぞっとするほど悩ましい。
少し迷ってから口を開いた。
「なあ、姫」
今朝、松笠へ行くと言い出したときから気になっていたことを、――いや、今回日本に帰国することが決まってからずっと頭の中に引っ掛かっていたことを、確かめたくて。
「その……」
切り出したものの、私も、姫も、ここにはいない佐藤も、ずっと避けていた話題だから。言葉に詰まってしまった。
「なんでしょう? おっぱい揉んでほしいとか」
「馬鹿なっ……!」
「違うかー。じゃあ雨に濡れてスケスケになったおっぱいを隠すために、私に手ブラしてほしいとか?」
「んな……っ! って別に透けてないじゃないか! というかそもそもこれは透けるような素材じゃないし、透けていたとしてもそんなことは頼まん!」
「チッ。あ、もしかしてようやく私とスる気になってくれたんですか? 私は攻めるほうが好きですけど、乙女センパイが相手なら受けでも大歓迎♪」
クスクスと悪戯っ子の笑みを浮かべて軽口を叩く姫。その
このようなセクハラ発言は今に始まったことではなく、日常茶飯事のことではあるが……今のこれは、話題を逸らそうという意図があからさまだった。
「姫…………私は真面目に話をしたいんだ!」
「なんですか」
語気を少し強めると、姫は観念したように仏頂面で続きを促してくる。前髪を弄くっているのは、不機嫌な時にする癖の一つだ。
軽く咳払いをして一つ間をおいて、私は改めて疑問を口にした。
「その――だな……。どうして、松笠に帰る気になったんだ――?」
返答までにはやや間があった。
「変なことを聞くんですねー。ここには私の実家があるんだし、里帰りくらいするでしょう」
姫の言っていることに嘘はない。
彼女の実家は、この松笠市の名物の一つである米軍基地の敷地内にある豪邸で、今でも変わらずにそこにあり。産まれこそアメリカらしいが、姫が人生の大半を過ごしたこの町に帰省をすることに、疑問の余地はない。
しかし――。
「だが、お前はあれ以来、一度も帰らなかったし、帰ろうともしなかったじゃないか」
「――……」
それが真実を映していないことは明らかだ。――少なくとも姫の心の内を聞いてしまった私には。
私の指摘に彼女は言葉を失い、居心地の悪い沈黙が広がった。重苦しい空気が流れる。
――あの事件が起こる前、私が正式に姫の護衛に就いて以降。少なくとも年に数回は、この町に立ち寄る機会があった。
それはカンパニー主催のパーティに出席するためであったり、『オアシス』のカレーを食べたくなったという少しバカバカしく思えるような理由であったり、様々であったが。
それが、あれを境に。
年に数回の帰省がなくなり、佐藤が姫に何か言いたげな視線を投げるようになり、姫が先程のような愁いを帯びた表情を見せるようになり、――私が往々にして後悔の念に取り憑かれるようになった。
開国祭を控える――本格的な観光シーズンを迎える前のドブ坂通りは、天気予報にもない突然の夕立もあって、やはり閑散としている。
私から視線を外し、再びその通りを物憂げに眺めている姫の、その瞳に映すものは。郷愁を憶える変化に薄い町並みでも、未だ降り止まない夏の初めの雨雫でもなく、おそらくは――。
「……何も……ないわよ」
雨のカーテンが隔てる空間は、時の流れをやけに鈍く感じさせる。
数分にも数時間にも感じられる無言で流れる
「本当に、何もないわ。ただ――――昔を懐かしく思って。……この町を見たくなっただけ」
小さく吐き捨ててからに、思い出したよう「感傷的になるなんて、らしくないけどね」と自嘲と苦笑を添えた。
「そうか……」
――きっとあの瞳には、あの頃の光景が映っているのだろう。
私たちがまだ竜鳴館に通っていた頃の。仲間たちと共に在ったときを――。
「それにしても――雨、止まないわね。これじゃあどこにも行けないじゃない」
それ以上話を続けたくないのだろう、姫が大げさに伸びをしてその話題は打ち切られた。
「……ああ」
こうなってしまうと追求を続けることが難しいことは、長い付き合いの中で心得ている。心残りもあったが素直に応じた。
私が素直に引き下がったことに、姫は拍子抜けしたようだったが――疑問の声は出なかった。
「うーん。もうちょっと遊びたかったんだけど……、今日はもうホテルへ戻るしかないわねー。迎え呼ぶか」
迎えの車を呼ぼうと、姫がポケットから携帯電話を取り出そうとするが――それを手で制した。
それは――。
「いや――そろそろ来ると思う」
頃合だった。時計を見るまでもなく、気配は確実に、大きくなってきている。
「お? 私が気付かない間に迎えを呼んでいるとは。さすがは乙女センパイ」
「……ホテルを出る前に、な。もう伝えてあったんだ。今日、この町に姫が来ることを」
「え? な、にを――」
私にしては珍しくはっきりしない物言いに、姫がその意味を尋ねようとしたとき。キキッと鋭いブレーキ音を伴って、一台の車が目の前に止まった。突然の出来事に、姫は面食らったよう立ちすくんでいる。
いつも乗っている、姫のお気に入りのものとは違う、黒のセダン。雨だれと曇ったガラスに阻まれ、車の中の様子を窺うことはできない。しかし、私はそこにいる人物が誰なのか、すでに知っていた。
改めて時計を見る。予想していたより30分ほど早かった。
私に泣きついても、土下座までしても与えられなかった、最初で最後になるであろうチャンス。すっ飛んできたのだろう。
――この選択が本当に正しかったかは、正直わからない。
ただ、護衛対象のプライバシーを外部に漏らすなど、プロとして絶対にしてはいけない行為で。隊の規律に反することも、世の道理に背いていることも、承知していた。これが私個人の問題だけでなく、
それでも私は――――それが、あれから一歩も前に進めず、停滞したままでいる妹と、もがき苦しむ弟のために。二人の姉としてしてやれる最大限のお節介だと思ったから――。
姫の戸惑いをよそに、すぐに運転席のドアが開かれ、たちまち男が降りてくる。
「…………っ!」
その男の顔を目にした瞬間、姫の目が驚きに見開き固まった。さながら幽霊など――そこに居るはずのないものを目にしたように。
――日本に帰国する直前、佐藤がこっそりと教えてくれた。姫が私たちにも内緒で『あいつ』について内偵をすすめている、と。今日この日、『あいつ』がこの町を離れるよう色々と手を回しているようだ、と。
その言葉に……、松笠に帰る決断をした姫に……。私は今度こそ、全てを受け止める覚悟をしたのだ。
男が私たちの前で足を止める。
私は一年ぶりの、姫にとっては実に三年ぶりの再会だった。
「久しぶりだな……レオ」
私の
初出2012/7