入社して一年にも満たないしがない平社員の俺が、社の命運を握るらしい大切な商談に同行するよう上司に言われたのは一週間前のこと。当然俺の頭は疑問で埋め尽くされたが、異議を唱えることは許されなかった。
経費節減という名目で車で出向くこととなり、下っ端の俺が運転手を命じられたのが三日前。その命令に、単に運転手がほしかっただけなのだと一応は納得していた。
社長と部長を乗せての取引先までの道中。たまたま休憩に立ち寄ったサービスエリアで、タイミングよく掛かってきた乙女さんからの電話を取り――、必然彼女の帰還を知った。その事実に、俺は騒ぐ幹部たちを置き去りにして、松笠へと車を飛ばした。
そして――。
「久しぶりだな……レオ」
雨が地面を叩く音が支配する中でも、はっきりと通るはずの凛とした乙女さんの声。だけど、その声は俺の耳には届かなかった。
なぜなら――、何度も諦めようとし、それでも焦がれ続けた相手が、そこにいたから。
俺は降りかかる雨粒にも構わず、瞬きをすることすら忘れてひたすらに彼女を見つめ続け。彼女もまた驚きに見開かれた目で俺の顔に見入っていた。
「エリカ……」
俺が名前を呼ぶと、彼女は――エリカは、肩をビクッと震わせ俺の視線を避けるよう俯いてしまう。
「エリカ」
俺は――テンションに流されるままに、その肩を抱こうと足を一歩前に踏み出す、と――。
「……っ! 乙女さん」
乙女さんがそれを遮った。
「姫も私も、濡れたままなんだ。話はホテルへ戻ってからでもいいだろう」
「っ……でも――」
「姫に風邪を引かせたいのか?」
「――…………わかった」
よくよく見れば、二人とも雨に降られたらしく、エリカの金髪も乙女さんの青みがかった黒髪もしっとりと濡れており、洋服にも色の濃い箇所がいくつもある。少しの葛藤の末、俺は彼女に従うこととし、運転席に乗り込んだ。
――本音を言えば、制止する乙女さんの腕を振り払ってでも話を続けたかった。けれど、実力行使に出られたら到底乙女さんには敵わないし。……なにより、規律を重んじ、家族を愛する乙女さんが――心から敬愛する姉が、自分を犠牲にしてまで与えてくれたチャンス。信用できないはずがない。
特に反発もなく促されるままに車に乗り込んだエリカを後部座席に、乙女さんを助手席に乗せて、二人が宿泊しているホテルへと車を走らせていく。ワイパーがガラスを擦る音とエアコンの低い唸り声がやけに響く車内は、時折乙女さんが俺の近況を尋ねたり話題を振っているものの、概ね静かなものだ。
……こうして二人を乗せてドライブをしていると、否が応にもあの時の――最初で最後の三人だけでのドライブとなった日の記憶が思い起こされる。
俺は乙女さんの問い掛けに曖昧に返しながら、すべての始まりともいえるあの事件を振り返っていた。
――三年前
エリカがキリヤカンパニーの総帥の座に就いてから半年が経った。一歩一歩、着実に
「うーん……まだ来ないのなー」
エリカが乙女さんと俺を従えて、取引場所である相手方の邸宅に赴き、部屋に通されてから1時間が経ち――。約束の時間はとうに過ぎたというのに向こうからはなんの動きもなく、俺たちはひたすら待たされていた。
おとなしくしていたのは最初の15分ほど。元々気の長い方でないエリカは、待ちくたびれたよう部屋の中をうろつき回り。壁にかけられた美術本にも載っている著名な絵画を目に、「これ……センスの欠片もないわね」と嘲ったり。かと思えば、
ちなみに今は――。
「ほらほらー。暇なんだから、いい加減おっぱい揉ませてよー」
「だから断ると言っているだろう。お前の趣味に口を挟むつもりはないが、それに付き合うつもりはない!」
「よっぴーいないんだから、代わりに揉ませなさい。さあ! さあ!」
手をワキワキと動かしながら、エリカが乙女さんに迫っている。
もちろん実力では乙女さんの方が
俺の言うことに聞く耳を持つようなエリカではないが、
「ほらエリカ。今は敵陣の中なんだから、もう少し緊張感を――」
「そんなことはどうだっていいのよ」
俺が言い終えるまでもなく即答だった。ある程度予想していたとはいえ、めげそうになる。
「どうでもいいわけないだろ。こんなところで足を掬われたらどうするんだよ」
俺の苦言にもエリカにさして堪えた様子はなく、――けれど一応の効果はあったようで。乙女さんを追いかけるのをやめて、俺の隣に腰を落ち着けた。
持参した水筒を取り出し、エリカには温めの紅茶を、乙女さんには渋めの緑茶を、それぞれ淹れる。
「あーあー、もうちょっとで「乙女センパイのおっぱい、ゲットだぜ!」ってできたのにー」
「見る限り劣勢だったけど。ていうか、ここは相手のテリトリーなんだから、警戒を怠らないようにしないと」
「大丈夫よ」
またしても即答。
何を根拠に……。――と、疑問が顔に出ていたのか、エリカは俺の顔を見ると。
「……別に、適当に言っているわけじゃないわよ」
「取引の場所も、時間も、形式も、すべて相手の指定で、これでも罠じゃない、と?」
「普通に考えれば100%罠でしょうね」
「だったら――」
「だからこそ、よ。そんな条件を突きつけられたら、私じゃなくても用心する。この私を相手に、こんなあからさまな策を仕掛けるほど向こうだって馬鹿じゃないでしょう。
……試してるのよ。私が世界のトップを取るに相応しい器かどうか」
「え……そうなの?」
一理あるとは思いながらも納得できない俺は、その道のエキスパートに聞いてみる。
はす向かいに座った乙女さんは、お茶を一啜りしてから。
「器を試すというのはわからないが、こんな単純な罠を張るとは考えがたい、それは事実だな。姫に危害を加えようとするのなら、もう少しマシな方法があるだろう」
「ま、こっちには乙女センパイという最高のボディーガードがいるわけだし。たとえ向こうが私に害意を持っていたとしても、さすがに一騎当千の
そう言って、手にしていたカップをテーブルに置きながら、パチリとウインクした。
それでこの無茶な条件を受け入れ、ここに至っても余裕な態度を崩さなかったのか。二人の言い分に、ようやく俺は納得する――一方でなにか違和感を感じた。そしてすぐに、一つの可能性に思い至る。
「もしかして……だから、俺が選ばれたの?」
今回の取引、一番の懸念事項は、従者は二人までとされたこと――つまり警護に十分な人数を充てられないということ。そのためか普段どこに行くにも必ず同行する佐藤さんが今日に限っては外され、代わりに俺が選ばれた。
てっきりそれは、罠に嵌まったふりをして、敵を焙り出すためだろうと思っていたのだが……。
「まあね。さっきも言った通り、どうせ向こうは私を試しているだけだろうし――まあよっぴーは万一のことを考えて待機させたけど。不測の事態があっても乙女センパイがいれば問題ないし。最低限自分の身を守れる人材なら」
「…………」
リスクが小さいと判断したからこそ、俺でも問題ないと思ったらしい。
……たしかに乙女さんには遠く及ばないし、組み手でもようやくエリカに勝ち越せるようになった程度だし、俺より強いやつは護衛隊の中にだって何人もいるけど……。――本質も見抜けず、エリカに認められたと張り切っていたのが、馬鹿みたいだ。
ついつい憮然としていると、エリカは取り繕うようあやすような口調になって。
「拗ねないの。一応言っておくけど、レオが全くの戦力外なら連れてきたりしないわよ。ちょっとは頼りにしてるんだから、何かあったらちゃんと守ってよね?
「――ン……」
軽めにキスされる。嬉しいことは嬉しいが、乙女さんの手前、恥ずかしさが先立つ。だけどエリカの方は特に気にした様子もなく、俺が顔を赤くしているのを楽しそうに見つめていた。
――と、それまで微笑ましく俺たちを見守っていた乙女さんが、ピクリと表情を変える。
「ん……? そろそろ来たようだが、これは……」
愛刀の
すると――、前触れなく派手な装飾の施された扉が開かれ、武骨な男が入ってきた。――武装した手下と思しき者を大量に引き連れて。
『お待たせしました。
『ええ。ずいぶん待たされましたわ。それで、これはどういう了見で?』
先立って入ってきた男の訛りの強い英語に、エリカが流暢な英語で受け応えている。こんな状況になっても慌てることも怯むこともなく、悠然とソファに腰掛けたままだ。
『見ての通りですよ。あなたには、ここで死んでもらいたい』
『嫌だと言ったら?』
『実力行使に出るまでです』
俺たちを取り囲むようにした兵士たちが、一斉に銃口を向けてくる。――今日の相手はとんでもなく馬鹿の、どうしようもない愚か者だったらしい。
「二人ともっ!!」
エリカの掛け声と同時に俺が後方の敵に飛び掛り、その前に逸早く動き出した乙女さんが敵の半数を斬り倒した。
「これで終わりか。歯応えのない」
敵に囲まれ絶体絶命の状況だったのが数分前。俺たちを取り囲んでいた屈強な兵士たちは、牙を剥いた鬼神の前に為すすべもなく打ちのめされ、絨毯の上で無様に転がっている。
……いつものことながら、俺の出番はほとんどなかった。
「二人ともご苦労様。警察は呼んであるから、面倒に巻き込まれる前に帰りましょうか」
自らも戦列に加わり、得意の蹴りでリーダー格の男を薙ぎ倒したエリカが、長居は無用と帰還を促す。
「しかしレオの動きもだいぶ良くなったとはいえ、まだまだ多数の動きには付いていけていない。帰ったら訓練メニューを増やしてやらないと……」
「これからどうしよっかなー。とりあえず首謀者の名前は聞き出したから、そいつに粛清して、それから代わりの取引先を探して……」
思い思いの、俺にとっても怖ろしい言葉を吐きながら、出口へと向かう二人。
出遅れた俺は、出しっ放しになっていたティーセットを急いで片付け、二人を追いかけようとする。と――。
『ぐ…………こ、の……』
後方から微かな呻き声が聞こえ、そちらを向く。
昏倒していたはずの男が一人、立ち上がってこちらに向けて銃を構えているのを捉えた。銃口の先は――エリカだ。
乙女さんが一瞬遅れてそれに気付き、攻撃に転じる――が、距離が遠く、これでは間に合わない。
不穏な様子を感じ取ったのか、足を止め、訝しげに後ろを振り返るエリカ。
――頭で考えるよりも先に、身体が動いていた。
「ッ……エリカっ!!」
半ばタックルをするような形でエリカに飛びつく。
それと同時に銃声が続けて五発、轟き。背中に鈍い痛みが、右肩に鋭い痛みが走った。
*
「――オ。レオ!」
「――ッ! な、なに、乙女さん」
「信号、青だぞ」
信号待ちをしていたところ、いつの間にか青に変わっていた。思考に没頭しすぎていたらしい。一度深呼吸をして気持ちを落ち着けて、丁寧にアクセルを踏み込んだ。
――あのあと、激痛と思いのほか多かった出血により、俺は意識を失い。気がついたときには病院のベッドの上だった。そして目覚めた俺に、エリカは一方的な別れを告げ、ゼロが8つ並んだ小切手一枚を残して、去った。
隙を見て後部座席を覗く。バックミラー越しに見る彼女は、少しやつれたように見えるものの、やっぱり綺麗だった。
絹糸のように繊細なブロンド髪。ギリシア彫刻を想起させる端麗な顔立ち。サファイアにも似た煌きを帯びた透明感のある青の双眸。ハーフならではの艶めかしいミルクの色の肌。もちろんそういった見た目だけのものではなくて。目標に向かって弛まない努力を続ける姿勢が、彼女をより輝かせる。
そのすべてに心を奪われているのだと、改めて自覚する。
俺では到底辿り着くことができない高みへと、確実に歩み続けるエリカ。そんな彼女を守れたことを誇りに思うし、後悔もない。
そして、これからも守っていきたい。身分の違いは痛感した。だけど、エリカの――姫の
だから――まずは――。――自分の気持ちを伝える。
初出2012/8