私は混乱した。
不意に現れた男に。二度と会わないと決めていた相手を目の当たりにして、私の意識は深みへと沈んでいき。足元がぐにゃぐにゃと歪んでいるような、身体がふわふわと宙に浮いているような、ひどく曖昧な気分だった。
ただ、はっきりしない意識の中で、彼の私を見つめる熱っぽい視線も、私の名前を呼ぶ甘やかな声も、車から降りる時に当たり前のように重ねた温かい掌の感触も、あの頃から全く変わっていないことはわかった。
横浜にあるうちの系列のホテル、その最上階にあるロイヤルスイートが日本での私の滞在場所だ。学生の頃から長く住み処にしていた都内のマンションを処分してしまってからは、大体いつもここを利用している。
その部屋の手前まで来たところで、自然に手が離される。
「――話がある。…………待ってるから」
「……そう」
一言返すのが精一杯で、そのまま逃げるように部屋に滑り込んだ。
扉を閉めてすぐ、自分ひとりの領域に戻ってきたことでほぅっとため息をついた。付けっ放しになっていたエアコンが効きすぎて寒いくらいの室内に、思いがけず身震いする。
いろいろと考えるべきことはあったが――、まずはシャワーを浴びることにして。肌に張り付く湿ったシャツもまだら模様のスカートも一気に脱ぎ捨て、バスルームに飛び込んだ。
体温と同じくらいのぬるめのお湯を頭から浴びる。思いのほか雨で冷やされていたらしく、それがちょうどよかった。熱が身体に広がっていく感触が心地好い。
身体が温まってくるのに合わせて、徐々に思考も回復してくる。いつもより少しだけ念入りに身体を磨き上げながら、今日の出来事を見つめなおす……けど。
「ふぅ……」
――わからない。
彼はなにをしに来たのだろう。『話がある』とは言っていたけど……私には話すことなどなにもないのに。話をしたところで、過去がなくなるわけではないし、まして未来が変わることもないというのに。
――彼の申し出を無視してやろうか。いっそのこと部下を使って力ずくにも追い返してみようか。
そんな考えも思い浮かぶが、どちらも実行性に乏しいことはわかっている。
相当な覚悟をして彼に連絡を取ったであろう乙女センパイと、並々ならぬ決意を持ってここまで足を運んだであろう彼。そんな二人を相手にするのは少々分が悪いし、なにより敵前逃亡なんて私の性に合わない。
向き合わないわけにはいかない。――そこに、得るものはないとわかっていても……。
いつもより少しだけ長めのバスタイムを終え、バスローブに袖を通しタオルで髪を巻いていると。図ったようにドアホンが鳴らされた。
滞在先であれ、プライベートな場所への立ち入りを許可している人間は僅かしかいない。その筆頭で普段からなにかと部屋を出入りするよっぴーは帰省中でいないし、それはよっぴーに同行しているあいつも同じ。『待っている』と言った彼が押しかけるようなことはありえない。おそらくは――。
「……いいか?」
「…………ええ」
出迎えれば案の定、ずっと部屋の前で待っていたらしい、外出した時のままの格好の乙女センパイがいた。
無駄に広いリビングルームに設えられたどこかのブランド物のソファに腰を下ろし、乙女センパイにも座るよう目で促す。
吟味に掛けられる罪人のように恭しく対面に座った彼女は、ピンと背筋を伸ばして畏まった面持ちで、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。とても凛々しいその居住まいは、罪人というよりお裁きを下す名奉行といった方が正しいかもしれない。
とはいえ私が悪代官役であるわけはないし、イニシアチブを握らせるつもりも更々ない。彼女が口を開く前に、早々に切り出した。
「乙女センパイの処分だけど……、何もなしってのは他の者にも示しがつかないから。何らかの形で受けてもらいます」
「わかっている。覚悟の上だ」
「とりあえずよっぴーたちが戻るまでは現状維持ってことで」
「ああ」
「――それから……」
「…………」
「それから……仕事片付けたら行くから。適当に時間潰して、って伝えといて」
「姫……」
私はおもむろに立ち上がって、彼女との距離をじわじわと詰めていく。
「まったく……。あのときにちゃんと説明したし、約束もしたはずなのにね。こんなことになるなら最初から言わない方がよかったかな」
嘆息まじりに喋りながら、不意に彼女の後ろで足を止めると――、
「ぅぐっ……し、しかし――」
「えいっ! 隙あり!」
無防備な背中に抱きついた。
「ひゃんっ! ……ゃ――くっ……な、なにをするっ!」
「やった~~乙女センパイのおっぱい、ついにげっとぉ~~♪ ナマチチが至高なのは疑いようがないけど、サラシ越しってのも新境地だわ! それにこの張り! ボリューム不足を補って余りあるこの見事な張り!! 長年の夢が成就したという補正を差し引いても、今まで揉んできた数多のおっぱいの中でもトップ5に入るわね!!
あ、乙女センパイ。今の感触を忘れないためにもう一回……あー、やっぱ感触の違いを確かめるためにサラシ外してから……うーん、でもやっぱりサラシも捨てがたいし……。とにかくなんでもいいから揉ませて? ていうかモマセロ」
「馬鹿なことを言うな! まったく……人が真面目な話をしているというのに」
「私は一度やると言ったことは何があっても絶対にやり遂げるんですー。こんな滅多とないチャンス、見逃すわけありませんて」
「はぁ……変わらないな、お前は」
「ふふっ」
彼女がいつもの如く呆れたように苦笑を零すので、私もいつもの微笑を返した。それでようやく張り詰めていた空気が弛緩する。
ビジネスの場では隙を見せることは許されないし、ヒラのボディガードを含めた他人といるときも長年培ってきた防衛本能が邪魔をして気を抜くことができない。だからせめて心を許せる仲間といる時間は、そういう緊張感とは離れていたいから。
「さ、乙女センパイも濡れたままみたいだし、シャワー浴びてきたら? なんならこの部屋のを使ってもいいわよ」
「――いや、自分の部屋に戻る。……言伝を頼まれているしな」
「そ」
お風呂を覗く機会が失われたことは少々残念だけど、引き止める特段の理由もないので手をヒラヒラさせた。
部屋を出る前に乙女センパイはもう一度こちらに向き直り、
「――約束を破ってすまなかった。でも…………ありがとう」
「いえいえ。これからも揉んでほしい時はいつでも言ってくださいね♪ あ、今度は乳首も――」
「そっちじゃない!」
頬を微かに上気させながら、それでも足取り軽く出て行った。
ひとりきりになった室内。
デスクに向かう前に。片隅にあるミニバーへと足を運び、適当に酒瓶を取り出して無造作にグラスに注ぐ。
「はぁ……」
さっきはああいう態度をとったし、乙女センパイのおっぱいゲットは思わぬ収穫だったけど。……正直、気分は重たかった。事態の展開にも勝手な真似をした彼女にも、唐突に現れた彼にもうんざりする。
――やはり私の心の内に留めておくべきだったのだ。誰にも言うべきではなかった。
だけど……、私が彼に別れを告げたことを知った時の彼女の鬼気迫る表情から、弟を思う姉心と――ひた隠しにされていたそれ以上の想いを感じ取ってしまい。よっぴーにさえ話すことはしなかった私の気持ちを、彼女にだけは打ち明けてしまったから。せめてもの抗いとして、いくつかの約束は取り交わしたけど。その約束すら反故にするのだから、結局乙女センパイにとっては、それだけ、それ以上に彼が大切なのだろう。
高足のグラスに揺らめく濃赤色を眺めながら、ぼんやり思う。
「3年、か……」
私が彼を捨てて、彼が私の隣からいなくなって。それだけの年月が流れた。
私たちを分け隔てていた時間を思うと、あまりにも長く――、同時にドロドロとしたものが胸の中に渦を巻き、締め付けられるような痛みを憶える。とっくに覚悟は決めていたはずなのに。……我ながら情けない。
胸の痛みを誤魔化すように、一息にグラスを煽った。
「――……変わらなければ、よかったのにね……」
私の声は誰もいない静寂な室内に広がって、消えた。
初出2012/8