夜になっても雨は降り続いていた。
眼下に広がっているはずのネオンに彩られた港町の夜景は、低い雲に覆われうすぼんやりとしか望むことができない。
お気に入りの景色を見れば、少しは気が晴れると思ったのに……。
胸の内に暗澹と広がる雲を払拭できずに肩を落として、彼女は部屋をあとにした。
時刻は午後9時を半分ほど廻ったところ。一日の雑務を終え、エリカはホテル内にあるバーラウンジへと向かった。
ガランとしたラウンジに響く女性ボーカルの古めかしいジャズミュージックを聞き流しながら、ウエイターの案内に従って歩みを進める。視界の端でカウンターの隅に陣取った乙女を捉えるが、声を掛けることも顔を向けることもせずに、そのまま通り過ぎる。当然乙女もエリカの存在には気づいているが、黙って背中を見送るばかりだ。
ここから先は、二人の問題だから。
ライブ演奏を楽しむことができるよう、衝立で仕切られただけの簡素な個室スペースの一番奥。昨今から続く不況の影響か、休前日だというのに閑散としている店には周囲の席にも人はおらず、有名人であって、それでなくても人目を惹くエリカには都合がいいその場所に。レオがいた。
テーブルの上の本物の炎のように揺らめく電気のキャンドルに視線を落とし、ちびりちびりとグラスに口をつけている彼は、通路のほうに気配を察すればついと顔を上げ。緊張からか強張った面持ちは、ウエイターの後ろに続く鮮やかな金色のシッポを確認すると安堵したよう緩む。
「来てくれてありがとう」
手早く注文を済ませたエリカが席に着いたところで、開口一番レオが告げた。
「別に……ストーカーみたいな真似、これ以上されたくないからね。きっちり引導を渡すためよ」
対する彼女の機嫌は明らかに悪い。しつこく絡む彼の視線に眉をひそめて、わざとらしくも手持ち無沙汰の右手でテーブルをトントンと叩いている。
露骨に不機嫌アピールをするエリカに周囲の温度が若干下がったような気もするが、しかしレオが臆することはなかった。
「この程度でストーカーだって?」
「違うの? 大事な仕事ほっぽりだして、こんなところまで押し掛けて、なにやってんだか」
「会社はクビになったよ。二度と顔を見せるなって。……ていうか、どうしてエリカが仕事のことを知ってるのさ?」
「っ!」
「なるほど……。なんか変だとは思ってたけど、圧力をかけたわけか」
返す言葉もなく押し黙るエリカ。レオにしてもそれ以上の追求をするでもなく、そのまま二人黙り込む。――と、見計らったよう先ほどのウエイターがトレイ片手にやって来た。
ウエイターは接客のプロらしく、この場に流れる気まずい空気を気にした素振りも見せずに手際よく赤褐色の液体が煌くカクテル・グラスとチョコレートの入った小皿を並べ、「御用の際はベルでお申し付けください」と言い残し、速やかに下がる。
しばし続いた沈黙は、一曲歌い終えたボーカリストへの疎らな拍手が止んだとき、ふいと破られた。
「……ストーカー、か。それでもよかったけど、実際――エリカを相手に、なんの伝手も後ろ盾もない一般庶民にできることなんてなかったよ。佐藤さんなんかは連絡とれなかったし、乙女さんにしても『プライバシーは漏らせない』、『姫のことは忘れろ』としか言ってくれなかったしね」
ロックグラスを傾けながら、シニカルに口元を歪めるレオ。ただ、自嘲の言葉とは対照的な穏やかな物言いだった。
違和感を覚えて、彼女が不揃いに伸びた前髪が影を落とす彼の面様を覗き見ると、
「話をしようにも、顔を合わすことすらできない。あの頃とは違うんだなって、住む世界が違うんだなって、思い知らされたよ。それでも――……会いたかった。ずっと」
不意に顔を上げたレオと図らずも視線がかち合った。漆黒の瞳に射竦められ逸らすこともできずエリカは、漠然と見つめ返すことしかできない。
「…………御託はいいから、用件を言って」
「俺はエリカが好きだ、今でも。やり直そう」
(やっぱりそれか……)
金の無心であれば、非情な別れを言い渡した自分への罵倒であれば、よかったのに……。
予想を裏切らない彼に、心の中で深々とため息をつく。
「……そう。でも、あの時も言ったはずよね。私、あなたのこと好きじゃなくなったって。だからやり直すことなんてできないわ」
それでも心構えは出来ていたのだろう、毅然と返す口調にもいつも通りの強気な猫目にも、動揺の色は見られない。
「言いたいことはそれだけかしら? なら帰るわよ。これ以上あなた程度のために私の貴重な時間を割くのは無駄だから。――そうそう。ここは私もちでいいから、ヤケ食いでもヤケ酒でも、好きなだけどうぞ」
心なしか早口になっているのを自覚しつつも、すかさず立ち上がった。その瞳には、もはや彼の姿は映らない。
3年前のあの日と同じく、くるりと背を向け、きびきびと歩みだす――。
しかし――。
「! ちょっ、なに――」
あの日とは異なり、去り行くエリカの腕を、レオが力強く掴んだ。
「だったら……恋人じゃなくていい。エリカが俺のことを好きじゃなくても構わない。またエリカを守らせてほしい」
「働き口がなくなったから、さっそくの就職活動ってわけ」
「そんなんじゃないさ。本来の居場所に戻ろうってだけだ」
「……生憎だけど人手は足りてるの。ほかをあたって」
「そんなの関係ないね。俺はエリカの騎士だから、騎士はお姫様とともにあるべきだろ。これからも側で、エリカを守っていきたい!」
彼女の言い分にも耳を傾けず、迸る思慕の念のおもむくままにエリカに詰め寄るレオ。
なにも変わっていなかった。二人が付き合い始めたときから。ひと夏の思い出として彼を切り捨てようとした彼女に滾る想いをぶつけたあのときから。一途にエリカを想っている。――哀しいほどに。
だから彼女は――。
「…………無理よ」
――冷静に、冷酷に。
「だって」
――事実を突きつけなくてはならない。
「あなたの右腕、使い物にならないじゃない」
掴まれた腕が、瞬間緩む。
それが現実だった。
「自分のことなのに忘れちゃったの? あなたのその身体じゃ、私を守ることなんてできないの。で、用済みになったからサヨナラしたんじゃない」
3年前のあの日、エリカを庇ってレオは銃弾をその身に受けた。背中に命中した2発は防弾ベストがその役割を果たし、軽い裂傷に肋骨が2本折れた程度で大事には至らなかったのだが……。深刻だったのは肩の方。
防弾ベストの隙間から肩口に食い込んだ1発の弾丸は、靭帯を裂き、骨を砕き、関節の奥深くまでを抉った。手術は成功し、弾の摘出も無事に済んだものの、彼は、日常生活には差し支えない程度の――一瞬の動作の遅れが命取りになる要人警護のような場面においては致命的になり得る障害を、右腕に負うこととなり――。結果、二人は道を別った。
なのに……。
「この3年なにもしてなかったわけじゃない。なんならテストしたっていい。今いるボディガード連中とだって対等以上に遣り合ってみせる!」
彼はこれからも、その身体でこの過酷な仕事をやり遂げると簡単に言ってのける。
「あのねぇ――」
恐れを知らぬ彼にエリカが心の中でまた嘆息し、彼の馬鹿馬鹿しくも純粋な訴えを退けよう口を開くが。それを遮り、レオは続けて。
「それに、片腕が使えなくても弾除けくらいにはいつだってなれる――っ」
(――ッ!)
パンッ、と乾いた音が鳴り響く。
彼女が我に返ったときには、頬を赤く腫らした彼が目を丸くしていて。彼の頬を叩いたらしい右手はジンジンと痛みを訴えていた。
「…………人手は足りてるって、言ってるでしょう。あなたにそんなことしてもらう、必要も、義理も、ないの」
絶え絶えながらに言葉を絞るが、続かない。
いつの間にかステージは終わっており、奥まった席には話し声もあまり届かず。重苦しい空気の中、俯くエリカと呆然と彼女を眺めるレオ、二人の間のみが静まり返っていた。
グラスの中で、溶けた氷がカランと鳴った。その音を合図に。
「……俺のせい、なのか?」
「……っ」
「どうして振られたのか、ずっと考えてた。エリカの言葉が信じられなかった。だって、あの事件が起きるまではうまくやってた、なんの問題もなかった。それがどうして……って」
沈黙を保つ彼女に構わず、レオは一方的に話し続ける。
「エリカは俺が怪我をしたから、遠ざけたんだろ? 俺を守ろうとして。たぶん、俺のことが好きだから」
「――……」
「俺は、俺自身の意思で、エリカを守っただけだ。だからそのことで、エリカが負い目を感じる必要なんてない」
「…………」
「とっくに覚悟はできてるんだ。騎士として――剣となって盾となって、どこまでもついていくって。なにより、エリカの側にいることが俺の幸せだから――、だから……俺を、側に置いてくれ!」
その華奢な肩に手を掛け一途にエリカを見つめて、いつかの生徒会室のときと同じように、彼女を押し倒す勢いで真っ直ぐに気持ちをぶつけてくる。
自分に向けられる覚悟を決めた男の熱い想いを目の当たりにして彼女は、
(なんだ……)
心の底から安堵した。それは……。
(こいつは、何もわかってない!)
「はあ」
一際大げさに、エリカがため息をつき、
「それなりの期間付き合ってたし、もう少し私のコト理解してると思ってたけど。買い被ってたみたいね」
「え……?」
「自惚れるな……っ!」
凍りつく彼を冷たく払い除けた。力の抜けた腕は、容易く外れてしまう。
「私があなたを守ろうとした? 勘違いも甚だしいわ。……私はね、気に入ったモノは手元に置いておくタイプなの。使えない駒だったとしても、お気に入りなら手元に置くの。で、その上であなたを捨てたわけ。……そろそろ理解してほしいわ」
「なに――」
「私、あなたのこと、もう好きじゃないの」
「……ぐっ」
「それに、さっきも言ったとおり、人手は十分に足りてるの。あなたより優秀で、有能で、お気に入りの手駒がね。だからあなたの出る幕は……ないわ!」
視線を逸らさず真っ向から宣告すると、初めて一途な黒の瞳は揺らいだ。
それでもすぐに思い直したように。
「……それなら、それでいい。俺に好意がなくても構わないって。エリカの今のお気に入りを無駄遣いしないためでも、とことん俺を利用してくれればいい。お気に入りじゃない俺がいくら傷ついたって、エリカの負担にはならないだろ」
そこまで言われても尚、レオは引き下がらない。彼にもこれが最後のチャンスであることはわかっているから。
「なんでもいい、なんでもする。エリカの役に立ちたい。エリカが好きだから……!」
「…………」
ストーカーよろしくしつこく迫るレオに心底うんざりしながら、反論を止め、束の間エリカは思案する。
この調子では埒が明かない。これ以上口で言っても、話題のループになるだけだろう。だったら……。
「……わかったわ」
「! それじゃあ――」
「勘違いしないで。私はただ、あなたがどれだけ無力か――今のあなたにどれだけの価値しかないか、思い知らせてあげるだけなんだから」
「…………」
「……私の役に立ちたいって少しでも思ってるなら、ついてきなさい!」
――言って聞かないのなら、行動で示さなければ。
*
無言のままに乗り込んだエレベーターでの気まずい時間を経て、エリカとレオは最上階まで戻ってきた。
エリカの護衛として――それ以上に姉として、二人の行く末を案じ見守っていた乙女の姿は、もうない。席を立った二人の下へと寄ってきた彼女に、妹分は淡々と部屋に戻って休むようにと命令を、にべもないエリカに戸惑いもう一方の当事者に説明を求めた彼女には、弟分が曖昧な微笑だけを残し。困惑するばかりの乙女は、不穏な空気を察し好奇の眼差しを向けてきた鬱陶しい輩と一緒に置いてきた。それとはなしにこちらも自室に戻る旨は伝えておいたから、少なくとも今夜これ以降、彼女がエリカのところまで押し掛けてくるようなこともないだろう。
先ほどエリカ一人で通ったエントランスを、今度は揃ってくぐる。
ほのかにバラの香りが漂うロビーに上がったところで、彼女はふいと彼のほうへと向き直ると。
「じゃあ、服を脱いで」
「は?」
「服を脱いで裸になれって言ってるの」
「なにを、言って……」
「私の性欲処理に使ってやろうってこと」
レオは今度こそ絶句し、呆然と立ち尽くした。
「私の役に立ちたいとか言ってたじゃない。今のあなたにはその程度の価値しかないんだから、せいぜいそれに利用してやろうって言ってるの。さあ、どうするの?」
「…………」
「嫌ならさっさと帰って」
彼女らしからぬ言動。
こんなことを言い出す自分に幻滅するだろうと、そうすればもう付き纏ってくることもなくなるだろうと、そう思って。
しかし、彼女の淡い期待はあっさりと裏切られ。
「……わかった」
少しの思案の後、レオは静かに、けれどもはっきりと告げた。存外平然としているエリカが見つめる前で、ゆっくりと借り物らしい袖の余ったスーツに手を掛けていく。
上着を脱ぎ、ネクタイを解き、続いてワイシャツのボタンが外され。あらわになった胸元は、学生時代とは比べ物にならないほど逞しい。
見慣れたはずの半裸の彼にも、最後に見たときより一回りほど大きくなった精悍な男の体つきに、エリカの鼓動は否応なしに跳ねる。ただ、それも僅かの間のこと。開いたシャツの先に残る醜い傷痕を覗くと途端に冷え込んでいった。
「ん……いいわ」
動揺を覚えた自分を誤魔化すように、ついといった感じに声を掛ける。彼はちょうどスラックスを脱ぎ終えたところで、脱いだばかりのそれを散らばった服の上に投げ捨てると、彼女の正面に立った。
「シャワーは浴びたわよね?」
「さっきフランクの部屋で借りたよ」
「じゃ、ベッドに、行くわよ」
彼女のささやきと共に、二人の影は吸い込まれるように寝所へと消えていった。
初出2012/10