片翼の天使(笑)で剣をふるうのは間違っている   作:御伽草子

17 / 19


 ずいぶんお久しぶりな投稿になります。にも関わらずお持ちいただいていた方々にお礼をば!





・挿話【英雄未満の少年】

 

 

 

 幾多の神話や御伽噺で語られる英雄達の物語。

 

 迷宮都市オラリオとはそんな彼らの物語を綴る叙事詩の大舞台と呼べる場所であり、今なお新たな英雄達の逸話が綴られ続ける未完の英雄譚が花咲く地であった。

 

 数多の冒険者達がその背中に神の恩恵を背負い、後世に語り継がれるほどの功績や伝説を世に生み落としていた。その偉業はさまざまだ。なにせ冒険者と一言で括るにしても、仕える主神の趣向や固有性、あるいはその者自身の素質によって貢献する分野は違うものへとなるからだ。鍛冶で名を馳せるものがいれば、製薬で名を馳せるものもいる。料理で数多くの人々の舌を唸らせる者もいれば、漁や狩りを本領として希少な食材を追い求める者もいる。

 

 しかし冒険者で一番花形と呼べるのはやはりダンジョン探索を生業とする者達である。

 

 彼らは武器を手に、防具を纏い凶悪なモンスターの跋扈する迷宮へと挑んでいく。トップクラスの実力者ともなればその名声はオラリオという都市を飛び越え世界中に轟き、多くの者達に憧憬を抱かれるほどだ。

 

 ダンジョン探索系のファミリアは数多くあれど、その中でも『フレイヤ・ファミリア』と並び最強の呼び声高い『ロキ・ファミリア』はまさにダンジョン遠征の真っ最中であった……。

 

 

 

 

 

 雷鳴のような轟音が、空洞をつんざいた。

 

 振り下ろされた尻尾は、強竜(カドモス)の何十(メドル)にも及ぶ巨躯に比例するように大きく、外皮は鋼鉄のような鈍い光沢を放つ硬い鱗に覆われていた。人一人を押しつぶして余りある質量と速度を伴った一撃はすでに標的目掛けて打ち下ろされた。その尾は鞭のように柔軟にしなる巨大な鉄槌だった。

 

 轟音と衝撃。残響が轟き、地面が穿たれた。

 

 捲れ上がって跳ねた岩盤が空中でぶつかり合い、石礫となって周囲に降り注ぐ。地面は振り下ろされた尻尾の形に陥没した。蹴散らされた風が壁にぶつかって砕ける。衝撃の残滓は瘧の様な鳴動となって、カドモスの泉がある空洞を揺さぶっていた。

 

 

 【強竜(カドモス)

 

 

 現在確認されている中でも、階層主を除けば最強と称されるモンスターである。

 

 その一撃は巨岩を粉微塵に砕き、牙は鋼鉄を噛み砕くほどに鋭い。強靭な鱗の前では並みの武器ではその身を脅かす脅威たりえず、凡庸な冒険者がいくら束になってかかろうと易々と踏み散らす。強力とされる竜種の中でもとりわけ大きな力を持った、まさに王者にふさわしい風格をそなえた強き竜。

 

 地の底から響くような低くくぐもった唸り声を上げる強竜(カドモス)は、地を撃砕した尾を持ち上げた。

 

 しかしそこに叩き潰したはずの異物の姿は無かった。

 

 ――真横。

 

 その男は舞い上がった砂塵を突き破って、放たれた矢のように猛然と強竜(カドモス)に襲い掛かった。

 

「ハッ」

 

 白い髪をなびかせ、浮かべた笑みは獰猛で攻撃的。突き刺さらんばかりに眼光は鋭く、燃え上がるように躍動する四肢には力が漲っていた。

 

「ウラァッ!!」

 

 拳から肘、肩、腰から膝へ、全身の捻りを使って加速された蹴りは強竜(カドモス)の眉間を打ち抜いた。

 

 耳を聾するような炸裂音に、強竜(カドモス)の引き絞るような悲鳴が重なった。男の身は強竜(カドモス)からすればいとも容易く踏み潰せるような小さなものである。しかし男を超一流の冒険者たらしめた脚力は、見上げるような鴻大な怪物を軽々と蹴り飛ばした。まるで超特大の鉄球にかち上げられたように、怪物の頭は大きくふき飛ばされ、首は伸びきり、次いで引っ張られるように身体がぐらりと傾いた。

 

 強竜(カドモス)は歯が砕ける程に強く噛み締める。たたらを踏み、しがみつく様に爪を大地につきたてて、倒れこみそうになるのを寸での所で堪えた。

 

 強竜(カドモス)が惚けたように天を仰いでいたのはほんの数瞬である。脳を揺さぶられ、混濁していた意識を崩れかけたパズルのピースを整えるように元に戻す。何が起きたか、何をされたかを思いだし、その瞳には煌々と煮えたぎるような怒りが灯った。この瞬間、強竜(カドモス)は今目の前に立っている小さな者が自身の生命を脅かす存在であると認識した。

 

「チッ、流石に頑丈だな」

 

 男は忌々しそうに、しかし愉しそうに舌打ちをした。

 

 強竜(カドモス)がその巨躯から想像できないような俊敏な動きで男に飛びかかる。振り上げられた前腕に、人の胴体ほどもある肉厚の尖り立った爪が鈍い輝きを揺らめかせていた。『オオオオオオオオッ!』という唸り声と共に、強竜(カドモス)は男を薙ぎ払うように腕を振り抜いた。

 

 しかし男の動きはそれよりも疾かった。

 

 矢のように、あるいは風のように。

 

 小山ほどもある大質量の怪物が敵意を漲らせ自分目掛けて飛びかかってくる。その暴力的な威圧感たるや、常人なら足が竦んで動けなくなる。

 

 しかし男は微塵も臆する事は無い。

 

 その怯む事を知らない鋭く尖った眼光が、打ち砕くべき敵を貫く。狙うは真っ向からの迎撃。男は強竜(カドモス)の鼻っ面目掛けて跳躍した。強竜(カドモス)は眼前に飛び込んできた獲物に喰らいつこうと、ぱっくりと口を開く。鋭い円錐形の歯がぞろりと上下に並んでおり、男の身を噛み砕こうと迫ってくる。

 

「馬鹿みてえに口開いてるんじゃねえよ、臭くてたまらねえぜ」

 

 男は強竜(カドモス)の下顎を蹴り上げた。上下の歯がぶつかり合い、ガチン! っと陶器が割れるような音を立てて砕けた。刃のように割れた歯が口内に突き刺さり、強竜(カドモス)の吐きだす怒りに満ちた咆哮は血に濡れていた。

 

 強竜(カドモス)という生まれついての強者にとって、目の前の男は地を這いずる虫のように矮小な存在であるはずだった。

 

 しかし男は壁を跳ね、天井すら足場にして、まるで中空を飛翔するように縦横無尽に動いた。男を踏み潰そうと足を振り上げれば股下を潜って背後から追撃を受け、尾で薙ぎ払おうとすれば空中に跳んでがら空きの背中を狙われる。舞い散った羽根をいくら振り払おうと纏まりついてくるように、男の追撃は強竜(カドモス)の身に絡みつき、骨の髄まで打ち砕かんといわんばかりに四方八方から突き刺さってくる。

 

「オラオラっ! どうしたバケモノ、もう終いか!?」

 

 体躯の差などものともしない。

 

 男にとっての武器はその脚。纏った武装はミスリルブーツ『フロスヴィルト』

 

 男の名はベート・ローガ。【凶狼(ヴァナルガンド)】の二つ名を持つ迷宮都市最高峰の第一級冒険者の一角である。

 

 

 

「すっげえ……」

 

 ベートと同じくロキ・ファミリアに名を連ねるラウル・ノールドはベートの戦いぶりを戦闘の被害が及ばない場所で見つめながら賞賛の声を上げた。

 

 彼とてLv.4の高みに到達した冒険者である。強者が跋扈する迷宮都市においても、その能力値は極めて高い水準にある。数々の強者を見て、幾多の修羅場を潜り抜けてきた眼識のあるラウルの目から見ても、ベートの戦闘力は並みの冒険者と比べても傑出していた。何かが違う。その何かは第一級冒険者としての格の違いと一言で纏めてしまえばそこまでだが、ベート・ローガという男の持つ個性は既存の枠組みに収めるにはやや歪だった。

 

 本来、強者になればなるほど己の命を守る術に長けているものだ。

 

 それは臆病とは意味が違う。いわば危険を察知する嗅覚である。

 

 己の生命を脅かす強敵と対峙した場合、いかに的確な状況判断を下せるか否かが生死の明暗を分ける鍵になる。守っているだけでは敵に打ち勝つ事は出来ず、かといって闇雲に攻めようとすれば敵に付け入る隙を与える。勝負は一瞬で決まる。いかに敵の虚を突き、勝負を決するに足る一撃を叩き込むかが重要だ。連綿と移ろう戦いの趨勢を見極めて、生と死が交錯する際涯の境界線に一歩踏み込むことでしかもぎ取れない首の皮一枚の勝利がある。ラウルの目から見てベートという男は稲光のようなわずかな一瞬しか見出せない勝機を感じ取る嗅覚に優れ、何より危険の中に己の身を滑り込ませる術に長けているように思えた。ベートの強さとは……と、そこまで考えたラウルは静かに嘆息した。自分が彼ら超一流の冒険者の強さを語ること自体が滑稽なことに思え、自嘲的な笑いを口の中で転がした。

 

「君は少し自己評価が低いんじゃないかな」

 

 まるでラウルの心の声を聞き取ったかのようなタイミングで声をかけてきたのは、ラウルと同じくベートの戦闘を遠巻きに見守るロキ・ファミリアの団長フィン・ディムナだった。

 

「……なんのことっすか?」

「隠さなくていいさ。自分とベートを比べていたんだろう」

 

 とりあえずすっとぼけてみたラウルだったが恐ろしく洞察力の高い団長にはお見通しだったようだ。見てくれこそ少年と見まごうような容姿であるがそれは所詮小人族(パルゥム)の種族的な特徴でしかない。彼の事を軽んずる者などこの迷宮都市には存在しない。

 

 さすがに敵わないなあとラウルは小さく笑みを浮かべた。

 

「まずは胸を張れ。萎縮して下を向いたままでは前に一歩踏み出すこともままならなくなる」

 

 強い眼差しだった。深く語ることは無かったが言外に込められた真っ直ぐな感情に答えたいと思えるような不思議な力が込められていた。

 

 本当に敵わない、と今度は妙に小気味良い情調で笑いながっら「ッス」と短く返事を返した。

 

「それにしても……今日は特にキレッキレすねベートさん」

 

 最初強竜(カドモス)とサシで殺り合うと言い出した時はどうなることかと思ったが、蓋を開けてみれば心配するだけ無駄であった。一緒についてきたガレスにいたってはベートと強竜(カドモス)の戦闘そっちのけで武装の手入れを始めているほどだった。おそらく決着は近い。一蹴とは行かないまでも終始優勢のまま畳み掛けているときたものだ。

 

 しかしフィンはラウルの言葉にわずかに顔を曇らせた。「無茶や無謀って一言だけで括れないからこそ諌め難い。厄介なものさ」とため息をついた。

 

「はい?」

 

 フィンの言葉にいまいち要領を得ないラウルだったが、フィンはおどける様に肩をすくめた。

 

「ウチのファミリアは頼りになる問題児ばかりってことさ」

 

 団長としては胃が痛いばかりだよ、と笑った。

 

 

 

 

 

 幾多の神話や御伽噺で語られる英雄達の物語。

 

 迷宮都市オラリオとはそんな彼らの物語を綴る叙事詩の大舞台と呼べる場所であり、今なお新たな英雄達の逸話が綴られ続ける未完の英雄譚が花咲く地であった。

 

 しかし。

 

 文章の向こう側や伝聞の中で語られる英雄達の物語であるが、そんな彼らにも生活があり、その周りには老いも若きも男も女も、多くの人々が暮らしてる。

 

 叙事詩にとって語るほどでも無いと判じられた脇役にすらなれなかった者達の中には、まだ表舞台に上がる資格を得ていないだけの英雄未満のひよっこが埋もれている。そんなことも、もしかしたらあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

  ・挿話【英雄未満の少年】

 

 

 

 

 

 ベル・クラネルは夢を見ていた。

 

 眠っていると自覚した途端、深い眠りの底から意識が徐々に浮かび上がってくるのを感じた。身体を包むブランケットの匂いや、頬でこすれる枕の肌触り。じわじわと活気を取り戻していく肉体の感触が脳味噌をとろかしていた睡魔を打ち散らしていく。

 

 まどろむ意識の切れ端で「もう朝か」やら「朝ごはんどうしよう」などと考えているうちに先ほどまで見ていた夢の内容などはすでに忘れかけている。雲が渦巻いているようなぼやけた意識の中に、夢が抜け落ちたばかりの無色透明な空白のようなものがぽっかりと生まれていた。人の意識が底の見えない海のようなものなら、夢というやつは海の底でしか生きられない深海魚のようなものなのかもしれない。普段は深くて暗い場所でゆったりと泳いでいて、その人が眠りについた時に一時だけ触れることが出来るのだ、と取り留めの無い感想がうつらうつらとした意識の中で浮かんで消えた。

 

 深い眠りの底からゆっくり浮かび上がってくる途中のまどろみは現実と夢の境界線で、どちらが現実でどちらが夢か分からなくなる一瞬がある。そんな時だ。ふいに眠りの底に置いてきた夢で聞いた言葉が現実の意識に向かってにじみ出てきた。

 

『男ならハーレム目指さなきゃな』

 

 その言葉を聞いて「そういえば昔の夢を見てたんだっけ」とベルは思い出した。

 

 それはベルが幼い頃から刷り込みのごとき頻度で、祖父から言い聞かせられてきた言葉である。おどけたような口調だった。人によっては冗談とも妄言ともとれる内容だった。しかしベルの祖父はまるで将来のために勉強をしなさいとか貯金をしなさいとか、そういう世の中の仕組みの中で上手に生きるための訓戒みたいなものを教え諭すような口振りで〝ハーレムを目指せ〟と至極真面目に孫に伝えた。世間一般の感覚で言えば少々ズレた意見かもしれないが、それでも祖父はベルの人生をより良いものにしてあげたいという人生の先達としての心からの助言であった。そんな祖父の言葉もあってかベルは幼心に素敵な女性との出会いに憧れ、そして祖父が読み聞かせてくれた冒険譚の中で活躍する英雄たちに憧れた。

 

 英雄と呼ばれた彼らは時に悪いドラゴンを打ち倒し、さらわれたお姫様を助け出した。凶悪なモンスターの大群をたった一人でなぎ払い窮地に立たされた仲間を救った。しかし彼らはただ強いだけではない。ひどく人間臭い面もあった。自分の冒険談を誇らしげに語りながら大酒をかっくらって陽気に笑い、女性にふられては自棄酒を涙で濡らしていた。意見を違えた仲間と子供みたいな殴り合いの喧嘩をしたかと思えば、次の日にはその仲間と肩を組んで酒場を梯子する。ダンジョンで宝物を見つけて無邪気に喜び、その夜には博打で全額すって頭を抱えている。

 

 彼らの生き方は……なんと言うか、激しくて荒々しかった。

 

 人生山あり谷ありというが、彼らの人生はまさに山と谷ばかりで平坦な場所など無い。それは安定した生活と呼ぶには程遠い刹那的な生き方だ。

 

 でも、羨むほどに楽しそうだった。少なくとも冒険譚の向こうで語られる彼らは心の底から人生を楽しんでいた。

 

 幾多の英雄たちが後世にまで紡がれてきた物語の中で今も燦然と輝いていた。ただカッコいいだけの英雄だけじゃなかった。怒りたい時は子供のように怒って、泣きたい時は男だって関係無いと言わんばかりに涙を零して悔し泣き、笑いたい時は空の果てに届けと言わんばかりの大声で精悍に笑う。

 

 でも決める時はきっちり決める

 

 相棒は腰に佩いた一振りの剣。あらゆる艱難辛苦をその剣で斬り払い、立ちふさがる強敵たちをねじ伏せる。己が身一つで人生を切り開き富と名声を手にする。

 

 そんな彼らが途方もなくカッコよく思えた。

 

 彼らはどこまでも自分の心に素直に生きていてどこまでも自由だ。彼らの人生は――それを語ってくれる祖父のしわがれた声は燃え滾るような息遣いで物語を綴っていた。とてつもない熱量を持った彼らの魂と生き様はいつしか幼いベルの心にも焼け付くような憧憬の火を灯していた。

 

 女性との素敵な出会い。

 

 英雄への憧れ。

 

 二つの願望は幼い少年の無垢な憧憬の中で育まれた。どちらか片方の願いだけでは、あるいは今と違う人生を歩んでいたかもしれない。素敵な女性との出会いというだけなら冒険者という苛烈な道を選ぶことは無かったかもしれない。英雄への憧れは正直年を重ねていくにつれ、自分では英雄みたいな偉大な存在になれないのだと客観的に考えてしまうようになっていた。

 

 しかし素敵な女性との出会いという願いが一場の夢に手放してしまいそうになった〝英雄〟の夢を繋ぎとめてくれた。愛読書であった『迷宮神聖譚』(ダンジョン・オラトリア)に登場する彼らのように、自分もオラリオで冒険者になれば想い焦がれていた形で素敵な女性達とお近づきになれるのではないか、そんな純で不純な想いがベルの人生を突き動かした。

 

 唯一の家族であった祖父が逝去してから一人になったベルは、冒険者になるべくオラリオを訪れた。不安こそ大きかったが湧き立つような高揚感も確かにあった。ここから僕の冒険が始まる! と期待に胸を膨らませていた。

 

 しかし人生そこまで甘くなかった。

 

 見た目小柄で貧弱な体型であり、ファミリアに貢献できるような専門的な知識などまるで無いベルではどこのファミリアでも門前払いであった。冒険者になるには【神の眷属】(ファミリア)に加わって【恩恵】を授かることが必須条件である。自分ではそもそもスタートラインにすら立てなかったという現実に、ひたむきに夢を追いかける少年の心は無残にへし折られようとしていた。

 

『――ボクたちの【ファミリア】はここから始まるんだ』

 

 だからこそ、そんな自分に手を差し伸べてくれた神ヘスティアはベルにとって恩人であり、かけがえの無い大切な人だった。見た目は可憐な美少女であり、身長は小柄なベルより更に低い。でも地上に降臨した本物の女神であり、正真正銘の超越存在(デウスデア)だ。さすがに恋愛感情どうこうというのは畏れ多いが、本当の家族のように近しく、同時に自身の主神として心の底から敬える存在。それがベルにとってのヘスティアだった。

 

「……神様」

 

 ぽつりと口をついて出てきた言葉の底にはまだ色濃い眠気が揺らめいていたが、まるで迷子の子供が親に焦がれるような語調であった。

 

 ベルはハッと瞼をこじ開けて慌てて周囲を見回す。そこは見慣れたヘスティア・ファミリアの本拠(ホーム)である教会地下の隠し部屋である。うらぶれた、というのは言いすぎであるが室内干しの洗濯物やら石作りの寒々とした地下室に無造作に配置された家具が妙な生活臭を醸し出している。そこに主であるヘスティアの姿は見えなかった。むしろ周囲の空気が持て余すほどの華やぐ美貌を持った彼の少女がいないからこそ、この部屋は雪曇の空のようにどんよりと重苦しい雰囲気に見えたのかもしれない。

 

「聞かれて……ないか。よかったぁ」

 

 世間一般では少年と呼べる年頃のベルではあるが胸に抱いた矜持は一端の男である。それなのに縋りつくような声色でヘスティアを求める声など聞かれたとあってはだいぶ恥ずかしいものがある。

 

 もっともベルに対してただの眷属という言葉では括りきれないほど大きな想いを寄せるヘスティア本人が耳にしていたとしたら「そんなに愛おしげにボクの名前を呼ぶなんて! キミってやつはまったくしょうがないなあー」と欠片もしょうがないと思っていなさそうな喜色満面な表情を浮かべながら床に押し倒すようにベルに抱きついてきかねない。四肢を絡め胸板に頬擦り十往復もセットだ。人によっては御褒美である行為ではあるのだが、そこは初心なベルである。嬉しいことは嬉しいのだが申し訳ないやら恥ずかしいやらが圧倒的な割合を占めるためトータル的な感想は「勘弁してください」だ。

 

「よっと……」

 

 ベルは寝床にしているソファーから半身を起こす。ずいぶん眠った感覚がある。体を駆け巡る神経の流れが粘り気を帯びたように鈍くなっていて、全身に軽い痺れを感じた。首や肩のコリをほぐし、昨夜から机の上に置いたままで生ぬるくなった水差しの水で渇いた喉を潤した。

 

「神様ー、どこですか神様ー」

 

 寝ぼけ眼をこすりながら、ベルは周囲に呼びかけてみるが返事は無い。おかしいな、と思いつつ手に持った水差しを机の上に戻す。そこで机の上にメモ書きが置かれているのに気づいた。

 

「これ……あ、神様の字だ。ええっと……なになに」

 

 メモ書きにはヘスティアの筆跡で『おはようベル君! 昨日言ったけれどボクは朝からちょっと出かけてくるよ』と綴られていた。

 

 そういえば、とベルは昨夜のヘスティアとのやり取りを思い出していた。

 

 朝から神友と会う約束があると言っていた。なんでも下界に来てからしばらくお世話になっていた神様で、このホームを提供してくれたりバイトの紹介までしてくれたらしい……穀潰しの居候でベッドの上でゴロゴロしながら書籍を読み漁っているような自堕落な生活を送っていたヘスティアに堪忍袋の緒が切れて叩き出したとも言うが。

 

 割の良いバイトがあるらしく、それを新しく紹介してくれるということだ。ヘスティアは『これで生活がちょっと楽になれば夕食に一品くらい彩りをつけられるかもしれない』と張り切っていた。

 

 僕ももっとがんばらないと、と意気込むベルだったがヘスティアからのメモ書きの続きを読んで、顔を青ざめさせた。

 

『おはようベル君。昨日言ったけれどボクは朝からちょっと出かけてくるよ。あと例の件、よろしく頼んだよ』 

 

 〝例の件〟という文言が目に留まった瞬間、寝起きで鈍くなっていた思考が加速度的に回転を始めた。錆付いて立て付けが悪くなったような記憶の扉がひしゃげるような勢いで蹴り開けられる。吐き気にも似た焦燥感が胸の奥からせり上がって来て、声にならない悲鳴が喉の奥で反響して頭を突き抜け雑巾を絞るように脳味噌をぎりぎりと軋ませた気がした。

 

『――追伸・寝坊しちゃダメだぜ?』

 

「や」震えた唇から吐き出された吐息は身体の内側からあふれ出す焦燥感で鋭く尖っていた。

 

「やらかしたぁああああああああ――――ッ!!」

 

 ベルの絶叫を皮切りに閑寂とした部屋の空気はまるで夜半過ぎの天井でネズミと蛇の追いかけっこが始まったような慌しいものへと様変わりした。

 

 生地が引き裂けるのではと思うような勢いで寝間着を自分の身体から引っぺがし普段着に袖を通した。脱いだ寝間着はいつの間にか手の中に無かったので床にでも放り投げたのかもしれないが、そのことに頓着している余裕も無かった。朝食は食べなかった。食べる時間も無かったし、歯を磨く手間がかからないので一食くらい抜いても問題無い。寝癖を直す時間などありはしないが、気付けの意味も込めて顔だけはしっかり洗った。両手ですくった水を顔に叩きつけ、タオルで豪快に水滴を拭う。財布をポケットにねじ込み、よし行くぞと意気込み大きく前足を踏み出した瞬間、足の小指を机の脚に向かって杭を打つような勢いで叩きつけた。脳が痛いと感じるまでの一瞬の空白の中で『あ、これヤバイ、絶対痛い。無理無理きっと耐えられないくらい痛いよ。誰か助けて』と中身の無い祈りを天に捧げた。一瞬遅れて痛いという情報が稲妻のように脳味噌に突き刺さった。ベルは「ひふらほあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」と魂を搾り出すようなけたたましい叫び声を上げて床にひっくり返った。頭の中ではなぜかジャーンジャーンという銅鑼の音が響いていた。小指から波及した痛みは全身がばらばらに砕けて血の変わりに焼け付く溶岩が体中を巡っているみたいな痛みだった。【恩恵】を授かって身体能力諸々が上がろうと痛いものは痛かった。

 

「ヒュー、ヒューッ……ふんぬあぁあああああああ――――ッ!」

 

 ひきつけを起こしたような呼吸を正常なリズムの型に無理矢理押し込んだ。痛みを振り払うように気焔を吐いて立ち上がろうとする。前足側の膝を立て、後ろ足側の膝を床につけてぐっと爪先に力を込めた。いわゆるクラウチングスタートのポーズに近い。今度こそ行くぞ! と痛みをこらえて扉目掛けて一目散に猛進しよとした。飛び出そうとしたその瞬間、爪先の下に先ほど脱ぎ散らかした寝間着があって上体ごと足をずるりと後ろに滑らせ、自分の膝目掛けて豪快なヘッドバット。おでこを押さえながら声にならない悲鳴を上げて床の上でのたうちまわった。

 

「~~~~~~~~~~っ!? ――ま、負けないッ!」

 

 自分でも何と戦っているかよく分かっていなかったが、少なくともダンジョンでモンスターと交戦したわけではないのにここ最近で一番の満身創痍っぷりだった。そうして這う這うの体で扉にたどり着いたベルはオラリオの街へと飛び出していた。 

 

 

 

 

 

 その日は朝から雲一つ無い青空だった。

 

 夜半過ぎに降った豪雨によって洗い清められてがらんどうになった空気は、今は湧き立つような若葉の青々しさや湿った土の匂いで満たされていた。雨水を吸い込んだ街の景色は爽やかな朝日を浴びて濡れ光り、レンガ造りの建築物などは妙に艶のある表情を浮かべていた。荒くれ者どもが跋扈する迷宮都市の騒音の吹き溜まりのような喧しさはまだ鳴りを潜めており、今はにわかごしらえにすぎない物静かな調和が都市全体を包み込んでいた。

 

 朝方だというのに風はやや強かった。気圧の大きな変化のため雨が降った翌日は大体そうだ。特にオラリオは高い市壁で囲まれた円形状の造りをしているため、市壁を吹き越した風が上空の気流を巻き込んで街へと吹き降りてくる。都市の中央から放射状に伸びる都合八本のメインストリートと、それらが合流する円形の中央広場(セントラルパーク)は、強い風から周囲の建物への影響を弱めるための風の通り道としての側面もあった。

 

 住宅地が密集する西のメインストリートからいくつにも枝分かれした通りの一つを、ベルは風を切り裂くようにひた走っていた。夜露に濡れた柳の枝葉が風に吹かれて水粒を散らすように、ベルの額や頬からあふれた大粒の汗が白い髪を伝わって後方へと絶え間なく迸っていた。ベルは跳ねるような足取りで前へ前へと突き進んでいる。ベルの背は低く華奢な体躯である。その姿は白い髪と深紅の瞳も相まって、まるですばしっこく愛らしい『兎』のような印象を見る者に与えた。

 

「クッ! なんてことだ!」

 

 口惜しげに歯を食いしばる。

 

 ベルが走っているのは彼の現在の住居であるヘスティア・ファミリアの本拠(ホーム)に程近い通りである。朝方であることと関係なく人の往来は滅多に無い。通りに面しているのはまるで古代の遺跡のように荒れ果てた石造りの建築物だけであり、それらには都市に流れる時間そのものから零れ落ちてしまったかのように蔓や雑草が伸び伸びと蔓延っていた。石材が砕けて剥がれ落ちた残骸が道のいたるところに散乱しており、それを片付けようとする人間は一人もおらず、片付けなくともさして困る人間もいない。そこはオラリオの都市機能から切り捨てられた場所といっても過言ではなかった。

 

 世界有数の大都市とはいえ、メインストリートから路地一つ隔てればこういったうらぶれた場所は数え切れないほどある。そしてそういった場所に本拠(ホーム)を置くヘスティア・ファミリアの財政状況といえば、言うまでも無く危機的状況……には間違いないのだが、厳密にはその言い方も正しくは無い。なぜなら危機じゃなかった時期など最初から無かったので崖っぷちこそが定位置であり、栄華を極める迷宮都市の光が届かない薄暗い場所でヘスティア・ファミリアは細々と生計を立てていた。着る物どころか日々の食事さえ困窮しているなど、おおよそ文化的な生活とは言いがたい。

 

 しかしながら人生裏街道驀進中な現状を打開しようという気概はあれど、持つ物を心の底から妬むような卑屈さはベルにも、そして彼の主神であるヘスティアにも無かった。何だかんだで底抜けに明るい一人と一柱なので、貧乏暮らしでさえ日々のちょっとしたアクシデントを笑いに変えて、日常の中にありふれている小さな幸せをかみ締めながらお互いを支えあって楽しく生きていた。

 

 たとえ余人には共感されなくとも、そこにはベルにとって満たされた生活があった。

 

 ――この(ひと)を助けてあげたい。

 

 それはヘスティアと出会ってからベルの心に深く刻み込まれた、一番最初の自分への約束だった。

 

 だというのに。

 

「こんな致命的なミスをするなんて……僕ってやつは……っ」

 

 嘆いていても時間が戻るわけではないが、嘆かずにはいられなかった。

 

 ベルは幼い頃より祖父を手伝い田舎で農作業を営んできた。そのため朝早くに起きるということに関しては自分の体内時計に全幅の信頼を置いていた。だがここ最近は遅くまでダンジョンに潜っているということが続いていたため、疲労が蓄積していたのかもしれない。自分自身の夢やファミリアのためにと頑張っていた結果、ある意味最悪のタイミングで跳ね返りがやって来た。

 

 ベルは昨夜のヘスティアとの会話を思い出していた。

 

『ベルくん……眷属である君にこんなことを頼むなんてボクは神様失格かもね』

 

 愁いを帯びた表情だった。どうしようもないやるせなさや自身の考え方や行為に対して懺悔するようような自虐的な色が綯い交ぜになった瞳は物憂げに揺れながら、所在無さげに床の上をさまよっていた。

 魔石灯で心細げに照らされた廃教会の地下室。まるで薄墨を溶かしたような重い湿り気を帯びた暗がりは、ヘスティアの憂いを帯びた顔によりいっそう深い影を落とし、神の身でありながら今はか弱げな少女にしか見えないその小さな肩を押しすくめるように圧し掛かっていた。

 

『これが許されないことだと分かっている。一部の人たちにとってはある種の裏切りに等しい事だともね』

 

 抑揚の欠けた語勢だった。ヘスティアが吐き出すように告解する内容よりも普段の陽気さが微塵も感じられ無いその声色がなによりもベルの心を締め付けた。

 

『神様』

 

 ベルはヘスティアの言葉を遮るように声をかけた。もういいんです、という言葉は激情で言葉尻を荒ぶらせたヘスティアによって途切れた。

 

『断ってくれてもかまわない! いや、むしろボクは君が断ってくれることを望んでいるのかもしれない。君まで後ろ指差されるようなことになったらボクは……っ』

『神さま!』

 

 びくりと、ヘスティアは肩を震わせた。

 

『大丈夫です。僕も、あなたと同じ気持ちです』

 

 迷子の子供のような不安で揺れるヘスティアの瞳を真っ直ぐ見つめながら、ベルは手をぎゅっと握り締めた。『ベル君……』と感極まったヘスティアはベルの手をぎゅっと握り返したまま『ありがとう』と返した。眷族に無様に姿は見せられなかった。だからこそその一言が今の精一杯で、それ以上は必死にせき止めていたものが決壊しそうで、すぐには口を開くことができなかった。

違えるわけにはいかない。神様の期待を裏切るわけにはいかない。ベルは猛々しい雄叫びを上げながらオラリオの街を駆け抜けていた。

 

「クッ! 間に合え――ッ!」

 

 タイムリミットである刻限はすぐそこまで迫っていた。

 

 幸いなことに早朝で周囲に人はいないため奇異の視線を向ける者はいない。せいぜい石塀の上に止まっていた鳥が数羽驚いて飛び立っていっただけだ。階段を段飛ばしで駆け上がる。道に転がる小さな瓦礫は蹴散らし、大きな瓦礫は飛び越えた。斜めに傾いで地面に倒れている巨大な石柱はスライディングの要領で柱と地面の隙間のわずかな空間に身体を滑り込ませて潜り抜けた。

 

「とう!」

 

 丁々発止と地面を斬り付けるような鋭い足音を絶え間なく響かせて、ベルは右足をドンといっそう強く踏みしめた。鳥が羽ばたく時に地面を鉤爪で踏みしめるように力を込め、跳ぶ。背丈ほどもある崩れた瓦礫に飛び乗り、そこを足場にいくつかの建物を屋上から屋上へと飛び移る。

ショートカットを重ねてメインストリートに出たベルはようやっと目的の地へとたどり着いた。

 ぎりぎり間に合った。ベルは安堵に胸を撫で下ろしながら、勝鬨を上げるように声高らかに叫んだ。

 

 

 

「おばさん! そこの早朝セール品の海鮮セットくださあああああああああいッ! ……あ、このビラに書いてあるおまけのちり紙ってまだ残ってますか?」

 

 

 

 生きることは戦いであり、時に他者を踏み越えてでも前に進まなければいけないことがあるとヘスティアは語った。

 

『タイ、えび、カニ……ああ、なんてことだ! 想像しただけでよだれがたれそうだよ!』

 

 天に向かって世界の愚かしさを語り聞かせる敬虔な殉教者のように、芝居がかった口調でまるで謡うように叫ぶヘスティア。ベルもそういえば最近海の幸とか食べてないなぁと生唾を飲み込んだ。なにせオラリオには海が無いため産地直送の新鮮な海鮮は結構な高級品である。

 

 少しでも新鮮な海鮮を提供するための朝一の販売。それも今回はオラリオ近くの港町で近年まれに見るほど大量に水揚げされたとかで滅多に無いセールなのだ。希少な海鮮物のセールがあると大々的に宣伝すれば商品はあっという間になくなってしまう。そのためこの情報は本来ならどこぞかの商会の会員に加入していなければ知らされることが無いのだとか。バイトしている屋台の常連さんからこっそり情報を流してもらったとヘスティアは言った。

 

『このことが商店街のおっちゃんやおばちゃんに知られたら、一体ボクはどんな制裁を受けるか……抜け駆けの罰と称して犬猫のように頭を撫でくりまわされるかもしれない。そんなに困っているのならと孫を見るような慈愛に満ちた瞳でお菓子を渡される……クッ、考えるだけで恐ろしいッ!』

 

 怒りやら恥ずかしいやらで身震いがしてきたよ! と地面をドンッと踏み鳴らすヘスティア。情緒不安定だった。

 

 色々溜まっているんだなあ、とベルは生暖かい目でヘスティアを見ていた。

 

『たまに贅沢したっていいじゃないか!』

 

 そうですね、ベルは答えた。変わらず生暖かい目だった。

 

『その……念のためだ、もう一回聞くよベル君。ボクは明日ヘファイストスに会わなきゃいけないからそっちのセールに行くことができないんだ。ヘファイストスにはなんだかんだで迷惑かけっぱなしだから約束の日を変えてとか言いにくくってさ』

 

 気まずそうに頬をかくヘスティア。負債というか恩がえらいことになっていると、この間こぼしていたことをベルは思い出した。

 

『だからこのお願いは断ってくれてもかまわない! いや、むしろ僕は君が断ってくれることを望んでいるのかもしれない。そうだよ、よくよく考えたら君に悪行の片棒を担がせるようなマネは――」

『神さま!』

 

 鋭い声でヘスティアの言葉を遮るベル。

 

『大丈夫です。僕も、あなたと同じ気持ちです』

 

 海鮮食べたいです、とすきっ腹を抑えながら自分の欲求を真っ直ぐ伝えた。

 

 そんなことを思い出しながら手に入れた海鮮セットを感動した面持ちで見つめた。海鮮のずっしりとした重みが幸せの重みに感じた。感無量で天を仰ぐ。雲一つない抜けるような青空が自分を祝福してくれているようだった。 

 

 スキップしそうな軽快な足取りで帰路に就くベル。

 

 その道中で街行く人々の話し声が耳元を通り過ぎた。

 

 曰く――彼の英雄の帰還。

 

 その話を聞いたベルの心臓の鼓動がにわかに騒がしくなった。ベルも数日前からそういう話があるということを聞いていたが、こうして耳にするたびに心がさざめくように興奮するのを感じた。

 

 【片翼の天使】セフィロスがオラリオに帰ってきた。

 

 憧れ続けた英雄が迷宮都市オラリオという同じ土地に住んでいる。もしかしたらどこかで会えるかもしれないという淡い期待に微笑がこみ上げてくる。

 

 しかしそもそも所属するファミリアが違う。基本的にファミリア同士は主神の意向がない限り不可侵が原則である。

 

 それでも夢想してしまう。

 

 幼い頃より憧れてきた英雄の背中を追いかけることができたら、と。

 

 まあ弟子というのは望みすぎだが、ほんのちょびっとだけでも戦い方のアドバイスをもらえるなら、その教示を誇りに今より躍進できる気がする。今よりほんのちょっと高く跳べる気がするのだ。

 

 だが彼の英雄の薫陶を受けるとなると多方面からやっかみを受けかねない上、後々ややこしい問題を引き起こしかねないという事は、オラリオに来て日が浅いベルでも理解できていた。

 

「……って、そもそも縁も所縁もない駆け出し冒険者の僕に、あのセフィロスが相手にしてくれるわけないしなぁ」

 

 せめて話しかけるだけの切っ掛けが無ければどうしようもならない。無論、ベルにそんな当ては無かった。

 

 ははは、と力なく笑いながら空しい妄想に諦めの終止符を打ち、ベルはいつのまにか、なぜか崩壊寸前となっていた住居である教会へと帰ってきた。

 

「っていうか、ホントに何があったのかなコレ……天井丸ごと吹っ飛ばされるなんて尋常な出来事じゃないよね……」

 

 最初は地震でもあったのかと思ったが、あの日この辺りで地震があったという話はとんと聞かなかった。

 

 未来が先の見えない暗いトンネルを抜けた先にあるという言葉をどこかで聞いた。だとしても、果たして夜寝て朝起きたら住居が半壊どころか天井ぶち抜かれてました、などという展開になるなどと想像できようもない。この場所は何か、武力紛争地域の最前線とでも言うのだろうか。初耳である。

 

 セフィロスの所属しているというロキ・ファミリアのホームである黄昏の館と比べてはぁとため息をつく。この崩壊寸前の荒れ果てた教会を、セフィロスが見たら何と言うだろうか。笑われるんじゃないだろうか。

 

 ――ハッ、僕はなんてことを!?

 

 たとえどうであれここは大切な僕の帰る場所なのだ。悪く言うなんてとんでもない。それに住めば都だ。こうして天井が無くたって、むしろさんさんと日の光を浴びれて、天気や季節の移り変わりを肌で直に感じ取れる。そんな解放感満載の野趣あふれる家だと思えば……いや、もはやそこまでいったら家と呼称して良いのだろうか?

 

 まあ住居スペースは地下にあるから問題無いと言えば無いのだが。元々、廃墟と呼んで差し支えないほどボロボロだったのだ。そこから天井の一つや二つ差し引いたところで、大して変わりは無いだろう。

 

「ベル君おかえり~」

 

 地下へと伸びる隠し階段を抜けたベルをヘスティアが迎えた。陽気で弾んだ様子で近寄ってきてベルが買ってきた海鮮セットを見咎めると「ありがとうベル君! さあ今日は豪勢にぱーっといこうぜ!」と朗らかに笑った。

 

「ただいま帰りました神様!」とベルも笑い返した。

「そういえばバイトの話ってどうなりました?」

「そうそう聞いてくれよベル君! ヘファイストスったらひどいんだよ!」

 

 そのぷりぷりと怒った話し振りから察するに、バイト先は今のじゃが丸くん屋台から変わりはなさそうである。

 

 帰りを待っていてくれている人がいて、自分も帰ってきたいと思える場所がある。色々と苦しい生活ではあるけれど少なくともベルは今幸せだと思えた。同時に、この神様に楽をさせてあげるために強くなりたいといっそう深く思う。

 

 まだベルはダンジョンを2階層までしかもぐった事が無い。ダンジョンの中でも上辺も上辺である。ダンジョンは深くなればなるほどにモンスターもその強さを増すため、戦いも冒険も初心者であるからしょうがないといえばそこまでだが……。

 

 今度から行けそうだと感じたら少し深くまで潜ってみようか、という想いがベルの胸中に芽生えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。