日の出時。
遠く彼方にそびえる山々の稜線から太陽が顔をのぞかせ、あふれ出た光の海原が夜の闇を押し流すように迷宮都市オラリオを飲み込んでいった。群青色の空は徐々に白みがかるように薄れていく。流れる雲は夜影をかかえこんだまま朱色に燃え、朝焼けの中にたなびいていた。
日差しは柔らかい赤みを帯びた光で、肺を満たす空気はほろ苦く焼けている。
オラリオの中央。天に向かって伸びる荘厳な塔、バベルの最上部にほど近い外壁部に立つオッタルは、ずいぶん前に敬愛すべき主神であるフレイヤがセフィロスのことを指して言っていた言葉を思い出していた。
『彼の魂は例えるなら黄昏の輝き。二つの色が交じり合った、黄金とは違う不思議な色合い。夕暮れが遠い昔を思い起こさせてくれるような、懐かしむような……そんなひどくノスタルジックな気持ちにさせてくれるわ』
それがたまらなく愛おしいとフレイヤは瞳を潤ませていた。
……黄昏の輝き、か。
夕陽と朝陽は同じ色なのだと聞く。
オッタルは自分と同じようにバベルの上に立つセフィロスを横目で見遣った。
セフィロスは紅と金が混ぜり鮮烈に輝き始めた空を背景に、静かにオラリオの街を見下ろしていた。その線が細く艶やかな銀髪は陽光に輝きながら、くしけずるように風の中になびいている。その姿はまるでこの世のものではないような幽玄の美しさをたたえていた。
オッタルもまたセフィロスと同じようにオラリオの街を見下ろした。
多くの建物が立ち並び、地上に降臨した神とその恩恵を与えられた人々が暮らす場所。
果たしてセフィロスは懐かしんでいるのか、過去を愁いているのか。
オッタルは日射に目を細めながら、静かに詠った
「深淵のなぞ それは女神の贈り物 われらは求め 飛びたった 彷徨い続ける心の水面に かすかなさざなみを立てて」
傍らに立っていたセフィロスがわずかに反応を示したのを、オッタルは気配で感じた。
「それは……」
「お前がよく口ずさんでいた詩だったな」
かつてセフィロスは同じように夕暮れを眺めながら、よくその詩を口にしていた。その時のセフィロスの悲しんでいるような、何かに足掻き苦しんでいるような顔は今でも忘れられない。それはオッタルが知るセフィロスという男の唯一小さな背中だった。
『俺は、俺自身が求め続けた真実の答えを探している』
その言葉が指し示す意味をオッタルは知らない。知ろうとも思わない。
ゆえにただ一つだけ尋ねる。
「外の世界に出て、探し求めていたものは見つかったか?」
オッタルの問いかけに、セフィロスはふっと笑った。
「もう、とうに見つかっているさ」
セフィロスがロキ・ファミリアを離れる経緯となった騒動はオッタルも聞き及んでいた。『片翼の天使』がセフィロスの二つ名になる契機となったあの事件。
――全てを失いかけたからこそ、見えたものがあったか。
オッタルはセフィロスの言葉に「……そうか」とだけ答えた。
それをうれしく思っている自分がいる。利害も建前も関係なく、セフィロスという男の愁いが一つ無くなったことに『よかったな』と心の中でセフィロスに向けて声をかけていた自分がいた。しかし決して口には出さない。傷を慰めるような生温い言葉は自分達には不要だ。武を競い、技を磨き、魂のぶつかり合う戦場こそ自分達の語らう場所なのだから。
オッタルは口の端をわずかに吊り上げた。
「どうやら少しはマシな顔に戻ったか」
「そういうお前は、あいかわらずのしかめっ面だな」
「抜かせ」
背中を向けたオッタルにセフィロスは声をかけた。
「帰るのか?」
「ああ、お前との戦いの件についてはフレイヤ様に以前から許可をとっていた。しかし決着がついた以上、長居する理由は無い」
そもそも今回の邂逅自体たまたまだった。フレイヤの側近であるオッタルは、彼女が就寝している時間帯に鍛錬している。その日はたまたまダンジョンを訪れていた。フレイヤが起床するまでの短い時間ではあまり深い階層まではもぐれないが、それでも実戦の空気は味わうことができる。セフィロスがオラリオを離れた後も世界各地で上げた武功はオッタルの耳まで届いている。ライバルが前へ前へと歩み続けている中、自分だけのうのうと怠惰な日々を送ることなど出来る筈も無い。
朝方にダンジョンを出たオッタルの元に、同じフレイヤ・ファミリアの所属である冒険者がやってきて伝えた。セフィロスがオラリオに帰ってきたらしい。その情報はギルドの職員から零れたものらしい。なるほど、確かに冒険者を管轄するギルドの者なら、外からオラリオに戻ってきた冒険者の情報はすぐさまに届くはずだ。細かな情報を集め、猪人の優れた嗅覚を使い、しかしそれ以上に、訴えかけてくる勘に導かれるまま、オッタルはセフィロスと邂逅した。
決着がついた今、これ以上この場にいる理由は無い。なによりそろそろフレイヤが目覚める時間だ。側仕えである自分が私情であまり離れているわけにもいかない。
「オッタル」
帰ろうと一歩踏み出したオッタルをセフィロスの誰何の声が引き止めた。
「万物普遍の事柄など存在しない。一つ所しか見えない視野狭窄に陥っては手痛いしっぺ返しを味わうことになるかもしれないぞ」
「…………何が言いたい?」
訝しげに振り向いたオッタルに、セフィロスは静かな笑みで返した。
「お前との戦いは悪くなかった……が、たまにはゆっくり酒でも飲み交わそうということだ」
オッタルは一瞬目を見開いた。
「俺は……いや、そうだな。それも悪くないかもしれん」
「ほう」
誘ったセフィロスがむしろ意外そうにしていた。
オッタルはいささか不快そうにジロリと睨む。
「なんだその反応は?」
「なに……お前が素直に酒の誘いに乗ったのは初めてだな、と思ってな」
「ふん、そういう気分の時もある。それにお前の外の世界の話は、酒の肴にするには悪くなかろう」
ではな、と一歩踏み出し、「ああ、そうだ」とオッタルは呟いた。言い忘れていた。
「セフィロス、お前のオラリオへの帰還うれしく思う」
今度はセフィロスが不意を突かれたように、眉を上げた。それでオッタルの溜飲はいくぶんか下がった。
「……ああ、ただいま」
その言葉を背にオッタルは今度こそ、足場から身を放り出した。バベルの外壁の装飾部やわずかなへこみや出っ張りを八艘飛びの要領で、落下の衝撃を殺しつつ塔を降りていく。
――思えば昔からただ強さのみを求め続け、周囲から恐れられた自分に踏み込んで、酒の席に誘うのはあいつくらいのものだった。
オッタルという存在をあまねく導き照らし続けたフレイヤにもただ一つ満たせないものがあった。それはオッタルの戦士としての心。戦いへの強い渇望だった。それを唯一正面から受け止めて満たしたのはただ一人、セフィロスだけだった。
もし自身にとって唯一友と呼べる者がいるとすれば……それは、きっと。
「…………ふっ、世迷言だな」
オッタルは誰に伝えるとも無く一人ごちる。
これが絆と言うなら、宿命と言うなら、そうなのだろう。
だが、それでも……いや、だからこそ――!
オッタルは遠ざかっていく塔の最上部を、鋭い視線で射抜く。セフィロスがまだいる、その場所を。
「最後に勝つのは俺だ」
身命を賭して仕えると誓ったフレイヤ様のため。
そして俺自身の矜持のため。
「……お前を倒すのはこの俺だ、セフィロス!」
ならば目指そう。遥か限界の向こう側を、英雄すら凌駕する強さの頂を――……。
◆ ◆ ◆ ◆
オッタルが視界から消えたのを確認したセフィロスはほっと一息をついた。
おおむね計画通り!
生きてるってすばらしい! 朝日が目にまぶしいぜ!
いやぁ、それにしても効果は抜群だった。
バーサークモードに突入したオッタル止めるにはフレイヤを絡めるのが一番だ。冗談みたいにあっさり冷静になる。わざわざフレイヤのいるバベルの最上階近くまで戦いの場を移してきたがその甲斐があった。思い描いた通り、オッタルはぴったり戦闘を止めた。
まあ冷却剤がフレイヤなら可燃剤もフレイヤなのだが。彼女に危害をくわえようとしたり、バカにしようものならあいつは悪鬼羅刹へと変貌する。
お前の勝ちだと言われたがそれは否定した。ここで勝利を喜ぼうものならあのバトルジャンキーは悔しさをバネに、とんでもない超進化をとげそうなので、あくまで引き分けを主張した。ココとても大事!
それはともかく置いといて、だ。
――あの野郎、しれっと人の古傷(黒歴史)えぐって行きやがったよ!?
クライシスコアというゲームの中の登場人物、ジェネシスのセリフ。
『深淵のなぞ それは女神の贈り物 われらは求め 飛びたった 彷徨い続ける心の水面に かすかなさざなみを立てて』
あの詩が、LOVELESS第一章がカッコよさげだったからちょっと言ってみたかっただけじゃないか、夕日見ながらキメ顔で言いたかっただけなんだよ! あの頃はちょっと厨二病が再発してたんだよ、自分に酔ってたんだよ! 後悔してるよコンチクショウ!
そもそも、求めているもの見つかったかって何だろう?
最初から俺が求めているのは平穏無事な生活設計だ。今でこそ冒険者しているが、そのうち貯めた金で泉のほとりとかに小さな家を買って美人な嫁さんもらって平穏無事に暮らすことが俺の求めているものだ。
まあ確かに、周囲に流されるままオラリオでも数少ない高位レベル者になったことでちょっぴり贅沢な生活夢みちゃおうかなーとか考えていた時期はあった。真実の答えがどうのこうのといって迷走していた時期があったが、結局原点である『質素だが満たされた生活』という答えに落ち着いた。
やっぱり人間欲見ちゃいけない。お金は人間を狂わせる。手の届く場所にある幸せ掴もう。
だが意外だった。
オッタルが酒の勧めを承諾するなんて。
あいつは今まで『フレイヤ様の身の回りの世話がある』とかなんとか言って俺の誘いを散々断ってきた。飲みの誘いを断るなんて社会人失格だぞ、と思ったがよくよく考えるとフレイヤ・ファミリアという一大企業の、奴は立派すぎる歯車だった。五年もファミリアほっぽらかして外の世界ほっつき歩いていた自分の方がよっぽど社会人失格だ。
こっちとしては武器持ってつっかかってくるくらいなら肩並べて酒でも飲んでたほうがありがたいからこその申し出なのだが。さすがに酒の席で武器振り回すような男ではない、そのくらいの風情はわきまえている男だ。
あまり俺に向かって勝負だ勝負だと付きまとうような視野狭窄になってたらいつかフレイヤに愛想を尽かされるぞ、と意味で誘ったのだが、こちらの意思はしっかり伝わったようだ。
あいつらしい回りくどい言い方で「おかえり」って言ってくれたし、ひょっとしたらデレ期がきたのかもしれない。そのうちお弁当の差し入れとか……イヤ、やっぱごめん無理。一生フレイヤにだけデレていてください。
とにかくこれでとりあえず命の危険は少なくとも一つ減った訳だ。
いやぁ、よかったよかった。
――さて、と。
そろそろいい時間帯だし。
帰るとするか……我がホーム、ロキ・ファミリアに!
お土産買ってくるの忘れたから、その辺の店でなんか買ってこうかなぁ。
いや、久しぶりすぎる本拠(ホーム)への帰還ならびに過去の俺の失態について、頼れる皆の副団長ことリヴェリア様がお怒りだった場合の貢物とかじゃないよ。
……ほんとダヨ?
◆ ◆ ◆ ◆
ヘスティア・ファミリア。
それはオラリオに数あるファミリアの中でもつい最近立ち上がったばかりの弱小ファミリアである。拠点もとある廃教会の地下にある隠し部屋で、その内部もおおよそ文化的とは言いえない質素なものである。
なにしろ眷属が一人しかおらず、その眷属もつい最近恩恵(ファルナ)を刻んだばかりの駆け出し冒険者。無論のことながらレベルも最低の1である。その駆け出し冒険者の名前はベル・クラネル。まだ14歳の少年である。背も低く華奢な体格であるため冒険者としては、ずいぶん頼りない概観をしている。
「神様、今日朝早くに地震とかありませんでした? 一瞬、部屋がすごく揺れて、ものすごい音がした気がしたんですが」
ベルはダンジョンにもぐるための準備をしながら、自分の主神であるヘスティアに声をかけた。
「おいおいベル君、夢でも見たのかい。ボクはぜんぜん気づかなかったぜ?」
冒険者に成り立てで、ダンジョンにもぐってモンスターと戦い始めたばかりだ。体力はもちろん精神的な疲弊が大きくてもおかしくない。
疲れてるのではないか、と心配そうに尋ねるヘスティア。
「いや、疲れてるのは神様じゃないですか。昨日ずいぶん遅くまでバイトしてて」
ヘスティアは未だぐてーっとベッドに寝そべっている。身長が低く愛らしい姿であるが、不釣合いなほど胸が大きく、一部の人間ないし男神には絶大な人気を誇っており、バイト先ではマスコットキャラクターのような扱いを受けていた。昨日はずいぶん遅くまで屋台のバイトをしていたため、朝になっても疲れが取れず、まだベッドから起き上がれないようだ。
神がバイトとは世も末と言う無かれ、まだ設立したばかりのファミリアは資金を始めとして何もかもが不足しているのだ。鍛冶や製薬といったものを収入源としているファミリアもあるが、一般的には所属している冒険者の所謂上納金で生計を立てている。そしてこのファミリアに所属している冒険者はベル一人。ダンジョンでお金を稼ぐには強力なモンスターを倒すほどより高値のつく魔石やドロップアイテムを手に入れることができる。だが駆け出し冒険者であるベルでは倒せるモンスターも下の下のみであり、ダンジョンに潜って稼げる賃金もすずめの涙ほどのものだった。
「ホントに大丈夫かい? 君はボクの大切な初めての眷属だ、もし疲れてるようなら今日は休んでも……」
「ホントに大丈夫ですって。じゃあ、行って来ますね!」
防具を身につけたベルが、ヘスティアに向かって大きく挨拶して、隠し部屋の出入り口に続く階段に走っていった。
……純粋で素直でホントに良い子だなぁ、と思う。
ちょっとだけ不満があるとするなら。
「何もロキの所の子に憧れなくてもいいのに……」
机の上に一冊の本が投げ出されていた。
『セフィロス英雄譚』
ベルがオラリオにやってきた時に持っていた数少ない私物の一つである。
英雄セフィロス。所属はヘスティアと犬猿の仲である神ロキのファミリアである。
――そうだ、なるんだ。
ベルはヘスティア・ファミリアの本拠(ホーム)である隠し部屋から廃教会へとつながる扉の前にいた。
目を瞑り、手の平を胸板に押し当てた仕草は、胸の奥で燃え上がる熱い想いを確かめているかのようだった。
ベルには夢がある、理想がある。
そのうちの一つが。
『英雄』である。
生前に祖父からよく聞かされていた冒険譚によって冒険者に憧れ、英雄になるという夢を抱いてオラリアにやってきたベル。英雄達の中でも特に彼が強い憧れを抱いたのが『片翼の天使』セフィロスである。彼はモノクロームの幻影の中にいる過去の英雄ではない。同じ時代を生きるセフィロスの英雄譚は確かな色彩を持って少年の理想の中で燦然と輝いていた。
「そうだ……なるんだ!」
ベルはもう一度強く思い描く。
「僕も、セフィロスみたいな英雄に!」
そして力強く扉を開け放つ。それが自分の未来を開く予兆になるかのように。
……しかし。
そこはいつもの薄暗い礼拝堂ではなかった。
半壊を通り越して倒壊寸前の建物。床が大きく砕け、壁が大きくへこみ、天井に至っては砕けて瓦礫の山が積み重なっている。
ベルが力強く開いた扉も次の瞬間には真っ二つにへし折れ、崩れた天井にぶら下がっていた瓦礫がドスンとベルの傍らに落ちる。
ベルはぶち抜かれた天井を仰いで、そこから差し込むまばゆい朝日に目を細めた。
「………………………………いやぁ、今日もいい朝だなぁ」
それからちょっと息をついて。
胸の動悸を抑え。
くるりと体を反転させて。
「神様あああああああああああああ――――っ! これたぶん教会に隕石が落ちましたああああああぁぁぁぁ――――っ!!」
「……んん、なんだいベル君、ひょっとしてまだ寝ぼけて…………ほあぁああああああああああああ!!!!????」
二人の奇声が周囲に響いた。
英雄と謳われる男と、英雄に憧れた少年の出会いはそう遠くないのかもしれない。
因縁と憧憬、悔恨と憂慮、そして過去と現在。
新たな騒動の匂いとともに、迷宮都市オラリオに新しい朝が訪れた。