いつの間にか、その場には忽然と雲雀さんの姿はいなくなっていた。
残念がる蒼哉の肩を叩いて、家の中に入る。
ようやく家に帰ってきた実感が湧いて、肩の力が一気に抜ける。身体が少し軽くなった気がして、一日の疲れを実感した。
私と同じく、今日が小学校の新学期だった弟の蒼哉は、お昼に学校が終わると私より先に帰っていたらしい。
引っ越してきて、並盛小学校というところに転入した弟は、毎日ゲームに明け暮れる、生意気真っ盛りのムカつく弟だ。
そして、姉である私をどこか見下している。
今日も下から傲慢な態度でつっこんでくる。
「つーか、ねーちゃん、何その格好。新しい制服なのにボロボロじゃん。逆にどーやったらそんなことになるわけ?」
頭の後ろで手を組んで歩きながら、今日の私の戦歴を嘲笑うかのようにそう言ってくる。
別に好きでこうなってるわけじゃないのに…… どうして実の弟にまでいじられなきゃならないの。今日はもう散々だ。
「臭ッ」
この短い一言が、何より胸に突き刺さる。女子として、たとえ相手が弟だろうが、臭いと言われるのはショックだ。
……というか、これは少なからずあんたのせいだよ!!
リビングのドアの前でそんな小競り合いをしていると、カチャリと中からドアが開いた。
「あら? 2人でそこで何してるの?」
ドアから不思議そうにこちらを覗く母の姿があった。
「お母さん!」
「あら、まりやちゃん。おかえりなさい」
「うん、ただいま……」
「聞いてよ、かーちゃん! 雲雀さんがさっき」
「ちょっと、蒼哉!」
何かを言いかける蒼哉の口を慌てて塞ぐ。また雲雀さんのことで、こじつけ臭く私に文句を言ってくるに違いない。今日はもう雲雀さんのことでお腹いっぱいなのに、家に帰っても雲雀さんがまとわりつくなんてやってられない。
「ゔっ! くっせぇぇ!! 泥だらけの手で触んな! ねーちゃんのくせに!」
「どういう意味!?」
「まあまあ。蒼哉ちゃんも落ち着いて〜。まりやちゃんも泥だらけねぇ。先にお風呂に入ってきなさい」
柔らかい声音で見兼ねたお母さんが仲裁に入ってくれる。仕方なく、泥だらけになった口を洗いに蒼哉がリビングに入っていった。私も少し冷静になって、頭を冷やす。
「ごめんね。お母さん。帰ってきて蒼哉と喧嘩しちゃって」
反省する私を見て、お母さんは呆れるでもなく、温かく微笑んだ。
「ふふっ。お母さんは元気でいてくれて何よりよ。まりやちゃんも早くお風呂に入っちゃいなさい」
お母さんに言われて、私も笑顔を返して浴室に向かった。着替えは持ってきてくれるので、シャワーを浴びて一日の勲章を落とす。洗い流すと、すっきりするなぁ。
シャワーを浴びて出てくると、お母さんが丁寧にたたんでくれた着替えが置いてあった。
手際もよく周到な母に、本当に感謝しか出てこない。
私と蒼哉のお母さん。
優しくて、おおらかで、いつも笑顔を絶やさない完璧な母だけど、ちょっと抜けているところがあったり、機械音痴で我が家の洗濯機の使い方が未だによくわかっていなかったり、誰もが認める天然ママ。
実は実家が有名な名家で、お母さんはその家の次女に生まれた。根っからのお嬢様気質だから、少し世間離れしたところもある。
いつも天然ぶりを発揮する母だけど、本当は真っ直ぐで芯の強いところもある。
お父さんとの結婚を反対された時には、周囲からの声にもめげずに父親を説得したり、それでもダメだと駆け落ちする覚悟でお父さんについていったりと、ドラマさながらの恋愛劇をしてみせたことを、幼少期に散々聞かされた記憶がある。
こんな平凡な生活を送ってきたからか、自分にはきっと縁がないと落ち込んでしまったこともある。
そんなことを考えて着替えが終わると、髪をタオルでゴシゴシ拭きながらリビングに戻る。
お昼時だから、テーブルの上にランチを準備していたお母さんに、少し気になっていたことを聞いてみた。
「お母さん。今日は出かけるから遅くなるって言ってなかった?」
というのも、昨日そんなことを言っていたから、さっきは家に誰もいないと思って焦ったんだ。蒼哉が先に帰っていたから外に置いてけぼりになることはなかったけど、ふとお母さんが家にいることが気になった。
「えぇ、そのつもりだったんだけど、少し予定が合わないみたいで、また別の日にしたわ」
「誰かと会う予定だったの?」
「ええ、昔のお友達にね」
並盛にお母さんの知り合いがいるなんて初耳だった。
少し意外だったけれど、お母さんはパスタが茹で上がる頃だと言って、キッチンの方に戻っていった。キッチンからいい匂いがするなと、お昼を楽しみにしてリビングのソファーに向かう。
リビングのテーブルを挟んだ2つあるソファーに向かうと、そこにはひとつのソファーを陣取るように寝そべって、対戦ゲームに没頭する弟の姿があった。姉ながら、その格好に呆れて言葉も出ない。
「……蒼哉、ゲームばっかりして、目が悪くなるでしょ。たまには外で遊んできたら?」
「えー、ポチの散歩とか行ってるからへーき」
四六時中ゲームしかしていない弟に、姉として心配で、今までにも散々言ってきたけど、もう半ば諦めていたと思う。
「じゃあ、そこどいてよ。テレビ見れないでしょ」
「オレが先に座ってたんだぞ。ババアはどっか行けよ」
でも、そろそろ限界がきていた。
頭の中でプチーンと何かが弾ける音と、蒼哉の手の中のゲーム機を奪ったのは同時だった。
そして、明るい画面が真っ暗になる。
すぐさま蒼哉が悲鳴を上げた。
「うわあああああッ!? 何すんだよ! ねーちゃん!?」
データを保存する前に消えた画面に、蒼哉の絶叫が映る。
それを見て少なからず顔がにやけてしまう。我ながら意地が悪い。
「せっかくラスボスの
予想以上に蒼哉がショックを受けている。ラスボスまでたどり着いてたんだ。少しだけ、蒼哉に悪いことしてしまったと自覚する。
何か声をかけようとすると、沈んでいた様子だった蒼哉がバッと顔を上げたから、少し驚いた反応をする。
「ぜってー許さねえからな! ねーちゃんがラスボス倒せよ!!」
「なんでー!?」
たしかにゲームデータ消しちゃった私が悪いけど、どうして私がラスボス倒す必要があるの!?
でも、悔し涙を滲ませてそう言われたら、罪悪感でなかなか断れない。
結局、押し通されて約束してしまった。こんなことなら首をつっこむんじゃなかった……。ゲームは途中で指が攣るからあんまりしないようにしてるのに……。
「2人共〜、遊ぶ前にご飯食べちゃってね〜」
ランチの準備が出来たらしく、呼んでいるお母さんに振り向いて返事をする。そういえばお腹ぺこぺこだ。朝から本当にいろんなことがあって、すっかりお腹も空っぽだった。
蒼哉と一緒にダイニングのテーブルまで行くと、お母さんはふと私に向かって言った。
「あら、まりやちゃん。どうかしたの? その右足の包帯」
「あっ」
足首までのジーパンを履いていたから、保健室で巻かれた右足の包帯が見えていた。
しまった……。もう少し丈が長いやつ履いてたらよかった……。
不思議そうに覗き込んでくるお母さんの視線に、どう説明しようか迷っていると、先に座ってナポリタンを食べていた蒼哉が口を開く。
「あれじゃん、どーせまたなんもないところで転んで、捻ったってところだろ」
あんたなんで知ってるのよ、って思わず言いそうになるくらい、ピンポイントで答えられた。
くっ…… 口にナポリタン付けてるくせにっ……!
案の定お母さんは、心配そうに怪我の具合を見ている。
うぅん…… 今までたくさん心配かけたから、心配性なお母さんにこれ以上迷惑かけたくなかったのに……。
無理に明るくして説得するこっちの身にもなりなさいよ。蒼哉!
「あーあ、それで雲雀さんに送ってもらえて、ホントずりぃぜ」
「あっ、あーー! 蒼哉それ言わないで!!」
蒼哉がまた雲雀さんと口を滑らせた。その名前を言わないで!! 今日はあの人のおかげで散々だったんだから!!
学校であった一日の出来事が、思い出されるとトラウマのように背筋をゾッとさせる。
蒼哉が一体何をそこまで雲雀さんにこだわるのか、本当にわからない。
「あらあら、その人にお世話になったのね。なら、何かお礼をさせてもらわないと」
そんな提案をされた。もともと育ちが良くて義理堅いお母さんだから、相手が実は並中最恐の風紀の鬼なんて、これっぽっちも思ってないんだろうなぁ。羨ましいなぁ。
でも、そうだなぁ……。
「お礼かぁ」
出会った時から印象最悪で、恐い人だけど、彼に助けてもらったのも事実で、まだお礼も言えてない。
このままは、なんだか少し物足りないかも。
風紀委員長なのに、厳つい不良たちを彼らよりもずっと小柄な身体で従えて、トンファーなんて変なもの片手に「咬み殺す」なんて威してくるけど、どこか憎めなくて、少し気になるというか…… 案外悪くない人かも、なんて。
自分の感覚がよくわからないけど、うんと頷いた。
「そうねぇ、何を作りましょう? ぼたもちなんてどうかしら?」
ぼたもち…… チョイスが渋い。
まあ、作ってもらえるなら何でもいいと言って、お母さんに任せることにした。
その話が落ち着くと、ようやく椅子に座ってナポリタンをいただく。
うーん、母の味に感謝だな。
おいしいご飯を食べて幸せいっぱいなところに、ちょうど食べ終わった蒼哉はさっそくゲームを始めている。今度は別のゲームらしい。
「向こうでやってよ。蒼哉」
「だって動きたくねーもん」
「……口にナポリタンべったりだけど」
「!」
ようやく口元に気づいて顔を真っ赤にした蒼哉は、テーブルのティッシュを慌ただしく取りながら、なんてことないように取り繕う。
「なっ、べべべべ別に知ってたしっ! 今拭こうかなあって思ってたところだし! 全ッ然、ねーちゃんに言われたとかじゃねーから! 調子乗ってんじゃねーよ! ブース!」
むしろ親切で言ってあげたのに、いつ調子に乗ったっていうの。小5にもなって、相変わらず生意気な弟だ。
「つーか! ドジなねーちゃんに言われたくねーんだよ! どうせ中学でもドジのせいで友達できてねーんだろ!?」
まるでどこかで見ていたような言い草だった。
「失礼ね! 私だって友達くらい、友達くらい……」
好きに言われ放題で、姉としても弟にギャフンと言ってやりたかった。
けど、実際には言葉が詰まる。
入学早々、雲雀さんと関わったことで、クラスのみんなからは距離を置かれ、仲良くなったはずの2人からもあっさりと裏切られ、新しい学校ですでに居場所がない……。
なんて悲惨すぎる…… 私の青春があぁぁァァァ……。
それに、よくよく考えれば、事が全て雲雀さんに関わったことで招いている。
雲雀さんの影響力を痛感した……。
項垂れ込んだ私を見て、蒼哉もお母さんも只事でないことを察して触れないでくれた。
「そ、そうだわ。まりやちゃん。お父さんから絵葉書が届いているのよ〜」
葬儀のように静まり返った我が家の食卓に、空気を変えるようにお母さんの明るい声がする。
そう言って一旦席を外すと、一枚の絵葉書を持って戻ってきた。
単身赴任で、しばらく会っていないけど、お父さん元気にしているかな――
少し緊張しながら、お母さんが持ってきてくれた絵葉書の内容に目を通す。
ちなみに蒼哉は私が帰って来る前に見ていたらしい。
名前の裏面には、メッセージ付きの写真があって、父の文字でこう書かれていた。
『元気にしていますか。父さんは初めてラクダに乗りました』
「観光ーーーー!?」
エジプトのピラミッドをバックに、ラクダの上に乗っている父の顔が写っていた。残念ながらピンぼけしている。それにしても、民族衣装まで着てノリノリだ。
予想の斜め上をいったコメントに、ここにはいない父に思わずつっこんでしまった。
あ、あれぇ? たしか単身赴任で海外に飛んでるんじゃなかったっけ……?
「お、お父さんって、こんな冗談言う人だったっけ……」
「ふふっ。面白い人ねぇ。お母さん、お父さんのこういうお茶目なところ、案外好きよ〜」
お母さんの方はあんまり気にしていないみたい。むしろウケてる。それでいいのか。
記憶の中で知っている父の姿と、随分認識が違っている気がする。
記憶にあるのは、とても厳しくて、曲がったことが大嫌い、威厳のある父の姿。間違っていたら本気で叱って、女の子でも容赦ない。
それでも一緒に遊んでくれた時には、すごく優しい笑顔を見せてくれる。
娘としては、仕事をがんばっているところを見たかったんだけど……。
「そ、そういえば、お父さんって向こうでどんなお仕事してるの?」
家を空けることが多くて、連絡も滅多に寄越さないから、今どこで何をしているのか、碌に知らなかった。
「たしかぁ…… 世界中を巡って温泉の整備をしているわよ〜」
「ここ温泉出るのーーーー!?」
一帯の砂漠地帯を見て、そう叫んだ。
うるさいと蒼哉からはシビアに怒られた。けれど、ショックが抜けなくて、テーブルの上の写真を凝視する。
「あの人は強がってよく無茶する人だから、あまり無理していないといいんだけれど……」
テーブルの写真を眺めて、ポツリとお母さんは零した。
「お母さん……」
お母さんは、遠くにいるお父さんのことをずっと想っていて、こうしてお父さんのことになると、ふと寂しそうな笑顔を見せる。
「会いたいわ、忠秋さん――……」
父の名前を呟いて、お母さんは自分のお皿を下げてキッチンに消えてしまった。
多忙で、久しぶりに帰って来ても、あまり長くいられないことがほとんど。
お母さんは、帰って来たお父さんにゆっくり休んでほしいから、本音を隠していつも笑っている。
娘として、その姿を見て思うところもあったけど、デリケートな問題だから、口を出すことはしなかった。
だけど、ここまで鈍い父を見ると、お母さんが可哀想だ。
少しでもお母さんの気持ちに気づいてあげるべきだよ。ホントにあの仕事バカッ! ダメ親父ッ!!
「もう! 今度帰って来たら、絶対お母さんとラブラブさせてやるんだから! 覚悟しておいてよね!」
そう固く胸に誓って、ここにはいない父に戦線布告する。
「ねぇ、蒼哉も手伝って――」
パッと振り返って蒼哉にも声をかけると、じっと写真を見つめて微動だにしない。
あっ…… 蒼哉も、小さい頃にお父さんと遊んだ記憶しかないから、寂しいのかな――……。
少し無神経だったと反省してると、ふと蒼哉が顔を上げる。
「スゲーよ、とーちゃん! オレもラクダに乗りてぇ!」
ラクダに釘付けーーー!!
これっぽっちもセンチメンタルになってなかった弟に、姉ながら空気を読んでほしいと脱力……。
「ラクダはいいからもぉ……」
声にも力が入らず、テーブルの上に身体を預けると、視界の端で映る小さな存在があった――
「あっ――――」
それに釘付けになって、目が離せなくなる。
どうして、ここに――……?
「何それ?」
気がついた蒼哉も、それを見て首を捻る。
そんな声を無視して、私はそっと手に取った――
薄桃色に色づいた、綺麗な桜の花びらを――――
「まりやちゃんの制服に付いていたのよ。綺麗だったから、つい捨てられなかったわ」
いつの間にか戻ってきていたお母さんからそんな話を聞いた。
あの人にも、綺麗な桜がくっついていたっけ――
クスッと小さく零した。
「ねぇ、お母さん。これ、押し花とかに出来ないかな?」
どこか親しみを感じたんだ。
私のそんな提案に、お母さんも上機嫌に応えてくれる。
「素敵ね。そうだわ、ケースに入れてキーホルダーにするとか、素敵じゃないかしら?」
私もその案に深く頷く。やっぱり母と娘で感性が一緒なんだろうね。
その後も、押し花の作り方で話は絶えなかった。
春が終われば人知れず散ってしまうけれど、こんな小さなことでも忘れてしまうのはどこか寂しいよね。
そうして、花びらに微笑んだ。
――入学式の初日は、まさに奇想天外なことばかりで、最悪なスタートだったけれど、悪いことばかりでもなかった。
この小さな花びらが、証明してくれるようだった。
明日はどんなことが待っているんだろう――?
そんな不安と期待を胸に、一日を乗り越えた。
*昼食後
蒼哉「ねーちゃん! そこBダッシュから躱して攻撃!」
まりや「わかってるわよ! 何このボスの基地外レベル!? 無理ゲーじゃないのー!? これでどおっ!?」
蒼哉「だぁー! もうちょっとタイミング合わせろよーー! ゲームオーバーじゃんか〜!」
まりや「もう一回よ! もう一回! HP回復してこのパターンでいくわよ!」
蒼哉「ならコインと交換してこのアイテムだろ!」
まりや「えっ!? でもこのコインはレアキャラのためにあんたが集めた……」
蒼哉「何言ってんだよ。コインなんかまた集めればいいだろ」
まりや「蒼哉……」
まりや・蒼哉「打倒! ク○パ!!」←なんだかんだで姉弟w