視点切り替え注意です。
イタリア某所――
数多くの歴史建築物や世界遺産が残る、歴史と文化の聖地であるここイタリアに、近年グローバル化が発展する都市の中のオフィス街に溶け込む、とあるオフィスビルがある。
その外観は、かつて古代ローマが培った歴史的な建築構造に習った造りであり、この近辺では特に珍しくもない建築だが、その中身は一味違う。
表面上は至って平凡にあるオフィス会社であり、そこには朝から事務作業に追われる社内の人々で溢れている。
しかし、一般企業とは一風変わった組織であるには変わらない人材が募っている。
その一人である人物は、朝のオフィス内の廊下を若干小走りで駆け抜けていく。久しく見る彼の顔に通りかがる同僚が度々声をかけ、彼も笑顔で挨拶を返す。
しばらく国内の遠方に名目上の出張へ出かけていたので、社内では彼がようやく帰ってきたとの話題で持ちきりだった。
一方、彼の上司の中で事情を知る者たちは、国内行政に関する諜報活動から彼が無事に帰還して来たことへの安堵を覚えていた。
皆の注目である彼は、とある場所へと足を赴く。
ここ表企業でもトップに君臨し、裏では組織を片手で動かす、敬愛する師の元へ。
上層部へ上がるにつれ、人気も薄まる。次第に速度を上げる足音が響き、そうして突然鳴り止む。
――――『IEMITHU』
扉の横に表記された文字を一瞥し、合図を送る。
湾曲する透明ガラス一枚を隔てて、成長期特有の少年の声が響く。イタリアでは飲酒は16歳からだが、その
少年が応答を願うが、中から反応はない。間をあけて、慣れた様子で少年は中に進む。
虫の息もない室内に、少年の第一声が響き渡る。
「親方様!」
まだ未熟な年頃であるとは疑う風格を纏った声を張り上げ、デスクの上に身を投げる者の朦朧とする意識を一瞬で吹っ飛ばす。
「どうした。バジル?」
室内にいた人物が、寝癖を掻いて発言する。
少年――バジルは、入室してこちらを迎える人物に敬意を示してまっすぐ視線を送ると、デスクを挟んで早速話を切り出す。
「はい。こちらに戻ってきて、あの方をまだお見かけしないのですが……」
イタリアに朝日が昇りその後にこちらへと帰還したばかりのバジルは、今回の諜報活動で得た情報をファイリングし、期限内に組織へ提出する課題が残っていた。数ある膨大な情報の中から要点だけを抜き出しまとめるための参考に自身と同じ裏組織に所属し、また上司でもある『あの方』を探していたのだが、社内を10往復しても見つからない。上司に聞いて回ったが、行方を知る者はいなかった。
そして、最終的にここを統括する頭領の親方様に伺うことにしたのだった。
「あいつならな、お前が仕事から帰ってくる何日か前に日本に戻って可愛い妻と子供たちの顔見に行ったぞ〜〜」
真剣な彼とは反して、ここのNo.1である男は、剽軽な態度で答える。
そんな男に、普段は温厚派な彼も、長旅の疲れから少々言葉が荒れる。
「それより酒臭いです! 勤務中にお酒は控えてください! 親方様!」
「んな固ぇこと言うなってぇ。バジル〜。どうだ、お前も一杯……」
「要りません!!」
紅潮が抜けない火照った顔でこちらに缶ビールを突き出す男に、断固拒否を示す。こうでもしないと、この男はかなりしつこい。彼は、そんな余計なお世話好きである。そして、彼のそんな性格を知るのも、師弟の長年の付き合いと
気ままな師に、弟子の少年はいつも振り回されていた。
「オレだってなぁ、2年も愛する家族に会えなくて、日々泣きながら雑務こなしてんだ。少しくらい見逃してくれよぉ。バジル……」
「はぁー…… ちょっとラル殿を呼んできます」
「さーて、仕事するかぁ〜」
やっとやる気を見せてくれた男に、バジルもやれやれと苦笑いだった。それでも自分が憧れる親方様の姿が拝見出来るなら、彼の苦労も報われるのだ。
「それでは、いつ頃こちらに戻って来られるのですか?」
バジルがいそいそと散らかる缶ビールの片付けに追われると、その間に詳細を聞こうと再び話を切り出す。
部下に叱られ、仕方なく資料を開く親方は、部下からのそんな問いに、肩をほぐすついでに首を大きく捻る。
「ん〜〜、さあなぁ〜」
「さあなとは……」
全く呑気な返事に、バジルも応答に困る。彼につられ、気力が徐々に薄れていくようだ。いかん!と首を振るバジルのもとに、すると男の方から声がかかる。
「こんなもんを置いてったからな」
男は引き出しからそれを取り出し、デスクの上に投げ出す。バジルの視界の範囲に届き、独特の掠れがかった無機質な文字の羅列が、その全てを語っていた。
一瞬疑うようにその紙面を凝視し、彼が堪らず手に取ると、わなわなと震える手で現実を握り締める。
「これはッ……! 一体どういうことですか!?」
「そういうことだろ。まあ、あいつにもあいつの事情があるんだろうって」
そんな簡単な言葉で片付けられることではないだろう。バジルは咄嗟に口を開くが、その後に彼が納得がいく説明は一切なかった。
自分の大事な上司であり、組織の仲間であり、そして親方様の最も信頼する側近であったあの方が、どうして突然いなくなる事態になったのか……。
聞きたいことは山ほどあるが、胸を傷めるのは自分だけではない。誰よりもあの方がいなくなって悲しむ人物が、目の前にいる。
「……ナツメグ殿」
結局自分から折れるしかなく、消化しきれない感情を抱えて部屋を後にする。
バジルが去った室内で、仕事をこなすでもなく、背凭れにどっと身体を預ける。
「いいよなぁ。オレも2年ぶりに奈々と愛息子に会いたいぜ」
今日何回目のノロケを零すと、ふと以前に彼から聞いた話を思い出し、あの時のことを考えるとこうして時間の流れを痛感する。
「あれから、もう2年も経つんだな……」
彼の行動が、今後組織にどのような影響をもたらすのか、自分にはまだそれを知る術がない。
門外顧問機関CEDEF代表――沢田家光は、天空へ登る朝日を拝み、苦難な表情を湛えていた。
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波の音がする。地元の山から流れる川のせせらぎとは違う、さっぱりとしてちょっとだけ切ない、海の音。
少し嗅げば、潮の香りが鼻を突く。
そうして振り返れば、視界に広がる煌々とした海原。
初めて見る景色に見惚れて、こんな状況でなければ、ゆっくり夕陽が沈むのを眺めていたい。
そこに声をかけられて、港付近にある倉庫へと入っていく彼についていくため、仕方なく素晴らしい景色に背を向けて歩き出す。あとでまた見に来よう。
自然の寛大な景色とは一変して、オレンジ色の光が窓から差すことで辺りに陰が生まれ、どこか不気味さを漂わせる倉庫内。陽と陰のコントラストが、どこか物寂しさを強調させる。
漁業などで用いられる物で溢れ返っている中は、人の気配もなく、潮の湿った空気が充満している。
ここに来てからの人工的な空間に、ほとほとうんざりして、心が圧迫される。車酔いが、さらに煩わしい。
どうしてこんなところに連れて来られたんだろう。狼狽えながら、人一人が通れるほど開かれた扉の中へと入る。重苦しい外観の分厚い扉は、歴史が感じられるように所々鉄が錆びていた。
中に入ると、さらに不気味さを増して私を迎える。早くここから出たいと頭が急かしてくる。すると、奥から片言な日本語が聞こえた。
「コッチダ、マナ板」
姿は見えないけれど、その声を頼りに奥に進む。あんまり乗り気はしないし、今がどういう状況かもわからない。気後れながら一歩ずつ近づく。
アタッシュケースを片手に、道具の山の向こう側へ回ろうとする。
その直前、この身体を不安定にする車酔いが急に襲ってきて、足元がグラつく。そこに山積みにされた道具の中からはみ出ていた漁の網が絡まり、曲がる途端に身体のバランスが大きく崩れる。
背中に重心が傾いて、身体が仰け反っていく。後方に倒れる、その刹那――
グラつく視界で、灼けるような痛みを覚えて、頰に掠る。
掠る程度にそれが横切り、そして辺りが静寂に沈む。
頰に残る熱と、鼓膜にまだ感じる震えに、とにかく頭が真っ白だった。
「……外シタカ」
それが、『銃声』であると理解した。
マイクさんはそう言って、その手に握り締めていたものが『拳銃』であったことが、何よりもショックで、目の前の絶望的状況に発車をかける。
嘘…… だよね……。
遠くを見つめた瞳が、私を射抜く。
どうして……。
「マイクさん……」
そんな人には見えないのに……。
「冗談でしょう?」
この状況を笑い飛ばしたいかのように、問いかける。
マイクさんは、ただ黙り込んで銃口を向ける。まるで感情を押し殺すかのように、固く握り締めて。
なら、どうして――……。
「どうして……?」
泣きそうな瞳をして、あなたはそんなものを握るの――――?