裏社会と呼ばれる、暗黙の了解を得て蠢き社会の日陰に存在するそこは、生まれた頃から私の居場所だった。
社会の表舞台から隔離されるこの場所は、社会の常識から『闇』と揶揄され、
社会からはそう一線を引かれ、事ある毎に後指を指される。そのことに、幼き頃の私は不思議で仕方なかった。
世間知らずで、まだ単純な思考であった当時の私は、ある時それを率直に疑問視し、裏社会において存在の一角である父にこう問いかけた。
なぜ、そんなものを握るのかと。
純粋な子供の瞳を向けて問いかける私に、父は努めて冷静に言った。
ここで、生きる運命だと受け入れたからだ。大切な人々を守るために。この引き金と引き換えに守られるのなら、この手を汚しても構わない。穢れも、業も、全てを厭わないさ。
そう語る父の目には、あどけない子供には到底読み取れないであろう多彩な感情を滲ませ、彼の手が大きく包み込むように私に被さり、見上げる私へとそっと言い聞かせた。
――この引き金ひとつで、数え切れない人々の運命が揺らぐ。いつかお前がこの闇社会の一端に直面した時、今一度己の心に問いてみろ。
父は、文学書の一節に書かれたような小難しい言葉を、まだ幼い私に告げた。
私はというと、その頃はまだペンを持ち始めたばかりで、挨拶の綴りをひとつ覚えるのに苦労していたのも記憶に浅い。
マフィアとは、外界の光を浴びることなく、道端に咲く花にも情けをかけ、日陰を歩く。
彼らは、陰のヒーロー。
そう語る父の姿は、私の誇りであった。
――――あの日から、月日の変化はめまぐるしく、何度目の雪が溶け、あの空の彼方の太陽が地球を巡った頃。
気づけば、身体はあの頃見上げていた父に追いついた。
その父は、私が成人を迎える矢先に殉職した。
この社会では、酷くありふれた話だ。
しかし、当時の私には、酷く胸を抉る冷酷な現実であり、後にも先にも私の中の衝撃であっただろう。
あまりに唐突に突きつけられた、父の死。
それは、未だ社会の片隅でのうのうと生きていた青い草の青年には、酷であった。
その胸に、佛々と湧き上がる、あの大きな背中へと抱いた感情が入り混じり、複雑に絡み合う。
――結局、父は最後まで、あの時の言葉を教えてはくれなかった。
あの日の衝撃から――父を失い、大人となった今、思うことがあった。
あの言葉を残した父は、この社会に何を見出そうとし、この社会を見つめる年頃になった私へ何を伝えようとしたのか。
それを知るためには、ひとつの選択肢がある。
父は、素晴らしい人だった。
己が固く信じるものを、私たちという存在を信じて、最後まで戦ってくれた。あの背中は、とても偉大だった。そしてもう、追いつくことはない。
その姿は、正しく彼が語る正義と信念を体現し、勇ましいヒーローの名の下にあった。
あの頃から、憧れていた。
彼の生き様を、あの背中を、のしかかる使命を、この先ここで生きるなら、果たせるのだろうか。
見上げた空が、記憶を思い出す。ポトリと雨粒を落とすように、一筋の雫が流れた。
父のかつての言葉を胸に、そうして立ち上がる。裏社会の下層にて、かつて父を見殺しにした組織が握る引き金に触れる。
あの悲劇から、立ち直れず涙に溺れる母の反対を押し切り、私は今ここに立つ。親不孝もいいところだ。
それでも、知りたいと思う。彼がここで生きてきて、ここから見ていた景色を――
陰に生きながら、そこに何を見出そうとしたのかを――……。
血が惨劇の全てを洗い流すように、男たちの怒号が鳴り止まない戦場は、いつしか静寂を纏う残痕と成り果てた。
夥しい血潮の香りに、土に還る屍の山。この銃口に全てを懸けて残ったものは、たったそれだけだった。
父があの頃に見てきたのは、こんな景色だったのか……。
ひとつの銃声が奏でる、無数の断末魔の旋律。途絶えることなき、人々の悲しみ、嘆き、絶望。
いつしか気が狂うほど、それを胸に刻んでいた。
底知れないこの世界の闇は、あまりにも深く、この心を掻き乱した。
そうだ。父を殺めたのは、この社会が在るからだ。
そして、彼が確かに命を懸け戦い、ここで戦う意義を見出した居場所だ。
この闇が蠢く社会で、私は一体何を見出せばいいのだろう。
もう、あの日の問いかけた背中は、見当たらない。
「ダディ!」
こじんまりとした我が家の奥から、語尾を荒げた幼き声が、私を呼び止める。
振り返れば、あらゆる不満を込めた表情を浮かべる娘の姿がある。その小さな身体を、多少でも脅威であると示すように、胸を張って腰に手を当てる。
恐らく、今日は一緒にいられなくなったことに怒っているのだろう。以前から約束していたのに、楽しみにしていたのに、娘からのそんな文句が読み取れる。
娘の楽しみを壊してしまう、悲しませてしまう。
本当にすまないと思っている。
私へ何かを言いたげな娘に背を向け、静かにドアを閉めた。
――あれから、様々な苦悩と葛藤を抱え、こんな私にも家族が出来た。新しい家族は、とても温かい。とても幸せな日々だった。
愛する者たちを守りたいと、ただその一心でこの縦社会を生きた。
家庭を築いたことで、一人の父親となったことで、この社会に対する見方に次第に変化があった。
この闇の中に、一輪の花が咲いた。
たったそれだけで、ここにいる意味を見出せた。
ここで命を懸けるほどの運命に出逢えた。
あの日の父の言葉が、今になって解るような気がする。
正義の下に生きることは、時に時間を奪うものだ。
私が出て行った家の中は、一人の音が消えたことで、さらに物寂しいものだ。
物音ひとつ立てないドアの向こうを見つめていた娘へ、奥から様子を見に来た妻の声が、辺りの空気を壊さぬようそっと宥める。
「あの人は忙しいのよ」
「ダディ……」
娘が、そう後に零した悲しい呟きも、今後私が知ることはない。
――――仕方ないだろう?
この世界に生を受け、あれから戦いだけに生きた。
私には、この闇に生きる術しか知らない。
生き残るためなら、今までどんな闇にも手を染めた。それこそ血で海が染まるような俗界の中、人々の鮮烈な血を浴びた。それは、身近に死の存在があるからこそ、この命にしがみついた。
そして、もう二度と、あの日と同じ涙を流したくない。ある日突然大切なものがいなくなってしまうなら、こんな腐った世の中で私は一体何をやってきたのだ。それだけは、覆させない。
何を引き換えにしても…… 必要とあらば、女子供でさえ容赦はしない。しかし、妻子を持つ者として、胸が傷まないことはない。――けれど、所詮はそこまでの情でしかない。
父が、生涯をかけたこの社会で、私もきっと繰り返すのだろう。
もう、引き返せないところまで来てしまっていた――――
悪魔が祝杯を挙げるかの如く禍々しく、炎は炎々と燃え上がり、辺りは火の海だった。
……私は、愚かだ。
亡き父の言葉に、何も見出せていなかったのだから。
この引き金を引くことは、数多の運命を揺るがすのだ。
それを握る者の定めを、引き裂く。
失ってからでは、あまりにも遅すぎた。
我が家があった焼け野原の中で蹲り、そっと抱きかかえた身体は、あまりにも脆く儚く、かつての面影さえどこにもなかった。
…………なんのために、こんな醜い世界でも生きてきたんだ。
一体何を守るためにこの銃を握るのかも、もうわからなくなるほど、この手に失いすぎていた。
娘を失くして以来、私はこの手でどれほど残酷なことをしてきたかを思い知る。
尊いものを、たったひとつの引き金で全て奪ってきたのだ。この薄汚れた手で、償いきれないほど、それは輝かしいものだった……。
何が、正義だ。何が、ヒーローだ。
所詮、名ばかりの綺麗事だ。
ここにある全てが、偽りの仮面に覆われ、人の良心などどこにあるか。
道端の焼け焦げた花にも、足を止める者は誰もいなかった。
今回のミッションで、私は組織に殺されるだろう。動く目的を失ったボロボロのガラクタは、組織のゴミクズでしかないからだ。
もう、どうでもいいように思えた。
正義など、どこにもなかった。
父よ。貴方はどこに生きていたんだ。
全ては、すでに生きる意味を失くした人間には無価値なことである。
何もかもを地に堕としてきた。未練など、どこにもありはしない。
最後の銃口を向ける。
標的を捉え、引き金を引く。あの頃に比べ、今では何の躊躇もなかった。
その先には、今日出会った一人の少女。
その表情が、驚きと戦慄に震え、瞳孔を開く。
狙いに狂いはなかった。しかし、彼女自らそれを躱した。
その時、ふと安堵した。
この弾が、少女を犠牲にすることなく、そのことがただ心底嬉しかったのだ。
ダメだ。任務を遂行しなければ……。
後にも先にも、私を待ち受けるのは、死の一択だ。
けれど、彼女にはこれからの未来があるかもしれない。こんな運命に弄ばれていなければ。
それをここで、この手で摘んでしまっていいのか。
まだ蕾が膨らむ前の小さな命を摘んで、あの日に感じた絶望を繰り返すのか。
もう嫌だ。あんな悲しみを、繰り返してしまうのは。
これ以上、この手に罪を重ねてしまうのは……。
「――私にも、娘がいてね。ちょうど君くらいの歳に、当時の抗争で家を焼かれ、妻も娘も巻き込まれた」
私の声が辺りに響く。不思議なことに、自然と言葉が溢れ出る。そうして気づけば、彼女に語りかけていた。
「君を見た時から、娘の面影が重なった。闇に咲く唯一の大切な娘だったのに、私が殺したも同然だ。あの日に涙も枯れた後悔を味わったのに、私は再び過ちを繰り返すところだった」
君の肩に触れた時、あの日の景色がまたこの目に見えた。
いつか人々の記憶から忘れ去られるだろう焼け跡の景色の中から抱き上げた、変わり果てた娘の身体。そして、記憶よりもずっと成長していた身体。その重さが、この娘の命の重さだ。それも悔しいことに、死なれてから初めて気づかされる。仕事ばかりで、こんなに大きくなってくれていたことにも気づいてやれなかったのだな。
もう遅いのかもしれないが、私の家族になってくれて、ありがとう。
その笑顔の温もりを、生きることの幸せを、そして命の重さを思い出した。
それは花のように風が吹けば散ってしまう儚いものかもしれないが、咲き誇る美しさは何よりも尊く、輝いている。
そんな思い出を君に思い出させてもらった。いい夢を見させてもらったよ。
「少女よ…… 怖い思いをさせてすまなかったね」
きっと君にこの思いは伝わらないが、どうか忘れてくれ。こんな世界が在ることを、君の瞳に晒したくはない。どうかこの景色を忘れておいてくれ。
そして、どうか君は未来を生きてほしい――……。
「君のおかげで、いろんなことに気づかされた。ありがとう。私を救ってくれて――」
私が持つ闇の全てで、君を救えたのなら、この腐り切った
――優しき少女よ。そんな顔はやめておくれ。
これで、よかったのだよ。
君を、せめてこの手にかけずに済んだのだから。
所詮は、自己満足でしかないけれど、それでも君はその瞳に清らかな涙を見せてくれるのかい?
こんなにも綺麗なものを見たことがなかったよ。
しかし―― その瞳が後悔へと滲んでいくのを、私は知っている。
かつての私がそうだったから――……。
君は、君の希望となる道を見つければいい。
君はまだまだこれからなのだから。
つまづいた時、周りを見渡せば、きっと君の仲間がいるだろう。
彼らと共に歩めばいい。
そうだろう? アルコバレーノ。
虹の者よ。君の存在は、彼女の今後に希望をもたらす救いか、さらなる悲しみを引き起こす闇か――……。
君はその瞳に、少女の何を見る。
********
磯の香りが漂う港の、静寂に呑み込まれるような閑静な倉庫内。港漁に用いられる数多の道具に鬱蒼とするこの場所は、とても居心地のいいところではなく。
まるで自分の存在が、異物であるような……――一瞬にしてそんな錯覚に囚われて、立ち眩みがする。
そんな意識の中を彷徨う鼓膜に、余韻が残るみたいに響き渡る静寂は、一連の流れに終止符を打った。
あまりにも突飛な景色の移り変わりに、それを目の当たりにすると、どうしてなのか、瞳の色に混濁とする感情を滲ませて、夕陽に輝く涙を散らす。
「マイクさんッ……!」
あまりにも呆気なくて、この胸に突き刺さる衝撃も、スローモーションのように流れていく景色も、全てが麻痺したような情景の中で、最後には轟音を奏でて崩れ落ちていく。
朧げに霞む視界、嗚咽が喉を襲ってくる衝動を堪えて、私は振り絞る声を必死に投げた。
ああ。どうして。
時間はいつも置いていくの――……。
――銃声が鼓膜を劈いて、その直後、左胸に真紅に染まる花びらを散らした。
彼の瞳は、最期まで私の姿を遠い瞳で見つめた。
全ては、呆然とする私の目の前で崩れ落ちていった。
足に絡みついた網が波を引き起こして、彼の身体に覆い被さるように雪崩れ込んでいく。
それは崩壊という形で、立ち込める煙と、獣のように唸る轟音が、この視界を滲ませる。
一刻一刻がゆっくりと感じられたのに、それはとても呆気なくて、気づいたらあっという間に終わっていた。
こんなにも、時間が止まってしまったように感じたことがなくて……。
こうして意識に縋るのもやっとなくらい、呼吸さえままならない。
あまりにも現実離れした出来事に、狼狽えることしか出来なくて、また自分の無力さを知った。
また、見ているだけで終わってしまった。
そんなの、もう嫌だって…… あの日に誓ったのに。
また、逃げ出して、あの日と同じ罪悪感を背負うのかな。
また、あの日を繰り返してしまうの――?
……確かに、彼のことを、何ひとつ知るわけでもないのに。
さっき会ったばかりで、いきなり人のことを小馬鹿にして、少しの間だったけれど、この胸に何も残らないことはない。
胸が、締めつけられて、悲しいよ。
どうしてなの? そう聞くのも、あなたを苦しめてしまうかもしれないけれど……。
彼の瞳は、何を伝えようとしたんだろう……。
お願い。教えてよ。
何も言わずに、離れて行かないで。
こんな寂しいところに、置いていかないで……。
そんな言葉が、私の中で延々と巡っていると、いつしか音も消えた静寂の中、夕暮れの眩しさに目を向けると、そこには2つの人影があった。
「きゅ、救急車……!」
「やめとけ」
港倉庫の錆びれた扉の前には、沈みかけの夕焼けをバックに、沢田さんの姿がある。その格好は、春半ばでもまだ肌寒いと感じられる半裸だった。そんな格好で、どうして彼がここにいるのか。
彼もまた、この光景に遭遇すると慌てふためく様子で、鳩が豆鉄砲を喰らったように狼狽えている。
意識がオレンジの景色に眩む中、その声を朧げに聞いていると、彼のすぐそばから別の声が、この空間に存在を提示した。幼い声。沢田さんの最初の発言に釘を刺したのと同じものだった。
それにしても、どこかで一度会ったような声色。
どこで、その声を聞いたんだろう。けれど、ぼんやりとしか思い出せない。
「オレたちはマフィアだ。裏が絡んだ案件に関しては、警察や公共の医療機関とは馴れ合わねえと、本来掟で定められている」
淡々と言葉にしてみせる彼の姿は、夕陽の眩しさに翻弄されて、生憎見られなかった。
それに…… 気のせいかな。彼の言葉に、ふと胸騒ぎがした。
「奴が罪を受け入れるなら、オレたちは歯喰い縛って最後まで見届けてやれ」
その言葉には、彼の気持ちが伝わっているんだ。あれほど確かめたかったのに、私には彼の何もわからなかった。
「花内まりや」
夕陽から私のもとへ伸びる影が、口を引き裂いて嘲笑うように揺れる。夕日に染まる景色の中で浮かんだ闇は、引きずり落とそうと手をこまねいて見つめる。
闇はどこまでも追いかけて、どこへ逃げても現れて、そうして私を責め続けて、あの頃の記憶へと誘う。
「――確信したぞ。お前の資質は、ボンゴレの未来になくてはならねぇ糧になる」
外の世界なんて、最初から見えていない。
あの頃から、時間はずっと止まったままなんだ。
一度は拒まれて、もう二度と私は繰り返したくない。繰り返さない。もう、誰も、傷つけたくない。
そうしたら、いつしかの2人の記憶が私の中を駆け巡って、景色があの頃のキラキラしていた頃にたどり着いた。
あの頃は、まだ、あの娘はあんなにも笑顔で、輝いていて――――
『ずっと一緒にいよう』
やめて。
『大丈夫。何があっても、あたしが一緒だよ』
もう、嫌だ。
お願い。
『まりや――――!』
それ以上、聞きたくない。
『どうしてなんだよ……』
だって、私が――……。
『ずっと一緒なんて、無理なんだよ。まりや。きっとあたしたちはお互い出会わない方がよかったんだ』
私が…… あの娘の笑顔を、壊してしまったんだから……。