月が変わり、風が変わって、少しずつ季節の変化が見え始めた。
また一年後に見る春を願って、物寂しさに耽ると、あっという間に校門が見える。
校庭に青葉がそよぐ、白い並盛中の校舎。
待ちに待った3連休…… ということで、頭が痛いです。
気が進まないけど、もとより行かないという選択肢はない。そもそも私に選択権など皆無。あの雲雀さんが、眼を光らせてこちらを待ち構えているのだから、万一にすっぽかしたりなんかすれば、あとで何があるかわかったもんじゃない。入学式の日に、彼がバイクで送ってくれたけど、いち新入生の個人情報をその手に把握している怪物なんだから……。
それに、罪悪感だって感じている……。
これ以上もう迷惑かけられない。あの時の事故のことを思い出す度に悔やまれないから、こうして後先のことなんて全く考えていない。
足早に校門を潜ると、忘れ去られたように人気のないグラウンド。普段なら並中生たちの活気に溢れていて、今はどこか物寂しい。
玄関に入ると、ようやく人の姿が見える。案の定、連休だろうと関係ない風紀委員だ。せっかくの休みなのに、あの人にこき使われて少し可哀想と思ってしまう。私もその一人なんだけど。
下駄箱の前で待っていたのは、ここで数少ない知り合いの一人であり、風紀委員会でも随一の苦労人、草壁さんだった。
私の姿を確認すると、草壁さんと軽い挨拶を交わして、連休の地獄に2人で祝杯を挙げる。
「よく来てくれたな。委員長から話は聞いてある。その、不運だったな……」
「いえ…… そちらもお務めご苦労様です……」
さっそく重たい空気になってしまった。草壁さんにもこうして面倒かけてしまって、本当に申し訳ない。
「今から案内する。こっちだ」
草壁さんの後ろに続いて連れて来られたのは、校舎に入ってすぐにある多目的室。草壁さんが、こちらを振り返る。
「ここでしばらく作業してもらう」
辺りはしんと静まり返って、あまりに冷め切った空気に少し気圧される。
「ここ、ですか……?」
「ああ。簡単な事務作業だ。あまり気難しく考えなくていい」
私の様子を見て、草壁さんが励ましの言葉をかけてくれる。
「わかりました……」
私の返事を聞いて、草壁さんは了解したと認識してその場を後にしていく。あの人のところへ向かったんだろうか。真相もわからずじまいで、そのまま案内された教室に入ってみる。
閑散とした中にあるのは、黒板とローテーブルのみ。ガラリとしていて、何もない。まるでここの誰かさんの性格そのもののようだ。
さっきから、なんだかあの人の嫌味ばかり考えている気がする。
なんていうか…… あっちから顔も合わせないなんて……。
おにぎり実習以来顔を合わせていないけど、あの時のことをどう思ったんだろう。びっくりされたかな。あんまり気にしていない気もするけど。
彼は、そういう人なんだろう。他人に興味はない。ひとりを好んで生きている人だから。誰かのことを思って傷つくこともないんだろうなぁ。
こんな風に考えるのも馬鹿馬鹿しくなって、ここに来た用事を早く済まそうと席に着く。
テーブルの上を見ると、どんっと存在感がある資料の紙の束が積んである。その隣にあるホッチキスで、どうやら留めていく作業らしい。これなら私にも出来そう。
さっそく作業に取りかかった。
********
一方、その頃応接室では、作業机にて事務をこなす風紀委員長の雲雀さんが、片手間に何かを考え込むように仕事の手を休めていた。
するとそこに、扉がノックされる。
「失礼します。委員長」
「草壁か。どうなの」
「はい。先程案内したところです」
「ふうん」
入って来た草壁さんと淡々とした会話を繰り広げ、その後沈黙が続く。
「委員長、どうかされましたか?」
「…………」
草壁さんは、実に鋭い男だ。こと雲雀さんに関しては特に嗅覚が鋭い。きっと彼の反応に何かを読み取ったんだろう。
「――別に」
雲雀さんは、話さない。肯定も、否定もしない。それだけで、草壁さんには十分だった。それ以上は詮索をやめた。
こと雲雀さんに関して鋭い草壁さんなら、黙り込んで彼が考え込む原因の人物に心当たりくらい探して、そんな彼自身がまだ考え込む要因が思い当たらないでいることも。
そこに、彼らの会話の水を差すように、校内に轟く警報音が空気を乱す。一体何事だと彼らが顔を上げると、タイミングを合わせて応接室の扉がノックされる。間もなく風紀委員の目印である学ランに腕章を携えた男の人が入ってきて、雲雀さんの代わりに草壁さんが尋ねる。
「何だ」
「はい。申し上げます。校内で火災と思われる事態が発生。火災警報器が作動し、風紀委員の者が状況を確認しに向かいました」
報告の内容に、2人がすぐさま反応を返す。
「場所は、1階多目的室」
草壁さんの脳裏には、先程会話を交わした少女の姿が思い浮かぶ。
「なんだと!? あそこはっ……」
こうしている場合ではなくなり、すぐさまその風紀委員に指示を出し、自身もまた事態を把握するために駆け足で現場へと向かおうとする。
「ドジっ娘……」
一時の騒動で騒然とする中、不意に彼が零したその言葉に、気づく者はいなかった。
********
草壁さんが現場に着いた頃には、教室の天井に設置されたスプリンクラーから滴るシャワー雫で、辺りが水浸しだった。教室の辺りの廊下には事態を聞きつけた風紀委員で溢れ返って、彼の想定内に現場は騒然としていた。
草壁さんの登場で現場の空気はある程度落ち着き、すぐに一部始終を見ていた者から経過報告を受けて、草壁さんは周囲を見回す。そこに、廊下の端にずぶ濡れのまま呆然と佇む姿を捉えて、すぐさま駆け寄る。
「花内!」
気がつくと、目の前の視界一面に草壁さんの強張った表情が、抜け殻状態の私を見下ろしていた。
「草壁さん……」
「大丈夫か!? 怪我は!?」
「あ…… 大丈夫です。ご心配おかけしました。それに…… すみません」
額に滲む汗を見て、どれほど心配をかけてしまったか、彼に頭が上がらない。素っ気ない返事になってしまう。謝るだけで精一杯だった。
その返事にひとまずは肩の力を緩めてくれたようで、話を切り替えてこの事態に至るまでの説明を、彼に話さなければならない。
「花内、お前からも聞かせてくれ。こうなるまでに一体何が……」
予想していた質問の内容に、答えようとしてもなかなか言葉が見つからない。こんなに真剣な眼差しで話を聞いてくれる草壁さんに、これ以上迷惑をかけたくない。その顔を崩したくない。幻滅されたくない。そう思ったら、言葉にすることが怖かった。
けれど、草壁さんは忙しい時間を割いて話を求めているんだ。これ以上煩わしせてしまうのも、彼の負担になってしまう。
「すみません…… 私にも、よくわからなくて……」
こんな騒ぎになってしまって、もうどうしていいかわけがわからず、私は縮こまるようにおとなしく現状を見守る。水飛沫の煙が上がる廊下を行き来していた波が、突然ピタリと止んだ。
「何してるの」
時間が止まったかのように感じられた空間で、そんな声と共に現れた人物を前に背筋が竦む。
この場の全員が息を呑むほど、独特の空気を纏って、彼はやって来た。
この頃には、作動した水と警報は鳴り止んで、水浸しになった教室と騒動の跡の霧雨が漂っていた。
そんな現状を見て、腑に落ちない彼は、詳しい状況を求めるようにこちらの一点を睨んだ。
静まり返る辺りに、ピリリとした空気が纏う。この雨に冷え切った肌を突き刺す視線に、足先まで凍える。
「あ…… 雲雀さ……」
「委員長! これはっ……」
草壁さんが、私を庇うように雲雀さんへ一通りを説明しようと口を開く。雲雀さんの表情が一層険しくなる。群れていると、嫌悪を示しているのか、私への悪態なのか、どちらにしても機嫌の悪い彼を、今は直視出来ない。
「失礼します。委員長」
現れたのが、なかなかのセットを施してなかなかの気合の入った風紀委員の少年だった。少年、と言ったのは、風紀委員と聞いて巨体でゴツゴツとした印象だけど、小柄で学ランを着るのもブカブカに見える彼はまだ鬼ヶ島という居場所に馴染めていないんだろう。なんだか勝手に親近感が湧いしまう。
この空気に臆することなく、むしろ驚くほどこの空気を読んでいない彼の登場に、彼を尊敬さえする。横からいきなり割り込んできたことに、機嫌の悪さが絶頂にある雲雀さんは、鬱陶しそうに睨んでいる。これが風紀委員なのか。私なら、速攻家の布団に潜り込むけどなぁ。
それはいいとして、仕事と割り切り仕方なく耳を傾ける雲雀さんへ、彼が経過報告をするそうだ。なんだか無性に応援したくなってしまう。
「現場を調べたところ、原因はコレのようです」
少年の色白な掌の上にのっていたあるものを見て、全員の言葉が詰まる。
すぐさま記憶を掘り起こして、思い当たる節がありありなことに、頭が重い。
これがまだ機械の故障だとか、誤作動だったらどれだけよかったんだろう。いや、被害を被るのは全く望んでいないけど、まだ彼の機嫌を損ねなかったかもしれない。
「……ホッチキスの、芯……?」
……しばらく沈黙が続く。この場をどう収拾していいかなんて、考えることさえもう辛い。
そっと視線を上に向けてみると、想像以上に呆気とした反応の草壁さんは、思考回路までぶっ飛んでしまったかのように微動だにしていない。
「……芯を替えるとき、クシャミをして、確かその直後に警報が鳴りました……」
「どうやら、コレが何かの拍子にセンサーに反応し、作動したようです」
「そういうことです……」
風紀委員の少年とコンビプレーをキメる。そんなこと言ってる場合じゃないけど、地味に感動が残る。もう半分はヤケクソかもしれない。
草壁さんはまだいいとして、もう一人の方は………… 恐る恐る振り向くと、すでにこちらを見つめて、
「君……」
「ッ――…… ごめんなさいッ!!」
彼の声を遮って、必死の謝罪をする。これは、生半可じゃない。私の落ち目が彼を怒らせてしまったと、呼吸が止まるほどこの事態に罪悪感が募る。
私の一声で、廊下中の視線が集まるのを感じて、居た堪れなくなった。
「花内……?」
もうこの場に意識を保っていられるのも、やっとなくらいだった。
機械仕掛けのような声が、廊下に籠る。
「ごめんなさい…… ごめんなさい…… ごめんなさいッ……」
カタカタと、それを繰り返す。
その
彼らの――風紀委員会の視線に、私は気圧されるように後退り、そして後先構わずその場を立ち去った。
********
外に出れば、冷たい風が肌に触れる。
逃げるようにあれから校内をひたすらに走って、人気のない校庭まで来ていた。まだ校内全体を把握していない私には、さながらアリスが不思議の国に迷い込んだような胸の内を感じていた。
けれど、突拍子のない大きなクシャミが、現実感を引き寄せる。そして、自身の身体がビショビショだったことを不意に思い出した。
はたと思う。自分の今の立場が、どれだけ崖の淵にあることを。
――――やってしまったあぁッ!!!
つい感情的になって、周りさえ見えていなかった。私のせいなのに、怖くてひたすら逃げてきてしまった。
ああもう、何しちゃってるんだろう! 最悪だ最悪だッ!!
すぐに踵を返そうとするけど、また足が止まる。
……戻って、私に何か出来ることがあるのかな。
私が戻らなくても、彼らであの場を収拾出来る。むしろ、私が行けばまた彼らの邪魔になる。
踏み出そうとした足をそのまま引っ込めて、そばの木の幹に寄り添う。
木の匂いだ……。懐かしいなぁ。
こんなことで、現実から逃げてばかりだ。でも、仕方ない。こうでもしなきゃ、前を歩けない。
ここでがんばってること、全部あの娘にわかってもらえるかな――……。
…………あの時も、結局逃げてしまったんだ。
応接室を飛び出して、視界に飛び込む廊下の景色をただ走る。
これが風紀委員に見つかれば、また怒られるんだろうなって、他人事のように思いながら、視界は滲む景色の中を駆け抜ける。
差しかかった廊下の突き当たりで、「うわぁ!?」という声と、誰かがこの視界に入る。急ブレーキをかけるけど、恐らく間に合わない。辺りに衝撃音が響く。
「いててっ……」
相手はそうぼやき、尻もちをついた腰をさすりながら、ふとその表情に死神に魂を抜かれたような顔色を見せる。
「あ、あれ……? 花内さん?」
そう呼ばれて、恐る恐る顔を上げる。
その間際に濡れた目を腕で大雑把に擦りながら、相手の顔を窺う。
「沢田、さん……?」
「えっ、あっ、ごごごめんね! オレがそのちゃんと前見てなくて! あの、大丈夫ッ!?」
「あ…… はい、大丈夫です」
よりによって、一番顔を合わせたくない人にぶつかってしまった。心配してくれているけれど、つい素っ気ない返事をしてしまう。
「私の方こそ、ぶつかってすみません。それじゃあ……」
そそくさと彼に断りを入れてこの場を離れようと、するとそれを先方が引き止める。
「――あっ! 待って!」
沢田さんがところ構わず、ここが校内の一端であっても大声で呼び止めるのに、私もふと足を止めて振り返る。
しどろもどろになりながら、時たま言葉を詰まらせる。沢田さんは、それを繰り返して、何かを言おうと口を開く。
「あの時のこと…… 花内さんは、どう思ってるのかなって……」
彼が言わんとするところが不思議と伝わって、この胸のしこりが疼く。
「実は、オレ…… まだあの日のことが頭から離れなくて…… もしかしたら、花内さんもそうなんじゃないかって……。ごめんね、巻き込んで……」
苦味を含んで彼が微笑む。
その言葉は、彼が何を思って私に告げたんだろう……。
これ以上、考えちゃいけないような気がする。
「――……どうして、あそこに沢田さんがいたんですか?」
「えっ……?」
「どうして、そんな言葉を言うんですか? 何を知っているんですか?」
わからないことがたくさんあった。
それを、知ってしまったら――……。
「――――もしかして、あなたなの?」
記憶の断片が、心臓に訴えかける。
自然とその場から後退り、彼から距離を置く。
「は、花内さ……」
「……やめて」
沢田さんの言葉を遮って、私は彼を拒む。
「やめて、近づかないで……」
沢田さんは、ショックを隠し切れないようだった。面と向かってそう言われたら、仕方ないと思う。そんな単純なことにも、今は頭が回らない。
頭を大袈裟に振りながら、がむしゃらに叫ぶ。
壊れていく私の姿は、彼にどう映っていたかなんて、もう考える余裕もなくって……。
ただ、これ以上は、怖くなった――……。
「私は、もう…… 誰も傷つけたくないッ……!」
そんな言葉が、無意識に私を庇っていた。
それだけなのに、どうして傷は深まるばかりなの……?
切ない風が、そっと髪を撫でる。
その風に促されて、下を向いていた顔をそっと上げた。
ひらひらと、その風にのせられて、あの花がこの視界いっぱいに舞い降りた。
薄桃色の、この指先に溶けていく儚さに色づいた花びらに、唇から笑みが零れる。
――もう、散ってしまったと思っていた。
けれど、ここにある。あなたというたしかなもの。
その存在は、とても温かくて、私の心の記憶にある。
忘れたことなんてない。
この町に来て、1ヶ月――……。
あれから、何も変わっていない。
……あの娘がいてくれたことが、どれほど私の心の支えだったか、この胸にキュッと沁みて、また弱音が溢れる。
――――……もう、あの頃には戻れないんだ。
あの娘を失って、この胸には、悲しみと後悔ばかり――――……。
「ごめんね、さくちゃん――……」
私の心は期末試験フィーバーです。詰む詰む。