幼い私が泣いていた。
もう嫌だと何度もこの胸が張り裂けて、大粒の涙を流した。
散々に泣いて、腫れて充血した目には今も絶えず濁った雫が頬を伝い、ひとりぼっちに震える手が嘆く。
もう我慢できない! どうして、いつも私ばっかり……っ。
こんなの…… もうあんまりだ!
こんな惨めな身体なんか呪ってやる……!
――心も身体も、ズタズタだった。
挙げ句の果てに自暴自棄になって、馬鹿になって、ただ感情的に泣き叫ぶ私を、その時強い腕の温もりが包んでくれた。
見上げると、霞んで閉じていた視界には、懐かしい表情があった。
幼い頃の記憶が語りかける。あの人の心安らぐ微笑み。
――いいか、まりや。自分自身を呪うことは簡単だ。最後まで結果なんて見えないものだ。だからここまで頑張ってこられたろう。ここで負けないことで、まだ変えられる未来があるんだ。お前次第だ。だから、もう涙は引っ込めろ。
力強いあの人の言葉が、魔法のようにあの頃の私に元気をくれた。
魔法にかけられてその涙を引っ込めた私は、彼へ今度は強く頷いて見せる。
まっすぐな意志を示した私に、よく出来ましたと微笑むように頭を撫でてくれた。
この優しい目元が、私は大好きなんだ――――
――……いつか、運命が変わる時、何にもかえがたいものをその手で守る時に、俺のように支えてやるんだ。
――それが、照らす者の使命だ。
私の頭を撫でて、あの人は教えてくれた。
けれど、その目はなんて悲しそうに伏せるんだろう、幼い私はまだその意味に気づいてあげられず、あの人に残酷なほど無邪気に笑ったんだった。
――うん。わかったよ。お父さん――――……。
お父さん――と、まどろみに呼びかけてから、どれくらい経ったかは思い出せない。
フッと視界が開いて、朝日を快く招いた自室の風景の中に重力を伴ってさらりと流れる黒髪。
朝の光を映した黒の双眸がじっとこちらを見据えていて、同時にガタンッと突然下から突き上げるような謎の衝撃。こんな朝から地震でもあるのか…… と寝ぼけていた。
「起きなよ。咬み殺すよ」
揺れの方に意識を向けていたから、その声に不意打ちを喰らう。覚束ない視界にするとここ最近で身近に感じるようになったアレが、快晴の空から降る朝日に負けず鋭く煌めいた。
トンファー? ……と言えば、並盛の恐怖として君臨する方が愛器しているとんでも迷惑な代物である。
それを片手にご本人が、休日の朝から何事やら寝起きの私の顔を覗き込んで、私が寝転ぶベッドに一撃の蹴りを喰らわせてさらに威嚇する。
いつもの学ランが黒光りを放ち、だんだんとこの意識に自覚を持たせる。
その頃にはまた下から突き上げる一撃が加わり、ベッドが激しく軋む。
どうやら、朝から悪夢にうなされるようだ。
「ひばり、さん……」
「何」
これは夢ではない確認をすると、普通に返事が返ってきてしまった。
残念ながら、これは現実に起こる悪夢のようだ。
「…………キャアアアアアアアアアアッ!?!?」
その後のことはしばらく意識が吹っ飛んでしまうほど、今までにない最悪の目覚めの出来事だった。
何と言っても、あの風紀委員長の雲雀恭弥が、私の意識がない間に時空の歪みでも発生させたのかと半ばこじつけな理由をかけたいほど、何食わぬ鬼の面で私の部屋にいたのだから。
――……すんごい疲れているのかな、と一瞬勘繰ったけれど、よだれがだらんと垂れたままの頬にその瞬間に掠った風の気配に、ふと潜在意識が冴え渡る。背筋がゾクゾクと凍る、危機感が動物の本能として脳裏に浮かんだ。
そして案の定、恐る恐ると視線を恐怖からズラすと、今度は恐怖を飛び越えてこの身にショックを与える鈍色に光るブツが、私の頭を預けた枕を軽く引き裂いてめり込んでいた。枕の内臓が悲鳴を上げるように溢れ出した。
私も同様にこの身の突然の不幸に、思考が追いつく暇なく身の危険を本能で察知して、寝起きから思えないほど俊敏な動作で布団をまさぐり寄せて敵手から距離を取る。
「ななななななんで、ひひひひ雲雀さんがこここここにィッ!?」
かなり舌が回らない状態でこの現状に叫ぶ。寝起きのせいで呂律が上手く回らないだけなんだから……!
「君の母親に君を叩き起こすよう頼まれたからだよ。朝食をご馳走になった借りもあるしね」
「雲雀さんが食べた朝ごはんのツケがなんで私に回ってくるのーーー!? そもそも雲雀さんがどうしてうちで朝ごはんご馳走になってんのーーー!?」
さして疑問もなく言ってのけた雲雀さんだけど、いやそれ私が咬み殺される義理どこにあった!?
理不尽をこれほど痛感するような話もない。休日の朝からもうなんなのよ…… と涙で彼に訴えたいけど、そうするにもどう鬼の鉄の心臓を射貫くか。この世には無謀なんて血も涙もない言葉がある。
ちょっとお母さんどゆことーーー!?
実母からこんな突拍子もない窮地へと落とされるなんて、童話のお姫様のような悲しみに暮れる余裕もなく、絵本のようにページをめくって次の展開へなんて丁寧な前振りもなく、それはいつも突然に起こる。
食後のデザートに打ってつけである目の前の獲物に、容赦ないフォークが突き刺さろうとする。かろうじて手探り寄せていた布団を広げバリアを張って、間一髪衝撃を緩和する。しかし、その防御膜も引き裂かれる運命に抗えず、純白の内臓が辺りに酷く飛び散る。いやあぁぁッ!
今日まで長く付き合ってきた名も無き私の愛用布団へ突然のお別れを告げることになった不幸に、過去を捨て切れない乙女心が揺らぐのだった。布団も、突然自身の身に降りかかった不幸に解せないだろう。
ていうか、もうすでに叩き起こされたのにこれどうなってるのー!?
やっぱり理不尽だ!なんて講義にも、人ならざる鬼の耳には伝わらないようだ。
なんとか必死の攻防を繰り返し、寝起きのパジャマ姿で風紀の鬼から逃げ惑うというかなり珍妙な光景が生まれる。
――そうだ。思えば、小5から使い古したヨレヨレなパジャマに、寝起きで酷くボサボサの髪、顔も洗っていないし、よりによってこんな格好を雲雀さんに朝一番に見られるなんて…… ああもうお嫁に行けないとはこのことなんだ……。
そして泥を塗った攻防の戦いに、シーツにツンと足を引っ掛けたことで、一際大きな物音を立てた後には一気に嵐の後の静けさを纏った。
転げ落ちたベッドから、さらに重い沈黙が落ちる。
なんとも言えないこの状況で、すぐに身体を退けようにも、視界の端に光る
真下から直に受け取る視線も、なかなか威圧的なものだ。相手は下からどこへ目線を配っているのか、なんとなく気恥ずかしくて、一方の私は彼の白シャツのはだけた第一ボタンまでが限界だった。
そうこう判断がつかないでいると、ガチャ――とあまりにも無情なドアノブの音がする。
「さっきからドタバタ何騒いでんだよ、ねーちゃん……」
第一声は姉への文句から始まった、弟の蒼哉が部屋の様子を見に来た。
このタイミングにさらにややこしくなる奴の乱入に、我ながらこの体質に呪われてるのかと思う。
ま、待って…… お母さんが今この場に入って来るのもアレだけど、蒼哉がこれ見たら……。
「い、いや…… ち、違うのよ、蒼哉! これはドジが招いたただの事故であって……!」
必死に弁解する。しかし、がんばる姉の話を聞いているのか否か、にわかに身体を震わせている姿に、間もなく爆弾の導火線が切れそうな気配を感じた。
これはもう手がつけられない。雲雀さんのことになると何するかわからない蒼哉だ……。
「なぁあに、ねーちゃんが雲雀さん襲ってんだよぉおおッ!!! 雲雀さんから離れろ! 変態クソババアァッ!!!」
大玉の火の粉が直に私へ振り被る。案の定だけど、酷いッ!!! 姉をあろうことか、変態ババアって……! 先に襲われたのこっちだし! 被害者こっちだし!
「雲雀さんからも何か言ってくださいよ〜!」
こうなった根源に一言申すと、心なしかこの状況を面白そうに眺めてい、る……?
「朝から随分積極的だ」
「雲雀さんんんんッ!?」
ここで思いがけない雲雀さんのボケに、蒼哉の中で完全に何かがぶっ壊れたようだ。半端ない嫉妬の視線がこちらに突き刺さる。だからなんでよーーーッ!?
姉弟喧嘩に辟易すると、嫌気が差してその勢いがあるがまま着替えるからと怒鳴って、2人諸共部屋から強引に追い出したのだった。静けさが戻る部屋には一騒動があった跡がちらほらと。あぁ…… なんじゃこりゃ……。
着替える暇もなく後片付けに追われて、ようやく着替えて顔を洗う頃には腹時計が壊れる寸前で、けれどもリビングに降りて再び目に飛び込んだ光景にまだ寝ぼけているのかと自分の目を疑う。
その場で固まっていれば、リビングには他にも空のお盆を片手にしたお母さんの姿があった。
「あら、やっと起きたのね。まりやちゃん。もう10時回っているわよ~」
「そんなこといいからお母さんどういうことッ!?」
「え?」
問い詰めてみれば、このキョトンとした表情……。これは時間がかかりそうだ。相変わらずの天然ママだなぁ……。
「――だから、どうしてあの雲雀さんが家にいて、我が物顔でリビングのソファー占領して、お母さんはご丁寧にお茶なんか出してるの!?」
ついさっきテーブルに出された湯呑みをちゃっかり手に取る彼を指して、この天然母にも至極わかりやすく尋ねる。
「どうしてって、まりやちゃんのお客様よ。きちんとおもてなしして差し上げないと、失礼でしょう?」
「あ、ぐっ…… それはそうだけど、そうなんだけど、そうじゃなくて…… あんな血も涙もプライバシーもない鬼に気を利かせなくてもっ…… そもそもこんな人を家に招いてないッ!!」
悶々としながら、彼という人物がどれほどの脅威であるかを説明しようとする。その最中にちょんちょんと母から服の袖を引っ張られ、いともあっさりと話を遮られる。
「ねぇねぇ、彼でしょう? 前に言ってた風紀委員の彼。物静かで、シャープな瞳なんてあの人にそっくりだわ〜。よかったわねぇ〜」
「どこがッ!? 思春期の女の子のプライバシーをあろうことかガン無視してきたんだよ!?」
なぜか声のトーンを落として、テレビのチャンネルを変える彼に聞こえないように背中を向けてヒソヒソと会話する。何を思ったのか酷い思い違いをしているお母さんに涙の訴えを試みても、乙女心を開花した彼女の耳に届いているかは怪しいところ。
そんな食い違う母と娘の会話に釘を刺すように、その間を何かが一瞬すり抜ける。
「どうでもいいけど、指ささないで」
何かが横切っていった後を見ると、リビングの壁に垂直にトンファーがメキメキとめり込んでいた。ひび割れた壁の粉がハラハラと零れ落ちる。
その物理的に恐ろしいものを目の当たりにしても尚も笑顔を絶やさないチートな母が、そっと私に注意を促す。
「人を指さしちゃいけませんよ。まりやちゃん」
「…………ハイ」
風邪でも引いたのかと、身体を抱き寄せた。熱はなくて、むしろ体温が冷えていく恐怖を感じた。
朝食を持ってくるとお母さんが一旦離れて、違和感なくリビングの空間に溶け込んでいる彼と2人きりの空気にやはり息が詰まる。この人は他人の家でよくもここまで寛げるなと、一周回って感心しそうなところだった。
お母さんには勘違いされたままだけど、こんな朝に一体何の用で訪ねたのか疑問も残るまま、変に意識するのももう馬鹿らしくなり、彼の存在も気にせず窓を開けて空気を入れ替えようと再び背中を向ける。
う〜ん…… いい天気だなぁ。朝からドタバタしたけど、お昼の予定はどうしようかと考えていた。
こんないい天気の日だし、外に出かけるのもいいな。そろそろショッピングにでも…… あっ。
ふと、頭にアンテナがピキーンと立った。
後ろでヒシヒシと視線を感じるけれど、それすらも気にする余裕がなく、時間はギリギリだった。
「11時に京子さんとスイーツを食べに行く約束してたんだ! どどどうしよう! 遅刻だよー!」
叫んでから、バタバタと支度に向かう。
今朝のアレですっかり忘れてたぁぁ〜〜〜!!
その後は慌ただしく家を出て、その時には彼の存在も片隅に置いて約束へと駆け足に向かう。
忘れてしまっていた。今朝の夢も、魔法の言葉も、優しいあの人の目元も、何もかも――――
長い1日になりそうだ……。(by.リボーン風)