ナミモリタウン。
週末には休日を待ち遠しにした人々で溢れ返り、並盛でも有数の市街地であることから日頃から街の賑わいを見せている。
ここから見渡せるタウンは、あちこちに建ち並ぶ建造物の群生の中を無造作に人々の波が行き交い、不規則なそれらの動きは一粒の角砂糖の絶壁に群がる蟻の様を思わせた。
そんな彼らは高層ビルの関係者以外立ち入り禁止の屋上に佇む男の影には目もくれず、各々の目先のことに忙しい様子だ。この場に誰一人として街中の一角に建つビルの屋上へと注目する者はいないだろう、たった一人の子どもを除いて……。
「……これはまたえらい挨拶をされたものだ。気持ちはわからなくもないがな。
男は、まるでこの場に一人ごちるように言ったのだが、彼のガラ空きの背後にはひとつの小振りな影がじっと見据えていた。後方から、明らかなる警戒と殺意。参ったなと、男は具合が悪いように快晴の空へ頭をもたげる。
子どもと呼ぶには、まだまだその風貌は幼すぎる。燦々と反射するおしゃぶりをこさえた愛くるしい印象を受ける。
失礼がないよう男もまた挨拶の代わりに語尾に柔らかい口調をそっと付け足していたのだが、丁寧な物腰で彼が愛想を振り撒けば、相手はむしろその警戒を強いていく。
首元におしゃぶりを提げた赤ん坊は、その風貌と印象から掛け離れるように眼前の男を睨みつける。
この瞬間にこの男の動きを封じるに至る殺気を投げたはずだった。そのはずだが、顔色すら判明しないこの男は、これまで一切動揺する素振りを見せていない。彼も本気でないにしろ、一流の殺し屋である自分にここまで隙を見せない相手に対して、容易に気を抜くことは出来ない。
アルコバレーノである以前に、史上最強の殺し屋としての名がある彼にとっては、この有様は屈辱であった。
さらには裏社会の上流階級であるアルコバレーノへの冒涜とも取れる男の言動に、しかし憤りを感じるどころか、かつての苦境を幾つも乗り越え備われた彼の自尊心が、冷静にこの事態を見定めていた。
奴には訊いておくべきことがあった。動揺しては、この男の真意を見極められない。
「お前の顔は、知ってるぞ。たしか、家光んとこの……」
それは、いつのことだっただろうか。家光のもとを訪れるためCEDEFにある彼の事務室を訪ねた時、その道すがら廊下であの男とすれ違うことがあった。その時は、互いに話すわけでもなく、互いに身体をすれ違う。友人のもとを訪れる途中の廊下での遭遇した些かな偶然、そんなことが数回程度あっただろうか。
なぜあの時のことが印象的に頭にあるのか、ふと考えてみてもにわかには思い当たる節が見当たらない。すれ違う人間など過去に五万といる中で、あの男の姿が深海のような記憶の底に浮かぶ……。
「天下のアルコバレーノ殿に存じ上げられているのは誠に光栄だな」
「ふざけるのも大概にしやがれ」
するとここで、初めて男がこちらに目線を配る。晩春の日差しに彩られた鳶色の輝きは、どころか妖しさを滲ませてこうして対峙する者の容姿を捉える。
――なんて、あどけない容姿だろう。とても可愛らしい。この瞬間まで同じ裏舞台にいる人間とは、この愛くるしい赤ん坊の風貌を間近に見てもピンと来るものがない。
遠い記憶にいる愛しい者たちの笑顔を、面影を、この赤ん坊の姿を通して重ねて見る。懐かしく、甘酸っぱい思い出の香りが鼻孔を擽る。
「家光の指示か」
「――いいや。違うな。あの方には、何も告げずにここにいる」
男の黒服がさらりと靡く。
嫌な風だと、ボルサリーノが暴れる。つばの上のカメレオンが、地上400mにある凍てついた空気にギョロリと目を回していた。
「何企んでやがる」
赤ん坊は、男の顔をまじまじと見つめ、そしてようやくその名を思い出したのだった。同時に、男の屈服としないその面持ちに、とある一人の少女の面影が重なる。
無意識、だろうか。
この殺伐とする状況で、男がそこに哀愁を匂わせこちらへと微笑む。
まるで―― あの遠い空の向こうにある光のように掴めない男だ。
「おめえは…… 一体どういうことだ」
男が黒服を身に纏っているということは、裏社会において任務遂行という意味を持つ。任務を与えられた時、裏社会の人間はこの正装に身を包むのだ。
果たしてそんな残酷なことがあるのだろうか――――
自身も身体が未熟児である者は、まだ親心というものに特別な感情を持ち寄せていない。しかし、その関係が、赤の他人にはわからない一線を引いた向こう側にあることはわかる。ミッションには、時に組むパートナーとの信頼関係が報酬の良し悪しを左右することも少なくないことだ。彼らの関係図は、きっと契約上に置かれたそれよりも深く複雑に絡んでいる。
この男はまさか悪魔に魂でも売ったのかと、その頃になると男の手にいつからかある一冊の書籍が視界の端に留まる。
「――この世には、避けられない運命があるだろう。
黄色のおしゃぶりを提げた赤ん坊の身体を諭す。相手の顔つきもすぐさま険しいものになる。
この間に一触即発の禍々しい空気が漂いながら、赤ん坊の方は男に一拍置いて確認した。
「てめぇ、何を知ってやがる。呪いのことについて――」
平常心を保とうとするが、語尾に滲み出る殺意が殺し屋の彼の焦燥感を拭えない。
あのことについて、もしくはあの男の足取りを追えるなら、安らかな日差しが注ぐこの場が血塗られた戦場と姿を変えようと構わなかった。この身体への憎しみは、かつてから深く芽を植え付けていたのだ。
男は、ふと空を仰ぐ。何にも染まらない純情な青空を眺めて、あまりの眩しさに目を薄める。その時さえこの男は僅かな隙を見せない。
まだ、動くことが出来ない……。
「あの方がよく言っていた。君の眼差しは、熱すぎる。そのつぶらな瞳に宿した炎は誰にも消火出来やしない。揺るぎない芯の熱、その殺意が人々を焦がす勢いに。その炎が、いつか君自身を灰にすると――」
詩人のように淡々と、語られる男の言葉は、少なくとも彼の潜在にある意識の図星を突いていた。ここで情報を引き出せたなら、今の教え子たちへの配慮を忘れていた。この救いようのない世の中で、彼らのあどけない笑顔は、少しずつこの呪われた身と心に沁みていた。
「死に急ぐことはない。君は確かにそこにいる。まだ君には、生きていてもらわないと困る」
苦渋な声を噛み締めた。空がにわかに曇る。分厚い雲の層が、光を遮る。男の顔は陰に隠れる。
「君に任せようか。あの娘を頼むよ」
おしゃぶりの眩い表面に陽炎の姿が揺らぐ。まるで、陽炎のような男だった。
次に春の陽気が照らす頃、屋上には弾をリボルバーに込め忘れた殺し屋の影がぽつんと残された。