真っ白な景色が、ぼんやりとそこにはあった。
しばらく見つめ続けると、遠くから誰かの声がした。一体誰だろうか。すると景色は少しずつ彩られて白だったり緑だったり黄色だったり灰色だったり、まるで万華鏡のようにコロコロと変化して、風景へと移り変わる。
そこは新緑の溢れる森の中、辺りには沢山の樹々や草花が生い茂りながら、それらが懐かしい香りを感じさせる。
自然の安らぎに包み込まれていた意識にふとまたあの声を拾う。木漏れ日がカラカラと鳴いて、その中で男女の声が入り混じりながら、鼓膜に響いた……。
貴方には、わからない。
誰も愛してこなかった、誰にもその心を赦さなかった、きっと貴方にはわかってもらえないんでしょう。
私には、わからなかったの。そばにいてもまるで違う世界にいる貴方と一緒にいて、そんな貴方とはコインの裏表のように、2人は同じ景色を隣で見られないように……。
きっと、お互いに、その選択は交われないものなの。それを咎めることも、選び直すことも、もう誰にも赦されないこと。もう逃げたくないの。これだけは、誓いたいの。貴方が言ってくれたことでしょう? 貴方とこうして出逢えて、知らなかったコインの裏にいた貴方を見つめていられたこと…… 私は、幸せよ。だからここで、別れましょう。
何故、そこまでして君は……。
僕にはわからない。君がそうまでして背負うものが、そうすることで君自身が幸福になれたのか。馬鹿な君は、いつも自分が追い詰められる結末を選んだ。
君の言う通りだ。何もわかっていなかった、君のこと。はぐらかしていた、君への想いも、君の前では何も気づかないふりをして、この気持ちさえ騙した。そんなことも君にはお見通しだったのかもしれない。微笑みの下にあの頃から押し殺していた苦しみにも触れられなかった。
君に出会うまで、知りたくもなかったことだよ。
……君は、残された者の悲しみを知らない。
「――――起きたのね、まりやちゃん」
白い空間で意識を覚ませば、お母さんの顔が一番最初にそこにはあった。私が目を覚まして安堵しているその目には、薄っすらと不安を隠しきれない粒が滲んでいる。
窓から差し込む日向と微風は、生気のない白い頬をそっと撫でる。
しばらくして意識が覚醒すると、お母さんからこれまでの経緯を説明してもらった。
ナミモリタウンの事件から、騒動の最中に私が倒れてから2日間昏睡状態が続いたという……。犯人グループは逃走してしまったけれど、人質は無事に解放された。事件の跡は、今もまだ続いていると聞かされた。
……きっと、たくさん心配をさせてしまった。きっと片時も見守って寄り添ってくれた。林檎を剥いて器に盛っているお母さんを見つめて、そうさせていることが心苦しく思う。
「大丈夫よ。まりやちゃんが無事に帰って来てくれたら、お母さん何も心配していないから。はい、林檎。蒼哉ちゃんもいないから、ゆっくり食べなさい」
うさぎの林檎を器に乗せたお母さんは、そう言って器を私に預ける。薄墨色の器には、可愛らしいうさぎがいっぱい乗っていた。
いつか読んだ絵本で、母親は強いんだと書かれていた。きっと私のお母さんは論外なんだろうと思っていたけど、やっぱり母親は父親と違うところで強い芯を持っているんだ。
甘くて後味は少し酸っぱい林檎をかじって、いろんな感情を飲み込んだ。口の中で林檎はホロホロと溶けていった。
「まりやちゃんが寝ている間に、お友達が来てくれたのよ。また目が覚めたらお見舞いに来てくれるって、素敵なお友達がまりやちゃんにいてお母さんは嬉しいわ」
そう話すように嬉々としてその顔を綻ばせている。いろいろ心配かけたから、本当に喜んでくれているんだろう。私も少しだけ親孝行を出来たことを素直に喜んだ。
お母さんがいうお友達が特定の誰かはわからなかった。でも、もしかしたら沢田さんたちのことかなと思い至るところに、それを裏付けるように林檎をかじるとどこからともなく幼い声が降ってきた。
「ちゃおっス」
黒い影…… ボルサリーノにレオン君を連れたリボーン君が、いつからかそこにいた。私もお母さんも呆気に取られて、小さな赤ん坊の影は部屋の隅にじっと佇んでいた。
「リボーン君! ちゃ、ちゃおっス……?」
「身体の具合は平気か?」
彼を真似て挨拶を返すと、初めに体調を気遣われた。その好意に丁寧に答えてあげると、リボーン君の反応はなぜだか少し腑に落ちないよう……。
「……どこも変なとこはねーのか?」
案の定、私に質問を投げかける。
「うーん、特にないと思うけど……」
「……まりや。辛いことだと思うが、あの事件で何か思い出すことはあるか」
そう問い詰められても、私は何も答えられなかった。なんでだろう。あの時のことを思い出そうとすると優しい光にそれを遮られてしまう。
「実は、後のことはあんまり思い出せなくて…… 意識がなくなる前のことはよく覚えていないんだ。何か聞きたいことがあったなら、ごめんね」
さっきまで見ていたような景色も、天井を仰げば部屋のぼんやりと白みがかった色に重なった。
陽の光とまだらに入り混じって比較的綺麗な色合いをして、でも今はあんまりそう思えなくて不思議だった。
「……そうか」
ポツリと、リボーン君が頷いた。
「なぁ、まりや、父親のことはどう思ってるんだ?」
どうしてそのつぶらな瞳に鋭い眼差しを秘めて彼がそう尋ねるのか、その面持ちは少し暗くて気がかりだった。
「お父さんのこと……」
少し動揺もしていた。最近ふとした時に思い出すこともあったから、不思議なこともあるんだと単純に思っていた。
「お父さんはね、仕事人で家族のこと放ったらかしにしてどこかに行っちゃう人なんだ。休みの日も誕生日にもそばにいてくれなくて、正直寂しかった。でも、今はそんなお父さんがお父さんらしいとか思って開き直っているんだけどね」
懐かしい記憶を思い出す時、あの人の表情はいつも輝いていたな。穏やかで優しい口元が幼い記憶にも素敵で、こうして思い出の中でしか見られないのがやっぱり少し物寂しい。
それを答えても、リボーン君の顔色は浮かばれない。一体どうしたんだろう。赤ちゃんにそんな難しい顔は似合わないよ。
「ねぇ、リボーン君。私も聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「他のみんなは無事なんだよね?」
「……安心しろ。病院送りは精々お前くらいだぞ」
「なんかそれへこむなぁ……」
お母さんから一通りの話は聞いていたけれど、彼に直接聞いて肩の力がようやく抜けた気がした。と同時にリボーン君の言い方にちょっとだけ傷ついた。
「あいつらに放課後にでも見舞いに来るよう言っておくぞ」
「うん、よろしくね」
でも、やっとリボーン君が笑ってくれたから、いっか。
「それとね、ありがとう」
そう言えば、リボーン君がとても可愛い顔でキョトンと私を見てくれたので、思わず口元の緩みが抑えられない。
「生きるには意味があるって、リボーン君の言葉。すごく元気をもらったよ。その意味をこれから探して行くことが、今の私の生きる意味なのかなあって……」
あっけらかんとそう言ってのけるけど、やっぱり不安なところは隠せなくて声が詰まる。もう少し気合を入れないと、きっとまたあの人に舐められる。
「Perché è scomparso luce…」
リボーン君は何かを呟いた。独り言のようだった。何を言っていたのかはわからない。リボーン君はそれきり表情を伏せて押し黙ると、最後は何も言わずに踵を返して行ってしまった。
********
まりやの病室を後にした馨子は、去って行こうとする小さな背中を見送ろうとしていた。
「ありがとう、毎日訪ねて来てくれて。おかげでようやく目を覚ましてくれた」
事件から2日、娘の入院に慌てる彼女のもとに素性の知れない赤ん坊が現れてから、一日に何度も訪れてくれることもあった。経過を一緒に見守ってくれて、きっとこの赤ん坊の存在は知らないところで不安を共有して自分を慰めてくれただろう。だから、彼には感謝しきれない。
「なんだかあの人と同じ雰囲気がするの」
馨子は、この2日間の胸の内にひっそりと思っていたことを直接話してみた。
その背中が、ピクリと反応を返してくれた。
「忠秋か」
「まあ、こんなに可愛らしい知人の方がいるなんて、あの人から聞いていなかったわ」
普段の調子でおっとり返してみせた馨子だが、その対応は彼を唸らせた。さすがにあんな娘を育ててきた母親だとその柔和な性格に目を瞠りながら、娘が緊急入院という非常事態に動揺は節々にあるが終始冷静を保っていた点には彼の意表を突いた。母親なら誰でも周囲を忘れ混乱しがちだろう、そして家庭環境が複雑なら尚更である。
否、その環境が特殊であるからこそ、もしくは虹さえ欺いた
これから会いに行く相手のことを逡巡し、その口角はさらに引き締まる。
「うふふ、そうなの。主人の面倒をこれからもお願いしていいかしら」
「ああ」
背後に馨子の視線が、赤子の姿が見えなくなるまで見送ってくれているのを知りながら、病院を後にする。白い塀壁を立ち去った後にその小人の足が赴くのは、事件の跡が薄まることもなく表沙汰に騒がれることもなく平常を偽るあの街の、あの男と偶然か否か邂逅したあのビルの屋上であった。
彼が赴くと、そこには図らずも目的の人物が待っていた。
向こうはどうやら澄み渡る大空の壮大な神秘に魅力されているのか、こちらが話しかけるまで男は背中を見せ続けた。
「星を眺めているんだ」
そう、男が答えた。
急にどうしてそんなことをこの男が答えるのか、苛立ちが今日は募るばかりだ。そっと仕舞っておいた移ろう記憶の面影が、また蘇る。
「星なんて見えねーぞ」
まだ日中の空が明るい時間帯、星など見えるはずもないと返してやった。
燻る感情は依然として仄暗い彼の腹の底を彷徨う。
「星の輝きが見えなくとも、彼らは自らの輝きを灯し続ける。それが星に生まれた運命として。心を沈ませ、この空を見上げれば、彼らのメッセージは地上にもあるはずだよ」
星、メッセージ…… そんな言葉を慈しみ語っていたいつかの姿を彷彿とさせる。眩い光と共に過るその幻を追いかけると、呼吸も止まるほど萎んだ胸が痛む。
今は目の前の男だけを見据え、目的の核心に触れる。
「なぁ、いい加減話してくんねーか」
彼らしい挨拶もなく、単刀直入だった。そんな風に裏の大物に興味を持たれると、個人としては鼻が高い。
花内忠秋は、木の葉の木漏れ日のような眼差しを向けその赤ん坊にふわりと微笑んだ。
「9代目からの御達しだ――」
そう告げて彼が手に見せたのは、ボンゴレの紋章を押した直々の勅諭であった。
――――死炎印!
その炎の色は、紛うことなくボンゴレ組織から授けられた
マフィア界の玉座を陣取る誇り高き友人の顔が脳裏を掠める。自分たちがいる社会において、尊く、気高く、その象徴である人物は、しかしドス黒く染まる彼の居場所には不釣り合いな微笑を常に湛えていた。
9代目がここで絡んでくるとは、彼は思いも寄らない人物の名を耳にしたことで、今回の案件に関する深刻な闇を再認識した。
――リボーン、忘れないで。こんな身体になってしまっても、このおしゃぶりを提げて貴方が生きることには、きっと意味があるのよ。
何故、あの言葉を、今に思い出すのか。呪いを受け入れられずに運命に足掻いた。自分自身を狂わせたあの男への憎しみを刻み、不自由なこの身体で男の行方を追うことは叶わないものだった。どうしてだかこの呪いは自分ばかりを傷つけた。
未来が視えるという巫女がある時やって来て、彼はその巫女にこれまでの感情を当たり散らした。未来が視えるというのに、止めなかった。自分たちを裏切った。お前まで呪いに縛られる運命を選んだんだ。そして彼女へ銃口を向けた。彼の純粋な憎しみと殺意は彼女を定める。しかし、彼女は決して引かなかった。その双眸は、逆らう者の意思さえ受け入れることを厭わないものだった。
――仕方ないもの。誰だって、そんな大きなものを背負わされたら狂ってしまう。貴方は何も間違っていない。だから、憎んでもいい、叫んでもいい、貴方は自分の心に素直でいて。自分自身で心を縛らないで。私には何も為せなかったけれど、呪いには敵わないけれど、それでも、私に貴方の心を守らせて…… お願い…… 私の生きる意味になって……。
彼女はその瞳に涙を惜しまず、そう頼み込んだのだった。彼は言葉を失う。呪いは彼を苦しませた。それらの絡みついた憎悪をこの巫女は全て受け止める覚悟で自分の目の前に現れた。彼には何もできなかった。呪いをかけられ絶望に崩れ落ちた自身の本来の姿が、そこにあった。
どんなに深く根を植えた穢らわしい魂でも包み込もうとする、それが大空と謳われる虹の役目。彼は銃を収め、彼女の手を壊してしまわぬよう取った。彼女をこの瞬間に自身のボスと認めた。彼は、そして自身の呪いを受け入れたのだ――……。
――約束しただろ。呪いでどうしようもないこの世に余った屑でも、お前だけがオレを見捨てないでいてくれると…… なのに――……。
ルーチェ、何故お前はオレたちの前から消えたんだ……。
後半の一節はおまけの気持ち程度で書きました。
ルーチェさんについてはあまり掘り下げないと思います。
こんな感じだったらいいな、とあくまで個人的な意見でした。笑