場面は変わり、中国の中心にやや近い地、汝南に移る。ここはかつて袁紹という男が生まれた場所。
男…いや、袁本初が再び目を覚ましたのは、自身が生まれて間もない頃であった。
袁紹は目を覚ました瞬間から、困ったことに強烈な違和感に悩まされる事になった。
それもそのはず、生まれた瞬間から、幼子の状態から自身の自我と記憶、知識を持っていたのだから。
(…舌は呂律が回らぬ。相手の言葉が分かっていても、まるで答えられぬ。意思疎通が出来ぬと、ここまで辛いとは)
(体も幼児では、転がるくらいしか出来ぬか…何とも暇で面倒な事よ)
この事以外にも多くの事に長い間、悩まされる事になる袁招であったが、驚いたのは当人である袁紹ばかりではなかった。
「…まるで泣かず、なんと落ち着いた子よ」
「まだ生まれたばかりの赤子ですのにねえ…」
そう、袁紹は自我や記憶を持っているのだから、既に精神面では達観していた。
故に幼子なら普通泣き叫ぶものだというのに、袁紹は幼児にも関わらず泣く事は無かった。
…袁紹にとって泣きたくなるような状況ではあるが。
これを見た親や親戚たちは「きっとこの子は大物になるに違いない」とこの後生まれてくる袁術の方が出自的に良いにも関わらず、袁紹が優遇され、愛されて育つ事になるのだった。
それが袁紹と袁術の確執を生む事になろうとは、この時誰も予想していなかった………それを知る袁紹を除いては。
それから十数年の年月が経った頃…まもなく父親の袁成は亡くなり、袁紹は"叔母"の袁逢と袁隗に世話になる事になった。
そう、ここで袁紹にとって予想外の出来事が起こった。
父親の袁成はそのままであった、が
何故か袁逢と袁隗が女性になっていたのだ。本来この二人は叔母ではなく叔父であり、男性であったはずである。
ここに来て袁紹は謎の声が言っていた事を思い出し(大きく違ってくるとはこういう事か)と気付いた。
それからというもの、過去に出会った友人達に会う度に袁紹はそれを実感させられていった。
例えば張邈(ちょうばく)。頭脳明晰で困った人を見過ごせない良い男で、袁紹と曹操に親しかった人物である。
本来であればこの者も男だったのだが…この奇妙な世界で初めて出会った時、唖然とした。
露出の多い男前な着物を着ていた所までは良かった。
しかし、その体が女性そのもので、とても目のやり場に困りそうな格好となっていた。
動揺をぎりぎりで隠し、張邈とは元の友人のように仲良くなったものの、やはり驚かずにはいられなかった。
そしてさらに彼を驚かせる事態が起こった。
それは有名な塾に袁紹が通う事になり、初めてその塾に行った時の事である…
「…ふむ、記憶ではもう少し置いてある物は古いし、来る者は男が大多数だったものだが…」
袁紹は塾の周辺に来て御供に気づかれないようにそう呟いた。
やはり周りを見れば見るほどに、袁紹には違和感が生まれてきた。
懐かしくはあるが、こうじゃない。そんな微妙な感覚のズレが生じていた。
御供が周りを見て中々入ろうとしない袁紹の様子を見かねて催促する。
「袁紹様、あまりここで立ち往生しては時間に遅れます。」
「うむ、済まない。では行くか」
御供にそう返答すると塾に足を踏み入れた。
すると塾長らしき先生がこちらを見つけるとこれはこれはと恭しく御辞儀をする。
袁紹も礼儀だとしっかり御辞儀を返す。
「袁紹、字を本初と申す。この度はこの塾で学ばせてもらえ、とても嬉しい限りでございます」
すると相手も恐縮したような感心したような様子で
「いえいえ、袁家のご子息に学んでもらえるとは光栄でございます。精一杯、袁紹殿にお教えいたします」
と返した。
「ではこちらの教室にお入りください。授業が始まるまではまだ時間がありますので、他の生徒と交流を深めてはいかかでしょうか?」
と言うと準備があると別の部屋に行った。
袁紹は言われたとおりに教室に入る。教室を見渡してみると、やはり女性の比率が異常なまでに多い。
(自分だけ取り残されたような思いだ。これだと殆ど親しかった友人も女になっているだろうから、昔のようにはいかぬし、何だか交流しがたいな)
袁紹はそんな孤独な感想を抱いた。
男女という性別の違いというものは関係に深く影響を及ぼすものだ。
男でしか分からない事もあるし、女でなければ分からない事もある。
つまり話が合わないという状況が生まれる事にもなりかねないのだ。
性別が違うだけでその対応というものは大きく変えなければならないだろう事であるし、当然の事だ。
とはいえ袁紹とて、三人の息子を持っていた男だ。妻も政略的なものが無かった訳では無かったが、愛が無かった訳でもない。
女性の対応には十分な知識と経験はあると自負はしていた。
では何が問題なのかと言えば、やはり自身の精神的な問題である。
自分が女好きであれば気楽に出来たのだろうが、生憎そういう欲求は普通の人並みだ。
そんな自分が女ばかりの所に放りこまれればそこに生まれる感情は気まずさだけである。
ふと、一回り見渡し終わると不意に誰かが後ろから声をかけてきた。
「あなた、見かけない顔だけどもしかして新入りかしら?」
後ろを振り返るととても小さいが、凛としたような顔つきをし、やや悪趣味な骸骨のような飾りで髪を結んだ青い服の美しい少女がいた。
少女は不敵な笑みで自身を見つめていた。今、思えばあれは目踏みするような視線だったかもしれない。
袁紹は本能的にただものではないと思い無意識に顔を強張らせえたが、まずは挨拶するのが礼儀だろうとそれに答えた。
「うむ、私は袁紹。字を本初と言う。今日からこの塾で学ばせてもらうものだ。よろしく頼む」
と言って御辞儀をした。
すると少女は少し驚いた様子だったが、すぐに元の顔つきに戻し、御辞儀を返してきた。
「私は曹操。字を孟徳。こちらこそ宜しく、袁家の御曹司さん?」
(………)
(………)
(…何っっっっ!?)
袁紹はそれを聞いて心臓が跳ねあがるかのような衝撃を受けた。
(この子が、あの曹孟徳だと?確かに小さい割には威厳を備え、少し趣味の悪い所はまさしくそうだ。しかし、女子になるとここまで可憐だとは思わなかった)
少し本人に失礼なような納得の仕方だったが、今はとりあえず頭の中でそうすり替えねば冷静になれる気がしなかった。
袁紹は動揺を抑えるように少し思った疑問を問う事で紛らわそうとする。
「…私を存じているのか?」
「袁紹と言ったらここで知らない人は殆どいないわよ。生まれてから泣いた事は一度も無く、半年で言葉を覚え、幼少にして兵法を理解した神童」
(まあそう簡単に泣くような年では無かったし、知識も記憶も持っているのだから最初から分かっていただけなのだがな)
そんな野暮な注釈を心の中で付ける。袁紹は冷めている時はとことん冷めていた。子供らしからぬ感情である。
「加えて、名族袁家の血筋を受け継ぎ、若くして朗に取り立てられたのだから。あなたほど恵まれた人物なんて、そうはいないわよ」
その言葉に袁紹は照れた様子も無く、自虐的なまでに答える。
「よしてくれ、私は自分自身を特別な存在だとは思っていない。私も、ただ一人の人間だ」
そうだ。自分は王として失格な男だ。多くの者が自分の指揮で傷ついた場面を思い返して袁紹は心の中で呟いた。
そうでなければ、田豊を失う事も―――
「袁紹?」
「ん?ああ、済まない。少々考えにふけってしまった」
袁紹は自分のかつての失態をつい思い出して意識を飛ばしてしまっていたのに気付いた。
その様子に曹操と名乗る少女は訝しげな感情を抱いたが、気に留めず笑みを浮かべる。
「ふうん。まあ、少なくとも名族なのを傘に着て驕る様なつまらない人でなくて良かったわ。ますます有意義な時間が過ごせそうね」
「………そうだな」
袁紹は複雑な心境のまま、そう返した。彼は―――いや、彼女は親友であり、天敵だったのだから。
それからというもの、曹操とは兵法、政治の話を通して親友のような関係を築いた。
曹操は優秀な人物を好む根っからの人材好きで、袁紹の知識の深さにとても感銘を受けていた。
元より袁紹は前世の知識を受け継いでいるのだから当然なのだが、その事を知らない曹操に少しばかり罪悪感を覚えた。
曹操からは「私の話に付いてこれるなんて人は、そうはいないわ」と気に入られ、真名を教え合うまでに交流を深めた。
ちなみに袁紹は生まれてから真名を授けられたので、真名の存在を知っており、自身も持っている。
袁紹の真名は戻羽(れいは)。
袁紹にとっては、"戻"の字が付いていた事が何だか自分の境遇を表しているのではないかと思えてならなかった。
なお、余談ではあるが曹操のお付きの一族は袁招と曹操が親しげに会話する様子を見て、従姉がやきもきとしており、その従妹がそれを抑えていた。
塾から帰った後も袁紹の気は休まる事はない。
この頃の袁紹はさまざまな人と袁家の縁を通じ、親交を深めるのが日課に近かった。
家に多くの友人と知り合いを優秀、有名な人物に限りとにかく招いた。
一週間の内に最高で20人招いた事があったが、呼び過ぎて叔母達に怒られたのは記憶に新しい。
そして全員が帰った頃には既に日が沈んだ後である。
「ふう…皆帰ったか…今日も疲れた…」
そんな疲労困憊状態の袁紹の世話をする同じくらいの年の侍女二人組がいた。
「大丈夫ですか戻羽様?今冷たい水を持ってきますね」
「あ、んじゃ私が取りに行ってくるぜ!」
「えええ!?いいけど、変な事して溢さないでね?」
「大丈夫だって!そんなへましないからさ、ちょっと行ってくるぜ戻羽様!」
「…不安だが、まあいい。宜しく頼む。猪々子」
「き、気をつけてねー」
「任せな戻羽様、斗詩!」
この二人は将来有望と名高く、侍女にして武将見習いの文醜(猪々子)と顔良(斗詩)だ。
前の世界では官渡の戦い近くで登用したために戦場に出るのが遅かった上、策に嵌まり戦死した二人だが、この世界では既に袁紹の元で、共に練鍛に励んでいる。
顔良は思慮深く、その上十分な武勇を持ち、文醜は怪力を持ってしてでの豪快な戦いを得意とする将である。
未熟ではあるが、二人とも逸材であった。
「お疲れでしょうし、肩をお揉みいたしますね戻羽様」
「うむ、済まないな。………うむ、まだまだ子供だというにどうにも肩が凝っていかんな」
(戻羽様のような子供がいますか…っているんだろうなぁ…思昂ちゃんもあれだし)
顔良が疲れている袁紹を労わっていると文醜が軽々と片手で大きな壺を持ちあげて戻ってきた。
「戻ってきたぜ戻羽様!これくらい楽勝…っておっとっと!?」
「むぅっ!?」
「きゃっ!?」
しかし文醜は壺の重さに体をよろけさせ、水の入った壺を自分の前に落としてしまった。
壺は当然割れ、飛び出た水が部屋に飛散し、その場一帯を水浸しにしてしまった。
目の前にいた袁紹と顔良にも当然降り注ぎ、ずぶ濡れになってしまう。
顔良は呆れつつも文醜に対して怒る。
「猪々子ちゃん!言ったそばから何で落としちゃうの!?」
「い、いやぁ…ごめん、調子乗りすぎたわ斗詩」
「ほら、戻羽様まで濡れちゃって…ああ、戻羽様大丈夫ですか?」
「…うむ。とはいえ、着替えてこなければならぬな。斗詩は思昂(しあ)を呼んでくれ。猪々子には思昂から罰を与えさせよう」
「え、戻羽様!?あいつは勘弁してくれ!後生だから!」
「斗詩に注意までされてこれでか?」
「うっ…」
「戻羽様、お呼びでございましょうか」
来たのは小さいながらも感情が一切入らないような一貫した無表情を持つ少女、田豊。字は元皓。真名は思昂(しあ)。
非常に厳しく、厳格な性格をしているがそれ故に他者との交流が皆無なのが彼女にとっての弱点と言える。
しかしそれを補って余りある頭脳の持ち主で、権謀術策に長じ、博学多才の人物と評された天才である。
大人すら上回る知略が認められ、袁家に仕える事となり、同い年でありながら袁招の教育係を任されている。
教育係の他にも度々起こる不祥事の際には彼女が出て解決しており、説教にも彼女が起用されている(本人の希望もあったらしい)
よって袁家では問題を起こす人が出るたびに彼女にお世話になるわけであり…。
「実はかくかくしかじかでな…」
「成程、つまりは猪々子さんに制裁を与えろという事ですか」
「そういう事だな。片付けは私と斗詩がやるから頼むぞ」
「お任せください。さあ、猪々子さん、お説教の時間ですよ」
「いやだぁぁぁ!!斗詩、助けてくれ~!」
「自業自得だよ、猪々子ちゃん…」
\うわぁぁぁぁぁぁ!!/
(袁家)
/くどくどくどくどくど\
こうして文醜の悲痛な叫び声が木霊する事になった…。
袁家は今日も平和である。