ソードアート・オンライン~紅の心意―The Cardinal Mind   作:坂道

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・・・・・・・・・・・・過去編、長い・・・・・・

それでは……ゆっくりしていってね





約束―勝利への誓い

 

 午前八時五九分、小さな置き時計が指す時間……時計が奏なでる針の音は心地よく、そのまどろみともに可愛げな寝息をスヤスヤと歌い眠る少女。

 チクタクと音を刻む秒針が一秒拍子に進む。分針と秒針が重なると同時に時計のアラームが部屋一帯に(やかま)しく鳴り響く。その音にピクリと肩を震わせる少女は響く音から逃れるために掛け布団を頭に纏い包まる。だが音は止まず時間が立つにつれ時計の音量が眠っていた頭を覚醒させ、反響する筒音に嫌気が差す。包まった布団からモゾモゾと姿を現し探るように手を伸ばす。ベットの頭上で小刻みに震える時計を叩いてアラームを止めると、次は頭だけをひょっこりと出す。

 

「んっ……あぁ、うぅぅ……なんじぃ~……」

 

 緊張感の欠片も無い弛緩(しかん)した声を零す少女―結城明日奈。おぼろげな意識の中で口から涎を垂らし、先程まで綺麗に整っていた長髪は寝様で乱れている。重い瞼をこじ開け、時間を確認した。

 

 

 洗顔、乱れた髪をブラシで軽く整えた後、開いた三面鏡を見詰める。鏡を通して白のブラウスに赤と黒のチェックのスカートを着て、くるりと体全体を確認する。 前髪を回った弾みで少し乱れた髪を丁寧に揃え直す。

 

「……こんなものかな?」

 

 なぜ、私が朝から鏡と睨み合っているのは、河原で出会った剣道少年が原因。

 先週日曜日のあの場所で私に謎の決意を叫んだ彼―たしか紅葉だったけ? その名に似た紅色の印象を焼き付けた少年は少し変わっていた。

 急に横に座ったり、急に怒ったり、急にバイオリンを弾いてと頼んだり、掴みどころのない不思議な少年だった。彼に会ってから調子がつかない日々が続いている……勉強や習い事をしているときもモヤモヤと彼のことが気懸かりに思いふけることが多々ある。

 

「あぁ~もう……どうして私がアイツに気を遣わなきゃならないのよ」

 

 指を当てて眉間の皺を押さえる。彼が帰り際に残した綺麗事は耳を真っ赤にしてしまうほど恥ずかしいものであった。それが自分に向けられたものならなおさら面映い。

 どうして私を慰める事を言ってくれたのだろう、遂数週間前まで無言で居心地の悪い……なんてことはないかな。私が本当の意味で内側にある殻を破ったのは、彼と出会ってからである。……友達にもあまり溜め口を零さず、親に躾けられた言葉使いを日頃から気に掛けているのに、彼には溜め口で心情と私情を吐いていた。

 赤の他人に叱られるなんて思っていなかった……赤の他人の戯言に本気になって叱ってくれた、それが納得いかなくて私も猛反発して声を張上げたことも、初めてかもしれない。

 彼だけに打ち明けた怒り、悲しみ、ほんの僅かな安らぎは無粋なものではない。互いに違う立ち位置だからこそ理解できないことを知り合えたのだ。

 だったら、私も彼の決意を聞き届けてやろうではないかと……思ったりしたわけで……

 

 

 自室を出て廊下の通りにある窓辺から家の高級車を洗う老執事の姿が見え、窓を開けて元気に挨拶を送る。六二歳という高年齢で私が幼い頃から仕えている執事の小竹次郎(こたけ じろう)さん。どんなときも落ち着いていて、丁寧で品のある物腰を崩さない彼の品の良さを代われて家でも一番信頼されている老執事で、私も昔から絶対の信頼を寄せている。

 私の声に即座に反応し、笑顔で会釈を送った後、親しげに手を振り返してくれた。私が決まって朝最初に挨拶するのは親ではなく小竹さんである。

 良い気分で半円を描く広い階段を降り、一階のホールを横切り親が待つダイニングルームへと向かった。木質系のフローリングをスリッパで歩くなかダイニングに近づくにつれて気が重くなる。オーク材のドアを開けると、静かにコーヒーを飲む母と電子パットで日課の新聞を読む父。

 

「おはようございます……」

 

「遅いわよ明日奈、いつまで寝ているつもりだったの、早く食事を済ませて頂戴」

 

「ごめんなさい……」

 

 低い声で呟き、長く延びたテーブルに置かれた朝食のある席に座る。二人は朝の挨拶の返しも無く無言で大学の原書に視線を落とす。

 

「兄さんは?」

 

「浩一郎なら食事を済ませた後、自室で勉学に励んでいるわ、あなたも兄を見習いなさい」

 

 またいつもの冷たい食卓。私の家には小説で出てくるような家族で団欒を楽しむような賑わいは無く冷たく凍りついた冬のような食卓である。

 

「その格好……今日も出掛けるつもり?」

 

「……友達との約束があって」

 

「休日に会うような友達があなたにいたかしら……駄目よ、今日は須郷家のご親族方が家に参られるのよ、自室でおとなしく勉強していなさい」

 

「それはお母さん達が勝手に決めたこと……」

 

「親に立てつくつもり?」

 

 鋭い舌鋒(ぜっぽう)(とげ)のある視線に私はいつも追い遣られてしまう。押し潰された緊迫感に見据えた父は咳払いをして口を出す。

 

「明日奈、友達との約束も大事かもしれないがこれは毎年の親族間で交流を深める大事なことなんだ、分かっておくれ。それに昨日伸之君が明日奈ことを血眼(ちまなこ)で捜してくれたんだぞ、彼に失礼だと思わないか?」

 

「…………」

 

 東京都世田谷区に佇む豪邸に住む大手電機メーカー《レクト》のCEOの座を就く父―結城彰三。そのご令嬢である私は毎年行われる須郷家と結城家の食事会に参加しないけらばならない。

 須郷家の伸之という青年。父が腹心とまで評価する男で昨日から一足早く家に訪問して一晩外泊している。だけど……私にはあの男が曇って見える。目上の者が居ないときには自己陶酔(じことうすい)饒舌(じょうぜつ)で喋り、独善的な振る舞いを隠さずに見下す。あの優しげで温和な仮面を被った男は正直嫌いで、兄妹ともに距離を置いている。

 

「何も明日奈が全部悪いってわけじゃない、だけど自覚して欲しいんだ。明日奈の将来ためにも須郷家との関係は良好でならなければいけないんだよ」

 

 苦虫を噛み潰して堪える私に母は自身を享受する。

 

「あなたもいずれは結城家の跡取りしてその名に恥じない人材にならきゃいけないのよ、わかったなら事を済ませて……」

 

「―お父さんもお母さんも、もういい!」

 

 ガシャーンっと、机を華奢な手で叩き鳴らす。

 遂に耐え切れなくなった頭の糸が切れて甲高い声を部屋に響かせる。

 いつも物静かな振る舞いでいるおとなしい私に二人は肩を竦めた。

 

「いつもいつも優秀な成績とか、跡取りとか、家の名に恥じないとかそんなのばっかり! なんでいつもそんなことしか話さないの! どうして私を見てくれないのよ!?」

 

 瞼にたまった熱い感情が流れながら泣き喚く。日頃から不満に思っていた親への鬱憤(うっぷん)を喉が赤く腫れてしまうほど吐き出す。

 呆気にとられるように目を丸くする父に対して母は口元を歪ませて怒りを示す。

 

「明日奈、あなたって子は……!」

 

 母の鋭い怒号に怖気づいて身を竦めてしまう……けど、ここで屈服したらまた同じこと繰り返しになる。強張った手を握り締めて緊張を解き、真っ直ぐ母の眼に見交わす。

 

「私はお母さん達の所持物じゃない!!」

 

 履いたスリッパをカーペットに散らかして部屋を駆け出る。玄関まで無我夢中で足を動かすが、静寂な玄関前のホールからカチッと鳴り響く金属音に絶句する。ドアハンドルを動かしてビクともしない、きっと母が家の統合制御パネルで遠隔操作してドアに電子ロックを掛けたのだ。逃げ場を失った私は扉の前で膝をついていると、開くはずの無いドアが開いた。玄関は厳重な双側面の鍵と電子カードが鳴ければ開くことは出来ないはず。朝日が洩れた先には執事の小竹がバケツを持って立っていた。

 

「おや、どうなされたのですか明日奈お嬢様?」

 

 小竹さんはクラシックのタキシード服の袖を巻くっている、どうやら車の洗浄が終わって近くの玄関口から入ろうとしたようだ。この家のマスターキーを持った小竹に救われた。私は小竹の腕を引いて外に出る。

 

「小竹さん、車出して!」

 

 

 涙を濡らせて走り去っていく娘の姿を見て暗鬱にテーブルに肘をついて頭を抱える結城享子。

 

「どうして私は……あんな言い方しか出来ないのかしら、母親失格だわ……」

 

 重く苦しく疲労した頭の熱を溜息を吐いて気分を誤魔化す。しかし驚愕した気持ちは誤魔化せない。あの物静かな子が強く反発したことに戸惑いを隠せずにはいられない。気鬱を漂わす妻の姿に彰三は肩をポッと叩く。

 

「疲れているんだよ、最近色々立て込んでいたからな……それに直ぐに血を上らせるのは享子のクセみたない者だろ?」

 

「彰三さんフォローになってないわよ、でも少し気が楽になったわ」

 

「操作パネルで玄関を閉めてある出て行くことはできないはずだ……今度はちゃんと明日奈と話し合おう」

 

「ええ……」

 

 二人は娘を所持物なんて思っていない、ただ不器用なだけである。二人は職柄から家に帰っても仕事から手が放せないことが多い。明日奈の将来を考えていつも最善の道をあの子に用意していても空回りすることも。

 感傷に浸る暇も無く明日奈が向ったであろう玄関に足を運ぼうとすると、彰三は声を上げる。

 

「なぁ……ドアが開いている!?」

 

「何ですって!?」

 

 操作パネルのロックが解除されているのを確認した享子は外から鳴り響く、良く耳にするエンジン音が聴こえて察する。玄関前が見える窓辺から顔を覗かせて走り去っていくベンツが目に映る。

 

「あの子ったら、小竹を使ったのね」

 

「……だめだあの執事、ケータイの電源切っているぞ」

 

 老執事に信頼を置いていることが仇となった。イギリスの執事育成学校を首席で卒業し数々の財閥に仕えた熟練の老執事である彼は現役を引退した後もその卓越したセンスを代って結城家に使用人として働いてくれないかと申し出を送り、喜んで仕えてくれた。それも月給は一緒に仕えるメイドと同じでいいとの事。この家では最年長の人材であり、他に仕えているメイドの坂田明代も彼の貫禄に骨抜きである。

 しかし少しばかり勝手が過ぎることもある小悪魔のような一面もあり、家の主人である彰三さえも頭が上がらない。そんな温和なムードメーカーである彼だからこそ二人は信頼を置いているのだが、今回はそれが裏目に出た訳である。

 

「どうなされたのですか彰三さん」

 

 すると、部屋のドアを開いて入ってくる眼鏡を掛けた知的な男性が誠実な声で問いかけてきた。

 須郷伸之、先日の昼間に訪ねてきた青年。今年成人を遥遥しく迎えた日本有数の東都工業大学に通う現役の大学三年生。あの茅場晶彦と同じ研究室でともに学び、茅場晶彦に続く天才の一角としてその頭脳を《レクト》との子会社である《レクト・プログレス》フルダイブ技術研究部門にかわれている。

 卒業後は彰三氏の計らいでそのまま《レクト》の正式社員となることを約束、昨年世界のトップニュースとなった直接神経結合環境システムNERDLESの試作第一号機開発が発表され、大手電機メーカーのVVRゲーム開発部が総出であらゆる大学など研究員を引き込み、経済社会を震撼させる中、その人材に選ばれた一人。だが当分業界でトップを取り続ける《アーガス》には大手総動員になっても勝てることは無いだろう。

 

「おお、伸之君……すまないね、朝から見苦しい音を発てて」

 

「いえいえ、明日奈さんがどうかなされました」

 

「いやぁ実は……」

 

 彰三さんが簡潔に先程の事の成り行きを話すと、須郷伸之は口の端をニヤッとあげる。

 

「わかりました。では私が明日奈さんを御捜ししましょう」

 

「検討がつくのかね?」

 

「はい、娘さんと私は良好の仲ですから」

 

 

 結城家を後にした須郷は愛車のベンツの中で眼鏡を汚れを拭き取りながら密かに(はかりごと)を巡らしていた。

 

 僕は晴れて今年《レクト》技術開発部門に着任することができたが……やれやれ気に入られるのも些か問題だな。まあいい今の内に媚を売っておくのが定石か、いずれ僕が《レクト》のトップに立ち、《アーガス》を……茅場先輩を凌ぐ世界一の天才になる。見ていろよ茅場……僕が思いを寄せていた神代を奪ったアイツには絶対に負けない。開発部には工藤 渉とかいういけ好かない主任もいるがいずれ食い潰すさ……そのために僕の踏み台になってもらよ結城家皆さん……クッククク

 

 暗躍する不敵な笑みは車内に響いていた。

 

 

 この家の唯一の助け船である老執事―小竹さんの出した外車の後部座席に乗り、じっと窓から道路を遠く眺めていた。ルームミラーに視線を移すと小竹と目が合い俯く。

 

「お嬢様、先程から携帯が鳴っているのですが、御出にはならないのですか?」

 

「構わないわ」

 

 そういってケータイバッテリーを抜き取りポーチにしまう、これでGPSには引っかからないとホッと一息ついた矢先に、また携帯電話の電子音が鳴り響く。驚いて眼を泳がせていると、執事が右手でハンドルを切りながら、左手で黒い折りたたみ式の携帯端末を取り出す。

 思わず声を上げる、連絡されたあの鋭い声で叱られる。祈る想いで両手を握って眼を瞑ると、ブゥーンっという電子音が鳴り、ベルが鳴り止む。眼を開くと小竹はわざと見せるように携帯電話の電源ボタンを押して入るのが目に入る。

 

「私は今日を御暇を頂いているのです。ここにいる執事は、今は唯のじじいですぞ」

 

 ルームミラーからお茶目にウィンクを送る小竹さん。

 

「助かるわ小竹さん」

 

 気の聞く執事に感謝して体に纏わりついていた不穏な空気が取れる。信号が赤になり車を停車させていると小竹は親しげに語りかける。

 

「旦那様達と喧嘩でもしたのですか?」

 

「あんな人達……親じゃないわよ」

 

「滅多なことは言うものではありませんよお嬢様、血の繋がった大切な家族ではありませんか」

 

「だって……跡取りとか、名誉とかそんな話ばかりよ、うんざりした。あぁ~小竹さんみたいなもっと優しい親の子が良かったな…」

 

「ふぉふぉふぉ、私の家柄も中々厳しいですぞ。まぁ明日奈お嬢様のような綺麗な孫娘がいるならばさぞかし賑わうことですが」

 

 尖った口調をオブラートに包み込んでくれ老執事はニコリと笑って私の機嫌を良くしてくれる。やっぱりこの人には敵わない。

 

「もう、口が上手いわね小竹さんは……」

 

「いえいえ本心ですとも……実は私には明日奈様ほどの孫娘が二人いまして、お嬢様の成長する姿を遠目に孫娘を想うこともあります」

 

「初耳だわ、小竹さんに孫娘がいるなんて、どんな人なの」

 

 ルームミラーから窺える執事の幸せそう笑顔に私は遂、孫娘のついて話を伺う。

 

「二人は姉妹です、下の妹は静奈という先月で三歳になる子でしてそれはもう愛しい天使のような子です。もう一人の姉は……それはもう優しい子です」

 

 鏡に映っていた綻んだ顔は声のトーンともに沈み悲しげに見えた。

 

「小竹さん?」

 

「申し訳ございません、姉は静という十歳の孫娘ですよ、丁度、明日奈様より一つ上のになりますね」

 

「へぇ~年も近いし、友達なれそう……」

 

「はい、いつか機会があれば会ってやってください……―(明日奈様ならあの子の冷たい雪溶かしてくれもかもしれませんな)」

 

 最後に小竹が呟いた言葉は私の耳には届かなかった、その物静かな後姿にどう声を掛ければいいか今の私には分からなかった。

 

「爺の話はもういいでしょう、それよりも明日奈様今日も川越市に向えば良いのですね」

 

「うん、少し用事があって……」

 

「おめかしから察するにボーイフレンドですか?」

 

「ち……違うわよ! ボーイフレンドなんかじゃないは、あんな馬鹿……いいからいつも所で降ろしてよね」

 

「かしこまりました……(否定するところがまたあやしいですね)」

 

 私が東京の世田谷区から埼玉の川越市までわざわざ執事に車を出させてまで通っているのは、その市に住む腕利きのバイオリストの演奏に惚れてその人が経営する音楽教室のレッスンを受けるためである。

 特別無理を言って親に許可を貰い通い続けていたとある日の出来事である、父母に学校の成績が下がったことで厳しく言付けられた。私は親の猛威から逃げるようにスケジュールに有りもしないバイオリンのレッスン時間だと偽り、家の執事である小竹さんに車を出してもらい、特に目的も無く川越市にきた。私の不自然な振舞えに薄々感づいたのか執事は車を停めて言葉を交わしてくるが、露骨に無視を続ける私を見て車を音楽教室とは別の方向に走らせる。小さな住宅街を越えて人気の少ない道に出ると小竹は後部座席のドアを開き下りように願い申し出る。

 

『小竹さん、ここは?』

 

『はい、お嬢様。ここは私のシークレットスポットでございます』

 

『し、シークレット?』

 

『はい、小さい頃私めがよく仮病を…いえ、一人になりたいときにくる安楽の居場所です。土手をお上がり下さいませ、きっと明日奈お嬢様の心が安らぐことでしょう、何か御用が御有りであればこの執事の携帯にご連絡下さい……ではレッスンの時間までしっかりとご教示下さい』

 

 会釈を下げて車に戻る小竹、きっと私に気を遣ってくれたんだと思う。年相応の貫禄のある少しお茶目な執事が指を差した坂を上がり、私は目を疑って驚愕した。

 空は茜色に染まり、河原はその夕陽に反射して美しく煌いた光景を作り上げていた。土手から眺めるのが惜しい……自然と坂を下り、川の水流の近くで足を止めて腰を落す。心を奪われた……眩しくも眼に焼き付けずにはいられない、そしてどこか心を温かくあやしてくれる優美な風景。

 

 それからというもの私は辛いことがあれば河原に訪れるようになっていた。誰にも何の気遣いもせず自分が自分でいられる場所を……自分が正直で居られる秘密の居場所。

 ここは私だけの世界……誰にも邪魔が入らないと思っていた秘密の場所に、道着を着た夕陽に焦がれた少年が現れた。

 

「あれからもう数週間経つんだ……友達……か……」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 夥しい(おびただ)竹刀の撃つ音と気の入った発声が入り混じった道場では小さな剣士達が堂々と音を鳴らしていた。少年少女混合の二人組で必死に竹刀を振る姿は輝かしく剣道に打ち込む姿勢はまさに武道のあるべき姿。

 間髪容れずに続く稽古、時計の全ての針が真上を向いた瞬間、川添三十郎の合図でサッと音が鳴り止み整列に入る。各々面を取り、師からの助言と注意事項を聞いた後、礼で午前の稽古が終了した。長く張り詰めた神経が解れて、皆は足を崩して体を伸ばす。

 道場の四隅で防具を脱いで汗をタオルで拭き取りながら俺は一人息を吐く。

 ―普段とは違う個性を持った相手と一緒に稽古をするのは慣れない上に、緊張するな。

 壁に背を預けて脱力するも、脈はまだ動きが速く落ち着きがない。満身創痍とまではいかないが知らない人との稽古は気を遣うし、疲れる。

 長く出た溜め口をして口を開けたまま辺りを見回すと、仲良く喋りながら円陣を組む門下生達が多々見受けられた……しまった!?

 男子はグループで集まり他の道場の子と交流を深めるグループやいつもの様に同じ道場のこと食べる女子の姿も有り、全体が大体の編成を組み昼食をとっていた。

 

「の……乗り遅れた」

 

 今からあの間に入る勇気もなく唯一の交流が深い桐ヶ谷直葉も他の道場の子と仲良くガールズトークに咲かせていた。完全に孤立した俺は道場内に居づらくなり、諦めがついて弁当箱を包んだ風呂敷包みを片手に一人道場の外へと出た。

 

 昼の温い日差しと石庭の涼しく聳える風が気持ちがいい。沈んだ気持ちを快く元気づけてくれる風情のある庭を見ながら建物の壁に座ろうと足を進める……とそこに先客が一名いた。

 

「「あ……」」

 

 同じ道着を着た同じ黒髪の門下生の男子がいた。一人寂しくおにぎりを片手に凝視ながら固まっている。見覚えがある、たしか桐ヶ谷の兄―和人だ。互いに微妙な距離感で固まったままでいるが、和人は視線を別方向に向けその間をやり過ごした。

 随分素っ気ない奴だなと感じる半分、どこか彼にシンパシーを憶えてしまう。何でそう思ったかって?……愚問である。一人人気の無いところで食事を食すということはつまり、一緒に食べる相手がいないだけだ。同じ境遇に起たされた者だけに解るボッチ特有の悲しげな末路……もとい、たったひとりの勇者である。

 不意に強く靡いた風に後押しされ対話を試みる。

 

「隣、いいかな……」

 

「お……おう」

 

 困惑気味の小さな呟きを聞き分け、許しを得た俺は横に座り、この後迫りつつある沈黙を避けるべくも、積極的に慣れない口答を続ける。

 

「え~っと…たしか桐ヶ谷さんの兄貴で和人くん……だっけ?」

 

「…………」

 

「あ~っとですね、桐ヶ谷さん……」

 

「……和人でいい」

 

「お、おう……そうだな」

 

「「…………」」

 

 この気まずさは結城といたときに劣らない空気だ。何ともいえない気分、胸の部分がやきもきする嫌な感覚、例えるなら刻々と近づく注射の順番を待つあの感じに似ている。

 和人は手に残ったおにぎりの一片を口に放り込みもぐもぐと口を動かす。

 

「お前……随分スグと仲が良いな」

 

「え……そうかな、まぁ道場内で会話するの桐ヶ谷さんくらいだけど」

 

 口に含んだものをペットボトルの飲料水で飲み干すと、喉を鳴らし細々と呟く。

 

「その……なんだ…付き合っているのか?」

 

「…………つきあう? 剣道のルール上小中学生にはまだ『突き』は禁じ手だって師匠が言っていたぞ」

 

「いやそうじゃなくて、人として付き合いをしているかをだな……」

 

「ああ、俺の稽古に付き合って貰って感謝してるよ、すっごく!」

 

「だからそう意味じゃ、もういい……この調子を見る限り心配しなくてもよさそう」

 

 和人はまるで自問自答するように呆れた顔で頷く。何にしても人を目の前にしてため息とは兄妹揃って俺を傷つけるのが上手い、褒められることでないが。

 しかし鈍い俺でも和人の様子を窺う限り、妹の直葉が気に掛ける伏しが彼の態度から見受けられる。

 

「和人は妹が心配なんだな……」

 

「心配……なのかな、ただ俺は……あいつが俺をどう思っているのか不安なだけで……スグが変わるのが怖いのかもしれない」

 

「不安…………? よく言っていることが分かんないけど、兄妹なんだろ?」

 

 俺の問いかけに口を塞いだまま視線を逸らす和人、その無心に見える顔付きの裏には自然と寂しさを感じ取ってしまう。気色に兄妹喧嘩でもしたとも見てとれた。

 彼と同じく妹がいる俺には分からないでもない感情である。年も近ければ性別以外で大した差がない、一番近くにいる血の繋がった家族。見たいテレビ番組の争奪や『お前俺のプリン勝手に食っただろ』とかばかばかしいことでいがみ合って喧嘩になることもあるし、へこんでほっといてほしいときに限って何かと構ってくる。

 どうしてこんなワガママな奴がいるんだと愚痴を溢してはいるが何故か喧嘩した次の日には仲直りしている。ある意味家族の中で最も理解できなくて、最も信頼できる存在だと俺は思う。

 

「妹だって和人と同じこと考えてると思うぞ」

 

「はぁっ?」

 

「和人が考えている以上に妹ってのは兄のこと心配してるだよ。桐ヶ……直葉、俺と話すとき決まって兄の話で持ちっきりだぞ、『どうして兄というのはあんなぶっきら棒なんですかね』とか愚痴を聞かされるんだ……でも、直葉は直葉なりに影からお前と同じように不安になりながら気を遣っているんだ……和人とも少しは直葉の気遣いに乗ってやったらいいよ、そしたら……」

 

「うるせいよ……」

 

 不意に曇った棘のある一言に口が止まる。厚かましい助言に気が触ったのか曇った声を震わせる。

 

「分かってる、そんなこと言われなくても……お前と俺じゃ立場が違うんだよ……何も知らないくせにわかったような口を聞くな」

 

 気色が怒りに変わった和人に慄然と声を低く振り絞りだした。

 

「……ごめん……そんなつもりじゃ……」 

 

「―きつく言い過ぎた、ごめんな……スグのことに釘を刺してくれたのに最低だ」

 

 言葉を呑みこんだままいることしかできなくなり、離れていく和人に何か答える余裕は無かった。

 吹き漂う秋の風だけとなった空間で結局俺は独りで手に持った弁当をガッつく他なかった。

 

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 人の気持ちを完全にわかってもいないのに告げ口で理解者面した俺が悪い……浅はかなお節介が誰かを傷つけることもある……けど、だから知らないまま捨ておくのか。ちゃんと話せば相手のこと解ってあげる事もできるかもしれないのに。

 

 『そんな簡単なことも出来ないのが……人間なのだよ、少年』

 

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 昼休みを終え、午後部の稽古を始まる。

 稽古の前半内容は互格廻り稽古、全体を半分に分け二人一組を作り、ローテーションで相手の有効打突を打ち込む。男女混合に並び、自由に技を出し合い互いが隙を見つけてどんどん打っていく稽古、わかりやすいが重要な稽古である。特に元立ち(上級生)との打ち合いは大切で実力者の切れのある動きと素早い打ち込みは打たれるだけでも自身の隙が測れてそれだけでも練習になる。

 

 20分間それを繰り返した後、一間休憩を挟む。昼に摂取した塩分と水分が汗で噴き出す。しっかり水分補給を摂り、肩足を回して柔軟をとっていると、溝口師匠(せんせい)が何人かを指名で招集をかける。

 二週間ほど前に選抜した三チーム五人ずつで集まった十五人。男子十名うち残り五名は女子で、三回に別けて団体の試合稽古を行う。最初に門下生の中でも実力者が集まった男子Aチームの試合、次は桐ヶ谷直葉率いる門下生の少ない女子が試合、最後に相応に力がつり合いがとれた男子Bチームが試合をする。

 俺はその内のBチームに選抜されている……言い方を間違えた、選抜といても残った穴を埋めるための補欠で最初は入れられただけである。ある程度門下生達の剣道の力量を知るチームメンバーは俺を除け者にしたかったんだろな。

 あの日チームを決め、俺と運悪く組んでしまった門下生達の蔑んだ目付きは嫌でも覚えている。抑えていた悲憤(ひふん)の涙が漏れてかけて道場を飛び出したんだけ。泣いている所を見られたくない、弱いってことを誰かに見せたくない、だからあの場所でいつも泣いているんだ。

 

 相も変わらず嫌な視線を感じるも、俺は師匠の話を聞き取る。先鋒・次鋒・中堅・副将・大将からなる形式で先鋒から順に試合を行う。誰を其処へ編成するのかは当日決めることになっていた。男子Aチームの配置が決まり、Bチームへの配置指示に入る。順に挙げられる中、自分は先鋒でも次鋒でも中堅でも副将でもなく、呼び上げられたのは『大将』の任であった。

 生徒達がその選言に顔を見交わせて驚くが、俺はそれ以上に驚愕な顔を浮べていた。騒ぐ門下生達の野次も聞こえず溝口師匠と、目と目を交わす。

 ―師匠、何で俺なんですかっと目に自身の戸惑いを映し出す。

 話したわけでもないの師匠は口の端をあげて、門下生達の疑問に答える。

 

「―紅葉が強いからだ」

 

 ただ一言と言い残して第一試合の準備に取り掛かりに歩き離れていく。立ち尽くしている俺に対し門下生達は不満を投げつける。

 

「お前どんなコネ使ったんだよ!」

 

「そうだそうだ、お前みたいなザコが大将なんてありえない!」

 

 肩を強く押され呆然とした自分が我に返る頃には、俺に決まって無闇やたらに野次を飛ばす男子二人が不服と言わんばかりに睨みつける。

 周囲は生徒の揉め事に反応してどよめき、このままでは大事になりかねない。

 すると間を引き裂くように竹刀が軽く振り下ろされる。竹刀を片手に握り、止めに入ったのは溝口師匠でもなければ、川添師範でもない。黒い前髪から窺える真摯な瞳の持ち主、桐ヶ谷和人であった。

 

「俺達の師範が決めたことだ、ちゃんとそれに従えよ」

 

「なんだ和人、お前までこいつの肩を持つつもりか? お前だって一緒に紅葉のこと馬鹿にして虐めに協力していたじゃないか!?」

 

 その言葉に思わず俺は和人を凝視した。

 

「だったら見てみようじゃないか、紅葉の器をさ。愚痴を溢すのはその後で遅くないはずだ」

 

 和人の口舌に反感しようと身を前傾するが、周りの視線が自身に集中していることに気付いた少年は、鼻をふんっと鳴らせて振り返り後ろにいた者たちと一緒に道場の端へ引っ込んでいった。その流れに乗るように周りも解散して自身の持ち場へと移動するなか、真ん中で俺と和人は黙ったままでいる。

 伏し目で和人から視線を逸らして口篭っていると、

 

「さっきのは本当だ、俺はお前を馬鹿にしていた」

 

 迷いもなく出された言葉に悔しさで手を震わせる。嘘といってくれたほうがまだ気分がよかった。別段友達でもない彼だが、裏切られた感じして切ない。嫌な蟠りを抱えながら、鋭くなる目を和人に向けてしまうかもしれない。

 

「上手くないくせに必死に竹刀振ってさ、うっとうしくて、一緒にやる相手がいないくせにめげずに道場に通うお前が見苦しかった。虐められているお前を見ていて楽しかった……」

 

「どうして……そんなこというんだよ……」

 

 人を(はや)し立てる和人の口答に滲み出てしまうほどの黒い感情が自分を支配するなか、次の言葉で邪念が一変し晴れていた。

 

「弱いくせにうらやましかった……」

 

 突拍子もなく聴覚を振るわせた一言は心に衝撃を走らせ、濁った瞳を真っ直ぐあげる。和人とは何で苦言を言ってまで俺に語りかけてきたのであろう。

 真意が聞けないまま和人とは俺に大きな溝を残して離れていった。

 

 

 女子男子ともに見事な試合だった。しかし連戦空しく男子女子ともに負け越しで第三試合に望むことになる。特に女子の大将戦は見ものであった。苦戦のするも最後の御山となる大将桐ヶ谷直葉まで繋げ、川添道場の一人娘―川添珠姫との勝敗を分けることとなる。読みの取り合いは大人顔負けの接戦でどちらに勝利に風が傾いても可笑しくなかった。最後は開き足を俊敏に使い隙を付いた面が入り、先に有効打突を制した川添珠姫に軍配が上がった。

 互いに礼をして戻ってきた後の桐ヶ谷直葉の悔しい涙で目に焼きついた。それほどの相手だったんだ。

 

 彼女達の試合は門下生達に強い刺激を与えた。

 ―今度は俺の番だ……。

 

 団体試合最終幕、四方に張られた白のテープの外枠から先鋒が内枠に入り、試合に臨む。高鳴る胸の鼓動が自身の試合が近づくたびに速く脈を打つ。

 呼吸を何度も整えても治まりきらず、膝に置いた手を握り爪を食い込ます。

 

「そんなに震えても一緒だぞ」

 

 中堅戦、面を二本取られて敗れた和人は落ち着いて物言いで促す。震えの原因は少なからず和人に含まれているんだぞ、と誰にも届かない心の中で苦笑する。

 前で副将が胴打ちに一本とられて周りの門下生達は諦めムードになっている。試合はストレートに三敗の負け星をつけ無残であった。不穏な空気が流れているうちに副将も二本取られ、また憤りのない悪感がチーム全体を包むなか、和人は甲斐無く続ける。

 

「……負けるときは、負けるんだ」

 

「―負けられないんだよ……」

 

 眇眇(びょうびょう)たる口ぶりで話す和人に俺は間髪を容れずに熱く答えた。

 

「勝つって、約束したんだ」

 

 精彩に面を結ぶ音がビシッと鳴るほど綺麗に結び着けて籠手を嵌める。狭くなった視野から和人に目を向けて立ち上がる。ヨレヨレになった副将に『ナイスファイト』と元気付けると、ギョッとされた。

 

「なんでそんな顔で剣道続けられるんだ?」

 

 踏み出そうとした右足を止めて顔を向けないまま和人の呼びかけに応じる。

 

「俺をここまで連れてきてくれた人がいるから」

 

 その返した言葉は清々しく相手への疎ましさもない。面越しからニッカリと目を細くしてに歯を出して笑う俺を見た和人は口を開けていた。

 今はそんな戯言を不思議と躊躇いもなく言えた。そしてその戯言を現実にするためにこの試合……勝つ!

 

 

 一辺約十一メートルの正方形を描いたコートに入り、対戦相手に向かい合い礼をする、試合場の中心にある×印に向かうように大股で三歩前に出て開始線に止まり、左手に(こしら)えた竹刀を構えながら蹲踞(そんきょ)の姿勢をとる。

 相手は一つ年上の小学四年生。小学生にしては体格のいい、紅葉よりも一回り大きく見える。ガタイのようさに回りは完全に大きな男の子が勝つと予想する。

 相手は立ち上がるが紅葉はまだ瞼を伏せたまま姿勢をとかない。少年には騒然とする外野の音は聞いてはいなかった。

 溝口と川添夫婦は小さな剣士の無風な姿勢を微笑ましく見守っていた。

 雑念を消して無心になり、空になった心に意志を注ぎ込む。遅れて立ち上がり主審を担当する川添 椿は二人の姿勢を見据える。剣道の定石である中段構えを両者となり剣先を喉の高さに保つ。

 

「はじめっ!」

 

 甲高い合図を出した次の一瞬―

 

「-うおおおおおぉぉぉ!!」

 

 バンと大きく前と踏み出し先手で打ち込みに入った紅葉、大声量の気勢に竦み相手は戦慄が走り後退しながら打ち合いに入れ込まれ出鼻をくじかれる。前々とがむしゃらに間合いを詰める紅葉に竹刀を上に払い距離をとろうとするが、

 

―何コイツ、胴ががら空きだ!?

 

 攻守の『守』を棄てて疾さに徹した攻めを振り翳す。

 遠間の距離を置いて跳躍で面を露骨に狙う紅葉に胴を打とうとする間合いに踏み入ろうとした……真上に風を切り裂く音が聞こえたときは手遅れであった。

 

「めえぇぇぇぇん!」

 

 パァァーっとなり面金を打ち落とした紅葉の竹刀は打突部位を刃筋正しく捉えて、十分な気勢を反響させていた。文句なしの判定を審判に見せ付け、「一本!」と片手の赤旗が挙がるともに外野に歓声をあがるも、今の紅葉には耳障りな誘惑でしかない。

 すぐに仕切りなおし、正眼に構えなおす。

―よし、まだ……まだ一つだ!浮ついた心は捨てろ!油断するじゃあねぇぞ自分(紅葉清貴)

 高揚に浸ることなかれ、先に見えた勝利の可能性だけに目を向ける。

 

 立ち合う相手は二本目が始まると同時にある違和感に勘付く。

 

「!…勘付かれた」

 

 外野から見守っていた直葉は縦構えになる相手の竹刀を見て察する。面の防御に最適な構え、相手は紅葉の行動パターンを見透かしていた。そう紅葉は面の技しかまともに打てない。当初の目論見は短期決戦で一気に勝負をつけること、体力がある紅葉の攻めに転じた面なら勝機はある……でもそれを相手に看破されれば……

 

「こてぇぇぇぇぇ!」

 

 強襲をかけた面は安易に対応され、身を翻して空打った面の隙を狙い、面抜き小手で打突をとられた。響く竹の音と打たれて不安な気を生む。一本取り替えれて攻めの動きがとれなくなり、紅葉に棄て去ったはずの焦りが甦る。

 やはり技の狭さが仇となった。上級生相手に面一筋だけで応戦するのは無理がある上に相手はかなりの洞察力の持ち主、すぐに紅葉の単純な策と欠点に気付き対応されてしまった。

―こうなれば……小手に興じてみるか? 駄目だ入りっこない……

 

 焦燥感に駆られるも相手は今の勢いを止めず攻め追う。眉間に流れる汗とともに激しい打ち合い続くが、完全に気勢に押し負けて足に張る力が徐々に逃げえるように下がっていた。

 審判の旗が挙がっていることに気付くと、コートから足が出ていた。この状況で反則一回のデメリットを犯してしまう。

 等々追い詰められた、有効打突をとられるか、一度でも反則を犯すと相手に一本やることになり敗退が確定する。

 

 焦りは竹刀を鈍らせるぞ紅葉……面を棄てるな、―打守ることしかできない溝口は自身の教え子に念を入れて信じるしかない。

 

 三度目、意気消失しつつある紅葉に急襲する。背丈を利用した重心をかける竹刀崩し、重圧な竹刀を受け止めるも重みで左足が軋み体勢を崩され、同時に相手は面へと振り翳す。紅葉は首が取れるのではないかと思うほど、横へと身を傾けて床に倒れ込み、運よく避け切る。床を転がって瞬時に立ち上がり迫る竹刀に抵抗して鍔迫り合いになった。押し合う状態で両者ともに僅かな隙を窺う。

―強い、また押しつぶされそうだ。

 調子が狂う、落ち着かせようとする更なる焦りを呼び集中力を殺ぐ。壺に嵌ってしまった紅葉は乱脈になり、太刀筋が鈍っていく。

――もう駄目だ……上級生相手に良く健闘したよ、きっとそれくらいの見返りは皆返してくれる……馬鹿野郎……

 弱りきった握力に再び力が入り始めた。

――俺はそんな気持ちで剣道をやっているんじゃない、賢そうに言葉を並べる前に、俺は馬鹿正直に突っ込んで価値のある勝ちを掴むんだ!

 濁った目に再び色が付く。鋭い眼光を射抜き互いに力を強く押し切り離れたあと、素早く迫る相手の小手技を捌き、残心の意を消さずに立ち向かう。

――そうだ、俺はまだ……高く飛べる!

 

「いえぇぇぇぇぇぃ!」

 

 気勢の咆哮ともに右足を浮かせ一足一刀の間合いから飛躍する。右足を出したことで読まれているのはわかっていたが紅葉は止まるわけにはいかない。飛び込み面、攻めと同時に右足を浮かせ重心を前に出し、相手の間合いに入り、左足を蹴り面に飛ぶ技。射程が長い分読まれやすいなどの欠点が多いが、この一撃に総てを懸けた。

 足をばねのように弾き叩き跳躍するが、後ろに身を傾けた相手が遠ざがっていく。

――とどく…………とどけ……とどけぇぇぇぇぇぇぇ!!

 紅葉と相対する少年は迸る狂犬のような眼力と気迫に圧倒されて無意識に竹刀を縦に構え防御に入る。しかし守り構えた竹刀を砕くかのような押し切り兜まで振り貫く。

 溝口は紅葉の技の鋭い一閃を見て頷いた――『もう一つは……折れない心だ』

 

 

「めぇぇぇぇぇーーーんっ!!」

 

―パァーーーン!

 

 一瞬の時が止まったかのように静まり返る。両者ともに残心で反射的に向き直し構えるが、主審達の赤旗は天へと伸ばされていた。

 

「一本ッ!」

 

 その勝敗を決めるはっきりとした一言は紅葉の耳には届いていなかった。残心を決して振りほどくことなく、今だ正眼の構えを解けずにいた。

 彼の焼きついた(しがらみ)は脇に立つ溝口と川添御夫妻の相好の崩す表情によって、頭にかかった霧が晴れる。

 

―……ぉ……終わったのか……おれは……

 

 パチン……。

 一つ道場に際立った音が鼓膜を震わせると、音は途切れ途切れになり始める。川添道場にいる全ての者たちのの盛大な拍手が全体を包み込む。

 その歓声は他でもない紅葉たちの見事な試合への喝采だった。

 試合場の外枠で座禅を組んで試合を見守っていた直葉は我慢できず、礼を終え立ち尽くす紅葉へと駆け寄ると他の門下生達も釣られて足を運ぶ。

 

「紅葉さんやりましたね!」

 

「すっ、すげー!上級生に勝っちゃうなんて」

 

「おまえいつの間にそんな強くなったんだよ!?」

 

 紅葉の驚異的な試合を見た同門下生達は驚くことばかりである。普段から道内で独り淋しく竹刀を振る物静かなイジられっ子という印象しかなかった紅葉。それが荒々しく張り裂けんばかりの気勢ともに力強く竹刀を振り闘う姿は彼らが知る少年の姿ではない、

 彼を中心に群がる生徒達は様々な質疑を聞き寄るが紅葉は黙ったまま面を下に俯けていた。

 

「おい、どうしたんだ?」

 

 一人の生徒の声に応じるように紐を解き熱気がこもった面を外す。その面の下は勝利を勝ち取った後の面差しとは思えないほど冷めた顔であった。

 紅葉は心の内で先程から周囲に起きたことをまだ疑っていた。

 

―俺、勝ったのか……ほんとうに……

 

 仕切りを見回すと溝口と目が合い、慊焉(けんえん)たる顔付きに紅葉は自身の感に思う自制心を遂に受け容れた。すると、ホロっと瞼から熱い何かが頬をゆっくりと垂れ流れる。

 

「な、なに泣いてんだよ!?」

 

 露になった少年の顔は涙で溢れかえっていた。頬を探り、流れ出る涙の水滴が目に映す。

 

「先輩がまた紅葉をいじめたんじゃないんですか!」

 

「あぁ!? いやぁ俺はまだ何も……それにこいつが涙を流すとこなんて…」

 

「紅葉さん、大丈夫ですか……?」

 

 直葉は下から覗き込むように首を傾げて目頭を赤くする少年を心配する。

 紅葉が一度も道内で表に出さなかった涙。叱られても、虐められても、決して人目の前で出すことを避けていた感情表現である。だが今、少年が募らせていたのは悲しい思いではない。

 

「……ぉ……おれ……はじめ、初めて……勝ったんだ……おれ…………っくしょう……ここじゃ泣かないって……決めてたのに…」

 

 幼き瞳に潤んだ光がり、腕に抱えた面に顔をうずめて嗚咽を洩らしていた。

 

「けんどう……やめなく……よかぁ…った……ほんとうに……」

 

 苦心と胸を圧迫していた数々のストレスから解放され、心に塞いでいた感情が溢れ出る。

 自分は何をしてもダメだ、心の奥底でずっと積らせていた蟠りを自身の力で否定することが出来たのだ。

 

 棘のように鋭い茨の道を抜けた紅葉は今……純粋に嬉しい……

 

 

 試合稽古も無事に幕を引き、合同稽古は剣士たちに新たなる課題を与えたに違いない。荷造りをしていると、俺の対戦相手であった川添道場の門下生の子が「今度は勝つ! 首洗って待ってろよ!」と、笑顔で宣戦布告を送られて驚いた。

 チームとして勝つことは出来なかったが、俺にとっては大きな第一歩である。

 

 しかし試合中に感じられないほど、今俺は浮ついた笑みが頬からとることが出来ないでいた。なぜなら……

 

「紅葉、一緒に帰ろうぜ……って荷造り早いな!?」

 

 道場の門下生達が声を掛けてきた。彼らから出ていた嫌悪な態度は嘘のように抜けて、かなりフレンドリーな柔らかい声音であり呆気にとられる。俺をあまりよく思っていなかったメンバーもチラホラいて、バツが悪そうな顔で友好的に馴染もうとしているようだ。そんな彼らの顔に思わず鼻を鳴らして笑ってしまう。

 でも……きっかけはどうあれ嬉しい傾向だと思う。

 

「紅葉くん! 単刀直入に聞くわ! あなたとスグはどういう関係なの!?」

 

「わぁーわぁー!? 先輩たち何を勝手に言っているんですか!?」

 

「だって気になるじゃない、溝口師匠がいたとはいえ二人一緒に稽古していたんでしょう! これは他ならぬ事件だよ!?」

 

「嘘だ! スグちゃんは俺が狙っていたのに!?」

 

「紅葉……やはり道内での敵!」

 

「男子黙れ!」

 

 いつの間にか女子までもが集まり話を盛り上げている。直葉は顔を赤くして手をアタフタさせていた。

 あの仕切られた柵は一体何だったのだと思うくらい、馬鹿騒ぎを俺の眼前で繰り広げていている。

 

「それでどうなの!?」

 

「……あぁ、う~ん……強敵と書いて……ライバルかな?」

 

『えぇぇぇぇ!?』

 

 なぜ皆幻滅した顔で俺を見るんだ? 些か失礼だと感じながら俺は防具一式が詰まった防具袋を肩にかけて立ち上がる。

 

「ごめん、人と会う約束してるんだ、話はまた今度!」

 

 ずっしりと重い剣道具を担ぎ走る。

 

 ―待っているはずだ……いや、待っている。

 

 靴を履き川添道場へ礼を送った後、外へと飛び出る。日は傾き、青空は徐々に色を変えて赤みがかかり始めていた。疲れ果てている筈の足も交互に開きながら元気が付いている。

 

 ―結城……俺やったよ!

 

 なぜなら……あの子に会えるから……

 

 

 

 

 走り去っていく少年の後姿を和人は一人眺めていた。

 

「…………あんな風に、俺はなれないな」

 

 

 




二話連続投稿なんてするもんじゃないな




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