氷点下の世界ーーそんな言葉が相応しいかも知れない程に、凍えてしまいそうだった。
息を吐く度に、目の前を白いモヤが見えた。自分の吐く息がマイナスの気温の中にいるのだと、改めて実感させてくれた。
その証拠に乃利香の身体は微かに震え、唇も紫色に変色してしまっていた。
普段のメイド服の上には女の子らしいピンクを強調した色合いのロングコートを着て、クリーム色のマフラーを首に巻いていた。何重にも重ね着しているのにも関わらず、この寒さはたまらないらしく、ガチガチと震えていた。
「うう……氷点下の場所では、私の様な人間は氷付けになるのが関の山ですね」
今乃利香達がいるのは、地下世界コキュートスと呼ばれる魔物の巣窟でもある。
天井からは氷柱が根を張り、その雫が落ちる度にしぶきをあげていた。薄暗く、夜目の効かない乃利香はランプを持っていないと何も見えなかった。
地底湖と呼ばれる小さな湖があちこちに幾つも存在していて、その湖自体マイナスの温度らしく、更に周囲の温度を下げてしまっていた。
「……留史加様は、こんな場所で暮らしていたのですね」
首に巻かれたマフラーを両手でぎゅっと握ると、周囲を見て回った。
乃利香が今いる場所は、鉄格子で出来た鋼の道だった。その道を歩く度に、金属と靴底が音を響かせていた。その通路は高い位置かに設置されており、下の玉座の間を一望出来る眺めとなっていた。
そして留史加は座の間にある王の祭壇と呼ばれる椅子に、貫禄のある姿で座っていた。その隣には、敬愛する琉輝唖が美しい姿勢を保ちながら立っていた。
「留史加様は普段とてもダメダメな方ですが、こうして見ると……やはり魔王なのですね?」
「にゃ? ルシファー様は、我ら魔物の偉大なるお方ですからにゃあ」
フラフラと現れたのはーー薄茶の毛並みに白が混じったーー仔猫の様に小さな身体で、円らな瞳が愛らしい茶トラの猫だった。
けれど普通の猫とは明らかに異なる部位があった。それは……お尻にある2本の尻尾だった。
魔界にいる生き物は人間界の生き物によく似てはいるものの、何処かしら違うところがある。人間界では[妖怪]と呼ばれる類いなのだが、結局は魔界という言葉を知らない人間達がそう呼んでいるだけに過ぎないのだった。
「にゃんくろーさんは、留史加様と琉輝唖様どちらがお好きですか?」
「にゃにゃ? そうですにゃあ~。ルシファー様は何時も絶妙な加減で撫でてくれますし……"ルキエル"様は、我輩の事を凄く可愛がってくれてますし……」
むむむと人間の様に腕を組ながら悩む様は、完全に普通の猫とは程遠かった。けれど見た目が小動物にしか見えないので、不思議と頬が緩んでしまっていた乃利香だった。
「あっ! ルキエル様には、この呼び方禁止されてるんだったにゃ!」
ルキエルーーそれは、留史加が魔界での本当の名前がルシファーである様に、琉輝唖も魔界での名前を持っていた。けれど琉輝唖はそれを嫌がっている節があり、その名前を出すだけで機嫌がすこぶる悪くなってしまう。
それを知っているからこそ、この魔界ではなるべくその名前を言わない様にしていたのだ。
「にゃ? 何か騒がしいですにゃあ~」
「あ、本当ですね」
乃利香とにゃんくろーと呼ばれた猫は高みの見物をするかの様に、下に目線を落とした。
椅子に座る留史加ことルシファーは肩肘をついて、無言で魔物達の会話を聞いていた。その隣にいる琉輝唖ことルキエルは、小さな鼠型の魔物をつついて遊んでいた。
「天使が人間を見かぎったのだろう?」
「我等の魔界ですら、調律するつもりなのか!?」
ヤギの様な魔物やスライム等、調べるのも面倒な程大勢いた。既に誰が何を喋っているのかさえ、収集がつかなくなる程に騒がしかった。
「いい加減にしないか!」
ついに痺れを切らしたルシファーが、こめかみに青筋を立てた。その声は静かだが、威圧感を与えていた。その証拠にルシファーの声が聞こえた途端、あーだこーだと言っていた魔物達が一斉に静まり返ったのだ。
ルシファーから放たれる威圧感……魔力とと呼ぶべき物は、力の弱い魔物の腰の力をなくしてしまう程だった。
その証拠に琉輝唖の手のひらに乗っていた鼠の様な魔物は、ガタガタと震えてしまっていた。
「お前達は、ここで無駄な議論をする為に私を呼んだのか!?」
「い……いえ。決して、その様な……」
「ならば、この体たらくと呼んでもおかしくない会議は何だ!? ぐだぐだ言っている暇があるのなら、少しでも奴等の動向を探れ!」
地下の気温はマイナスを下回っていると感じる程に凍えるのだが、今のルシファーの言葉と魔王の威厳の様な何かが、その場の気温を更に低下させていった。
深紅に光る髪はその内に秘めた怒りを表す様に……燃えたぎる様に、薄暗い地下でもハッキリと見えてしまっていた。
瞳から覗くルシファーの心は闇その物だった。少し反発しただけでもその身を屍へと変えてしまう……そういった言霊が、この男の全身から溢れていたのだ。
誰もが静まり、反論すら出来ない時間だけが無情に過ぎていく。
ーー恐らく、今のルシファーに口答え出来る者がいないのだろう。
「……はあ。父さん?」
「……何だ?」
琉輝唖の問い掛けに答えるその声は、何時もの優しい留史加の"それ"ではなかった。
未だにピリピリとしているらしく、溢れる膨大な魔力と負(闇)の感情だけが取り囲んでいた。
「余り力で押さえつけない方が良いよ?」
「は? 何を言っている。私は別に……」
「父さんが無駄にそのおかしな魔力放ってるせいで、ほら……」
琉輝唖が見せたのは、手のひらの上でプルプルと震えながら涙を流す、鼠型の魔物だった。
灰色の身体でお尻には先が丸く曲がった尻尾が、へにょんとしおれてしまっていた。大きな目から涙がボロボロと出ていて、とても可愛らしい魔物だった。
琉輝唖が何を言いたいのか悟ったルシファーは言葉をぐっと堪え、大きく溜め息を吐いた。
そしてルシファーは空の見えない天井を仰ぎ、「お前には敵わんな」と、たった一言だけ呟いた。