2062年 5月18日 日本 神奈川県 横須賀新鎮守府第二棟二階
五月晴れの空の下、煌く太陽の光と香る潮風を受ける白塗りの建物、それが新しく建設された横須賀新鎮守府である。
かなり広い敷地面積内には四階層の建物である第一棟、五階層の建物である第二棟の二つの建物が隙間を空けることなく立てられ、その周囲にはフェンスが張り巡らされている。
かつては市内に複数点在していた基地だが現在は船越区と西逸見区のみとなっており、艦娘と提督達は船越区に建設された横須賀新鎮守府に所属し、従来の自衛官達は西逸見区の基地に所属をしている。
艦娘が世に知れて早十年、当初はそんな彼女らの存在に住民は恐怖を覚え、自衛隊の方も艦娘をむやみに外へ出すことが出来なかった。
だが、そんな彼女らへの恐怖を払拭するために不定期ながらも行われた艦娘と護衛艦の一般公開や夏には鎮守府のグラウンドを用いての横須賀祭りを行ったことが功を奏し、現在では艦娘達が鎮守府周囲の街を自由に歩ける環境がやっと整ったのである。
そんな鎮守府の第二棟二階の廊下では一人の女が壁にもたれかかりながらパンフレットを読み終えたところであった。
女はパンフレットをパタリと閉じ、改めて表紙を見る。
表紙には『艦娘と周辺地域の関係』と言う題名が記され、その下にはポップなイラストで艦娘と思われる少女と人間の少女が手をつないで笑みを浮かべている絵が描かれている。
女はそのイラストを数秒の間見続け、時折人間の少女の絵に人差し指を置き、少女の頭を撫でるかのように指を往復させる。
やがて、自分のその行為に恥ずかしくなると女は人差し指をパンフレットから離し、首だけ後ろに回して廊下に付いている窓から外を眺める。
視点を下に向ければ、毎年行っている横須賀祭りの会場であるグラウンドが見える。
グラウンドに人の影は見えず、たまに吹く強めの風が砂を巻き上げては宙にばら撒いていく。
逆に視点を上の方に向ければ、鎮守府周辺の街並みが五月晴れの空と共に水平線の先まで続いている。
耳を澄ませれば、街の喧騒音が風に運ばれ窓越しながらも女の耳に入り込んでくる。
普段なら車のクラクションや人々が別々の内容を語り合いながら作り上げる合唱に耳を塞ぎたくなるのだが、静かすぎるこの鎮守府の中で人を待っている女にはこの時ばかりはありがたい音であった。
ひとたび、窓から離れれば周囲には自分が音を立てない限り静寂を保ったままであった、まるで自分以外の生物が滅んでしまったように錯覚してしまいそうだ。
女はそう思いつつも窓から見える変わらない風景に飽きを感じると、手に持っていたパンフレットを惜しげもなく傍に置いていた黒色の旅行鞄に押し込こむと同時に中に入っている日本に行く前にドイツ海軍達から貰った日本に関係する数冊の本の内どれかを取り出そうとするが、それは男のくぐもった声によって中断される。
「いやぁ~、すいませんねぇ、長い間待たせてしまいまして」
まったくもって誠意がこもっていない謝罪の言葉と共に一人の長身細見の男とその後ろに一人の少女が女の目の前に現れる。
五月とは言え日中は少し暑い、それにも関わらず男は制服の上から黒く長いコートを羽織り、その顔はマスクと伸ばした前髪によって窺えない。
男は静寂に包まれていた世界に自分の存在感を示すかのように革靴の音を響かせ、女に近づいてくる。
女は自分の身長が高いことをしっていたが、眼前の男は自分の頭一個分よい大きく、女のことを見下ろしてくる。
以前、その顔からは何を考えているのか分からない、女は男を前にして正体不明の何かを見た時に感じるあの何とも言えない感覚に全身が襲われる。
だが、自分は艦娘だ、これからこの男以上の恐怖の存在である深海棲艦との戦いが待っているのだ、こんな所でこんな軟弱そうな男相手に弱気にはなれない。
女はそう思うと、美しく宝石の様な瞳をまるで刃物のように尖らせ男を睨み付ると同時に長い間自分を待たせたこの男に報復するかのようにきつい口調で言葉を放つ。
「どれだけ待たせる気?」
「やーだな、そんなに怒らないで下さいよ。折角のお顔が台無しですよビスマルクさん」
さん付ではあるがビスマルクと自分の名を気安く呼ばれ、ドイツで作られた戦艦級艦娘ビスマルクは瞳をさらに尖らせた。
そんなビスマルクの口調にも自分を殺せそうな瞳にも男は動じることもなく、むしろ自分をからかうような、煽るような口調をさらに投げる。
灰色の軍帽から伸びるのは美しくまるで太陽のように輝く金髪のロングヘアー、それに宝石と刃物の輝きを含んだ碧色の瞳からはまさに西洋人と言った顔つきであろうか。
髪と瞳の色だけでも十分に目立つが、それよりも目を引くのはその服装だろう。
非常に複雑かつ露出の大きいビスマルクの服装は言葉で説明するのはとても難しいことである。
まず、肩口と背中の部分を切り取った黒い前留のシャツ、腹部は灰色に染めたポケット付きの軍服の胸下部分を着用し、胸部は灰色の金属製胸当てを背中から回したリング状の留め具で固定している。
ここまででも服装にインパクトがあるビスマルクだが、極めつけにスカートやズボンの類は一切着用しておらず地が灰色のニーソックスを履いている。
大きめの金属製胸当てをしているにも関わらずビスマルク豊かな双丘が並んだ胸部は目で見るだけでもその柔らかさが手に取るようにわかりそうだ。
そんなビスマルクの胸も素晴らしいがスラリと伸びたそのおみ足を包む灰色のニーソックスと灰色の軍服の間に無防備にも晒されている太ももが窓から入る陽光により輝く姿は何とも妖艶であった。
「ずっと立っていてさぞお疲れでしょう。手早く話をしますので、とりあえずは私の執務室へどうぞ」
どんな男でも一度は各部位に目を向けるであろうビスマルク姿だが、男は一切目を向けずドアノブを回し内開きの扉を開き先に自分が先に執務室に入ると、手のひらを上にして指先を室内の方に向けビスマルクに執務室に入るように指示する。
そんな男に指示にビスマルクは従いたくはなかったが、ここでずっと立っているわけにもいかず、しかし素直に従いたくないビスマルクは旅行鞄を右手で持ち上げるとつかつかと靴を鳴らしながら入る。
その後ろからは男と共にビスマルクの所に来た少女が足音を立てずに入ると、水色の瞳でビスマルクを静かに睨み付けた。
その視線にビスマルクは気づきながらも、こちらから睨み返すようなことはしない、この少女の艦種が何であれ彼女が艦娘であることには間違いないのだ、雰囲気でわかる。
「さてと、それじゃあソファに座ってくれますかビスマルクさん」
「遠慮しておくわ、初対面の提督の前で座るわけにはいかないわ」
男は執務室にテーブルを挟み向かい合うようにして置いてある黒塗りのソファを指でなく手で指したが、ビスマルクはそれを断ると代わりに持っていた旅行鞄をソファの上に置く。
それに関してビスマルクは別に反抗的な態度を取ろうと思ったわけではない、最初の出会いが最悪であろうが自分の提督になる人物である。
先ほどのきつい口調を反省し、これ以上この男との間に裂け目を作るまいと思ったビスマルクの対応である。
「提督・・・・、あ~、なるほど。そういうことですか」
一方、男の方は相変わらず表情が分からないが、ビスマルクが座ることを断ったことに対しては怒りを見せなかったようだが、代わりにビスマルクの言葉に疑問を感じたようで首を一瞬傾げたが、どうやらその疑問もすぐ解消したらしく、合点がいったような声を上げた。
そして、自分の執務を行う机の近くに置いてあるぎっしりとファイルが詰まった本棚に目をやる。
「ちょっと、お待ちくださいね。えーと、確かこの辺りに・・・・・」
男は執務室の天井につきそうなくらいに高い本棚を上から下へ、下から上へと首を動かしてお目当ての物を探している。
やがて、首を止め一つのファイルを抜き取りその表紙をしっかりと確認しそれが探していた物と確認すると、いつの間にか隣に立っていた少女に手渡す。
少女にしっかりと手渡すと、男はまた先ほどと同じように本棚に詰まっているファイルに目を配らせ、少女はそれをジッと見守る。
その間、手持ち無沙汰なビスマルクは男の執務室をゆっくりと見回す。
内装は非常にシンプルであり、床に敷かれた青色の絨毯に同じ色をした木製の壁はまさに執務室と言った所であろう。
黒塗りの二つのソファとテーブル以外はどれも執務室の備品である物ばかりだろうか、本棚にコート掛け、横に長い棚に執務机に椅子とどれもあの男の所持品とは感じられない。
また、執務室には左に二か所、右に一か所と扉が設置されているがどれも閉まりきっており中を見ることは残念ながら出来ないようだ。
「とりあえず、これで全部ですかね。意外と少なかったですね」
ビスマルクが男の執務室をだいたい見終えるころには男の方も三枚程度のファイルを執務机の上に置いて中身を流す程度の読みながら呟いていた。
だが、ふと何かを思い出したようで視線をファイルからビスマルクの方に移すと、こちらに向き直りこう言った。
「おっと、そう言えば私としたことがうっかり自己紹介を忘れていましたね。いやー、人間も三十代後半になれば物忘れも酷くなるものですね」
男はそう言うと、三十代後半とは思えないぐらいに制帽を取ると黒く美しさまで感じる髪の毛をビスマルクに見せると、自己紹介を始めた。
「私、海上自衛隊第一艦娘隊特務提督の和泉恭賀と申します。階級は、一等海尉だったかな・・・ですが一応二等海佐並の権利を持っています。まあ、この辺りは色々と複雑なので説明は省かせてもらいますね。それと、この娘はヴェールヌイと言い私の持つ艦娘の一つです。最も、私は響と呼んでいますので作戦でご一緒した時にはくれぐれも忘れないようにお願いしますよ」
和泉は言い終えるとお辞儀をした、その横ではヴェールヌイも帽子を取り美しい白のロンヘアーを垂らしてお辞儀をする。
二秒程度、お辞儀をすると和泉とヴェールヌイは頭を上げそれぞれ帽子を被り直す。
そして和泉は執務机の上に置いてあったファイルを一つ取ると中身を見始める、ファイルの表紙にはドイツ艦娘ビスマルクの文字が記されており、ビスマルクの性能などが記されているものである。
和泉はその中身から目を離さずに椅子に座るのではなくあろうことか執務机の上に腰かける、ゆっくりとした動きだが僅かに伝わった振動でペン立てが倒れそうになるがそれをヴェールヌイが素早く抑える。
そんな彼女の行動に和泉は気づかないのか、未だその視線はファイルの中身に夢中の様だ。
そんな和泉にビスマルクは少し苛立ちを感じる、手早くと言ったにも関わらずまだ待たせるつもりなのか。
「ちょっと提督、私に対して何か命令はないのかしら?」
「勿論、ありますよ。これをじっくりと読んでください」
和泉は執務机の上に置いてあったA4サイズの一枚の紙をビスマルクに向けて差し渡す。
重力によって先端がだらんとだらしなく垂れているが和泉の視線はファイルの方に釘付けである。
ビスマルクは和泉が見ていないことをいい事に溜まった苛立ちをぶつけるように手渡された紙をやや乱暴に受け取ると紙に視線を落とす。
「ま、前原高也・・・?」
紙に書かれた男の名を呟く、そこには和泉と同じく提督であろう男の名前と彼が指揮する艦娘達の名が書かれている。
「呼び捨てとはいけませんねビスマルクさん。何せ、前原二佐はあなたの提督になるお方ですから」
「え!?あなたが私の提督ではないの!?」
ビスマルクの言葉に和泉はこくりと頷く。
「いや~、あなたが先程から私のことを提督、提督と連呼するものですから私も疑問に思いましてね。それで気付いてみれば、あなたにはここに来るまで誰からも何も説明をしなかったでしょうから当然といえば当然ですね」
和泉の言葉通り、ビスマルクはこの鎮守府に来るまで一切の情報も聞かされていない。
ドイツから日本に来る間の飛行機の中でも、日本に到着して空港から車で数時間揺れながら何の面白みも無いドライブに飽き飽きしていた時の車内でも、周囲の人間は一切口を開かなかった。
艦娘が世に知れて十年経った現在では彼女達はメディアからの露出を少なからず受けている。
しかし、一方の提督はと言うとその存在自体が未だに秘匿の存在であるのだ。
理由としては簡単なことで、提督は艦娘を指揮する者と同時に艦娘一人一人の弱点や能力などを把握している。
ただでさえ、周辺国家が艦娘やより強力な兵器を製造していないか政府が睨みや圧力をかけている中で、彼らが未だ太平洋の占領を虎視眈々と狙う周辺国家に連れ去られるものなら取り返しのつかない一大事に発展しかねない。
その為、提督達は非常に厳重な警備に加えてこの鎮守府での寝泊りを余儀なくされているのである。
そう言った強力な規則の元に執務を続ける提督達には、ある程度の服装や頭髪への自由が
認められているのだ、この和泉もその自由に甘んじての格好なのであろう。
しかしそんな規則も艦娘が自由に鎮守府の外を歩き回ることが可能になったことにより提督達も監視や買い物の付き合いのために外へ出ざるを得なかった。
最も、外へ出れば艦娘も提督も私服を着るので外見は普通の人間にしか見えず、また彼女らも提督と呼ばない限りは周囲の人間も家族程度にしか見えないであろう。
やがて段々と艦娘達が外へ出る頻度も増え提督達も次第に外へ出ることを厭わなくなった結果、規則は形骸化してしまったのだ。
「つまり、私はあなたではなくこの前原二佐の艦隊に入ると言うことかしら、てい・・・じゃなくて、えーと・・・和泉二佐?」
「ええ、鎮守府での生活やあなたの装備などは前原二佐が説明してくれますので。それと、二佐ではなく一尉で良いですよ。階級の上では一尉なのですからね」
「分かったわ、和泉一尉。ここまでの説明、感謝するわ」
ビスマルクは前原の名が書かれた紙を折りたたんで軍服のポケットに入れ礼を述べると和泉に向かって敬礼をするが和泉の視線はまたファイルの中身に向かっており、ビスマルクの礼と敬礼に右手をひらひらと振って返した。
最後の最後まで和泉の無礼な態度にビスマルクは怒りを通り越して呆れてしまう、いくら艦娘より提督の方が偉いからと言ったとしても、言葉の一つでも返せないのは提督以前に人としてどうだろうか、異論なしに駄目であろう。
「和泉一尉、少し言っていいかしら?」
「勿論、どうぞ」
「あなたが私達艦娘に対してどう接するかは自由だけれど。最低限の礼儀とかはもつべきじゃないの?」
かなりきつめの口調を浴びせビスマルクは碧眼の瞳をキッと鋭くして和泉を睨みつける、そのビスマルクの言葉と眼光に和泉の横に立っているヴェールヌイがいち早く反応する。
まだ幼い顔つきにも関わらず白い帽子の下からこちらを睨みつける水色の瞳がまるで吹き荒れる雪の結晶が自分の顔に突き刺さるような感覚に似ている。
眼光だけなら戦艦クラスと言っても過言ではないであろう、それに彼女が纏うその雰囲気も相当な場数を踏んできているはずだ、駆逐艦とは言えビスマルク自身も楽に勝てる相手ではなさそうだ。
一方、和泉はと言うと相変らず視線はファイルの方に向いていたが突然ファイルをぱたりと閉じると足を組み前かがみになりながら視線をビスマルクに向ける。
「礼儀ですか・・・・・、あなた方が人間なら私も最低限の礼儀は示しますけれど、兵器が一丁前に礼儀を振りかざしてんじゃ・・・・・失礼、振りかざすのはどうかと思いますけれどね」
その瞬間、ビスマルクは恐怖を感じた、いや恐怖ではない何とも言えぬ得体の知れない悪意や狂気、嗜虐性などを混ぜ込んだ物は今まで和泉が纏っていた雰囲気にとって変わって部屋の中に現れたのである。
得体の知れないその混合物はまるでバケツ一杯の水を被ったようにビスマルクの頭から足までを染めつくし、彼女の内に秘める本能が警鐘を鳴らし同時に嫌な悪寒が背中を這うようにして動き回りビスマルクの全神経を張り詰めさせる。
和泉の前髪からこちらを覗く鋭く光る双眸からは武器や銃器などとは比にならないぐらいに恐怖を感じ、それはビスマルクをまるで蛇に睨まれた蛙と同じ感覚に変えてしまうぐらいであった。
そして彼女は和泉の言葉を理解した、日本に来る前にドイツ軍人から聞いた話、そう海自の中には『兵器派』『人間派』と言う二つの派閥が存在することを。
「・・・なるほどね、あなたにとって私達艦娘は兵器に過ぎないということかしら?兵器派の和泉一尉?」
「おやおや、どこでそんな言葉を覚えたんですかね~。あ、まさか日本に来る前にドイツで小耳にでも挟んだのでしょうか?まーったく、困りましたねぇ・・・」
和泉の口調は先程こそ乱れはしたが今はあのねちっこい口調に戻っていた。
和泉の醸し出していた雰囲気からは相変らず得体の知れない何かを感じるが同時にへらへらとした雰囲気も混ざっているようで、ビスマルクも張り詰めていた全神経を少しばかり緩めることが可能になった。
『兵器派』と『人間派』と言うのは艦娘が出来た当初に現れた派閥であり、艦娘を兵器として見るか人間として見るかとの議論から始まり海自全体を二つに分けるほどになったのである。
主に科学者や技術者などの艦娘を作る側の人間は『兵器派』に属し、逆に提督などの艦娘を指揮や衣食住を共にする側の人間は『人間派』に属し、不毛な争いを数年単位で続けその事実はドイツなどの一部国家にも密かに知れ渡ったほどだ。
最も、現在では提督の人数が増え、同時に科学者の中にも『人間派』の人間が増えた結果により『兵器派』の数は減り残りも粛清するかどうかの議論まで出されるぐらいだ。
だが、残った『兵器派』の人間も粛清されるわけにはいかず様々な策を用いて逃れ始めたのである。
結果的に『兵器派』は少なからず残存し、やがて彼らは数名の提督と繋がりを持ち、そして現在に当たるのだ。
「まあ、正直言ってしまいますと兵器派やら人間派なんて陳腐な争いにあなた方艦娘が首を突っ込む必要は無用ですよ。あなただって、着任早々に
「・・・・わかったわ、気分を害してしまって悪かったわ」
「またまた~、心にも無いことを言いますねぇ・・・まあ、それは置いておきましょうか。さて、私からの用は以上ですのであとは前原二佐の元で指示を仰いでください」
最後の最後までこちらを煽るような口調は変わらず、和泉は制帽のつばを手で押さえる、その為前髪からこちらを覗いていた鋭い瞳が隠れる。
それと同時にビスマルクに浴びせられていた鋭い視線も消え、ゆっくりと手足の先からやがて身体の中心まで硬直が解けていく。
しかし、これ以上この男の前に居ることに限界を感じたビスマルクは軽く頭を下げると素早く和泉に背を向けソファの上に置いた旅行鞄を手早く取ると扉の前まで足早に向かう。
そこで、再度和泉にしたくもない敬礼をすると扉を開いて執務室から逃げるようにだがあくまでも平然と毅然とした態度で廊下に出る。
廊下に出た瞬間にビスマルクは扉に背中を預けると息を深く吸い込みそしてゆっくりと吐く、あの男の前から逃れたにも関わらず未だ呼吸が落ち着かないまるで全速力で走った後のようだ。
ビスマルクの白く美しい首元には流れた汗の筋が描かれておりビスマルクはそれを長手袋越しの右手で拭う、外側が黒、内側が赤色の長手袋は汗を吸って少し色に斑が出来る。
ある程度、呼吸が落ち着くとビスマルクは軍服のポケットから折りたたんだ紙を取り出して広げる。
どうやら、前原の執務室はこの一つ上のようだ。
ビスマルクは前原の部屋の場所をキチンと確認すると紙を折りたたんで軍服のポケットに突っ込む。
そして、自分の提督が和泉よりはマシなことを祈りながらビスマルクは上に向かうため階段へゆっくりと歩いていく。
2062年 5月18日 日本 神奈川県 横須賀新鎮守府第二棟二階 和泉執務室
ビスマルクが執務室から去った後、室内には数分間沈黙が流れる、和泉もヴェールヌイも何も喋らない。
だが、その沈黙も続かず和泉は沈黙を食い破るかのような粗暴で下卑た声で不満をぶちまけた。
「まったくよぉ、うぜぇなぁあのナチのくそ女がよぉ・・・ここが鎮守府じゃなかったらさっさとしてんのによッ!!」
誰に言うわけでもなく、和泉はそう言うと執務机に拳を叩きつけて八つ当たりを見せる。
凄まじい音が室内に響くが和泉は一切傷みに顔を歪めることなく、叩きつけた拳を解くと机の表面を指で波立たせて一定のリズムを刻む。
やがてそれに飽きた和泉は身軽な動作で執務机から立ち上がると、今度は椅子に乱暴に座り長く伸びた足を執務机の上に乗っける。
その振動によってペン立が倒れ中から数本のペンが放流される魚のように投げ出され、床に散らばっていく。
和泉は舌打ちをして、嫌々に立ち上ろうとしたがそれよりも早くヴェールヌイが動いた。
「司令官は座っていて、私が全部取るから」
ヴェールヌイは口と手で和泉を制し、床に散らばったペンをどんどんと拾い上げていく。
ペンを拾うため屈んだヴェールヌイ、彼女が動くたびに白く美しい髪が谷を流れる水のように動き、短めのスカートは柔らかそうな太腿も眩いが、ふと視点を移動させれば乙女の純白な布を拝むことが出来そうである。
だが、和泉はそんな物には目もくれずヴェールヌイがペンを拾うのをけったるそうに待ちながらも彼女に催促するように執務机の上に置いた足を揺らす。
その振動によって机上に置かれていたファイルが三つとも落下し、バサバサと音を立ててヴェールヌイの頭に落下する。
ファイルが頭に当たった痛みよりもむしろ仕事を増やしたことに対して怒りを見せるのが普通であろう、だがヴェールヌイの表情には怒りも呆れもなかった、ただ落ちたファイルに目を向け続けているだけである。
やがて落ちたファイルをささっと三つとも拾い上げると、今度は落ちないように執務机の中心に置こうとするがそこにはすでに和泉が足を乗っけておりスペースは無い。
一方の和泉はヴェールヌイがファイルを置こうとしているのを見ると彼女が持つそれを取り上げると中身を素早く確認する。
中身が破れていないかを確認すると和泉は執務机に乗っけていた足を床に下ろすと立ち上がる。
「じゃ、ちょっと俺は外に出てるからよ、木曾共が戻ってきたらファイルを渡して適当に相手してやってくれ」
和泉の言葉にヴェールヌイはこくりと頷き、ぎっしりとファイルが詰まった本棚から出撃や遠征関係のファイルを取り出そうとする、片手に拾い集めたペンを持ちながらである。
すでに別室から脚立を引っ張り出しているヴェールヌイ、それを見ると和泉は額に手を当て溜息をつく、何か命令すると途端にこれまでやっていたことを忘れてしまうのが彼女の悪い癖である。
和泉は持っていたファイル執務机の上に置くと脚立を上り終えたヴェールヌイが集めたペンを抜き取る、同時に未だ床の下に転がっていたペン立ても拾い上げると手っ取り早く元の位置に戻しその中にペンを入れる。
それが終わると和泉はヴェールヌイが探しているファイルを四つほど素早く抜き取ると、呆然とこちらを見ていた彼女のそのフラットな胸に押し付けるとこう言った。
「さっさと確認しておけ。後、脚立はちゃんと元の場所にしまって置けよ」
胸に押し付けられたファイルをヴェールヌイが両手で持つとこくりと頷き、「わかった」と呟くように言う。
そんな彼女の姿を見ると和泉はヴェールヌイの頭を帽子越しにポンポンと雑に叩くと執務机に置いたファイルを左手でだらしなく持ち右手をひらひらと振りながら執務室から出て行く。
ヴェールヌイは和泉を黙って見送ると、乗っていた脚立からぴょんとジャンプして降りる。
そして今度は忘れずに脚立を手早く元の場所に戻すと、先程まで和泉が座っていた椅子にヴェールヌイは座った。
和泉用に作られた椅子はヴェールヌイには大きすぎたようだが、彼女はそんなことを気にせず和泉に渡されたファイルに目を通す。
粗暴である和泉とは思えないほど文字は綺麗であるのだが、枠を超えて余白部分に文字を書いたり、とんでもない所から矢印で文字を引っ張ってあるなど文字は綺麗なのに読みづらいとあんまりなファイル内容である。
そんな内容のファイルが四つも続くとなるとうんざりしたくなるが、日々読みなれているヴェールヌイは数十分程度で読み終えると腕を上げて背伸びを一つ。
そして椅子に背を預けると壁に掛けてある時計に目を配る、時刻は一時半丁度だ木曾達が任務から戻る時間まで一時間程度ある。
一時間をただ黙って過ごすにはあまりにも苦しいが、しかしながら執務室を誰もいない状況にするのもあまり宜しいことではない。
ヴェールヌイは執務室の中で暇を潰せるようなことは無いかと考えるが思いつかない、執務室の別室に置いてある本にはすべて目を通してしまった、同じ本を読むのは彼女にとって退屈すぎる。
そうこうしている内にヴェールヌイはコクリコクリと首を揺らし、水色の瞳を眠たそうにさせると、他の艦娘が居ないことを良いことに大きなあくびをする。
自分が信頼し敬愛し、何よりも愛する和泉が座っていた椅子に残る彼の温もりに甘えるようにヴェールヌイはスースーと寝息を立て眠ってしまう。
彼女が起きたのは二時間後、任務から戻った木曾に揺すられて目を醒ます。
ヴェールヌイは普段和泉以外に絶対見せていなかった自分の寝起きをついに見せてしまうことになるとは、この時彼女は知る由もなかった。