ゴーヤと合流した雪風達は、彼女が見つけた孤島の一つに停泊した。
一応の目的は、雪風座礁の応急修理。
念には念をと本当に足部艤装を浅瀬で引っ掛けた雪風は、羽黒に付き添われて此処までたどり着いている。
「良い所見つけてくれましたねぇ」
「どんなもんでち」
ゴーヤの選んだ島はそれ程大きなものでは無い。
しかし案内された入り江はかなりの広さがあり、雪風達が守ってきた無人の貨物船を泊める事も出来る。
真白の砂浜は日差しに照らされ、ビーチサンダル越しにも熱を感じる。
見渡せば流木と艦の残骸がぽつりぽつりと目に付いた。
深海棲艦との長い戦いの中、こうした島にも戦の残滓が流れ着く事はある。
そして誰の目にも手にも触れることなく、潮風にさらされて朽ち果てていくのであった。
海から背後に視線を送れば、やや離れたところを境に南国植物の原生林が広がっている。
満潮になればあの近くまで水が来るのかもしれない。
「第二艦隊、集合してくださーい」
「おぅ」
「っぽーい」
「はい」
貨物船を入り江に固定していた僚艦達が作業を終えて戻ってくる。
ゴーヤも一応第二艦隊預かりとして羽黒達と共に並んだ。
「さて……それでは念願の海水浴に来たわけですが、モノには順序があります。今日一日は必要な作業に当てる事としましょう」
「なにすんの?」
「幾つかあるんですが……先ずは島風と夕立は此処の先人にご挨拶をお願いします」
「一応人も艦娘も居ない事は確認済みでち」
「多分生きては居ないようですが……ね」
苦笑した雪風が浜辺に視線を送ると、其処には錆びて朽ちかけた艤装の残骸。
それは明らかに人間サイズのものであり、艦娘が使っていたものだろう。
もしかしたら使用者は生き残っているかもしれないが、それを確かめるすべも無し。
旗艦の視線を追って同じものを見た島風と夕立。
雪風が言葉にしなかった感傷をくんだ二隻は、顔を見合わせて頷いた。
「ま、使うところに流れ着いた分の墓くらい作ってやるか」
「見た所そんなに大きな艤装は流れ着いてないっぽい?」
「今も昔も駆逐艦から沈んでいくのは変わらないようですねぇ」
肩を竦めた雪風は視線を僚艦達に戻した。
「ゴーヤはキャンプ地の設営と、必要な荷物の搬送をお願いします。どうせお前の事ですから……」
「満潮でも沈まない候補地は見つけてあるでち。ただ、川は無かったから水と食料はタンクとかボックスごと海に沈めて冷暗保存してるんだけど……」
「キャンプ地は少し海からは離れますか?」
「でち。まぁ海中はゴーヤが取りに行くけど、其処からキャンプ地まで運ぶのは人手がほしいでち」
「了解です。羽黒さん、ゴーヤのサポートをお願い出来ますでしょうか?」
「はい。頑張ります」
仲間達が指示の通りに散っていくのを見届けた雪風は一つ息をつく。
自分はこれから浅瀬に引っ掛けた足部……機関部に相当する部分の応急修理をしなければならない。
その作業自体は決して難しいことではない。
専門家たる妖精さんは居らずとも、自分の艤装ならある程度いじれるのが艦娘である。
元々この損傷自体がフェイクである以上、下手なぶつけ方はしていなかった。
「それにしても……しれぇは何処まで勘付いてるんですかねぇ」
雪風が苦笑して荷物の中から取り出したのは旗艦用の端末である。
一通りの業務報告を日誌で済ませた雪風は、すぐに司令官から返答を受け取った。
――すでに有給は手配してある
もしかするとこっちのサボり……もとい、座礁復旧作業による不可抗力の停泊が全て見抜かれているのかもしれない。
南国の日差しを浴びているにも関わらず、雪風の頬には冷たい汗が滴った。
事此処に至るまで妨害が無かった事を考えるに、海水浴自体は黙認してくれていると思う。
問題は帰港後、司令官権限をフル活用したお仕置きが用意されている可能性があった。
具体的にはお給料方面に響く奴が。
「第二艦隊一の労働貧民たる事実が発覚した今、減給関係で攻められると精神的に堪えますねぇ……」
重巡洋艦の羽黒はともかく、同じ駆逐艦の同僚よりも手取りが低い雪風。
世の不条理をため息に乗せて吐き出せば、熱い南の風が浚っていった。
まぁ、いざとなれば大和にたかればいいだろう。
どうせ彼女は自由に使える金銭を持て余しているのだから。
俗物的なヒモ野郎の思考にどっぷり浸かり、雪風は自分の作業を進めていった。
何とはなしに視線を動かすと作業中の仲間が見える。
島風が艤装の残骸を一所に集め、夕立がひたすら穴を掘っていく。
共同墓地というには大雑把だが、この際は仕方ないだろう。
この処理はどちらかと言えば感傷に属するものであり、実利の伴った行為ではなかった。
「お墓……か」
作業を見つめる雪風の瞳は何処か遠くに行っていた。
現実にあって此処にはない意識。
もし今の雪風を大和が見れば、全力で揺すり起こしたのは間違いない。
やがて作業を片付けた島風と夕立が砂浜で駆けっこを始めている。
「あ、夕立凄ーい。駆けはじめから五歩迄は島風より早い……」
疾走中の最高速は相変わらず島風だが、夕立は切り返しから最高速度に乗るまでが早かった。
自分の足が通用しているのが分かるためか、翡翠の瞳が楽しそうに煌いている。
対する島風はどこか気だるげに足場を確かめ、一歩一歩を確認するように足を運ぶ。
基本背中を見ているためか、夕立は島風の表情が見れていない。
「もしかして、島風の奴結構余裕が……」
「よし、暖まってきた」
「っぽい!?」
拮抗が崩れるのは一瞬だった。
八回目の切り返しでギアを入れ替えた島風。
それまで負けていた立ち上りの速さでも夕立を置き去り、周回遅れにする心算で加速する。
「あいつ性格悪……お?」
二隻が掃除した浜辺は直線で200㍍程の距離がある。
僅か一往復で10㍍程の差を開いた島風だが、其処から夕立が粘りだす。
「ぽぃーーーっ」
「おぅ、粘るじゃーん」
「白露型ぁなめないでっ」
夕立が無意識に放つ威圧感が増す。
思わず腰を浮かした雪風。
見れば夕立の瞳は緋色に染まり、踏みしめる足取りは軽やかさより重さを感じさせる砂飛沫を上げている。
そのくせ、ストライドは伸びているしピッチも上がっているのだ。
「あれ、万が一捕まったらどうなるんでしょうねぇ」
見れば島風はさらに加速し、両者の距離は20㍍まで開こうとしている。
しかし前を行く島風には余裕の色が全くない。
狐に狙われた兎の表情で必死に速度を絞り出し、全力の逃走に移っている。
遠目に見ている雪風が思わず警戒したのである。
真っすぐに追われる島風が受けるプレッシャーはどれ程のものかは想像に難くない。
「兎狩りっぽいーー!」
「ひぃ!?」
「捕まえて剥いで吊るすっぽい!」
「やめてよぅっ」
本気で半泣きになっている島風に和む雪風。
その背後から二つの足音をが近づいてくる。
「雪風ちゃん。物資の搬送、一通り終わりました」
「遊んでないであんたも働くでち」
「お疲れさまです。ではあいつら回収してキャンプ地へ移動。其処で皆さんに水着を支給しますので、着替えて適当に遊びましょう」
「ゴーヤはその辺潜ってていい?」
「大鯨さんにお前の事をくれぐれも頼まれてるので、なるべく目の届くところにいてください」
「……保護者か」
うんざりした様子で息をつく潜水艦。
雪風は羽黒に視線で仕事を一つ任す。
「島風ちゃん、夕立ちゃん、行きますよー」
「了解っぽい!」
「おぅ」
「……本当に羽黒さんの言う事だと素直ですよねあんたら」
鶴の一声で追いかけっこを中止して集まってくる僚艦に、雪風は深い息をついた。
§
第二艦隊はゴーヤに先導されながら原生林をかき分け、数百メートル程内地へ移動した。
案内されたのは木々が途切れた空白地。
不自然なまでに整った円形の空き地だが、見れば所々に伐採された跡がある。
雪風が切り株の断面を確認すると、切られてからそれほど時は立っていない。
「此処ってゴーヤが作ったんです?」
「おぅ。荷物運び込みながらお前ら待ってる間に、はっちゃんから道具かりて広場つくってたでち」
「ひゅー。いい仕事してんじゃん」
「兎もごーやを見習うでち」
「私は遠征頑張ったもん」
「まぁまぁ」
今回のMVPは、間違いなくこの二隻だろう。
現地の環境を整えてくれたゴーヤと、日程に余裕を作るために先行して海を駆け続けた島風。
彼女らの尽力無くしてこの結果はあり得なかった。
雪風は内心で感謝しながら此度の目的を反芻している。
仲間たちの協力を得て海水浴に来たのは何のためか。
それは羽黒の水着を見るためである。
全てはこの後の交渉によって決まること。
そこでしくじってしまえば此処までやってきたことに意味がなくなる。
自分の戦いはこれから始まるのだ。
「雪風ちゃん?」
不意に掛けられた声に振り向く雪風。
そういえば、いつの間にか羽黒の手を引いて歩いてた。
繋いだ手が何時もより少し汗ばんでいるかもしれない。
もしくは、握る手に力が入っていたか。
何らかの決意を感じ取ったらしい羽黒が不思議そうに雪風の顔を覗いている。
「羽黒さん、愛してます」
「あ、愛? えっと……雪風ちゃんって愛とか知っているんですか?」
「この後証明してみせます。きっと今、雪風の中にある気持ちが愛なんだって」
あまりにらしくない物言いにたじろぐ羽黒。
しかしもらえた言葉は彼女自身が望んでいた類のものでもある。
歓喜と嫌な予感が3対7で羽黒の心を締め上げる。
ふと気になって背後を見れば、沈痛な面持ちで視線を逸らす夕立の姿。
あ、これは多分碌でもない事が起こる。
「それじゃ、皆さん水着に着替えましょうか」
雪風はそう言って羽黒と繋いでいた手をほどく。
そして持ち込んだ自分のバックから二つの箱を取り出して島風と羽黒に手渡した。
「一応着替えのスペースとして、あっちにブラインド作ってやったでち」
「ごーやちゃんはとっくに水着来てるけど、着替えるっぽい?」
「冗談じゃないでち。水着はスク水に限るでち」
着替えるつもりが全くない事を確認した夕立は、それならばと自分の荷物から水着を取り出す。
それは何時も着ている白露型の制服をベースデザインに作られた姉のお手製である。
「んじゃ、着替えてくるっぽい」
「あたしも行ってくるね」
「さ、雪風たちも行きましょう」
「あ、はい」
それぞれの水着を持って厚布で区切られたスペースに入る雪風達。
一番最初に出て来たのは島風だった。
おそらく競泳用だろう。
黒のワンピースに近い形状ながら、足はひざ上までぴったりと覆うタイプである。
体に対してやや小さめに作られているらしく、島風の細い線をさらに強調する水着であった。
「水着の方が露出度下がるとか普段着に疑問感じないでち?」
「着古したスク水一着でその辺歩いてるやつに何言われてもねぇ」
「一着じゃないでち! 同じの何着も持ってるしっ」
「皆スク水じゃん」
「あのー……」
次に出てきたのは雪風。
白をベースにしたタンキニであり、色も相まって印象はいつもとそれほど差異が無い。
しかし雪風は仲間が感想を言い始めるよりも早く手にしたパレオを身にまとう。
胸元から首の裏に紐をかけ、肩下から腰下までを覆うロングパレオ。
時雨がひたすら意匠を凝らした純白のパレオはドレスのような質感で雪風を包み込む。
唖然とした島風に芝居がかった笑みを返しつつ、白のつば広帽子を頭に乗せる雪風。
「あのー……」
「おま……羽黒に紐着せようって脇で自分はどんだけ気合入れてんのさ」
「いや、時雨に機動性いらないからまともで可愛いのって頼んだらこれが来て……あいつのまともの基準がこれなんですかねぇ」
照れくささから演技も出来なくなった雪風が頬を赤らめて視線を泳がせる。
露出度は低いが自分に似合っていないと思っているらしい雪風。
恥ずかし気に身を竦めて上目遣いに島風の反応を伺っている。
「あー……まぁその……あんた、ちびのくせに足長かったのね」
「あ、ありがと」
「……雪風ちゃーん」
急に気恥ずかしくなって顔を逸らしあう雪島コンビ。
最近たまに妙な雰囲気になって困ることがお互いにあった。
此処でからかえば自滅する事は分かっている二人である。
まして雪風はこの先に本命の相手が待っている。
先ほどからブラインドの向こうに聞こえる、困ったようなか細い声。
あの声の持ち主との交渉に比べれば、島風との気恥ずかしい雰囲気など些末事である。
些末事の筈だと無理やり自分を納得させた雪風は、なぜか後ろ髪をひかれる思いで島風に背を向けた。
雪風が振り向くと同時に夕立が出てくる。
「……どちら様?」
「よしぽいぬちゃん、今晩のバーベキューはピーマン祭りです」
「良いけど雪ちゃんピーマン食べられたっぽい?」
「食べられますよっ失礼な」
「あ、ピーマンと茄子と玉ねぎは用意してないでち」
「え、マジです?」
「うん。ゴーヤが野菜嫌いだから」
「皆さーん……」
ブラインドの奥から何度目かの声が聞こえる。
雪風は極力普段の調子を装って応えた。
「どうなさいました?」
「あの……お願いがあるんです」
「おや?」
「えっと……お手数なんですが私のバック、取っていただいていいですか」
雪風が視線を巡らせると羽黒の私物が目に入る。
何となく嫌な予感がした。
羽黒はすでに雪風が用意した水着を見たはずだ。
大変困っていることだろう。
最初から何も考えずに紐を着てくれるとは思えない。
だから第一声は別の水着を用意していないか聞いてくると思っていたのだが……
「……あ!?」
雪風はバッグに駆け寄り、持ち主の許可も求めず開け放つ。
有った。
認めたく無かったものが、其処にあってはならないものが。
雪風は憎しみを込めたまなざしで羽黒が求めているであろうものをつかみ取る。
それはフレアタイプの黒ビキニ。
「島風ぇ! 話が違うじゃないですかっ」
「いや! 私が羽黒と話した時点じゃ、水着とか持ってないって……」
「あぁ、やっぱり雪風ちゃんの悪戯でしたか」
穏やかな声色に背筋を凍らせる雪島コンビ。
掛けられた声に振り向くと、カーテンから顔だけ出している羽黒の姿。
その表情は優し気な苦笑が浮かんでいる。
悪ガキ共のちょっとした悪戯に困ったような顔だった。
しかしその実態として、羽黒は少しも困っていない。
雪風は羽黒の水着を持ってはいるが、羽黒はおそらく服を脱いでもいないだろう。
この水着を処分してしまえば羽黒は普通にそのまま出てくる。
詰み……か?
黒のフレアで妥協するべきなのか?
雪風は奥歯を噛み締めて思考を巡らせる。
羽黒のスタイルならばきっと、どんな水着でも似合うだろう。
黒のビキニだって羽黒が選んだとするなら露出が多い方で……
逃げの思考を進めるうちに、ある可能性に行きつく雪風。
表情と色を失った顔で力なく羽黒に問いかけた。
「もしかしてこの水着……足柄さんが選びました?」
「うん。夏なんだから海に行く予定はなくとも、季節ものの買い物はしっかりやっとけって。今回は自分のついでよって……」
「イケメンめっ……余計な事をっ」
憎しみと共に吐き捨てた雪風。
必死に時間を捻出して来た海水浴。
その最大の目的が、足柄の善意で挫かれようとしている。
こんな理不尽があっていいのだろうか。
事前に何の説明もなく紐水着を着せられそうになった羽黒の方が理不尽だろうが、雪風は見ないふりをした。
「あの、満足したら私の水着……渡していただけますか?」
「……ゆっきー、潮時じゃね?」
「天使には神の加護がついてるっぽい」
「これだけされて怒らないとかもう女神様ご本人でち」
外野が何か言っているが雪風の耳は理解を拒んだ。
その瞳に薄っすらと浮かんだ涙が劣勢を告げている。
小さな駆逐艦が背負うにはあまりにも重い悲しみが、雪風の双肩にのしかかった。
雪風の表情から覇気が抜け、敗北の空虚に支配されていく。
その様をしっかりと見てしまった羽黒。
今すぐ駆け寄ってその涙を止めてやりたい。
しかしその為には雪風が用意した紐水着を着なければならないのだ。
手元の水着に視線を落とし、半瞬で無理だと悟る。
羽黒はこの場にいない戦艦の顔を思い出した。
自分以上に雪風に依存し、おっかなびっくりながらも必死に縋っている彼女であればこの水着も着れるのだろうか。
「着るんだろうなぁ……ん?」
羽黒の耳に異音が届く。
見れば雪風がその場に崩れ落ちていた。
土下座である。
「羽黒さん!」
「はい?」
「お願いします羽黒さん! その水着着てくださいっ」
「は!?」
小賢しい戦術が崩壊した今、頼れるのはごり押しのみ。
もともと雪風は羽黒に対して最後は強引に頼み込むつもりではあった。
惚れた弱みは相手にある。
その水着しかない状況で押し込めばおそらく勝てたと思うのだ。
計画に変更はないと心で唱えた雪風は、ひたすら地面に額を付ける。
正直、此処まで情けない自分を想定していたわけではなかったが。
「あの……雪風ちゃん、この水着はちょっと……私には派手かなって」
「お願いします羽黒さんっ、雪風を助けると思って」
「えぇ?」
泣いていた子が土下座までして頼んでくる。
其れだけで羽黒の中に迷いが浮かんだ。
人の好い羽黒は自分に出来る事なら叶えてやりたい気が起きてしまう。
しかし手にした水着をもう一度見ればそんな善意も怖気づく。
だが、それでも……
それでも、この雪風が望むのであれば……
「あの……せめて二人の時になりませんか?」
羽黒にとって究極まで譲歩した提案であった。
それを聞いた雪風は瞳に涙を浮かべたまま土下座から顔だけ上げる。
両者の視線が再び絡む。
「羽黒さん……どうか、どうかお考えください。羽黒さんのような天使……いえ、女神が初めての海水浴で身にまとう水着……その水着がスリングショットである可能性が、いったいどれ程あるでしょうか?」
「……それほどには無いと思うんですが」
「その通りです。この世界に何隻の妙高型四番艦が存在しているかは存じませんが、羽黒さんでしたらそんな水着を選ぶ方は皆無でしょう。だからこそ! だからこそ雪風は思うのです。あの羽黒さんがスリングショットなんか着てくれて、それを間近で鑑賞できる……そんな至福を味わう者とは、前世においてどれだけの徳を積んだんだろうって」
「え、え……っと、徳ですか?」
「そう、徳です。人間であれば前世の記憶なんてありませんからわからない事です。しかし雪風達は違います。前世が、自分たちが艦として駆け抜けた生涯が、艦娘にはあるんです」
話を大げさにしながら論点を都合のいい方向にもっていく、間違いなく詐欺の論法。
しかし雪風の眼差しは奇妙なまでに純粋であり騙そうとしていると感じない。
あるいはそれが罠なのかもしれないが、羽黒は別の意味を感じていた。
雪風は今、本気で何かと戦っている。
陽炎型八番艦。
奇跡の駆逐艦。
その生涯にどれだけの価値を付けるのか、雪風は自分が女神と呼ぶ存在に問いかけているのだ。
「嗚呼、お願いでございます羽黒さん。雪風の、二九年が間違いでなかったって証明が欲しいんです。羽黒さんがその水着を着てくれるなら、それを見ることが出来たなら、雪風はその生涯を肯定してやれると思うんです。お願いします。どうか、どうかお願いします羽黒さん。遠い異国で、嵐の中ひっそりと沈んだ小舟を憐れとおぼしめしくださり、どうかその生涯を祝福してやってはいただけないでしょうかっ」
羽黒は再び手の中の水着を見た。
自分がこれを着る事は雪風にとって其処まで重い意味を持つのだろうか。
こんな方向の願いである。
通るかどうかは別として、実行できるのは一度きりだろう。
助けを求める心地で仲間に視線を送る羽黒。
島風達は雪風の土下座を見つめていたが、すぐに羽黒の視線に気づく。
島風と夕立はお互いに顔を見合わせた。
その内心でどれ程の葛藤があったか羽黒にはわからない。
しかし仲間達は気まずそうにしながらも羽黒の求める答えはくれなかった。
「あのさ羽黒……言いたい事はあると思うんだけど、そいつ頑張ったとは思うのよ……昔もだけど、今もさぁ。頑張ってると思うのよ」
「ごめんなさい羽黒さん。雪ちゃんのお願い、叶えてあげてほしいっぽい」
やはり僚艦への根回しは済んでいた。
半ば予想していた羽黒と、島風達に驚愕の眼差しを向けるゴーヤ。
逃げ道は無く、味方もいない。
羽黒はゆっくりと息を吸い込み、やはりゆっくりと吐き出した。
それは弱気を決意で塗り替えるための儀式。
羽黒にとってこの水着を着る事は、五倍の敵を相手に行う撤退戦よりも硬い覚悟が必要だった。
「……条件があるんですけど、いいですか」
「なんでも。終わった後雪風の首をご所望でしたら差し上げます」
「首は結構です。その代わり……この事は南国の夢に、私達だけの秘密にすること。電子媒体等に残る行為は一切を拒否させてもらいます。皆さんの記憶の中だけ、そして水底まで口外しないと約束してくれますか?」
「もちろんです。違約に対する罰則を定めてください」
「口約束で、いいですよ」
「お約束しますっ」
雪風の返答に頷いた羽黒は、残った僚艦達にも視線を送る。
「約束するっぽい」
「誓う」
「まぁ……それでいいなら止めないでち」
僚艦の言質を取った羽黒はブラインドの中に引っ込んだ。
雪風が用意したスリングショットは黒。
ボトムが存在しているのは製作者の情けだろう。
しかし左右の腸骨部には銀のリングが仕込まれ、其処から長い紐が伸びていた。
認めたくは無かったが、この紐がトップなのだろう。
紐の幅は三センチ程。
唯の紐ではなく袋状に縫い込まれているようで、中には柔らかい生地が仕込まれていた。
着心地を良くするためか、はたまた透けないためか。
「所々手心を感じるのは罠、なのかなぁ」
同封された説明書を読む。
どうやら背中で一度交差させるとずれ難くなるらしい。
そして右肩から通した紐で左胸、左肩から通した紐で右胸をフォローする。
そのまま左右の脇を通した紐を再び腸骨のリングに通して固定するようだ。
「……身体を縛られているみたいです」
こんな水着をある程度でも固定しようとすればきつめに巻いていくしかない。
自然と紐は羽黒の身体を小さく押し込む事になる。
「これは夢これは夢これは夢これは夢これは夢これは……」
自身に暗示をかけながら水着に着替える羽黒。
慣れない衣装にやや時間を食ったものの、無事に着付けは完成した。
羞恥心からどうしても猫背になるのは如何ともしがたい。
しかし雪風の主張を頭から信じるなら、自分は彼女の生を肯定してやれるのだ。
その想いだけが今の羽黒を支えている。
「お待たせしました」
引き延ばすことなくブラインドから出る羽黒。
僚艦達の視線が、惜しげもなくさらされた羽黒の身体に突き刺さる。
しかし羽黒が見つめ返すのは雪風のみ。
雪風は羽黒と目を合わせながらもその全身を堪能する。
「お綺麗です羽黒さん」
「……ありがとうございます」
雪風は既に土下座から立ち上がっていたが、再び両膝を地につける。
そして胸の前で手を組み、言った。
「もう、思い残すことはありません」
「……は?」
祈りを捧げる姿勢から儚げな笑みを浮かべた雪風。
その口の端から一筋の赤が零れ落ちる。
「雪風ちゃん!?」
「おい! こいつ舌噛んでる!?」
「え……うわマジっぽい!」
神に祈りが届いたとき人はどのような対価をさしだすか。
躊躇なく命を捧げることを決めた雪風は、やり切った笑みを浮かべて落ちた。
§
「なんで、なんで介錯してくれなかったんですか。なぜ雪風をあのまま逝かせてくれなかった!?」
「まぁ落ち着きなよゆっきー」
「まず羽黒さんに謝るっぽい」
時刻は夜半。
遊び呆けた島風達も、既にキャンプ地に戻っていた。
彼女らが気絶した雪風を放り出した理由は至極簡単。
艦娘は舌を噛み切ったくらいで死にはしない。
それでも起き抜けにまた自殺されると困るので羽黒がずっと付き添ってはいた。
「雪風は幸せだったんです。世界で一番美しいものを見たんです。その光景を瞼に焼き付け、最後の記憶に出来る事のなんと幸せな事かっ。で、満足して逝けたと思ったら今度は目の前にトランプしてるお前らですよ! 謝って! 雪風の綺麗な記憶を汚したんだから、謝って!」
「知るか」
掴みかかってくる雪風の手を払いのけた島風。
面倒臭げに夕立と視線を交わせば、足元の工具箱を目で指してきた。
まだ錯乱しているようならもう一度叩いて寝かすという意味か。
有力な選択肢だと納得した島風だが、もう少し様子を見ようと雪風を宥めた。
「そんなに怒んなって。とりあえず羽黒が負い目感じる死に方はしちゃだめでしょ」
「むぅ……そうですね。確かに少し焦ったかもしれません。所で、羽黒さんとゴーヤは?」
「羽黒さんはシャワーで、ゴーヤは水を取りに行ったっぽい」
「羽黒はずっとあんたを看てたんだからお礼言いなよ」
「ん、了解です」
雪風は口内に響く鈍い痛みに眉をしかめる。
口元を手で押さえた雪風に島風は水を差し出した。
口をすすいで吐き出した水はまだ赤い。
相当深く噛んだのだからしばらくこんな調子だろう。
「はぁ、勿体ない。あの最高の瞬間を逃して、今後の艦生だらだら生きる事の苦痛たるや如何ばかりか……」
「まぁ、あんたが態と考えないようにしているだろう点については突っ込まないでやるけど……一個だけ答えな」
「なんですかな島の字や」
「……あんたは、もしかして何時もあんなふうに良い所で死にたいとか考えてる?」
「んー……」
相棒の問いに小首を傾げ、やや真剣に自分の内を探る雪風。
島風が流してくれた態と考えていない部分。
それは自分がいなくなった時の司令官の事であり、大和や羽黒の事である。
特に大和は雪風が逝く時は自分も沈むと明言していた。
島風にそんなことは伝えていないが、何かしら共通する匂いをかぎ取ったのかもしれない。
「何時もそんな事考えてるってわけじゃないんですけど……島風にもありません? すっごい幸せ! って時にその瞬間を切り取って、自分の中で永遠にしたいって」
「言ってる事は分かるんだけど、自分にはそういう衝動が来た事は無いなぁ」
「むぅ。夕立はどうです?」
「あたしも今の所、ないっぽい?」
僚艦に否定された雪風は一人頷いて考え込んだ。
「あれかな、憧れてるのかもしれません」
「憧れとな」
「ええ。雪風はほら……一人だけ残っちゃった上にいつまでも死に損なっちゃいましたので、一番いい時! っていうのを感じたら思わず飛び込んでしまうのかも」
「ふむ。雪の字や」
「はいな?」
「ばんざーい」
「ばんざーい?」
「歯ぁ食いしばってー」
「んぐ」
「てい」
「ぐふぉっ」
途中から予想はしていたが、案の定腰の入ったボディが打ち込まれる。
きっちり腹筋は絞めていたが痛いものは痛い。
しかし雪風の顔に浮かんだのは苦痛よりも苦笑である。
突発的な自殺願望の抜けた今なら心情的にも島風の憤りは正しいと思うのだ。
分かった上で、偶に衝動が勝って馬鹿なことをしてしまうだけで。
「この阿保がっ」
「悪かったって。ほら、朝二人にお墓とか作ってもらったじゃないですか。あれ見てちょっと感傷的になっていたのかもしれませんね」
「幸せになると死にたくなるとか本当に面倒臭いっぽいー」
「何事も程ほどが良いという事ですね!」
「たぶんそれとは違うっぽい」
雪風は肩を竦め、島風は処置無しとばかりに息を吐く。
夕立は半眼で呆れているが、それぞれの目には理解の色もあった。
艦娘の、特に駆逐艦の中には刹那的な思考をするものが少なくない。
数が多く、出撃回数が多く、損耗率が最も高いのが駆逐艦娘である。
捨て鉢になっているわけではないが、せめて自分が納得出来る終わり方をしたいとは思うのだ。
「ところで、お前ら今まで何してたんです?」
「んーと、とりあえず雪ちゃん寝かせてから浜辺でバレーとかしたっぽい」
「夕刻からバーベキューして、さっきまで花火してたわよ」
しっかりと楽しんでいたらしい仲間達の様子に微笑する雪風。
しかし会話の中に出てきた一つのワードに眉を寄せた。
「あの、花火ってどこでやりました?」
「そりゃ浜辺に決まってるじゃない」
「キャンプ地でやったら危ないっぽい。水も節約出来るし」
「いや、それはそうなんですけど……って危ない? 手持ち花火ですよね?」
「打ち上げに決まってるじゃん」
「決まってるじゃんって……それ凄い目立ったんじゃないですか?」
「……あ」
「あ、じゃないでしょう!? おまっ! 浜辺で打ち上げ花火とか相当遠くから見えますよねぇ! むしろ照明弾じゃないですかっ」
「んー……頭倦んでたっぽい?」
「暑いからねー。仕方ないわよ」
「あんたら……これは相当数の深海棲艦の注意を引いた可能性ありますよね」
あまりにも迂闊な僚艦達に目眩を覚える雪風である。
羽黒が何も言わなかったのが不思議な程だが、おそらく自分に付きっ切りだったであろうから文句も言えない。
「雪ちゃん雪ちゃん」
「ん? なんですかぽいぬちゃん」
「これからも、ちゃーんと夕立の面倒をみるっぽい」
「そうそう。あんたはあたしらの後始末っていう大事な仕事があるんだから、しっかりやってよね」
「お、おぅ?」
これからも良いように使われるらしいと悟った雪風は頬を引きつらせて頷いた。
兎に角その場で対策を協議し、夜明けとともに引き払う事にする。
「それじゃゴーヤが来たら伝えといてくださいね」
「どこ行くの?」
「ん? 汗流してこようかなーって」
ひらひらと手を振りながら移動しようとする雪風。
島風は何気なく渡された白のパレオを受け取りながら道を譲る。
しかしその正面に夕立が立ちふさがり、瞳を深紅に染めて威嚇した。
「雪ちゃん何処行くっぽい?」
「汗流しに行くって言ったでしょうに」
「聞いたけど、あたしも言った。シャワーは羽黒さんが使ってるって」
「あ!」
夕立の言葉に島風が反応する。
雪風が何処へ何をしに行くのか察した島風は、受け取ったパレオを横に放って身構えた。
「夕立ぃ……雪風は勘の良い駆逐艦が嫌いなんですよぅ」
「雪ちゃんほんと……時雨姉に似てきたっぽい」
「ゆっきーよぅ、これ以上は流石に欲が深いってもんでしょ」
前門の夕立。
後門の島風。
この二隻を振り切って無傷で羽黒の居る簡易シャワー所まで行くのは難しい。
雪風は息を吐き、降参とばかりに両手を上げた。
そのまま二隻に左右の腕を取られた雪風は明りのそばまで連行された。
しばし拘束されていた雪風の耳に足音が聞こえてくる。
振り向けば雪風がその供物として命まで捧げようとした女神があった。
「あ、雪風ちゃん……もう大丈夫なんですか?」
「羽黒さん、ご迷惑をおかけしてしまいました」
「迷惑なんて……でも心配したんですよ」
満面の笑みでそう言った羽黒は、まだ雪風の用意した水着を着てくれていた。
その肢体に見惚れすぎていたのだろう。
雪風は羽黒の手が届く距離まで彼女の異変に気付かなかった。
「雪風ちゃん、愛してます」
「……は?」
脈絡のない……
少なくとも雪風にとっては予想もしない言葉だった。
違和感を感じて今一度羽黒を見れば、先ほどと変わらぬ満面の笑み。
雪風はこの時、背筋が凍る想いを味わった。
「あ……あぁ……」
雪風の仲間に加賀がいる。
かつて悪徳鎮守府で使い捨てられる僚艦達に心を痛めた彼女は、駆逐艦の顔を覚えられない病に苦しんでいる。
そんな彼女と付き合っていくため、雪風は鏡に向かって表情を作る練習をしたものだ。
今の羽黒はその練習の中で雪風が恐怖を覚えた顔をしている。
それは瞳に鬼気を秘めながら口元で笑む狂相だった。
「ね? 雪風ちゃん」
羽黒は心配したと言っていた。
それは間違いない事実だろう。
しかし雪風の知る羽黒ならこの場面で笑うまい。
ならば今の羽黒は雪風も知らない一面を見せている事になる。
雪風はこの状況で見たことが無い羽黒の感情に思い当たる節がある。
すなわち、激怒。
「あの……羽黒さんって艦娘としては雪風と同い年だと思うんですけど、もう愛などという高度な欲求に目覚めたんですか?」
「またまた……雪風ちゃんが言ったんですよ? この後自分の愛を証明してみせるって。私、ちょっとびっくりしちゃいましたけど、嬉しかったんです……そう、嬉しかったんですよ」
「あ、あははっははっはははははっ」
雪風の両手が羽黒の両手に包まれる。
助けを求めて周りを見れば、疾く避難した僚艦達の姿。
雪風の拘束を解いた島風と夕立は遠くで抱き合ったまま震えていた。
「あんなに刺激的な愛を見せていただいたら、私も頑張ってお応えするしかないじゃないですか? 私としては、雪風ちゃんのソレを愛だと認めたくありませんけれど」
「と、咄嗟に、つい出来心でうっかり噛んじゃったんですだから羽黒さんゆるし――っ!?」
「んっ」
言い訳ばかりべらべらと紡ぐ口を羽黒もソレで黙らせる。
それは羽黒の宣言通り、愛情を証明する行為の一つであったろう。
雪風は唇を通じて脳内に湧き上がる多幸感で泣きそうになった。
しかし次の瞬間滑り込んできた舌の感触が幸せを激痛に塗り替える。
「んぐぅ!?」
容赦なく口内をまさぐる舌は当然雪風の傷にも触れる。
そして雪風が最も痛がる場所を見つけた羽黒は、情け容赦なくそこを攻めた。
反射的に羽黒を突き放そうとする雪風。
しかし身長も体重も膂力も劣る駆逐艦が、力で重巡洋艦に勝てる道理がない。
まして羽黒は雪風の反応を予想していたために不意打ちも出来なかった。
刹那の幸福は一秒の痛みに変わり、一秒の痛みは十秒の苦悶に取って代わる。
自分が羽黒の逆鱗に触れた事を身体と心で思い知った雪風は一切の抵抗を放棄した。
体感にしてあまりにも長い六十秒。
いつの間にか遠くなった痛みが接吻の終わりを告げていた。
涙でにじんだ視界の中で恐る恐る羽黒を見れば、いつもの困ったような表情に戻った彼女がいる。
羽黒は雪風の目をじっと見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「もう、これからは……自分で自分を傷つける事だけはしないでくださいね?」
「いっふぁい反省ひまひふぁ」
「はい、信じます」
羽黒が浮かべた何時もの笑みに心底安堵した雪風である。
その時やっと夕立と島風も戻ってきた。
自分を見捨てて逃げた仲間たちに恨みがましい視線を向けるが、自業自得と一蹴される。
「ほれ」
「あい」
島風は自分が放り出したパレオを拾って雪風に手渡した。
まだ舌が痛む雪風が片言で受け取った時、もう一人の仲間が帰ってきた。
「お、起きたでち?」
「ご心配をおかけしました」
「中途半端にするから苦しむんだよ。後でさっぱり逝けるやり方教えてやるでち」
間違いなく本気で言っているゴーヤに眉をしかめる羽黒。
しかしこの潜水艦の素性を知っているだけに反論は飲み込んだ。
「おうでちこう。浜で花火やらかしたって?」
「なかなか見ごたえあったでち」
「敵さんからも、さぞよく見えたんじゃないですかねぇ」
「そうっぽいでち。さっきも軽巡と駆逐沈めてきたし」
「む……もう動いていましたか」
雪風の想定より相手の包囲が早いかもしれない。
朝駆けを夜逃げに切り替えた雪風はその旨を仲間に告げた。
着の身着のままキャンプ地を放棄し、私物を貨物船に放り込んで海に繰り出す第二艦隊。
出港から夜明けまでに二度遭遇した敵を闇討ちで沈め、悠々と帰路についたのだ。
「……雪風ちゃんお願いします。鎮守府に帰る前に何処かで着替えさせてください」
「身内以外に見せないっていうのは契約の内ですからね。もちろん途中で着替えていただきますよ」
「ありがとうございます」
仕方がないとはいえ、水着に艤装という変則スタイルの航海である。
帰り道でよその艦娘に遭遇しなかったのは本当に僥倖であった。
なお、遭遇した深海棲艦は一隻も逃さず沈めている。
その為に帰港が二日遅れたが、海水浴が二日短縮されているので予定の通りではあった。
軽巡以下の艦は駆逐艦トリオとゴーヤが囲み、それ以上の艦は羽黒が撃つ。
明らかに巡洋艦の域を超えた火力に慄いた雪風達だが、これで羽黒の秘密は守られた……筈だった。
事態が急変したのは第二艦隊が鎮守府にたどり着いた二日後の事。
敵勢討伐の遠征に出ていた大和達第一艦隊が帰投した。
そして翌日……
雪風は足柄に拉致され、なぜか大和の私室に連れ込まれたのである。
ご丁寧に両手両足を縛り上げられ、胴体も布で巻かれて天井の梁から吊るされた雪風。
手際よくこれらの処置を施した足柄は人懐っこい笑みで事態を飲み込めない雪風に声をかけた。
「はぁーい雪風ちゃーん」
「なっ、なんなんですか足柄さん! ご帰還早々この狼藉……ご乱心なさいましたか」
「乱心したのはそっちじゃなくて? ……あんた人の妹に素敵な水着着せてくれたみたいねぇ」
「……え?」
なんでばれた?
一番可能性が高い所は裏切りか。
雪風は可能性を脳内で吟味する。
島風と夕立は早々に容疑者から外していい。
あいつらが羽黒との約定を違える可能性はほとんどない。
するとゴーヤか。
雪風は面倒臭げに息を吐きつつ足柄を半眼で睨み返す。
「何の証拠があってそのような濡れ衣を――」
「あの子の日焼け痕見れば一発でしょうよ」
「あ、そっち!?」
「うん。私遠征で中破しちゃってさー。羽黒もメンテがてら入渠に付き合ってくれたのよね。そしたらまぁ……何あの日焼け? 羽黒も妙にツヤツヤしながら唇指でなぞったりして女の顔とかしてるしさひと夏の経験が妹を大人にしてしまったの? っていうかあんたほんと羽黒になんて格好させてるのバカなの死ぬの?」
あれだけ秘密と言った本人からまさかの漏えいが発覚した。
最早足柄を口で説得することは、少なくとも雪風には無理だろう。
全く期待はしていないが、雪風は部屋の主に視線を向ける。
大和は部屋の隅っこで三角座りし、壁に向かって独り言をつぶやいている。
「羽黒さんに先越されたずるいだってあれ完全に抜け駆けで皆してバカンスとかすごくズルいやっぱり職場が違うって不利過ぎて羽黒さんだってもう少し奥手だと思って雪風から水着貰ったって私はそんなの貰ってない羽黒さんずるいな妬ましいな裏切者裏切者裏切者……」
「……なんでアレに教えちゃったんです?」
「羽黒が自分で言ったみたいよ……あんたの事で情報交換してるみたいなのよね」
「あぁ、成程」
「たぶん、大和ちゃんにだけは最初から話す心算だったみたいで……だから事情知ってて部屋が広くて防音効いてるこの部屋に連れ込んだわけよ」
「納得しました。さぁ殺せ」
「言い訳しないの?」
「雪風は幸せだったのです。羽黒さんの水着によって祝福された雪風の生涯に一片の悔いもありません」
「良い覚悟だわ。ま、合意の上だったみたいだしケツピン一発でチャラにしてあげましょう」
「……よろしいので?」
「ええ。するのは私じゃないけどね」
足柄はそう言って笑うとカビが生えそうな雰囲気の大和を引きずってきた。
木材と糸鋸で作ったらしいお手製の警策は、太さも長さも明らかに長身の大和用に見える。
世界最強の戦艦のフルスイングを臀部で受ける。
雪風の頬に冷たい汗が滴った。
「ほら大和ちゃん、其処の浮気者に一発くれてやりなさいな」
「……いいの?」
虚ろだった大和の瞳に光が宿る。
これは足柄による雪風への制裁ではなく、妹にへこまされた大和へのフォローらしい。
そうと気づいてしまえば雪風には甘んじて受ける以外の選択肢がない。
むしろ大和に気をまわしてくれた事を感謝する必要すらあるだろう。
「いいのいいの。言質は取ったしこれで恨み言ぬかす様なら私が改めてしばいてあげる」
「あ、そう持って来ますか……」
「雪風ちゃん、お返事は?」
「うぇーいお仕置きサイコーデース」
半ば自棄になった雪風が片言で受け入れる。
傍らで大和が警策の握りを確かめ、素振りをしていた。
空を切る木製の長物は次第に速度を増していく。
徐々に顔色が悪くなる雪風。
初めは笑っていた足柄も、大和が数メートル先の壁掛けカレンダーを剣風で切るに至って青くなった。
「ん、こんなところかな」
「大和ちゃん、あの……ちょっと加減してあげないと雪風ちゃんの日常生活に支障が……」
「あ?」
「何でもありません!」
「このヘタレ狼もう少し粘ってくださいよなに日寄ってますか!」
「だってさっきの見て割り込もうなんて普通無理だってわかるでしょ!?」
言い合う雪風と足柄をよそに大和が所定の位置に着く。
吊るされた雪風の後方半歩後ろ。
其れだけで二人は口を閉じた。
雪風が首を捻って振り向けば、瞳を閉じた大和の姿。
両手に握った警策を構えた彼女は相変わらず美しかった。
一つ息を吐いて覚悟を決める。
「ねぇ雪風」
「はい、大和さん」
「これは大和の八つ当たりです。大変口惜しい事ですが、現時点で遅れを取った事を認めざるを得ません」
「はぁ……」
「ごめんなさい雪風。こんな形で貴女にぶつけるのは理不尽だと思います。貴女は最初からこうなる事を告白して、大和はそれを受け入れました。本当に、これは――」
「大和さん」
「はい?」
「雪風が沈みそうになった時、アレに比べればまだましだって踏ん張れるような一発をお願いしますね!」
「…………はい! それじゃ雪風」
「ん」
前を向き、瞳を閉じた雪風。
視覚を閉ざした分鋭敏になった聴覚に大和の叫びが刻まれた。
「こんのぉ……浮気者があぁああああああああああああっ」
この怒声とその裏で響いた悲鳴は、部屋の防音壁に阻まれて当事者以外に聞くものはなかった。
居合わせた足柄も硬く口を閉ざしたため、雪風が数か月に渡って椅子に座れなくなった理由を、仲間達は互いに推測するしかなかったのである。
§
――雪風の業務日誌
しょじじょうによりふつうのいすにすわれなくなりました
いちばんいいたいあつぶんさんざぶとんかってください
あとべっどもすごいやわらかいのに、できればくうきとかみずでぷよぷよしてるのおねがいします
しれぇのけんげんでけいひでおとしてくれるとたすかります
ごけんとうくださいね!
あぁ、おしりいたいです
――提督評価
痔でも患ったんですか貴女は……?
うちはたぶん規則は緩い方ですが、私の権限はそのゆるい規則でも守らせるためにあります。
なので購入伝票に上げるにしても私物扱いになるでしょう。
来月分から天引しておきますね。
それにしても最近介護用品の需要が高まっているんですかねぇ。
大和さんもこの間撥水シーツ発注していたんですよ。
誰かの介護でも始めるつもりなんでしょうか。
まぁ、お給料の中で買う分には発注に回しても自分で揃えてくれても構わないんですけどね。
とりあえず、遠征お疲れ様でした。
ゆっくり休んでくださいね。
後書き
大変大変遅くなりましたが後編をお届けいたします。
ほぼ一年近く放置してましたね……申し訳ありません。
書きかけのSSはいろいろあるんですが、完成させる気力がなかなかたまらずこの体たらくにございます。
次は何かな……とりあえず前編で名前だけでた大鯨さんとやさぐれゴーヤの話は書きたいなと思ってます。
近況としましては、春イベ全甲クリアの後燃え尽きてました。
掘りも出来ないくらい真っ白になりました。
E-7ほんとつらかった……
夏はどうなるんですかねぇ。
例年通り大規模なのが来たら今度こそあかんかもしれん。