月も眠ったのではないかと思うほど夜が更けた頃、ルーナは隙間風のようなものを感じて目を覚ました。
狭いソファの上で寝たせいか、体の節々が痛い。ストレッチをしながら窓を見ると、部屋の外は未だ宵闇に包まれていた。
もう一眠りしようかと思ったルーナは、何気なくパティの眠るベッドに目を向けて険しい表情をした。
もぬけの殻となっているベッドを飛び越え、窓から外を見るとまさに遥か彼方の道路の先へと、砂粒のようなパティの姿が消えていくところだった。
ルーナは躊躇うことなく魔力でムラマサを呼び寄せ、窓を開けて外へと飛び出した。
ダンテやクラリスを起こしている暇はない。ただでさえ幼いルーナは大柄なダンテを揺すって起こすのが苦手だった。
人々が眠りについた街は、不気味なくらいの静寂に包まれている。ルーナは今まさに夜に消えていこうとするパティの金髪を必死に追いかけた。 悪魔の血のおかげで彼女の後を追いかけるのは造作もないこと、のはずだった。
「悪魔の私が、人間に追いつかない……?!」
『貴様の足は人間の小娘よりもずっと早いはずだ。さて、貴様に分かるかな? この謎が』
「意地悪ムラマサは黙ってて!」
ムラマサはルーナよりもずっと年上であり、そのためか悪魔への知識も相当なものであるとはここ数年の付き合いで知ってはいたものの、彼に尋ねてまともに答えが返ってきたことは皆無に等しかった。
それは父を討った後も変わらない。そもそも彼を殺めたのは半ば以上にムラマサの力であった。結果としてムラマサはルーナを主と認めたわけでもなく、今まで同様ルーナをからかうようなことばかり言って楽しんでいるようだった。
「ムラマサがわざわざ言うってことは、私の足が遅くなっているとかじゃない……」
どうやらパティは街の中心にある大きな歌劇場へと向かっているようだった。
何故そこに向かうかは分からない。まるで何かに突き動かされるように、初めて訪れる街であるにも関わらず迷うことなくパティは歩みを進めていた。
それを追うルーナは、全速力で走っているはずなのにまるで追いつくことができなかった。辛うじて姿を確認できるのは、ルーナの足の速さが常人の数倍はあるからだろう。
「パパが現れた時、急にダンテと引き離された感じがした。あれと似ている気がする」
ならば、考えられるのは空間を歪ませているか。それとも自分の五感を歪ませるような何かが働いているのか。
ルーナは即断しムラマサの鞘を払った。いっそ乱暴とも言える抜刀の勢いを利用し、空間ごと切断する。剣の斬撃を以て三次元の物体だけでなく空間という概念ごと破壊する一撃。
1年前よりもより強力な一撃は、空間と空間の隙間に潜んでいた悪魔を強引に切り裂いた。
「蛾の悪魔……。こいつらが空間を無限に生み出していたってことかな」
空間の亀裂から何匹も零れ落ちた巨大な蛾のような悪魔を、躊躇うことなく自身の魔力で生み出した何本もの短剣を投げ、穿つ。
まるでピンでとめられた標本のように、悪魔は成す術もなく地面に縫いとめられボロボロに崩れていった。
「ムラマサ、私の回答は正解?」
『時間がかかりすぎだ。40点といったところか』
「相変わらずムラマサは優しくない。っと、いけない。パティを追わないと」
『それよりも、我は貴様があの小娘を追う理由が分からぬ』
ムラマサの言葉に、駆け出しかけていたルーナの足が止まる。
今まで無我夢中で追いかけていたから、そんな基本的なことに気が付くこともできなかった。
『貴様ではパティを守れない。万が一パティが死んだ時、貴様は自分のせいで死なせてしまったと思うのが嫌だと感じて、彼女を拒絶していたのではないか』
それはパティだけではない。どの人間にも言えることだ。ルーナはそう思っていた。
母親を自分の力不足のせいで死なせてしまった、と分かってしまったその日から、ルーナは意識的に、時には無意識で交友関係を狭めていこうとした。
そしてパティもその例に漏れないはずだ。事実今の今まで、ルーナはパティの生き死にを自分の思考の中に留め置くことすらしなかった。
「……今でも、正直パティのことなんか、どうでもいいと思ってる。でも、パティが死んだらダンテは悲しむと思うから。ダンテは人の命を背負える強さを持っているから」
ルーナは漸くパティの後を追いかけて再度走りながら、ムラマサに語りかけた。
「私は、ダンテの悲しむ顔は見たくない」
胸中にある矛盾に見ないフリをしながら、彼女は漸く歌劇場の入り口に辿り着いた。
***
夜の闇に沈む歌劇場は、見た目の華やかさと乖離した不気味さを纏っていた。パティの姿は見えない。視界の悪い建物の中で見失ってしまっては追いつくことが不可能になってしまう。
ルーナはパティがたてる僅かな足音から、彼女のいる方向を把握し足を向けた。漸く彼女の姿を見つけた時は、既に彼女はホールの中へと入ろうとしているところだった。
「……歌?」
誰かが練習をしている、というわけではなさそうだ。いっそやかましくすら感じる高らかなソプラノの歌声は、獲物を招きよせようとする魔性の歌に聞こえた。
躊躇は一瞬だった。パティが消えたホールの中にルーナも飛び込む。スポットライトに照らされて歌うソプラノ歌手、そしてパティは蜜に引き寄せられる蝶のように彼女に向かって一目散に走っていた。
「パティ、待って! その人は――!!」
頭の中で警鐘が鳴り響いている。
家族を一時に失ったあの時のように、嫌な予感が彼女の体を前へ前へと突き出していた。
「お母さん、お母さん!! 会いたかった、お母さん!」
歓喜に声を震わせて少女は母に飛びつく。母は優しく娘を迎え入れ、そこだけ切り取ればまさに感動的なドラマのワンシーンのようだった。
だが、ルーナはその優しい世界に刃をもって踏み入ろうとした。
悪魔に狙われているパティ。そして母を求める娘の前に都合よく現れる母親の姿をしたもの。赤子でも分かりそうな最悪の答えがそこにはあった。
母はそっと娘の頬に手をあて、優しい声で囁く。
「ごめんね、パティ。でも、これからはもう寂しい思いはさせないわ」
喜色を顔中に浮かべパティは面をあげる。そして凍りついた。
その瞳には醜悪なヤギのような悪魔の姿が映っていた。
「だって、あなたはここで死ぬんですもの!」
「パティ、どいて!!」
ショックの余り動き出せないパティを突き飛ばすようにルーナは2人の間に割って入った。
右腕に冷たい何かが通り過ぎたような感覚が伝わる。すぐにそれは灼熱と痛みを以ってルーナの表情を歪ませた。
「ルーナ……お母さん……あたし、あたし……」
「悪魔が……」
母が母でなかったということ、殺されかけたということ、自分を庇って同い年くらいの少女が負傷してしまったということ。それら全てがパティの心の機能を停止させてしまっていた。
唇を震わせ言葉にならない声を繰り返す少女を尻目に、ルーナは左手でムラマサを握った。傷む右手を添えながら、彼女は吠える。
「悪魔が、お母さんのマネをするな!!!」
後ろにいるパティすら竦むような一喝。だが、悪魔はひるむこともなく自らの手についたルーナの血を舐めとっていた。
挑発するようなその所作に苛立ちを覚え、思うがままにムラマサを振るおうとした時、目の前の悪魔の姿がぐにゃりと歪んだ。
「これはこれは、人間の小娘1人仕留めるだけかと思いきや、とんだ極上の獲物じゃないか」
ルーナの目がまるでビー玉のように大きく見開かれた。
悪魔の姿は1人の女性と変じていた。黒い髪に優しそうな顔の、とびきり美しいわけではないが人に安心感を与えるような笑顔を浮かべている女性。
パティはその女性の姿がルーナによく似ていることに気が付いた。
「おかー……さん」
「そうよ。あなたが会いたくて堪らないお母さんよ」
「ルーナ、あいつはルーナのお母さんじゃない! ルーナ!」
パティに呼び掛けられても、ルーナは動揺を隠しきれずにいた。
迂闊に近寄るようなことはしなかったが、それでも体に震えが走っていることは確かだった。
「お母さんはあなたが悪魔の血を引いても、変わらず愛してるわ」
「……嘘だ」
「お母さんがあなたを嫌いになるわけがないじゃない」
「嘘だ!!」
自らの声で震えを押さえつけ、彼女は母の姿をしたそれに斬りかかろうとした。空間切断能力も用いない、直線的な一撃。
防御の素振りも見せない母の姿をした悪魔を真っ二つにしようとしたその時、
「あれは、あなたのせいじゃないわ」
「――!!」
「――ほぉら、隙だらけ」
慈愛に満ちた母の顔が、再び皺だらけの山羊のような悪魔の笑みに変貌する。彼女の背後からまるで影に潜んでいたかのように、細身の巨大な猫のような悪魔がルーナに殺到する。
自らの背後にいるパティを狙う悪魔に向けて、咄嗟にルーナは魔力で生成した短剣を放り投げた。だが、その代償に無防備な背中を自らに襲い掛かる悪魔に晒してしまっていた。
「ルーナ!!」
パティの足下に、背中を切り裂かれて血だらけになったルーナが吹き飛ばされ、転がった。既に意識もないだろう彼女を咄嗟に庇うように抱きかかえ、パティは迫りくる悪魔の群れをにらんだ。
既にそのおぞましい姿を偽ろうともしない、先ほど2人の母の姿を模した悪魔が身の毛のよだつ笑みを浮かべつつ、そんなパティに向けて話しかけた。
「そのガキはあたしたちと同じ悪魔の血が混ざっている。それでもあんたはそいつを助けたいとか思うのかしらぁ?」
「ルーナはあたしを助けようとしてくれた。それだけで助けたい理由なんて十分よ!」
「そうかい、じゃああんたを殺してからそいつをいただくとしようかねぇ!!」
嬌声をあげながら襲い掛かる悪魔らから、ルーナを抱えながら咄嗟にパティが目を瞑ったその時、
「大根役者は引っ込んでな。パティの方が名女優だったぜ」
銃声がホール中に何度も響き渡る。一発の音が反響していつも以上に大きく聞こえるそれが何発もとなれば、まるで音の大爆発だった。
そしてその爆発の中でも確かに聞こえた彼の声に、パティは恐る恐る目を開けた。真っ赤なコートがスポットライトに照らされ、翻っている。
そこに立つ銀髪の男を見て、心の内から湧き出る安心感を隠すこともできず、パティは彼の名を呼んだ。
「ダンテ!!」
「私も忘れてくれるなよ?」
ダンテの後ろから現れたクラリスは、大剣を背に負った姿でからかうように微笑んだ。
「ここから先はR18指定だ。そこの大根役者、劇ってやつがどういうものか、たっぷり教えてやるよ」
ガァン!!と一際音高く銃声が鳴る。天井に吊ってあった緞帳の金具をダンテの銃弾が吹き飛ばしたのだ。
パティとおぞましい悪魔たちの間を隔てるカーテンのように、そしてギロチンのように勢いよく緞帳が落ちる。すかさずクラリスはパティとルーナを抱えて舞台から降ろした。
ダンテはまるでこのオペラの主演のように、悠々と舞台に上がる。既に悪魔たちは緞帳の向こう側で怒りのうめき声をあげ、今にも緞帳を破ろうと暴れていた。
「後は任せるが、構わないか?」
「そっちこそ、ガキ2人の子守は任せたからな」
「じゃあ、悪魔とよろしくやっていてくれ」
クラリスはガンホルダーから銃を抜き、もう1枚の緞帳の金具を撃ちぬいた。まさにその時、ダンテがおろした壁を破って悪魔たちがその姿を見せようとしていた。
だが、パティが彼らを視界に入れる前にクラリスがおろした牧歌的な絵が描かれた壁が、覆い隠していた。それが、おぞましい悪魔を屠る姿を見せまいとする、2人の精一杯の優しさであることはパティも既に気が付いていた。
そして、腕の中に抱えていた少女がゆっくりと上体を起こし始めたことに気付くと、
「まだ寝てなきゃだめよ! そんな大怪我してるんだから!」
「大丈夫……これくらい、すぐ治るから……。私、悪魔なんだし、これくらい平気だよ」
パティの手を払いのけ、ルーナは立ちあがろうとした。しかし傷は塞がっていても流した血が戻っているわけではない。起こしかけた体はすぐに傾き、冷たい床へと倒れ伏しそうになった。
そんな彼女をパティは慌てて抱きとめる。人間1人の重さは同い年ぐらいの少女であっても、パティにとっては十分すぎるほど重たかった。自らも倒れこむようにして何とか支えながら、
「ルーナが悪魔だからって、無理していい理由になんかならないんだから!」
「…………」
まるで母親に叱られた子供のように、ルーナはそれ以上動こうともせずゆっくりと瞳を閉じた。彼女が自らを案じる人間の少女に何を感じたのかは分からない。だが、それは決してルーナにとって悪いものではなかったはずだ。
そう確信しながら、クラリスは先ほど取り出した銃をゆっくりとホールの入口に向けた。
「そこでこそこそと、何をしている!」
彼女の一喝に、ホールの暗闇に紛れて銃をいじっていた小男が跳び上がった。
如何にも小者然とした所作であり、よく見るとそれはパティも知っている顔だった。
「宿屋のおじさん……?」
「店主を装った悪魔だ。気をつけろ」
クラリスの一声でパティの顔が緊張にこわばる。まさか悪魔だと思わず、不用心にも自分の母親について彼に食って掛かるように尋ねたのはつい数時間前のことだ。
あの時もし彼が悪魔だったのなら、自分はとって食われていたのかもしれない。背筋を走る怖気に体を震わせながら、パティはクラリスの後ろから様子を伺った。
「お、おれはお前のことなんざ怖くねぇからな!」
言葉こそ強気なものだったが、どう見ても強がりとしか聞こえないほど声は震えていた。まともに相対するのも一瞬馬鹿らしく思えたが、それでも油断させる演技の可能性を危惧してクラリスは銃口を下げず、引き金を引いた。
ダンテのように百発百中というほどの腕前は持っていないが、狙う先を大体絞ることはできる。
彼女が放った弾丸は、小男の頭上数ミリの壁を穿っていた。情けない悲鳴を漏らす彼に、
「頭に風穴を開けられたくなかったら、失せろ!!」
クラリスの恫喝に気おされるように、彼は転がるように外へと出て行った。クラリスはその様子を見て、ひとまずの脅威は去ったと見て銃を収めてダンテが消えた緞帳の向こうへと目をやった。
ひっきりなしにくぐもって聞こえていた銃声はすっかり静まり、床に染みだした血だまりだけがそこに悪魔がいたという証拠となっている。
緞帳の裏から返り血塗れになって出てきたダンテに、クラリスは目線だけでパティとルーナを示した。
「ごめんなさいダンテ、勝手にいなくなったりして……。あたし、お母さんに呼ばれた気がして、それですっかり騙されちゃって……」
パティは俯いたまま謝罪の言葉を口にしていた。合せる顔がないと思っているのだろうか。護衛を頼んだのに、護衛される側が自ら危地に赴いていては対処のしようがなくなってしまう。
いくら子供といえど、この状況で我儘を口にするほどパティは愚かではなかった。
「……誰だって、親には会いたいもんだ」
「……え?」
暫しの沈黙を挟んで彼が言った言葉に、パティは目を丸くする。
その言葉は眠りにつく前にダンテが口にしていたものだ。恐る恐る顔をあげると、彼は予想に反して怒ってはいなかった。
クラリスも肩を竦めているものの、決して彼女を責めようなどとはしていない。そんな大人2人の態度にパティは目を白黒させた。
「それが悪魔が皮を被っていただけだとしても、親は親だからな」
「でも、あたしのせいでルーナが怪我をしちゃって……」
「……パティのせいじゃない」
今まで意識を失っていたかのように見えたルーナは、パティの腕の中から身を起こして彼女に向き合った。流した血で服は真っ赤に染まっていたが、傷は既に塞がっているようで痛がる素振りは全く見せていない。
それでもやや気怠そうにして、彼女は立ちあがり座り込んでいるパティに言葉を放った。
「私が怪我をしたのは、私のせいだから。パティは全然関係ない。私は……」
息を吸い込み、一呼吸置いて彼女は言う。
「私の傷を、誰かのせいにしたくない」
それがパティを庇うような発言にも聞こえたのか、パティはまだ話しかけようとしたがルーナはパティとの会話を断ち切るようにダンテに声をかけた。
「ごめん、ダンテ。迷惑かけちゃった」
「俺がいつ誰に迷惑をかけられたって? 迷惑をかけられたというなら、あの耳障りなオペラを聞かされたぐらいだな」
「……ダンテは、相変わらずだね」
嬉しそうに、だがどこか申し訳なさそうに笑う彼女の耳に夜明けを告げる小鳥の声が聞こえていた。
パティが母の姿をした悪魔に騙されて悪魔の元にやってきてしまうシーンの辺りです。
今回はダンテよりも先にルーナが介入しましたが、彼女にとってのトラウマが抉られっぱなしで大した活躍はできなかったですね。
彼女が否定した言葉は本当はかけてほしかった言葉だったのか、そんな幻想にすら縋りつけないほど彼女の心は疑心暗鬼によって乱れている状態です。
そしてラストの迷惑をかけた、の部分は初期の出会ったばかりの反復のような感じです。
一応最後まで書き上がっているのですが、もう少し推敲しつつ進めていこうと思っています。