翌朝、朝食も早々に自宅でもある事務所に戻ったルーナを待っていたのは、無人の事務所だった。
「ダンテ……?」
自室にいるのではないか、もしかしたらルーナの部屋に用事があったのではないか。シャワーを浴びているのではないか。空腹に耐えかねて自炊でもしているのではないか。
最後の考えは、もしそんなことがあったら天地がひっくり返るだろうと思いながら、終着点である台所を覗き、しかし無人であることに気が付いてルーナは嘆息した。
「朝からストロベリーサンデーでも食べに行ったのかな」
『貴様もなかなかに言うようになったな』
「だって、ダンテだし」
軽口を叩きながら、彼がいつも座っている椅子と机に目をやる。机の上に伏せられている写真立てに気が付き、ルーナはクラリスがダンテについて聞いた時、嘘をついたことを察する。
何でもないことであるならば、このように写真立てを伏せる必要などないはずだ。わざわざ直視を避けるように伏せられた理由は、ダンテに思う所があったということ。
彼のことは大抵わかったつもりだったが、結局の所自分の倍以上生きてるはずの彼のことを何も分かっていなかったのではないか、と彼女の心を後悔の念が過る。
「(私も出かけようかな)」
そう思い、扉に手をかけた。
折しも通学の最中の裏道にでも使用したのだろうか、同い年ぐらいの少年少女がスクールバッグを振り回しながら通りを駆け抜けて行った。
笑い声、はしゃぐ声、何気ない朝の1ページがルーナにはとても遠いものに見えた。
家族が生きていた頃は、当然彼女も学校に通っていた。だが、全てを失ってからルーナは外に出ることを拒んだ。
「私は……悪魔だから」
人間の女の子の形をしていても、身の内に悪魔を飼っているのなら、それは人の皮を被った化物だ。ダンテやクラリスが、自身のことをどう思っているかは知らない。
ダンテはともかく、クラリスに悪魔である自分を受け入れてもらっていると、ルーナは考えていなかった。
だから彼女が何を言おうと、ルーナの自説が曲がることはなかった。いつ暴走するか分からないような存在が、真っ当な人間たちの間に混ざるなんて、考えただけで寒気がする。
学生たちの行進を目で追い、そしてルーナは外の世界を拒絶するかのように自ら開いた扉を閉ざした。
ふと、昨晩クラリスが言った言葉がよみがえる。
『お前がお前であることに、悪魔の血があるかないかがそんなに関係あることなのか?』
いやいやをするように、少女は何度も首を振った。
自分が自分であることに悪魔の血は、大いに関係あることなのだ。そう思わなければ、もっと大事なものが徹底的に破壊されてしまう気がした。
ルーナはクラリスの言葉を振りほどくように、自室まで一気に走って行った。
勢いに任せて寝床に飛び込む。そしてたまたま視界に飛び込んだ、机に投げ出されたままの筆記具を見つめる。
「一応、これやっておかないと……」
モリソンが、学校に行かないならせめて自発的に学べるようにと持ち込んできてくれたものだ。最近はクラリスがお節介なことに、家庭教師の真似事をしてあれこれ教えようとしている。
ルーナは椅子に座りながら、なるべく自身の姉であった女性のことを考えないように黙々と目の前の問題に取り組むことにした。窓の向こうの空は、朝だというのに鈍色の雲が日差しを遮り夜のように暗くなりつつあった。
まるで、ルーナの気持ちを空が代弁しているかのように。
***
ルーナが戻るよりも前、払暁の頃、ソファで浅い眠りについていたダンテは玄関の扉をノックする音で夢の世界から引きずり出された。
どこか見覚えのある黒髪の少年が登場する夢の余韻に、微かに居心地の悪さを感じながらダンテは扉を開き、そして僅かに目を丸くした。
「よお、ダンテ。こんな早くに起こして悪いな」
「目覚ましなら間に合ってるぜ。モーニングコールなら、せめて美女にしてもらいたいものだ」
「はは、悪かったな。こんなおっさんで」
軽口を叩きながら事務所に入るモリソンの手は、真っ白の包帯に包まれていたことをダンテは見逃さなかった。
帽子を外した彼の頭にも同様の包帯が巻かれており、彼が負傷していることを何よりも雄弁に語っていた。
「何しろこっちは取調べで碌に寝てもいないんでな。まあ、勘弁してくれ」
「バーで泥酔して、転んでけがをしたってわけじゃなさそうだな」
「少し前から通り魔騒ぎが起きていたんだが、俺もその哀れな犠牲者の1人ってわけだ。犯人は真っ黒の服を着ており、闇夜に乗じて刃物で無差別に人を襲う……っていうのが警察の捜査結果だそうだ」
言葉通り、十分な睡眠をとれていないのだろう。気だるげにモリソンはソファに腰かけ、溜息をついた。ダンテは無言で冷蔵庫の中に入れていた珈琲缶を投げ渡す。
それを飲み干して、漸く一息ついたのかモリソンは来た当初よりやや流暢に話し始めた。
「昨晩、ちょっと飲んでから帰ろうとした時に、いきなり屋根から降ってきてな。咄嗟に腕で庇ったし、幸いすぐに助けに入ってくれる奴がいたからどうにかなったが……なあ、ダンテ」
「なんだ」
「あれは、エドガーだったぞ」
ダンテが僅かに目を伏せたのをモリソンは見逃さなかった。
モリソンとダンテの付き合いは長い。彼との交流が始まった頃、ダンテの隣には相棒とも言える1人の慇懃無礼な男がいたことを彼は知っていた。
「ちらりとしか見えなかったが、あの顔は間違いなくエドガーだった。いつからあいつは悪魔の味方になったんだ?」
「さあな、悪いものでも食ったんじゃないのか?」
軽口を叩きながら、ダンテは立てかけてあるギターケースを肩にかけた。それが指し示す意味を知っていて、モリソンは表情を岩のように固くする。
ここに来たのは、嘗ての知人の思いがけない形での再来をダンテに告げるためではあった。そしてダンテが示した答えは彼の行動そのものが表している。
「こんな朝っぱらから、どこに行くんだ?」
それでも、聞かずにはいられなかった。
自ら断崖絶壁に突き落としておきながら、大丈夫かと尋ねる異常者のような気分の悪さがモリソンを襲ったが、問わずにはいられなかった。
「知り合いが来ているなら、挨拶でもしてやろうと思ってな」
「鉛玉と剣の挨拶をか?」
「……家族の不始末だ。俺がケリをつけてくる。悪いが横やりはなしにしてくれ」
非難されているわけでも、まして苛立っているわけでもない。
だが、彼の言葉はあまりにも真剣すぎて、余計なからかいやまぜっかえしを入れる余地すらなかった。
そのまま留守番代わりに置いていかれたモリソンは、自分の額に手をやって溜息をつく。
「まあ、幼馴染って言ってたからな……。だが、あいつがあんな顔をするなんて……」
もし知り合いが悪魔になってしまい、次々に人を襲っているなんて知ったら、彼がどうするか火を見るよりも明らかであった。
モリソンも、それは分かっていたはずだった。失念していたというわけでもない。
だが、内心でダンテに何とかしてもらおうという甘えがあったのではないかとモリスンは自身を叱咤した。
額に手をやった際に傷に触れたのだろうか。ズキリと鈍い痛みが走る。
昨晩はあわや殺されるかという目に遭った。もし行きずりの男性が助けてくれなかったら今頃墓場に入っていたことだろう。
「(しまった、名前ぐらい聞いておくんだったか……)」
助かった安堵で数瞬気を失っていた間に、当の本人は姿を消してしまっていた。
闇夜で顔もよく見えておらず、どこの誰かも分からない。本日二度目の自責の舌打ちをしながら、モリスンはルーナが眠っているであろう事務所から、彼女を起こさないように静かに退散した。
誰もそこにいないとは知らずに。
***
モリソンから話を聞いてすぐ、ダンテは自身を掻き立てる感情に引きずられるように外へと飛び出した。
背中には愛剣を背負い、しかし行き先が定まっていない足は目的地を見失い右往左往を続ける。通ったこともない路地を通り、馴染みのない景色の中を闊歩する。
早朝から碌に休息もとらず、しかしせき立てるような思いが弱まることもなく、彼は終着点のない徘徊を続けていた。
しかし、それにも終わりが訪れる。
「ダンテ」
聞きなれた声に、やや思考そのものもそがれていたダンテは不意に我に返った。そして、事務所から歩いただけにしてはずいぶんと離れた場所に自分がたどり着いていたことに気がついた。
知らない景色ではない。だがなじみのある景色でもない中を、クラリスがこちらへと歩いてきていた。日の光をあびてきらきらと輝くブロンドは、心なしかいつもより乱れているように思う。
「早速見回りか? お前にしては珍しい……」
「俺は週休6日制だ。今日はさしずめ出勤日だな」
「そして明日は休日か。優雅なことだ」
ほぼ休みなしの騎士団業と比べつつ、クラリスは苦笑する。だが不意に表情を引き締め、ダンテの隣に誰かいるかのようにきょろきょろと視線を泳がせた。
「何を探しているんだ?」
「何って……ルーナは今日はいないのか? 今朝家に帰したはずだが」
「……すれ違いになって、今日はまだ顔を見てないな。四六時中一緒にいるとでも思ってたのか?」
「いや……だが、今は1人にしないほうがいいかと思って」
歯切れの悪い言い方にダンテは眉を顰める。
ルーナのことは、正直クラリスに言われるまで頭から吹き飛んでいた。それほどまでに、モリソンがもたらした情報と彼の負傷は自分を動揺させていたのだということに遅まきながら気がつく。
彼女自身が昨晩は家にいなかった、というイレギュラーな事態だったこともあり、今まで家にいるものだと勝手に解釈していたのだろう。
だからといって、ルーナのことを彼女に保護者顔で責められる謂れはないと考えたが、どうやらクラリスの様子を見るとそういうわけでもないようだった。
「彼女の気に障ることを言ってしまったようで、今朝はずいぶんと落ち着かない様子だったんだ。朝食も早々に出て行ってしまって、お前に会って安心しようと思っていたんだろうが……」
「おいおい、俺はルーナの精神安定剤か?」
「お前にとってそうじゃなくても、彼女にとってはそうなんだろう。自覚してないのか? ……確かに、にわかには信じたいがな」
自分の軸を自分ではなく他人に置くという生き方は、ダンテにとって想像もできないほどの別次元の話だった。
ダンテにとってルーナという少女は、保護をする対象では既になかった。
ルーナも年の割りにずっとおとなしく、ダンテの手を焼かせることはあまりない。
年の離れた、少しお節介な同居人程度に考えていたダンテとしてはクラリスが何をそんなに慌てているのか分かりかねていた。
クラリスはパティを孤児院に送り、自らに課せられたボランティアの仕事を律儀に遂行した後、昼過ぎに仕事場である福祉施設を抜け出してルーナの元へ向かっていた。
昨晩のやりとりからして、ルーナが自分に会いたがらないだろうことは容易に想像できたが、それに唯々諾々と従う理由はクラリスにはない。
ダンテと会って少し気分も落ち着いただろうと思っていたクラリスは、思いがけず臨戦態勢の彼に出会って不意打ちをくらった気分だった。
「それで、リベリオンまで持ち出して……こんな昼間から悪魔が出没したのか?」
「今朝、モリソンがたちの悪い通り魔に襲われたとわざわざ言いに来てな、せっつくから出てきただけだ」
無意識にダンテの目が、クラリスからわずかに逸れる。
クラリスは目敏くそれに気がつき、
「嘘をつくな。そうか……奴が出たのか。もしかしたら、私やルーナに用があると思ったが、無差別ならまた話は別だな」
「だが、本来昼はそいつが出る時間じゃない」
ダンテと嘗て刃を交えた同種の影は、暗闇を好んでいた。今朝はもう夕方かと勘違いするほどの曇天ではあるが、日差しはまだ薄っすら出ている。さすがにこの時間帯から徘徊することはあるまい、とまで考えて漸くダンテは自分の中に理性と呼べるものが戻ってきたことに気がつく。
旧知の仲であるエドガーと同じ顔の影の悪魔。
そして、襲われたのはクラリスにルーナ、パティ、モリソンとダンテの知人ばかり。
数年前に同種の事件が起きたことばかりもある。それが最悪と言っていい結末だったこともあり気ばかり焦ってしまっていた。内心今でも焦燥に似た不快な感情を抱いていたが、慌てて行動したところでどうにかなるわけでもない。
踵を返すと、クラリスも後をついてきた。
彼女はルーナのことが気がかりなのか、難しそうな顔でダンテに話しかけることもなく黙々とダンテの背中を追いかけ続けていた。
「(ルーナの何がそんなに気になるんだ?)」
帰るまでの黙々とした道中に耐え切れず、また内心の不愉快な気分を紛らわすためにもダンテもルーナが何をしているか、気にかけてはみるものの大人しく留守番しているだろう、という所で思索が止まってしまう。
ルーナ。
悪魔の父と人間の母を持つ子供。
悪魔の父は自分の目的のためだけにルーナを生み出し、そして自らの魔剣に裏切られてその身を滅ぼした。
出会った頃は悪魔の血が流れる自分に怯えていたが、事務所で暮らすうちにその縮こまった態度もなりを潜めて、すっかり元気になった。
悪魔と戦う力を身につけたいと願い出た時は面食らったものだが、境遇は自分と似ているのだから行き着く思考の終着点が同じでも不思議ではないと納得もした。
人間の子供らしい生活をモリソンに勧められても頑なに断り、それだけは出会ったときから変わらなかった。
「(あと、少し口が悪いってところか。まったく、親の顔が見てみたいもんだな……ん?)」
自分が失言を思考にのぼらせたことに気づくこともなく、ダンテは冷たいものがぽつりと落ちてきたことに気がつく。見上げればいつの間にか日差しは姿を消し、真っ黒な雨雲が空を埋めていた。
ぽつりぽつりと雨が降り出し、気がつけばあっという間に本降りとなって2人を濡れ鼠と変えていった。
「悪いが、少し急がせてくれないか。風邪をひいてしまう」
悪魔の血が混ざっている自分が風邪をひくかはともかく、と付け足して苦笑するクラリス。自身の血の半分が悪魔であることを、こんな風にジョークにできるようになったのもクラリスなりの進歩なのだろう、とダンテは思う。
ぴしゃぴしゃと即席の水溜りをはねさせながら、2人は事務所へと急いだ。
***
「あ、雨だ」
自室の窓から見える外の景色が、夜のように暗くなったことに気がつき、ルーナは計算に勤しむ手を止めた。
洗濯物を取り込まなきゃ、などと主婦じみた思考をしながら階下へと急ぐ。
ダンテのいない1階はひどく閑散としているように思えた。
今までダンテがいない夜をすごしたことだってある。昼間から彼が出かけていて、その留守番をしていたこともある。
なのに、なぜか今日はひどく落ち着かなかった。
クラリスが余計なことを言うからだ。
エドガーのことを伝えなきゃよかった、ダンテはきっと彼の悪行に心を痛めているのだろう。徒然と負の感情を羅列し、ため息がもれる。
勝手口の戸をあけて、洗濯ロープの張ってある一角に干してある衣類やタオルを片付けようとして、しかし、それはかなわなかった。
「(足音……?)」
雨でぬかるんだ石畳を踏む音が、鋭敏な彼女の聴覚を刺激する。
雨音で消えてしまいそうな僅かなそれを、しかし彼女は聞き漏らさない。
まるで首がねじ切れるのではないかと思うぐらいすばやく振り返り、そして見たものは彼女にとって3度目の邂逅となる影の悪魔であった。
体の中で、意識が戦闘へと向かう。
ムラマサは迂闊にも部屋に置いてきてしまっていた。まずは自身の武器である魔剣を得るために意識を集中させる。
閉め切っていた窓を遠慮なくムラマサが内側から破り、ルーナの元へ向かおうとする。
その間、僅か数秒。
だが、その瞬きをするほどの時間が、決定的過ぎた。
「消え――っ!」
消えた、と声を発する間もなく、鳩尾に痛撃が入る。
攻撃の種類としては蹴りになるのだろうが、その威力が一般人のそれとは桁違いだ。
勢いのついた打撃は、剣撃に匹敵するとルーナはその身をもって知ることとなる。
勢いよく吹き飛ばされ、しかし、ルーナも以前父と戦った時と同じ轍は踏まなかった。どうにか受身をとって、路地に強く体を打ちつけるようなことは避ける。
しかし自分の集中が途切れたことで、ムラマサはルーナから遠く離れた所に転がることとなった。
それでも屈することなく、彼女は再度ムラマサを手元に呼び寄せようとする。
目の前の影との実力差はクラリスの様子を見れば一目瞭然だった。ならばせめて武器だけでも持たなければ。悪魔である自分の唯一の力を呼び寄せなければ。
けれども、彼女が体勢を戻そうとした時には、既に影は彼女の目の前にいた。
「(あぁ……私、死ぬのかな)」
小柄なルーナはクラリスと違って切り結びにくいのか、影は剣を取り出す様子もなく再び蹴りを入れた。
剣にも匹敵する鋭さの蹴撃がルーナの首を穿つ。
「――っ!」
喉を潰されてしまったのか、ルーナの口から悲鳴すら漏れることはなかった。
今度こそ姿勢を崩して倒れかけた少女の頭を、まるで釘でも打つかのように無造作に影の足が踏みつける。
上体を起こしかけていたルーナは、勢いよく頭を石畳に打ちつけ、あまりの衝撃に目の前に火花が散るどころか、頭の中が真っ赤に染まるような感覚に襲われた。
「(痛――っ!)」
勢いあまって舌を噛まなかったのは運がよかったとしかいえなかった。頭の内側で光が明滅するような感覚にくらくらしたのも束の間、
「い゛っ!!!」
辛うじて絶叫をあげるのはこらえることができた。
しかし、押さえ切れないうめき声が少女の再生しかかった喉から漏れる。その痛みの元は自らの足から電撃のように走っていた。
剣で足を石畳に縫いつけられたのだろう。ぴくりとでも動かすと激痛が走ることからそう断じる。
反射的に流れた涙が頬を伝うのを感じながらルーナは思う。
「(昼間なのになんで出てきて……それに、こんな悪魔らしくない……)」
悪魔は破壊を本能としているため、破壊の仕方に拘るのは人の言葉を解する悪魔だけだとルーナは思っていた。
たとえば自分の父のように、或いは嘗てパティの母に化けた悪魔のように。人を騙して絶望させることに愉悦を覚える悪魔は概ね人を陥れる罠として言葉を操る。
だが、この影には知性のようなものはないと思っていた。なのに、今自分はこうして生かさず殺さずのまま嬲られている。
思索をめぐらせている刹那の間に、影は事も無げにうつ伏せで縫いとめられているルーナの腹を思い切り蹴飛ばした。肋骨が折れたのか、打撃以上の痛みが伝わる。
あげそうになった悲鳴は、歯を食いしばって抑えた。
砕けた骨も曲がった骨もいつかは勝手に戻る。悪魔の体は便利だが、回復した矢先にまた破壊されては堪らない。
この時ばかりは自身の回復力を呪いながら、ルーナは激痛に耐えた。
反応が薄くなったルーナに飽きたのか、影は無造作に首根っこを掴み彼女を持ち上げ路地に放り捨てた。
路地の壁にぶつかった弾みで、足に刺さったままの影の剣が地面に当たった弾みで彼女の足を更に切り裂き、寒気すら覚える痛みが体中を走る。
視界すらも定まらなくなったが、迫る死神の足音を彼女ははっきりと聞いていた。
路地はルーナの流した血と雨が交じり合い、さながら水の中に赤色の絵の具をぶちまけたようになっていた。
「(わら……ってる)」
目の前に立つ悪魔が、明らかに甚振ることを楽しんでいることに気がついてルーナは恐怖した。
もしこの痛みをずっと繰り返されたのなら、自分は気が狂ってしまうかもしれない。
悪魔であるはずの自分が気が狂うことを恐れていることに気がつき、思わず内心で自嘲する。
もうすでに狂っているようなものである自分が、何故今更そんなことを恐れるのか。
悪魔に首根っこを掴まれ、ルーナは宙吊りにされた。
足に刺された剣が抜かれたのだろうか、悪魔の手には先ほどまで刺さっていた忌々しいそれが握られていた。抜かれた際に痛みを覚えなかったのは、完全に痛覚が死んでしまったからのようだ。
反応を見せない自分を放っておいてくれないかと僅かに期待したものの、事もあろうか、まるで肉食獣が獲物を巣に持ち帰るように、悪魔はルーナを掴んだままどこかへと歩き出そうとしていた。
「(帰れなくなる……!)」
脳裏にすぐ過ぎったのはダンテの顔だった。
あの背中に、あの顔に、2度と会えなくなる。
そして次に思い浮かんだのはパティが説教をするときのもったいぶった仕草、クラリスの困ったような笑顔、モリスンの余裕ぶったしたり顔だった。
何で彼らの顔まで思い浮かんでしまったのかは、今の彼女の思考の外だった。
抵抗をしたら再び拷問のような仕打ちを受けるかもしれない。痛みの恐怖は存外にルーナを強く蝕んでいた。
ムラマサがいたならこう言って舌打ちしたことだろう。「相変わらず痛みに慣れていない」と。
精一杯の反抗として、少女は目だけを動かして先ほどまで自分がいた事務所を見た。まるでそこから誰かが現れてくるのを祈るように。
そんなことを考えてしまう自分の甘さを内心で叱り付け、けれども彼女は誰もいない路地と事務所を視界におさめ続けようとした。
影がまるで荷物のようにルーナを抱えなおした時、そして少女が路地の床を見つめて諦めと共に意識を閉ざそうとした時、
「悪いが、そいつはテイクアウト禁止だ。代わりにこれでも貰っていきな!」
発砲音が雨音を劈いて響いた。そして、三度ルーナの視界はひっくり返る。
弾丸を避けるために、邪魔になったので放り出されたと気がついたのは、石畳に打ち付けられた痛みを感じた時だった。
「しっかりしろ、ルーナ!!」
昨日邪険に払いのけたはずの女性の手が、今は自分をしっかりと抱きしめていた。
大雑把に体全体を触られる。骨の折れた箇所に触れられ、咄嗟にルーナの顔が歪んだ。
そんな彼女の様子を見て、大体の怪我を把握したのだろうか、無遠慮にそれ以上触ることもなく、寧ろその箇所を労わるように抱えあげようとして、しかしクラリスはそれを中途で止めてルーナを壊れ物のようにそっと路上に置いた。
背に負うギターケースからカリバーンを取り出し、襲い掛かる何かを必死に立ち向かっている。それを確かめることもなくルーナの意識は闇に落ちた。
無力感に心を苛まされながら。
大変ご無沙汰していました、千代里です。
年明けから仕事が、というよりは寧ろ図書館から借りた本の読破に時間をとられてしまい、なかなか執筆に時間を割けずにいました。
とはいえ、今回更新した部分は実は年明けすぐには完成していたものだったりしますが。
ルーナは実は、というほどでもないですが存外戦闘においてはまだまだ弱い部類に入っている、かつDMC3のダンテのように攻撃されても平然としていることができない子供です。故に戦闘において覚悟はしていても痛みにはあまり慣れていません。相方がダンテだというのも運がよかったのか悪かったのか。
次の話はもうほとんどできているので比較的早くお見せすることができたらなと思っています。それでは、また。