「ルーナ」
名前を呼ばれて、少女は顔を上げた。目の前には笑顔の母の顔。ルーナに向けて手を差し伸べている。
迷うことなくルーナはその手をとろうとした。
だが、その瞬間不意にルーナはその手を払われた。パチン、という乾いた音が耳に響く。
「おかあさん……?」
今までにない冷たい反応に少女は驚き、思わず母を見つめ直す。
母の顔は、血で濡れてその表情は憎悪で歪んでいた。まさに悪魔のような表情をした母の唇がゆっくりと開く。
「(やめて)」
「*****」
「(やめてやめてやめて……!!)」
「*****、******!!」
頭での理解が追い付かない。言葉を言葉として認識することを心が拒否していた。でも、耳にその言葉は届いている。どれだけ見ないフリをしても、それは――――。
***
「やめて!!」
自分の叫び声で、ルーナは目を覚ました。冷や汗をびっしょりとかいたせいで服が濡れてしまっている。お世辞にも着心地がいいとは言えない。
髪に染みこんだ寝汗を拭おうとして、ルーナは初めて自分の髪が斬られていたことに気が付いた。刀に意識が乗っ取られている時は、自分の五感は薄い膜越しに伝わっているような感じになってしまい、直接的なものではないので実際に確かめるまで気が付けなかったのだ。
事ここに至って、漸くルーナは先ほどの死闘を思い出した。そして、最後に自分がしたことも。
だが、思い出した所で恐怖はなかった。ただただ、ルーナという存在がまだ生きていることに、安心すると同時に後悔がこみあげてきただけだった。
『おはよう、いや、貴様たちの言葉ではこんばんは、が正しいのか?』
ルーナの心中など全くお構いなしに、彼女が眠っていた寝台のある部屋に転がっている刀が淡々と言う。ルーナは視線を床に落として、刀に目を合わせながら、
「こんばんは。どうして私は生きてるの?」
ルーナの単刀直入の質問に刀は愚痴一つ零さず、同じくらい感情を込めない切り返しをした。
『あの男が咄嗟に剣を退き、我が貴様の身体を操って致命傷を避けさせた。本来ならそれでも死んでいてもおかしくはないのだが……あの男の処置が的確だったのだろうな。我は細かいことは知らぬ』
「……どうして、そんな、」
『余計なことを?』
ルーナの言いたいことを刀が先取りしてしまったため、彼女は口ごもって無言でうなずくしかなかった。
俯いた小さな顔から、透明な雫が零れ落ちる。肩を震わせ嗚咽を噛み殺して零した涙は、いったいどんな感情から生み出されたものだろうか。
『貴様は、それほどまで悪魔である自分を憎むか』
「どうしてそれを……」
『我は貴様の意識を支配下に置いているのだぞ? その程度のことは分かる』
だが、その感情がどのようにして生み出されたものかは知らないがな、と刀は言う。
『我は魔剣。元は貴様の大嫌いな悪魔だ。下級悪魔のような低俗な奴らより知能は高いが、人間の心の動きが分かるわけがなかろう』
吐き捨てるように言う刀、もとい魔剣はどこまでも辛辣だった。慰めるつもりなど、端から毛頭ない。涙をぼろぼろ流す少女を励ます言葉一つ、そもそも励ますという発想一つ、魔剣には思いつかないのだ。
それは彼が冷たいからではなく、彼がそういう生き物であるから生まれる必然。故にイレギュラーが挟み込まれる余地も当然最初からない。
そのことを知ってか知らずか、ルーナはたどたどしく自分の感情を語った。
「私がいると、迷惑かかるから」
『我に乗っ取られるからか? それなら我をへし折ればいい』
「そうじゃないの。私が悪魔の子だから。そのせいでおかあさんとおとうさんは……」
その時のことを思い出したのか、少女の声が詰まる。暫しの嗚咽を挟んで、彼女は続ける。
「それに、あなたが私の身体を勝手に使ってる時、私、それがとっても楽しかった。ダメだって、傷つけたくないって思ってたのに、それでもとっても楽しかったの」
『…………』
それは、悪魔が本来持つ破壊本能の表れだったのかもしれない。魔剣はそう推測はしたが、口にはしなかった。
本能から生まれたものでも、或いは人間の本性として生まれたものだったとしても、御しきれなかったことは事実として、この事務所を瓦礫に変えるという形で残っている。
破壊本能などという言い訳は、ただの気休めだ。
「――――こんなの、人間じゃないよ」
涙で頬を濡らし、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を不自然に歪ませて生まれた微笑みは、見ているだけで痛々しいものだった。だが、魔剣は悪魔故にその憐れな姿を、憐れとは思わなかった。
ただ、彼は当たり前のことを当たり前のように言うだけだ。
『そうだ、貴様は人間ではない。我はそう言ったのだがな。だが――』
そこで魔剣の言葉は途切れる。逡巡しているのだろうか。暫しの沈黙を挟んで彼は続けた。
『――どうやら、この男は違うらしい』
魔剣にそう言われて、ルーナは初めて顔を上げた。魔剣は、よく見ると誰かの足元に転がっていた。そして、その男の名をルーナはもう知っている。
「ダンテさん……」
明かりのない部屋で、彼の紅いコートは完全に闇に溶け込んでいた。その代りではないのだろうが、鮮やかな銀髪が月明かりに照らされて静かに光っている。
ルーナの胸中にはたちまち申し訳なさが生まれた。昨晩、悪魔から助けてもらった恩があるというのに、その恩人に対して自分がしたことを思えば、今すぐ窓から身を投げ出したくなる。
「ルーナ」
「……なんですか」
低い声で名前を呼ばれた。叱られているわけではない。声に非難の色はなかった。それが、余計ルーナの心を責めさいなむ。寧ろ大声で怒鳴られた方がどれだけよかったか。
そんなことを思ったせいか再度喉の奥から熱い感情がこみあげ、せき止めることもできずにルーナは幾度目かの涙と嗚咽を零した。
「お前は、人間だ」
「え……?」
今まで床か、或いは壁を向いて話しているかのようにそっぽを向いていたダンテが、ルーナの目を真正面から見据えて、未だ高ぶる感情を落ち着かせることができないルーナにも聞こえるように、ゆっくりと言った。
「Devils never cry.(悪魔は泣かない)」
彼の言葉に、ルーナははっと息を止めて嗚咽をこらえて自分の頬を流れ落ちる涙に手をやった。ダンテは続ける。
「周りの人間のことを思いやる心は、人間だけが持つ特権だ。その感情から涙が流せるなら、それはもう悪魔じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、ルーナの目が大きく見開かれ、そして先ほどと同じように笑顔を見せた。だが、その笑顔は先ほどのものと大きく異なり、心の底から頼れる何かを見つけた安堵から生まれたものだった。けれども、その笑顔も再度不安の色に曇る。
彼女は、おずおずと小声でダンテに尋ねた。
「でも、私が悪魔じゃないって思っても、やっぱり誰かに迷惑かけちゃうんじゃ……?」
「……俺が、いつ、迷惑をかけられたと言った?」
逆に疑問形で問われて、少女は解答に詰まってしまった。確かに彼は一度たりとも、ルーナに対して面と向かって「迷惑だ」とは言っていない。
ルーナの考えていることを見透かしたように、ダンテは続ける。
「それに、ルーナが例え何をしようと、俺だけはどうにかなることはない」
傲慢とも不遜な態度ともとれる言葉だったが、今のルーナにはどんな薬よりも効果的な言葉だ。
真面目なことを言ったのが照れくさかったのか、ダンテは既に背を向けて、ついでに足元に転がっていた刀を拾い上げて、立ち去ろうとした。
その背中に向けて、ルーナは言う。
「ありがとうございます、ダンテさん」
片手を軽く上げてそれに応じて、ダンテは部屋を出て行った。
彼はまだ知らない。自分が少女を安心させるために言った言葉が、後に彼女を大きく歪ませる一因になってしまうことを。
***
「それで、お前は何を考えてるんだ?」
『随分と怖い声で訊くな、貴様は。先ほどの貴様はどこに行った?』
「生憎と魔剣に対してはいい思い出がないんでね」
具体的には串刺しにされたり、とは流石に言わなかったが、その不機嫌さを顕にしたかのようにダンテは魔剣をガンッと床に突き立てた。床といっても、先だっての戦いでほとんど瓦礫と言っても差し支えないぐらい破壊されたものではあったが、相応の衝撃が魔剣を走る。
魔剣は乱暴に扱われながらも、不満そうというよりは寧ろからかうような声音でダンテに語りかけた。
『何を考えているかと問うたな。我は我の主に命じられて、主の娘であるあの子供の面倒をみてやっているだけだ』
「ガキの身体乗っ取って好き勝手することを、悪魔の中では面倒をみてやっているということになるんだな。どうやら悪魔の使う辞書と人間の辞書では食い違いがあるらしい」
『どのように扱えとまでは命じておらぬからな。もっとも、我は最早あの子供をどうこうしようとは思っておらぬが?』
鼻で笑っているのが目に見えるような声だ。ダンテとしては先ほどまでは折るつもりなどはなかったが、今となっては愛剣のリベリオンを持ち出して一刀両断したい衝動に駆られていた。
何とかして自分の苛立ちを奇跡的に抑え、辛抱強く彼女の境遇を知るためにこの魔剣に問いを重ねる。
「そりゃ一体どういう風の吹き回しだ?」
『あの娘が我の支配を強制的に引きはがして行動するまでに、我に支配されることに慣れてしまっているからな。我の本質は憑依ではない。あの娘の不安定な気持ちを揺さぶって乗っ取っていたが、今となっては貴様という軸を得た故に最早心を揺らすことはないだろう』
この魔剣にとっては面白くないことのはずなのに、どこかその声は楽しそうだった。
悪魔が楽しそうにしているということを思うと、諸手を上げて喜ぶわけにはいかない。だが、藪蛇なことをしてこれ以上事務所で暴れられたら、ただでさえ十分とはいえない金が更になくなってしまうので、口を挟むことはしなかった。
「ルーナが、お前は彼女の父親から渡されたと言っていた。お前の昔の使い手はどこに行った?」
『彼女の父親は確かに悪魔だ。貴様の推察通りな。今ではとても剣士とは思えない軟弱者に成り下がったが、あの娘には奴の全盛期の血が濃く継がれているらしい。我としては喜ばしい限りだ』
ルーナの父親が悪魔であり、彼女が半人半魔ではないかという疑いはこの話を経てより確かなものになった。
かつては魔界でこの魔剣を従えていた悪魔が、何らかの理由で人間の世界にやってきて悪魔であることを隠して人と結ばれ、そしてあの昨晩の襲撃の際に昔の力を取り戻すことができずに命を落としたのだろう、とダンテは考える。
元々細かいことを気にする性分ではない。昨晩の悪魔がどこから湧いて出てきたかすら、既にダンテの思考の範囲外だったのだ。そんな過ぎてしまったことよりは、これから起こり得る可能性に目を向けなければならない。
『我は魔剣だが、同時に彼女の父親の持ち物でもあった。ルーナは我を捨て置けぬはずだ』
「……随分とお喋りな剣だな。剣らしく黙っておいたらどうだ?」
『我に喋られて何かまずいことでも――」
「No Talking.(喋るな)」
間髪入れずダンテが放った言葉に、さしもの魔剣も絶句を禁じ得なかった。漸くお喋りな剣から解放されたダンテは、魔剣を瓦礫の上に突き刺したまま、通気が良くなった室内で定位置の椅子に座り、足を机に投げ出した。
あの魔剣をルーナがどうするのか、それは彼女に任せるしかない。要らないというなら質屋にでも持って行こう。
自分でも厄介ごとを抱え込んだもんだと内心で嘆息した時、机上の電話がけたたましくベルを鳴らした。受話器を外して彼は言う。
「Devil May Cry」
(執筆日 2013年2月7日)
ルーナ編はこれにてひと段落です。
魔剣という人間と異なる価値観のものをどう描写するのかは、
個人的にも今後の課題かなと考えています。
ルーナの自己否定をどうダンテに覆させるかが、
当時の自分にとっては肝だったように思います。
珍しくダンテが真面目な会話していると思いつつ、書いた話だったと思います。