文を敬愛する彼女はある命令のために彼女を呼び寄せる。数年ぶりに出会った彼女達は昔話に花を咲かせ始めた。
まだ年若い天才少女と幻想郷一自由なブン屋は如何にして出会ったのか。
これは射命丸文の昔のお話。
かなりの量の二次設定が含まれていますので苦手な方はご注意ください。
「何度来てもここは緊張しますね」
いつもの軽佻浮薄な様子はそこにはなく、普段の動きやすいブラウスとミニスカートも脱ぎ捨てて白さが特徴的な天狗の正装を身にまとっている。相棒のカメラも今日はお休みのようで、代わりにめったに持たない錫杖なんてものを握り締めている。見張りをしている位の高い天狗も、憎々しいと隠さずに視線で示しているが、彼女はそちらには気も向けなかった。面と向かってものも言えない相手に用事は無いのである。大きく深呼吸を一つして、よしと祠の奥に足を踏み入れる。この先には見張りも居ない。居るのはただ一人だけだ。
────カツン、カツン
壁からは水が染みだしていて、迂闊に手もかけられない。足場の悪い石の道を高い一本下駄で器用に奥へ進んでいく。その足取りはどことなく重い。会うのが憂鬱なわけではない。苦手としているわけでもないのだが、彼女には顔を合わせづらい理由があった。
それでも無視する訳にはいかないと、転んでしまわないよう服を濡らしてしまわないよう気をつけながら歩を進める。夏とは思えない程に洞窟の中は涼しい。それは単に山の中にある洞窟だから、なんていう単純な理由ではなくおそらくは別に理由があるだろう。通路の奥、ちょっとした広間になっている場所にたどり着いて、中央に座る相手に膝下が濡れるのも厭わず頭を垂れる。
「射命丸文、ただいま参りました」
「そう堅苦しくしないでください」
返ってきたのは文よりも幼い少女の声。文が顔を上げると、白の天狗衣装に着られているといった表現の良く似合う白い髪の少女が優しく微笑んでいる。見た目は文より少しばかり小さいくらいだが、立ち振る舞いは大人と比べても遜色無い。何よりも意識せず辺りに放っている妖気はけして無垢そうな少女のなせる技ではない。
「ですが、天魔様の前で無礼を働くわけには」
「いつも変なところで真面目なんだから。こうお呼びした方が良いのかしら。ねえ文お姉ちゃん?」
「・・・・・・その呼び方は狡いですよ」
観念して立ち上がる、天魔、天狗の長と呼ばれた少女はまだ親元も離れていないくらいの姿で身の丈に合った可愛らしい笑みを浮かべている。濡れてしまった着物の裾を文が能力を使って乾かしていると、少女が中央に置かれていた座敷から立ち上がって、文の着物の裾に触れた。それだけで先程までよりも急速に乾いていく。
「もう少し天魔としての自覚を持ちなさいよ」
「普段は真面目にやってますよ」
文が目上の相手への尊敬も忘れて、自分のトップに苦言を呈するも、少女はそんなことは知らないと取り合わない。大天狗の一人でもここに居れば、不遜であると眉を潜めただろうが、たとえ他の天狗がここに居たとしても文を追い払うようなことはしなかっただろう。しないというよりも、出来ないと言った方が正しい。何故なら彼女の力は天魔を差し置いて、天狗の中でも最高なのだから。天魔を相手にして物怖じすることのない数少ない例外の一人である。本人は常に礼節を重んじてはいるのだが、こうして天魔の方から昔の関わり方を強要しているため、他の天狗にはそう思われていないのが実情だ。
「氷雨なんて名前で呼ばれることも無いし、退屈で仕方が無いんです」
「はたてでも呼び寄せればよかったのに」
「あの人、天魔の名前で呼んでも来ないんですよ」
「あいつ、少し懲らしめた方がいいかしらね」
今はここに居ないもう一人の例外も、下手をすれば天狗全てを敵に回すようなことをしでかしてよくもまあ安穏と生きているものだと、文も苦笑を隠せない。最近の天狗は弱くなってしまったとつねづね思うが、引きこもりにも勝てないようでは、一度外の世界で武者修行でもした方がいいんじゃないかと柄にもなく考えてしまった。
今の地位についてからおおよそ三百年。まだ齢六百程度の若い天魔と、天狗一自由なブン屋の出会いは、氷雨が生まれた頃に遡る。
~少女回想中~
「頼む! お前にしか頼めないんじゃあ!」
「いや、天魔様。そう仰られても」
目上に頭を下げられて、困惑したままの文と、他に誰も居ないとはいえ恥も外聞も投げ捨てて頼み込む翁。生まれてから千四五百年と自分より何千も若い天狗に何故ここまでするのか。それを説明するには彼女と彼の特異性を先ず語らねばならない。
一言で言ってしまえば、彼女は天才だった。雛の時点で白狼天狗を凌駕し、齢も二桁の頃には烏天狗の中でも上位に数えられた。同じ頃に生まれた姫海堂はたてと並んで天狗の宝と呼ばれた程の才媛である。今では鬼とも渡り合うなどと噂されているが、彼女はそんなことはないとのらりくらり好奇の視線をかわしていた。
対する天魔──正確に言えば先代の天魔になるのだが──は天狗の中でも特別力のあるわけではなかった。烏天狗の中でも下から数えた方が早いだろう彼が、何故天狗の長になることが出来たのか。こちらは能力に理由がある。「風聞を操る程度の能力」と呼ばれるそれは、雑魚妖怪にも大妖怪にも平等に効果を表す。噂を操る能力と言えば弱くも思えるが、妖怪とは人の噂話で存在し得るものである為、噂をなくせば力は弱まる。その能力と、口八丁手八丁で舐められないよう生きていたら、境界の妖怪に気に入られ、いつの間にやら天狗の中でも恐れられる存在になってしまっていた。
その天魔が、地に這いつくばって頼んでいる。どれ程重要な話題なのかと不思議に思われそうだが、内容はなんてことはない単純な物だ。しかし、簡単なことと気楽であることとは意味が違う。文はわざと嫌な感情を表に出して声で言う。
「子守りなんてしたことないんですから。奥方や他の経験ある天狗に任せた方が安心出来ますよ」
「だからそうもいかないんじゃ」
必死に頼み込んでいた天魔の声が冷静なものに変わる。先程までは子を思う親の感情だったが長の顔になっている。文もただならぬ気配を感じて目付きがすうっと鋭くなる。
「どういうことです?」
「うむ。新しい子、氷雨と名付けたのだが少々お転婆が過ぎてな。それだけならば良いのだが、少しばかり才が大きすぎてのう」
「才? 腕利きの天狗でも駄目なのですか」
「まるでお主の幼い頃を見ているようじゃ」
自分の幼い頃と言われて思い出すのは、大人の烏天狗数人を一撃で薙ぎ倒していた記憶。今になると随分なやんちゃ者だったと顔が赤くなる。それを知ってか知らずかガハハと豪快に笑ってから、天魔は再度頼む。
「そういう訳じゃ。後生だから引き受けてくれんかのう」
「はぁ・・・・・・。それならはたても居るでしょうに」
「あの子にも頼んだんだが、余り五月蝿いと殺すと脅されてしまってなあ」
「全くあの阿呆は」
文と並び立つだけの力を持ちながら、もっぱら住処に引きこもることを良しとし、天狗としての協調性の欠片もない幼馴染に溜息を吐く。天魔に向かって殺すなどとふざけた口を聞けるのは彼女くらいのものだろう。自分も同じ文言で断ってもいいのだが、自分に匹敵する才能と言われてはそうもいかない。過信ではなく、彼女を過小評価しようものなら天狗全体の格を下げてしまうがために、そう理解するようにしているだけだ。天魔程ではないにしろ、同じように風聞を操れる文には、天魔が嘘偽りなく述べていることも分かっている。
「分かりました。やれるだけやってみましょう」
ついには折れた烏天狗。天魔は心の底から安堵したと顔を上げた。
「ただ、加減を知らないので少々おイタしすぎることになりますがいいですね?」
「もちろんじゃ、強くやらんとあの子は理解しないじゃろう」
一度挑戦してして失敗したのか、天魔は苦い顔をする。いつの時代も父親とは甘い物だ。その甘さに助けられた身としては何も言うことはないが、長としては甘過ぎるのではないかと思わなくもなかった。
決まったならすぐに向かってほしいと、新しい才媛の居場所を教えられ、挨拶もそこそこに文は天魔の隠れ家から飛び立つ。
木々の間を熟練の技でくぐり抜け、天狗の修練場としても使われる、森の中にぽったかりと空いた広い場所に彼女はは降り立った。彼女の逸話や悪名を知っている烏天狗達は、若ければ顔を輝かせ、歳を重ねていれば青くした。必要ない程の力を持った天狗がここにいるのは誰から見ても異様だった。
周りの恐れるような空気には気付いていたが、いつものことだと気にしないようにして文は天魔から聞いた格好の少女を探すが見当たらない。
「おかしいですね。あの方が外すとは思えないのですが」
目当ての少女は何処に居るのか。文は後ろから斬りかかってきた相手の手首を掴んで動きを抑えながら空に頬杖をかいた。
「ちょっと! 離しなさいよ!」
「おや? すいません、小さくて気付けませんでした」
挑発とも取れる物言いだが、別に嘘は言っていない。感じられる妖気が余りにも少なくて直前になるまで迫っていたことにすら気付けなかったのだ。この少女が弱いのか、それとも力を隠すのが上手いのか。振り返って少女の姿を確認して後者だと判断する。
白く長い髪を伸ばし放題にして、手入れも悪くパサついている。容姿だけ見れば深窓のお嬢様と形容できないこともないが、強く光る眼は本人の快活さを如実に示していた。なるほどあの翁の言っていた通りだ。ここまで変な姿をした天狗も他には居まい。他に候補が思い浮かばないわけでもなかったが、それのことは意識して考えないようにした。
「貴方が氷雨さんでよろしいですね?」
「何よ、私のことを知ってるなら恐れおののきなさいよ」
「おお怖い怖い。私の再来とまで言われては、追い抜かれやしないかと冷や冷やものですよ」
「そうよ、貴方の再来なんだからもっと怖がりなさ・・・・・・え?」
まだ膨らみも無い胸を張って自信満々に話していた彼女だったが、相手の不可思議なセリフに口上が止まる。意味を理解した時、顔が青ざめるのが周りの野次馬からも分かった。追い打ちをかけるように手を離して文が恭しく一礼した。
「貴方のお父様の命でお目付役になった、射命丸文と申します。どうぞよしなに」
「ぼ、暴風の射命丸!?」
「その呼び名は好きじゃないのですが」
はたてと一緒にされては困ると溜め息を吐く。はたてにも
「お目付役なんて要らないわ。クソジジイのとこに帰りなさいよ!」
再度斬りかかってくる少女を片手で軽くいなす。力量の差は歴然としていたが、それを理由に諦めるつもりは無いようだ。文としてもそちらの方が都合が良いので、宥めて彼女の顔を立てることはしない。
(力に奢る相手は力で捩じ伏せるのが一番ね)
策を弄する相手なら溺れさせ、情に訴えかけて来る相手なら流してやる。どれも実行することが出来る彼女だから思い付ける方法である。
豪快に振り回される太刀を手も出さず能力も使わずにひらりひらりと避けていく。速さはあっても軌道が単純では当たり様がない。そもそも自慢であるスピードすら大きく負けているのだ。不意を討つ以外に刃を届かせる術はない。
「このっ、このっ、このっ。逃げ回ってんじゃないわよ!」
こちらをおちょくってばかりで攻撃もしてこない。その癖に簡単には避けられなかった自分の攻撃を児戯と嘲笑う目の前の天狗に氷雨の怒りは最高潮に達していた。不意打ちを考える頭も血が上り、身の丈程の大きな太刀を力任せに振り回すだけだ。
「何か言ったらどうなのよ!」
「そうですね。先ずは目上には敬語を使う。そんなところから始めましょうか」
「ふざけんな!」
ヒステリックに叫びながら、真正面から切り伏せる気概で振り上げた刀は、何か大きな力にはじかれて彼女の手を離れた。意識がそちらに逸れた瞬間、文は周りの天狗からも目で追えない程の速さで氷雨に肉薄する。殴り飛ばすのか、絞めあげるのか、どう決着をつけるのか邪推していた野次馬を尻目に、文は武器を失った少女の背中から手を回して抱え込む。
「やはり躾はこれに限ります」
そして、取り押さえた少女の尻を平手でひっぱたいた。盛大な音と少女の悲鳴が響く。決着は意外にもお尻ペンペンと呼ばれる子供への体罰だった。しかも続け様に三回も繰り返す。
「痛い痛い痛い!」
「天魔様から多少おイタしても構わないと許可をいただきましたからね。上司の前に出して恥ずかしくない程度にはなってもらわないと困ります」
言葉遣いこそ丁寧だが、感情の全く篭っていない事務的な声は少女の恐怖心を煽り立てるのに一役買っていて、痛さと怖さで泣きじゃくりながらも、今までのように言い返すだけの気力は残されていなかった。
「しばらくは私の住処で暮らしてもらいますからね」
「い、嫌・・・・・・」
覇気のない声で拒否の念を示そうとするが、哀愁漂う少女の囁きも彼女には届かない。
「逃げようと思わないでくださいね? またおイタされたくはないでしょう?」
心の折るような一言を最後に加え、畏怖の視線の中彼女は項垂れた少女を連れて飛び立った。
残された天狗達は言葉を交わさずに目で今まで起こっていた出来事をなかったことにすると決めたようで、何事もなかったかのように互いに研鑽し始めた。
*
「覚悟ー!」
「まだまだ甘い」
威勢良く声を上げながら飛びかかってくる少女を片手で軽くあしらう。氷雨を家に連れてきてから早三日、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、先日は何かの間違いだったのだとまた騒ぎ出した少女を鎮めるために文は一つ条件を出した。それは、彼女に一撃でも攻撃を入れること。同じようにまた躾ても効率が悪いと考えての苦肉の策だったのだが、これがなかなか功を奏していて、傍若無人な少女も多少は言うことを聞くようになってくれた。
「なんで当たんないのよ!」
「軌道が単純、声でバレる、そもそも遅い。三点揃い踏みですよ。当たれという方が難しい」
ぐぬぬ、と周りからは褒め囃されていた少女が唸る。攻撃を避けられたことは今までもある。しかしこんなにも簡単に、そして未だに当てられない相手は初めてだった。文は嘘一つ言っていないが、氷雨の速さに付いてこれる天狗など両の手で数えられる程度だ。故に天狗の中でもトップクラスだと自負していたのだが、後に名乗る幻想郷最速の名は伊達ではないということだろう。
「それと、言いましたよね?」
悔しがる少女の頭に文が手をそっと重ねる。あやすように撫でてやる、なんてことは当然無く、長い髪の付け根から少女の頭を鷲掴みにする。
「いたたたたたたっ!」
「目上には敬語を使え。何度教えたら分かるのです」
とにかく礼儀の悪さだけはなんとかしないといけない。力を振るい尊大に生きるのは何も間違ってない。しかし、上司たる鬼や境界の妖怪、最近はその姿を見せないが花の大妖怪も彼女達に勝るだろう。彼女達との争いごとを避けるためにもその自信家で自分勝手な部分は直さないといけない。何しろ氷雨には良くない友人が多い。彼女の力に憧れて勘違いしている若い天狗達だ。確かに氷雨は天狗の中では上位に当たる。だが鬼の格は遥かに高いのだ。ただの天狗になられては困るのだ。
「さて、そろそろ来るかしらね」
氷雨の自尊心をもう一度叩き折るために呼び寄せた古い知り合いはそろそろ来る頃だろう。情けも容赦もない彼女なら徹底的に氷雨を痛めつけてくれるだろう。死んでしまわなければいいのだが、文が危惧する程に危険な相手ではあるが、同時に最も信頼出来る相手だ。
「今日は私に変わって別の方が貴女の相手をしてくれます。礼儀を忘れないようにしなさい」
「誰よ・・・・・・誰ですか、その相手というのは」
再び文の手に力が込められるのを感じて慌てて敬語に言い直す。生意気盛りだが、大人にはまだ思い切り反発できない年頃だ。それには埋めようのない実力差もあるのだろうが。
「そうねえ、私が言わずとも分かるでしょう」
ちょうど今到着したから、続きの言葉は口にしなかった。遠くから羽ばたきの音が聞こえてきて、自分の背後に強大な霊力が降り立つ。白の天狗衣装とは違う、町娘のような格好、群れることを嫌い引きこもる彼女らしい服装だ。
「これで借りは無しだからね」
「そうですねえ、困りました」
「きょ、きょきょきょきょ」
「落ち着きなさい」
思考がフリーズしている氷雨を宥めながら、やってきた姫海棠はたてに対して困り顔で頬を掻く。彼女達の実力は拮抗していて、共に天狗の領域を超えているため、言うことを聞かせることが出来ない。故に文は彼女の手綱を取るためにある二人の間だけでのルールを作っていた。借りは返さないといけない、というものである。つまり貸し借りの関係を作ることで彼女を天狗の勢力の内に収めようとしたのだ。しかし、文が彼女に対して抱えていた貸しはこれで使い切ってしまった。このように無理に呼び出すことももう出来なくなってしまい、どうしたものかと文は少し後悔し始めていた。
「まあいいわ。で、このチビの相手をすればいいのね?」
「殺さない程度にお願いしますよ」
「流石にあの爺の娘殺す程肝は座ってないわよ」
「本人には言うくせにねえ」
「あれは単なる脅しよ」
天狗の身には恐ろしい会話を平然としてのける二人を前にして氷雨は心こそ落ち着かせたものの今度は恐怖で足が竦む。暴風の射命丸の強大さは身をもって知っている。彼女が比べれば自分はそよ風だ、などと言う相手はどれほどの力を持っているのだろうか。天魔たる父親すらも小馬鹿にするはたての姿が今は鬼のように見えた。
「じゃあ、軽く行くから最初くらいは避けなさいよ」
はたてが氷雨に向かって錫杖を構える。氷雨も慌てて翼に力を入れるが、最初の一撃は遥かに速く、そして重かった。
「〜〜〜〜~っ!」
声にならない悲鳴を上げながら、かろうじて両腕で防いだ錫杖の一振りが彼女を真横に吹き飛ばす。翼をはためかせてブレーキをかけようとするが、余りの勢いに翼が動かない。延長線上にあった木の幹に足を乗せてどうにか身体を止める。最初に彼女が立っていたのと全く同じ場所に狂飆の姿はあった。次の攻撃がすぐさま来ることを読んだ氷雨は身動きの制限される森の中から飛び出そうと、大地を蹴る。見晴らしのいい空ならまだ攻撃を受けることも出来るのではないかと一縷の望みをかけて飛び立つ。
「甘いわね」
逃げようとした足を掴まれて、地面に叩きつけられる。鞭の先端のような速度で振り回された氷雨は意識を失いかけ、背中に突き刺さる衝撃で自分を取り戻す。何が起きたのか、言葉で説明するなら空に逃げようとした彼女の足をはたてが掴んで地面に振り回した。それだけである。しかし、木々に囲まれて全速力で飛ぶことは出来ないはずだ。近くに居たのか、いや一歩たりとも動いていなかったはずだ。
「文が貸しを使うくらいだからどれだけかと思ったけど、弱すぎないかしら」
「なっ、ふっざけんなぁ!」
揺れて焦点の定まらない視界で狂飆の姿を捉え、愛刀を振り抜きざまに一閃。当たるとは思っていない、ただ僅かに後ろに下がらせようとして放った攻撃、それをはたては片手で軽々と止めてみせた。文にだって確かに止められた。この結果を全く想像していないわけではなかった。それでも氷雨は驚かないわけにはいかなかった。
「軽すぎるわ。もう少し力を込めないと牽制にもならないわよ」
本気の一太刀は掌で皮膚を切り裂くこともなく止められていた。理論で言えば、妖力をそこに集中させれば不可能ではない。しかし、はたてに大して力を込めた様子はない。彼女にとっては児戯なのだろう。
動きの止まった氷雨の鳩尾を蹴り上げ、彼女が最初に目指していた上空まで吹き飛ばす。ただ上に持ち上げるための攻撃が、氷雨にとっては自分の全力よりも重い。胃液を吐き出した喉が焼けるように痛く、攻撃を受けた腕、地面にぶつけられた背中、蹴り上げられた腹、節々が悲鳴を上げる。
「こん、のぉ!」
それでも戦意を喪失しないのは褒められたことだろうか。本当なら蛮勇だろう。しかし、諦めるものにチャンスは訪れない。彼女にとっての最初で最後のチャンスはその瞬間だった。
氷雨の叫びに呼応して集まるのは使いたる烏ではなかった。目には見えない忠実なしもべが彼女の体を取り囲む。頭に血が上っていた彼女は自分の起こしている現象に違和感を抱くことが出来なかった。もし彼女が空に吹き飛ばされていなかったら流石に気付くことが出来たのかもしれないが、不運にも彼女は宙に居た。
「うわっ、ちょっと予想外かもこれは」
はたてのこめかみに冷たい汗が流れる。数倍に跳ね上がった妖力がちりちりと彼女の肌を刺した。明らかな格下だと舐めてかかっていたが、少しばかり遊び過ぎたかもしれない。倒すことは問題無い。それでもまだはたてや文の全力の方が大きい。本気になれば造作もなくあしらうことが出来る。それには氷雨の安否を気にしないという条件が付くが。
薙ぎ倒される木々を無駄のない動きで避けながらはたては妖力を指先一点に集中させる。まだ氷雨は自分の暴走に気付いていない。これ以上周りを荒らさせるわけにはいかないのだ。そのためには核を打ち抜く必要がある。その結果は考慮しない。する余裕がないのだ。殺さないように加減こそするが、手加減が苦手な彼女では推して知るべし。
────これは止めないとやばいですね
お互いに止まるつもりは無い。そしてどう転んでも文にとっては喜ばしくない事態になることは目に見えていた。それならば、どうするのが最善か。はたては文が動き出したのを横目に見て、指先に溜めていた力を霧散させる。任せた、という意思表示だ。文は氷雨の背後に位置取り、左手を空に向けて伸ばす。掌には風が吹き荒れ、氷雨の身体にまとわりついていた無色透明の壁をはぎ取る。木々を切り裂いていた鎌鼬のような旋風も風を操る天狗に巻き取られた。
「私の能力の上位互換とは、親子揃って似た者ですね」
文が独り言を吐き捨てる。いつかは能力において自分を超えるだろうと予測できてしまったのが暗い影を落としていた。その時が来る前に最低限のことは教えなければ、焦りに似た感情が頭に浮かぶ。止められなくなってからでは遅い。
自分の力がなくなったことで漸く異常に気付いた氷雨が振り返る。その表情は水を差された怒りと安堵、自分のやったことへの混乱と恐怖。様々なものが入り交じっている。文は淡々と終わりを告げる。
「ここまでにしておきましょう。貴方は十分に一矢報いました。彼女を本気にさせたのですから」
「まあ、文がわざわざ私を呼ぶだけの意味は有ったってことね」
最強の天狗二人からの賞賛を受けてもなお彼女の顔色は優れない。今までで一番力を奮った。それは理解出来ていた。しかし、アレは一体なんだったのか。自分のどこにあれ程までの力があったのか。齢二桁の少女は自分のものとは思えない感触に怯えを隠せない。
「今度からは能力の制御も視野に入れなければなりませんね」
文が二人から目を離し虚空を見据えて呟いた。
〜少女談笑中〜
「あの時は珍しく本当に怖かったんですよ?」
「滅多に見ない表情だったわね」
今ではだいぶ丸くなったが、それでも自信家なままの彼女が弱音を吐く。彼女の能力には文もはたても驚いていたが、本人が一番驚いていたのだろう。
────風雨を操る程度の能力
天狗の中でも段違いに単純で、強力な能力だ。文の風を操る程度の能力よりも遥かに強く正確に気候を操る力。父である先代天魔と対を成すように単純な才能。
「あれを見た時に、意地でも天狗鼻を矯正しなきゃと思いましたよ」
「かなり教えてくれる内容が増えましたよね」
あの一件以降、予定を数段繰り上げて、能力の制御を第一にこなせるように訓練させた。コントロール出来ず山を荒らせば鬼の怒りを買うことも有り得たからだ。ただでさえ天魔の娘という興味の持たれてしまいそうな立ち位置に居た彼女だ。怒りを買わずともその力が知れれば、鬼が験比べにやってくることも十分に考えられた。内密に、しかし確実に教育を進めなければならない。予想外の事態に焦った文の決断は正解だったのか。結果こそ見れば万事よしと言えないこともないが、首を縦に振ることは難しい。
「氷雨も大人になったわね。今の私じゃもう勝てないかも」
「謙遜は嫌いですよ。私くらいなら軽くあしらえるくせに」
互いの間に最早天魔と天狗という関係性は存在していなかった。一羽一羽の師と弟子として二人は昔話に花を咲かせる。その後に行われた修行の厳しいこと。時々暇だと言っては顔を見せに来るはたてにいつも肝を冷やしていたこと。たかだか数十年程度の短い付き合いでも、氷雨が文に対して憧れに近い感情を抱いていたこと。それを聞いた文はこそばゆいのか、身をよじらせて顔を隠す。
「だったら当時から言うこと聞いてくれれば良かったのに」
「うー、きっかけも無いのに態度を変えるのは恥ずかしかったんですよ」
「あっ、じゃああの後急に従順になったのって」
「言わせないでくださいー!」
手を突き出して赤らめた顔を隠す。その姿は花も恥じらう乙女の物なのだが、周りに巻き起こる風が文の背筋に冷たいものを走らせる。今では彼女から制御権を奪うことは困難を極める。妹分の成長は喜ばしいことだが、手綱を握れないのは少し空恐ろしいものがかある。
「氷雨、ちょっと落ち着きなさいよ」
「あ、すいません」
気付いた氷雨が滲み出た妖力を収める。力のコントロールは出来るようになったがまだ気を抜くと漏れ出てしまうことがある。それゆえ彼女はこんな洞窟の奥深くに身を潜めているのだ。単純に彼女が威厳を長時間保っていられないという理由もあるのだが。
もう長い間話し込んでいたが、彼女達としてはまだまだ話し足りないようで氷雨が湯呑みに入った茶を持ってくる。喉が乾いてきたのだろう。文もそれは同じだったので有り難く頂いて飲み干す。彼女達の付き合いの中で最も大切な意味合いを持った出来事にまだ辿りついていなかったからだ。せっかくの昔話、それを抜いては語れない。氷雨の持ってきた茶には積もる話のきっかけにもなっていた。
「でも、本当にあの時だけは生きた心地がしなかったわ」
口火を切ったのは文だった。氷雨も何を指しているのかをすぐに察して座り直す。思い起こされるのは氷雨が文にしごかれるようになってから数年が経ってからのこと。もし彼女達でなかったらホラ話と受け取られても仕方のないような、地獄と捉えても申し分無いほどに衝撃的な出来事。再び彼女は追憶の海へともぐり始める。
~少女追想中~
その日、射命丸文は苛立っていた。普段から訓練に使っていた広場から、他の天狗にも伝わるくらいの殺気を隠そうともしていない。
「遅いですね」
普段ならばその矛先は彼女が世話役をしている氷雨へ向けられるはずなのだが、その生意気な少女の姿は今ここには無い。分かってはいたが、ついにこんな時が来たか、文は怒りで拳を強く握り締めた。彼女は氷雨が訓練に耐えかねて逃げ出したのだと考えていた。あれだけ反抗的な彼女だ。むしろこの十数年、今まで真面目でないにしても素直に受けていた方が珍しいことだったのだ。だが、長い間彼女を教えていた文は裏切られたような気分だった。だから迸る殺気を抑えきれないでいるのだ。
せめてもの慈悲だと待っていた期限もそろそろ終わりを迎える。何処に逃げようと必ず捕まえて反抗出来ないまでのキツいお仕置きをしてやらなければ気が済まない。はたてがもしこの場に居たならば、彼女に後ろにメラメラと燃える三脚の烏を幻視したことだろう。
そんな彼女に冷水を浴びせたのは、とある部下の報告だった。全速力で飛んでくる白狼天狗。苛立っていた文はわざと動かずに天狗がこちらまで着くのを待つ。それは、その白狼天狗が彼女にとって天敵と言ってもいいくらいの相手であったからだろう。
「何ですか椛。私は今腸の煮えくり返るような思いなのです。つまらないことならば殺しますよ」
一片の容赦も無い罵声。対する犬走椛は慣れきったもので、反駁することも恐慌することもなく淡々と彼女の主からの言葉を伝える。
「
「なっ・・・・・・!」
「私は姫海棠はたてにも伝えに行かなければならないのでこれで」
相手が烏天狗であるにも関わらず、対等、ややもすれば格上のように要件だけを話して白狼天狗は去っていく。傲慢な振る舞い、しかし文は不満こそあれど不遜であるとは思わない。犬走椛はただの下っ端ではないからだ。彼女の主は他ならぬ天魔自身。組織社会の外に居る直属の部下であれば、白狼天狗なれど下手な大天狗よりも発言力は強い。だから文は彼女が嫌いだった。天狗社会などという見掛けだけの社会に囚われないからではない。彼女が天魔の威光を笠に着ているように見えてならないからだ。実力があるのは知っている。単純な力なら他の天狗には及ばないものの、彼女の持つ千里眼ははたての上位互換のようなものだ。妖怪の山の監視をほぼ独りで担っていることならも彼女の有用さは窺い知る事が出来る。それでも文には何処か納得がいかないのだ。
だが、今は彼女に対して憎悪を向けている場合ではない。文は伝えられた事柄を頭の中で反芻する。鬼と交戦する。その言葉が意味するのは即ち死だ。何故そのような事態になったのか、どちらに非があるのかなんてことは最早どうでもいい。
「あの、大馬鹿者が!」
事態は一刻を争う。悪態を吐いて文は空を翔ける。間に合え。既に氷雨に対して世話役として以上の感情を抱いていた彼女は音を切り裂いて進む。場所までは言われなかったが、鬼が戦っているとなれば手加減の苦手な彼女達のことだ。妖力を手繰るのは難しくない。それよりも恥ずべきはそんな状況になっていたというのに気付かなかった愚かな自分だ。もう少し周りに気を配っていれば、氷雨を探しに行っていれば、幾つもの仮定が頭の中で渦巻く。しかし全ては過ぎたこと。
「どうか無事でありますように!」
飛ぶことと同時にあらゆる妖気を探っていた彼女はついに氷雨の気配を見つけた。隠しているのか、傷を負っているのか、いつもからは比べ物にならないくらいに弱い。対する鬼のものと思わしき妖力は、似たようなものが幾つもある。まさか複数人に喧嘩を売ったのか。それは違うと文は首を振る。似ているのではない、全く同じ妖力だ。こんなことが出来るのは鬼の四天王である伊吹萃香以外に知らない。よりにもよって、四天王に喧嘩を売るだなんて。唇から血がにじむ。鬼の四天王と言えば境界の妖怪にも勝利し得るとまで言われる鬼の中の鬼だ。或いはそれぞれが最強の妖怪の一角と言い換えてもいい。天狗などでは遠く及ばない。文ですらも勝てないと即座に分かるような相手だ。
彼女にとっては長い長い時間。それでも報告から数分と経たずに氷雨目視することが出来た。髪は解け引き裂かれざんばらになっていて、普段から着ていた高価な着物も布切れへと化していている。白く美しい肢体は血に彩られ、遠目でも分かるほどに息が上がっている。だが、まだ生きている。命がある。それだけで文には十分な奇跡だった。
血を失いすぎて眩暈を起こしたのか、紙一重で避け続けていた氷雨の身体がぐらりと崩れ落ちる。四天王である双角の鬼はその隙を見逃さない。常に一撃必殺の気合を込めて放たれる拳は、氷雨の鳩尾を正確に撃ち抜いた。しかし、勝利したはずの彼女の表情は重い。何故なら、貫いた筈の若い天狗の姿が目の前で消え失せたからだ。周りを見渡して伊吹萃香はつまらなさそうに目を細める。
「邪魔するなよ。文」
「こちらにも事情があるのですよ」
文は気を失った氷雨を抱き抱えながら、鬼を見下ろしていた。氷雨に貫かれたような傷はない。直撃するぎりぎりの瞬間に文がかっさらっていったのだ。萃香が殴り殺したのはただ速すぎたために視界に残った像であった。
彼女を取り戻したことによって幾分か冷静さを取り戻した文は、萃香の周りに倒れている名も知らぬ天狗達の生死を確認する。結果は半々。氷雨につきまとっていた悪い仲間が多い。おそらく彼らが焚きつけたのだろう。自業自得だ。文は天狗らしからぬ冷徹さで彼らを見捨てた。
「他はともかく、この娘だけは死なせるわけにはいかないのですよ」
「天狗嫌いのアンタが面白いことを言うね。恋人か何か? いや、そんな訳はないか。だとしたら他に考えられるのは、そうか
「ご名答と言っておきますよ」
伊吹萃香は手持ちの瓢箪を振ってけらけらと笑う。このまま逃げても良いのだが、そうすれば伊吹萃香と天狗との関係は間違いなく悪化するだろう。そうなるわけにはいかないからこそ、最大限の警戒を払いながら文はそこに立ち止まっている。
「言っとくけど、先に喧嘩を売ったのはそいつらだよ」
「分かってますよ。だからどうすれば手打ちにしてくれるか聞いてるんです。そこらに転がっている阿呆なら幾らでも差し上げますから」
「そうだねえ」
萃香は別の自分の足元に倒れている若い烏天狗を文に向かって蹴り飛ばす。めきり、と嫌な音がして骨が肉体からはみ出た天狗の体を、文は片手で払い除ける。仲間としての、いや最早妖怪としての扱いではなかった。そこら辺に転がるゴミであるこのような手付きだった。それを見た萃香は分身を全て消し、口元に悪鬼の獰猛な笑みを浮かべる。今のは彼女の本気を調べたのだ。後生大事に抱えている少女さえ良ければ他はどうなってもいい。彼女の返答は萃香の提案の殆どを受け入れるだろう。
だが、いったい何を命じればいいだろうか。一度本気で殴り合いたいとは思っていたが、ずっとかわされ続けてきた。だから今喧嘩を挑めば彼女は乗ってくるだろう。そして、萃香が勝つ。それは互いが理解している埋めようのない実力の差だ。同時に殺さないよう加減してやれるほど実力差が開いているわけではない。
「困ったねえ」
萃香は瓢箪の中の酒を浴びるように飲む。真面目に考えていることを悟られないための演技。彼女に文を殺す心積りは無い。文が誰かのために身を犠牲にしようとしている。こんな貴重な場面を見ることが出来ただけで許してやってもいいくらいだ。だけど、それではまるで鬼が天狗に屈したかのようになってしまう。それは個人のプライドとしても許さないし、種族としては最も恥じるべきことだ。例え相手が天狗の限界を超えた暴風の射命丸だとしても。
「よし、じゃあ一つ決闘をしようじゃないか」
「決闘ですね。分かりました」
分かってはいたが文の即答に萃香は驚く。そして同時にその姿が萃香のよく知っている男に重なって見えた。だから彼女の決めた決闘は全てを丸く収めることが出来ると確信した。
「ルールは、かつて勇儀とあいつがやった時と同じ。アンタなら覚えてるだろう?」
「・・・・・・っ!」
文の顔が強ばる。萃香は文に氷雨を下ろすよう促し、彼女も表情を変えぬまままそれに従った。
互いに五歩程度の間合いを取り、下に影響が及ばぬよう高い空に昇る。昼間の太陽が彼女達を照りつけていた。地上からならば二人の姿はまるで太陽に浮かぶ黒い点のように見えていることだろう。萃香がおもむろに拾い上げていた小石を空に放り投げた。落ちてくる小石が二人の目の前を通り過ぎようとした瞬間、音も立てずに石は粉々に砕け散る。代わりに萃香の鉄より重い突きが文を襲い、錫杖によって方向をずらされ、彼女の横を通り過ぎていった。
「錫杖使うなんて珍しいじゃないさ」
「あの方に倣っただけです」
「へえ、じゃあせいぜい同じように避けてくれよ!」
何も無い宙を踏み締めて萃香は完全に相手に背中を向けていた体制から強引に振り返る。身体の回転を付加された大振りな一撃は今度は錫杖すら使われずに重心をずらすだけで避けられる。ぶおん、と風切り音が響き、掠ってすらいないはずなのに文の頬が切れて血を流す。さらにもう一度踏み締めて三度目の拳。それも一度目と同じように錫杖でいなして文は萃香から三歩程度間合いをとる。二度も鬼の攻撃を受け流した錫杖は既にしなっていた。あと一度か二度で真っ二つに折れてしまうだろう。使い物にならなくなった錫杖を投げ捨て、背中に畳んでいた黒い翼を完全に広げる。萃香は文が離れたと分かるや自分の妖力を萃めた球体を作り出して全力で放り投げる。対する文は広げた翼をはためかせて、巻き起こる風でその妖力を切り刻んだ。形を失いばらばらになったそれが文の横を通り過ぎていく。囮に紛れて突っ込んできた萃香の蹴りをも避けると裏拳を彼女の鼻に叩きつける。正中線を殴られて流石に痛かったのか萃香の猛攻がそれで一度止んだ。しかし、文は今の攻撃は迂闊だったと直ぐに悟る。今回の攻防では手玉に取ることが出来たが、攻撃が止まればそれも仕切り直しだ。次もあしらい切れるとは限らない。何せ外したって当ててくるような規格外だ。
「避けるだけじゃなく攻撃も当ててくるか。面白いなあ」
顔は笑っている。声も喜びの色がある。彼女は今確かに楽しんでいるのだろう。そしてその裏ではどうやって攻めるか常に緻密な計算が続いている。文だって手をこまねいて見ているわけではない。動きは止めながらも次の相手の動きを予測して、対策を立てている。幾ら警戒してもし足りないのが鬼という妖怪だ。必要なのは絶対、存在しないのも絶対。
再びの衝突。今度は組み付いて避けれないように襟を狙う萃香の腕を文が必死で弾き続ける。ただ掴もうと手を伸ばすそれすらも凶器に変えてしまうのが鬼の力。弾いた手は赤く腫れ上がり、紫色に変色すらし始めている。ただの天狗なら既に捕まって殴り殺されているだろう。文は動かすだけで激痛が走るのを奥歯を噛み締めて堪えながら、一瞬の気も抜かず的確に萃香の手を払い続ける。腕がもげてしまいそうだ。衝撃に骨が悲鳴を上げている。それでも死にたくなければ必死に捌くしかない。変化のない同じような動きの繰り返しに飽きた萃香の手が僅かに粗くなる。その隙を見逃さず腕を大きく払い除けた文は足をはね上げ体を丸め、両足に履いた愛用の一本下駄で萃香の胸板を蹴り飛ばした。反作用で大きく距離を取り、かまいたちで追いすがろうとする鬼を牽制する。当然のごとく萃香には傷一つない。文の手は両方共原型の分からなくなるほどに腫れ上がっていて使い物にならないというのに、相手へのダメージは一切として無いのだ。改めて天狗と鬼の絶望的な力の差を感じてしまう。むりやり妖力を上げて傷を治すが、負ったダメージは簡単には消えない。
「本当に常識外の方ですよ!」
「妖怪に常識なんて求めちゃいけないね!」
エンジンがかかってきたのか、今度は二つに分かれて襲ってくる。彼女の能力では分裂するごとに力は分等される。だから一体一体の力は文でも捌きやすくなるのだが、頭数が増えるということはそれだけ戦闘力を増大させてしまうのだ。一撃で数を減らせない以上、文にとってメリットよりもデメリットの方が大きい。
「厄介な!」
文は片方を風で吹き飛ばしながらもう一方からの蹴りを飛び上がって避ける。出来る限り両方が視界に入るように立ち回り、萃香も死角をつくために互いがばらばらな動きをする。いっそ大きく距離をとってしまえばいいのだが、文にはそれが出来なかった。離れてしまえば霧に紛れて近づいてくるのに決まっているからだ。そうすれば姿を捉えるのは今より一層難しくなる。基礎スペックが違うのだ。安全策を取らざるを得ない。
「じゃあ今度は三人だ。四人だとたぶん勝てないかな」
萃香の三度目の攻撃もどうにか凌ぎきった文に対して萃香は余裕綽々とまた一つ分身を増やしていく。
「流石に勘弁してください、とは言えないんですよね」
三体かそれぞれ別方向へ飛んだのを見て、文は震える足を止めることが出来なかった。
*
上空で文と萃香が激戦を繰り広げている中、誰かの足音で氷雨は目を覚ました。体が重く、節々が痛む。口の中には鉄臭い血の味が広がっている。自分は何故生きているのだろうか。同年代の天狗に誘われて鬼を退治しに行った。文の言うことを聞かず自分の力を過信していたからそんな馬鹿なことをしてしまったのだと今なら分かる。鬼という存在は暴風も狂飆も霞んでしまうほどに圧倒的な存在だった。同時に相手してやる、なんて言って分身した鬼に全員が数分持たなかったのだ。自分だけは十分持ちこたえることが出来たが、幾ら攻撃しても傷一つつかない姿に絶望した。
「ごめんなさい、文お姉ちゃん」
一度言葉にすると涙が溢れてくる。いつも厳しく時には理不尽にも思えていたが、自分のためにやってくれているのだと分かっていた。分かっていたが認めたくなかったのだ。自分なら孤独でも大丈夫。誰かの助けなんていらない。そう思い上がってこのざまだ。彼女は訓練を投げ出したことを怒っているだろうか。もしも生きて帰れたら、どれだけ怒られてもいいから謝り続けよう。
足音が近づいてくる。それはきっとあの小さな鬼だ。自分に止めを刺しに来たのだ。自分は迷惑ばかりかけて感謝の一つも出来なかった。涙でクシャクシャになった氷雨の顔に影が落ちる。
「そんだけ泣けるならまだ元気ね」
降り掛かった声はあの鬼のものでもなく、彼女が心のうちで敬愛する烏天狗のものでもなかった。
「はた、て、さん?」
「そうよー、元気してたかしら?」
姫海堂はたてはかがみ込んで氷雨の傷口に手を触れる。妖力の流れ込む感覚と共に氷雨の中で痛みが少しずつ消えていくのが分かった。其の場しのぎの回復ではなく、本格的な治療だ。本来なら大人数で時間を掛けて行われるそれを一人でいとも簡単にやってのけている。何故彼女がここにいるのだろう。致命的な傷を癒してもらった氷雨は血に濡れた着物の袖で涙を拭って起きあがる。その時、上空を飛び回る二つの点が目に入った。妖力を探ると、それは鬼の膨大な力、自分にとって馴染み深い烏天狗のものであることに気付く。
「なん、で!?」
「なんでって、アンタの為でしょうよ」
「私のため・・・・・・?」
はたての言葉に氷雨の思考は自分が気を失う直前に戻り、そして彼女は悟る。何故彼女が生き残っているのかを。文に自分の命が救われたことを。自分のせいで文が命の危険にあることを。
「行かなきゃ・・・・・・!」
氷雨は翼を広げる。傷はもうほとんど無い。自分に何が出来るとも思えないが、それでも囮くらいにはなれるはずだ。早く文の元にたどり着かなければ。大地を蹴ろうとした氷雨を止めたのは文と一番親交の深いはたてだった。
「やめなさい」
以前に戦ったときとは違い優しく氷雨の手を掴む。しかし幾ら氷雨が振り払おうとしても彼女の手は離れない。それだけの力の差がある。
「あいつは今戦ってる。アンタを守るためによ」
「でもっ!」
「あいつの意思を踏みにじるつもり? アンタは理解したんじゃないの?」
はたての言葉は刀のように鋭かった。氷雨は気迫に飲まれ、羽ばたこうとしていた翼がしぼむ。彼女が落ち着いたのを見て、はたては手を離し、近くの石に腰を掛けた。
「全く、本当に似たもの同士だわアンタ達」
普段の彼女からは想像できそうにない、どこか悲愴めいたそれは独り言だったのだろう。少なくとも氷雨に聞かせる意図は無かったはずだ。そうでなければ氷雨が聞き返した時にバツが悪そうに目を逸らすはずが無いのだから。はたては燦爛たる太陽を背にして戦う鬼と天狗の眩しさに顔をひきつらせた。それは自然な姿であったが、氷雨の姿には滑稽に映る。話題を逸らそうとしているように見えたからだろう。
しばらくして、はたてが再び口を開く。
「文もね、アンタと同じように鬼に喧嘩を売ったことがあったのよ」
昔の話だけどね、とはたては続ける。今の文からは想像出来ない、と氷雨は驚愕を隠せなかった。いつも飄々としていて、礼儀には厳しく常に十全を心がける。完璧という言葉を絵に書いた、そんな憧れの存在だったからだ。
「そん時の相手は勇儀様だったかな。で、アンタと同じようにぼろぼろにぶっ飛ばされてさ」
「それで、どうなったの?」
「敬語が抜けてるわよ。それでね、ちょうど今のアンタみたいになって、他の天狗に助けられた」
その助けに入った天狗はどうなったのだろうか。氷雨は恐ろしくて聞けなかった。文でさえ歯が立たない相手に、そこらの天狗でどうにかなるはずが無い。しかし、はたての口から紡がれた続きの言葉は氷雨のはるか思考の外にあった。
「それが今の天魔様よ」
「あの親父が・・・・・・?」
「そう、助けを呼んだのは私だったんだけどね。凄かったわよ」
親の実力は氷雨もよく知っている。今の自分よりも弱い、間違っても鬼と渡り合うことなんで出来るはずがない。だが、天魔という称号の意味を考えて少女は気付く。天魔とは天狗達の頭領だ。実力以上の何かがあるのだと。
「その時、天魔様と勇儀様は或るルールで決闘した」
「ルール?」
「一刻の間、妖怪の山から出ずに生き残ること。それが天魔様側の勝利条件よ」
それは天魔側の有利なルールであった。より正確に言うならば、天魔が僅かながらも勝つ可能性の存在しているルールだった。そして天魔はその勝負に勝った。だから今の文が居て、氷雨が居る。
「だから文は天魔様に頭が上がんないのよ。アンタの世話役を引き受けたのもたぶんそのせい」
「じゃあ今文さんは」
「文と仲良いし、お茶目だからね萃香様は。たぶん同じルールでやってんじゃないのかな」
はたては氷雨の方を向いて笑う。誰かを安心させようとする笑み。本人も文のことが気掛かりで仕方が無いのだろう。そのお陰で氷雨も冷静になることが出来た。今、自分が行っても足でまといになるだけだ。
「はたてさん」
「なに?」
「文お姉ちゃんって言ったら怒りますかね?」
「きっと恥ずかしさで顔真っ赤にするわよ。そうね、それも面白そうだわ。あいつが戻ってきたら文お姉ちゃんって言いながら抱きついてやりなさい」
お互いの不安を紛らわせるように、二人は顔を見合わせて笑う。そして、それ以降は一言も会話せずただじっと空を見つめていた。
*
文の顔にも疲れの色が濃く出るようになっていた。鬼の攻撃を既に半刻以上も受け続けているのだ。体はぼろぼろだし、意識は何度も飛びかけている。先程なんかは萃香の大振りな一撃を避けきれず肩の辺りを大きく削り取られてしまった。それでも朦朧とする意識の中で眼前に襲いかかる死を必死にかわし続けている。だが萃香の方はいよいよこれからといった具合に切れ味鋭くなってきている。疲れなど欠片も見せない欠片も見せない、鬼の本領発揮と言ったところだろう。三体の小鬼が息もつかせぬ連撃で文を追い詰める。暴れ牛のように突進してくる一体を踏み台にして宙に上り、かまいたちを固まっていた残り二体に叩きつける。その勢いも初めに比べれば遅く、力任せの鬼にすら軽々と吹き飛ばされる。
「もうそろそろ終わりの時間だね」
「そろそろと言わず今すぐ終わりにしてもいいんですよ?」
「流石のアンタも限界かい? なら次で終わりにしようかね」
そう言うと、分裂していた萃香はまた一つに戻る。そしてその姿が肥大して、太陽を包み隠す。一撃で決めるつもりなのか。文も動かない足を奮い立たせて避けるために神経を集中させる。
────タンッ
空を蹴るのに音などしない。その筈なのに文の耳には大地を踏みしめる音が聞こえたような気がした。その拳の重さからは考えられないくらいに軽い足音と共にたたでさえ大きな姿がさらに近づいてくる。覚悟を決めた文の前に覆いかぶさる。そして目の前に光が満ち溢れた。
「なっ!?」
彼女の目に突然入ってきたのは隠されたはずの太陽の光だった。萃香は激突する間近で数十もの分身に分かれ、咄嗟の反応が出来ない文を取り囲む。次で決めるという言葉に嘘は無い。既に彼女の体力が限界に達していることを理解した萃香は数で文を殺さないように殴り倒すつもりだ。約束の一刻はもう過ぎようとしている。萃香が殺し損ねたことによる文の勝ちで終わらせるつもりだった。
そんな萃香の思惑を知らない文は予想外の攻撃に思考が止まる。その一瞬が命取りになった。逃げられる隙間はもう残されていない。死ぬ、何よりも雄弁にその事実は語っている。意識は段々と時を緩やかにしていき緩やかにしていき、嘲笑うかのように身体は動かない。代わりに頭の中を流れるのはまだ自分が幼かった頃の記憶。あの時、あの方はどうやってこの場を切り抜けたのだろうか。思い出すことは出来ない。傷だらけで意識も虚ろだったから記憶が無いのだ。だが、当時既に自分よりも弱かった天魔が、格上の鬼を相手に生き残った。その事実が彼女に勇気を与える。
こんなところで死ぬわけにはいかない。彼女はたった一つ残された手段、最後の賭けに出た。何十体もの鬼に囲まれて文の姿が見えなくなる。そして、数刹那の後、その塊が吹き飛んだ。
「なんだ、何が起こった?」
はじき飛ばされたというのにまだまだ彼女は楽しそうだ。その後ろ、ただでさえ小さいのにさらに小さくなった鬼の肩に手が置かれる。彼女は振り返らない。時限が既に過ぎ去っていたことが分かっていたからだ。
「私の、勝ちですよ」
「分かってるって。私の攻撃は全部避けたってのになんで傷が増えてんのさ」
「無理をしたから、ですかね?」
息を荒らげながら話す文の衣もずたずたに引き裂かれている。彼女の最後の切り札は人によっては瞬間移動にも見えたことだろう。だが、彼女にとってはただ全力で飛翔しただけだ。
通常天狗の速度は音に勝ると言われる。それは比喩の一種で、殆どの天狗はどれだけ全力を出しても音には届かない。届かせることの出来る優秀な天狗も音の壁という大きな問題にぶち当たる。音の壁を無視して飛べる天狗はいない。だから普通は音に限りなく近い速度で飛ぶのだ。それは才媛の文とて例外ではない。そして、最後の瞬間に文は音の壁を突き破った。だからこそ衝撃波で萃香の群れは吹き飛ばされ、衝撃をもろに受けた文の身体も傷だらけになっていたのだ。
「おっとっと」
体をよろめかせた文を萃香が抱き抱える。ゆっくり氷雨達の元へ降り立つと、近寄ってきた氷雨に勝者の身体を預けた。年若い少女の傷だらけだった身体が治っていることに違和感を抱き、はたての姿を認めて納得する。何か言葉でもかけてやろうかとも考えたが考えたが相方が居るなら問題も起こらないだろう。それよりも彼女は久々に仲間と飲み合いたかった。鬼の四天王は皆が勝手気ままだから集まることも全くない。天狗嫌いな天狗を肴にすれば勇儀くらいは乗ってくるだろう。彼女に一番聞いてほしい話なのだから、先約があっても意地でも付き合わせてやる。
萃香は何も言わずに霧になってその場から消えた。残されたのは三天狗だけだ。はたては文の身体も癒してやるが、氷雨の何倍もの時間鬼と戦ったダメージは殆ど抜けきらない。見てくれと意識を失わないで済むようになっただけだ。
「借りを作ってしまいましたかね」
木の幹を背に座り込んだ文が呟く。そこにいつものような覇気は無い。心身ともに摩耗しきっているのだ。起き上がる気力も残っていない。はたては何も答えず、氷雨が文の身体を抱き締める。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「全く、ですよ。無茶しちゃって」
「ごめんなさい、文お姉ちゃん」
「・・・・・・え、今なんて言いました?」
聞きなれない言葉に文が聞き返すも、感極まった少女はただ姉の胸の中で泣きじゃくるだけ、仕方ないとはたてを見ると、彼女は顔を背けて笑いを抑えていた。はたてが彼女に入れ知恵したのだと思った文がこめかみに青筋を浮かべて、ゆっくりと力を込めるように彼女の名前を呼ぶ。普段ならはたてでも恐ろしさを感じるような怒りも疲れ切った今では遠吠えにも聞こえない。自分の親友の無様な姿にはたてはさらに大笑いする。文は足に力が入らないし、氷雨はまだ泣き続けている。はたてに至っては腹を抱え始めた。結局、誤解が解けたのはもうしばらくしてのことだった。
~少女歓談中~
「その後も色々とあったわよね。話を聞いた勇儀様が決闘挑みに来て私とはたての二人がかりで説得したり、紫が貴女を誘拐しようとしたり」
「父が私に天魔の座を押し付けて、いきなり外に行くと言って飛び出したり」
「あれは紫に頼んで見つけてもらったのよね。修行しているらしかったら今も連れ戻さないでいるけど」
思い出せば積もる話は幾らでもある。しかし文は呼ばれた身で氷雨は呼び出した身。今回は世間話をしに来たわけではないのだ。昔話に話を咲かせ過ぎた。氷雨はそれに気付かないわけではなかったが。姉代わりに会うのも何年ぶりの話なのだ。仕方のないことだと自分に言い聞かせていた。
それにも限界はある。半日以上も話し込んでいるのは長過ぎると彼女も思い始めていた。数日話し続けることは出来るが、雑談はまた今度、はたても混じえた三羽で姦しく鳴くのがいいだろう。文と二人で頼み込めば引きこもり気質の彼女も足を運んでくれるだろう。
お茶のお代わりももう切れていた。それは話の終わりも意味しているのだろう、文は大きく息を吐くと、再び天魔を敬う敬語に戻る。
「それで、何があったのですか?」
それに合わせて氷雨も居住まいをまた正す。若いとはいえ三百年天狗の頭領として他の大妖怪達と交渉の場で渡り合ってきたのだ。長としての顔も当然持ち合わせている。父親と同じように犬走椛を遣いにして彼女は彼女なりの戦いを日々しているのだ。
文は命令を待っている。彼女は天狗の言うことなど聞かない。彼女が従っているのは天魔などという肩書きではなく、老山氷雨という一羽の烏天狗だけだ。何故彼女が天狗社会を嫌っているのかは親友であるはたてですらも完全には知らない。だからこそ氷雨は最も敬愛する味方であり、信頼できる部下である文を呼び寄せたのだ。それを改めて実感した氷雨が口を開く。
「少し、調べてきてほしいことがあるのです」
それが一体何に繋がるのか。それはまた別のお話。
俺「一万文字くらいの文の短編書きたい」
本編放り出して執筆
俺「二万文字超えた(゜ロ゜)」
本当はもっと短くまとめる予定だったんですけど、かなり伸びてしまいました。だが私は謝らない。気が向いたらもっと氷雨中心の話も書きたいですね。
ちなみに、一応これで不死人と蓬莱人に続きます(ステマ)
話が関わることはほとんどありませんが良かったらどうぞ