脳内テーマソングは、あさき氏の「つばめ」天庭verです。
最初はシナリオ形式にするつもりだったんですが、それだと製作スピードが出なくてねぇ。
海上、夜霧深く。
遠く、酷く遠く、細波の音が響いている。眠る海は、黒く透き通った水をたゆたえ、寂然としていた。
ふと、霧間を切り裂き、一筋の光が走る。
この静寂に比べ、余りにもか細いエンジン音を立てながら、海上を一艘のモーターボートが滑り来る。
船上に孤影一つ。黒く分厚い防寒着を着込み、フードを目深に被っている。背格好は女のそれではない。白い霧の中にぽつねんと黒く浮かび上がっていた。筒のようなそのシルエットに、たった一箇所、違和がある。その右手には銀色に輝くアタッシュケースをぶら下がっていた。御大層に、鈍く光る手錠で、右手首と繋がれている。
ボートが接岸すると、孤影は素早く上陸し、手近な岩に麻縄を括り付け、ボートを係留した。その動作には無駄が無く、手慣れている様に見えた。
晩秋、天高く澄み渡る。西の空にかかる半月に照らされ、夜は欺かれている。夜霧は白く立ち込め、視界はまるでモザイク画。外気温は凍みいり、吐き出す息は白く溶けゆく。
孤影は赤土の坂を上った。
坂の中腹まで来ると、霧は薄まり、眼前には雲一つない夜空が広がる。無数の星が瞬く空は、硝子細工の飾り窓。
頭上を一羽のツバメが横切って行く。渡りにしては時期外れである。迷いツバメであろうか。
やがて坂の終わりに達すると、視界はさらに開けた。
孤影は広がる風景に息を飲み、目深に被っていたフードを取った。彫りの薄い東洋人青年の、悲愴とも絶望とも取り難い、死相とでも言うべき表情が露わになる。
その視線が見つめるもの。
眼前に横たわる黒い水面を超えたその先。
細波の砕ける音の合間に。
瞬く星々の光の到着点に。
静かに渡るそよ風が運ぶ香りの元に。
それは在った。
「あれが、幻想郷……」
天を突き破る、巨大な単峰。
月明かりに照らされる尾根が美しい。広がる鬱蒼とした木々の間に、無数の有象無象の気配がひしめいているのが、遠く離れた此処からでも分かる。
視線を落とせば、水月浮かぶ静かな湖を見つける事が出来る。そのほとりには、自己主張の激しい深紅の館が、周囲の風景から悪目立ちしていた。
木々の間に走る道々の行き集う先に、大きな街があった。ざっと見積もって、数万は人口を有するであろうことが見て取れる。人間の里、此処ではそう呼ばれているらしい。
人間の里。
思えば、当然の言葉である。里という高度な社会的構造物を創造するのは、人間以外であり得るはずも無い。
しかしそれは、この青年の属する社会が持つ常識に依れば、である。
この地。この幻想郷で、人間の常識など通用しない。
ふと、青年は目を細めた。降り注ぐ月光が、その輝きを増したからだ。
何事かと月を見上げるその瞳は、突如として見開かれ、驚愕の色に染まった。
その瞳に映るのは、猛烈な速度で飛来する、大量の赤い物体。
その着弾の衝撃で、赤土がめくれ上がり、爆散した。何が起きたと、慌てて横っ飛びに逃れ、手近の岩陰に身を隠す。
ずきり、鋭く痛む左腕に目をやると、信じられない物がその目に映る。
赤く淡い光を発する紙片が、分厚いコートを貫通し、その左腕に食い込んでいた。手錠をした右手でそれを掴むと、金属のように硬いことが分かる。表面に何らかの呪い模様が描かれ、異様な気配を放っていたが、しかし、明らかに只の紙であった。さきほどまで立っていた坂の上を見やると、爆発跡に、同じ紙片が突き刺さっている。恐るべき事に、紙が肉をえぐり、紙が地面を爆発させたのだ。
引き抜くと、分厚いコートに血が滲む。傷は浅く、骨には達していなかった。
青年は負傷した左腕で、腰の後ろに差した二十二口径拳銃を取り出した。それは、今の状況ではあまりにも頼りない。それでも片腕で構え、岩陰から、攻撃の飛来した方向へと目を向けた。
その方向には、半分に欠けた月が在った。
いや。
月だけではない。
その輝きの中に、影が踊る。
まばゆい光の中。あふれる金色の海で、一点だけ、別の輝きが発せられていた。
青年は目を見張り、そして息を呑んだ。
それは、少女だった。
目を引く鮮やかな紅白の装束を纏い、右手には神道で使用する御幣を携え、左手には青年の腕に刺さったものと同じ紙片をずらりと構える。頭に着けた大きな赤いリボンが天を穿ち、闇に溶けるような黒髪が、白光の中で妖しく風にはためいていた。多分にあどけなさの残るその整った顔には、生身の人間とは思えないほどの凄絶な表情が浮かぶ。例えるならば、日本刀。触れ得ぬ刃金の美しさ。
月明かりの中の、幻想のような光景。
その時、青年は瞬きするのも忘れた。
月光が、空一杯に広がって行った。
朝靄立ち込める竹林の上を、一羽のツバメが飛んでゆく。それは速く、迷いなど無いかのようだ。
「来たのね」
永遠亭の縁側でそれを見上げ、蓬莱山輝夜は呆けたような声を上げた。
青空澄み渡り、湿り気を帯びた朝の空気は、昼にはからりと乾いているだろうことが予感できる。今日は、良い日だ。輝夜は上機嫌で鼻歌を歌った。最近現れた付喪神の姉妹が演奏する曲が、輝夜のお気に入りなのだ。
「永琳、イナバ達の武装を準備しておいて頂戴」
隣に座る輝夜の従者、八意永琳は、訝しげに眉を顰めて問うた。
「輝夜、いきなりどうしたの。まさか、呆けたの?」
あは、と輝夜は笑った。
「あら、存外、鈍いのね」
「貴女に言われるなんて、心外だわ」
永琳は従者だが、同時に輝夜の師であり友人であり共犯者でもある。周囲の目がある場合以外、永琳は友人に語りかけるような口調で輝夜と話すし、輝夜もそれを許していた。
「それとも地球に来て鈍ったのかしら、そのご自慢の脳細胞さんは」
輝夜は自分の頭を指の腹で叩きながら言う。
今でこそ永琳は薬師、輝夜は庭をいじるだけの暇を持て余す生活をしていたが、もともと二人は裏の月に住む民、月人であった。月で罪を犯し、地球に逃げている。
裏の月は現在の地球よりも圧倒的に科学技術が進んでいたが、薬剤はもちろん、あらゆる知識技術をその脳髄に収め、「月の頭脳」の称号を欲しいままにしていたのが永琳である。
「機の読み方は、貴女に教わったはずだけれど」
「ああ」
輝夜が言うと、永琳は得心がいった顔をした。
「引きこもりの貴女が、そんなに外に興味を持っていると思わなかったわ」
永琳の皮肉なぞどこ吹く風で、輝夜は永遠亭の庭を眺めた。白砂を敷き詰めた枯山水と、自慢の盆栽が燦然と輝いている。人型になる前のイナバたちが飛び跳ねるのは、万年咲く竹の花の下。清い水を湛えた池には、手塩にかけて育てた錦鯉が泳ぐ。
長閑で美しい、永遠を封じ込めたような庭。
みんなみんな、かけがえのない輝夜の宝物だ。
「しかし、武装が必要になるかしらね」
永琳は気乗りしない声でそう言う。
「なるわ」
裸足で庭へ降りる。白砂の感触が、柔らかな足裏の皮膚を刺激して気持ちいい。その場で二、三度足踏みをすると、キュッ、キュッと音が立った。
「敵が来ると?」
「今頃は、紅魔も守矢も山のブン屋も、あの愚かな賢者共だって、大慌てで準備をしているわ。隙間は……どうかしらね」
そのまま、輝夜は純真無垢な少女のように、庭の中を跳ねまわった。面白がったイナバ達がその後に続いて、まるでチンドン屋である。楽しくなった輝夜は、蓬莱の玉の枝を振って一つ二つの弾幕を上げ、枯山水を光で彩った。縁側の永琳の呆れ顔など、知ったことではない。
「永琳」
くるりくるりと舞い回りながら、楽し気に、しかし決然と、輝夜は言う。
「戦いましょう。私達が私達で在り続けるために」
目を開けた。
濁った目に映るのは、天井の板目模様。
青年は状況が飲み込めず、板目を眺めながらしばらくぼんやりとしていた。
視覚の次に蘇った感覚は、嗅覚だった。体が磯臭い。ああ、海に落とされたのだった、青年は独り言ちた。
触覚が蘇ると、いつのまにか、上着を脱がされ、畳の間に布団で寝かされていることが分かる。
かこん。
これは鹿威しの音だ、庭にでも据え付けられているのだろう。聴覚も戻ったようだ。
体を起こそうとして、痛みで呻いた。腕の傷。止血され、包帯が巻かれている。
体のあちこちに鈍痛が走っていた。全身に打ち身と擦過傷、しかしどれも大した傷ではない。そして、そのどれもが適切に応急処置が施されていた。
ハッ、として辺りを見回すと、白いYシャツとジャケットが綺麗に畳まれて布団の脇に置かれていた。その上には、二十二口径の拳銃。そして衣類の下に、鎖のちぎれた手錠の付いた、銀色のアタッシュケースが置かれている。青年は安心したように、息をついた。
首元に手をやり、ボタンほどの大きさの小さな装置が埋め込まれているのを確認する。バイタルサイン送信装置である。
寝かされていたのは、十畳ほどの広さの部屋で、床の間と小さな箪笥、卓袱台に行灯とがあるだけの、簡素な作りの部屋だった。床の間には掛け軸が掛かり、達筆で「一寸の光陰軽んずべからず」とある。部屋の主の座右の銘であろうか。
障子の隙間から庭が垣間見える。と、その障子に人影が写った。
引き開けられた障子に先に立っていたのは、塔の様な帽子を頭に乗せ、青い衣を纏った背の高い女性だった。湯のみの乗った盆を手にしている。
「勝手だが、手当させてもらった」
感情を押さえた声で、女性は言う。凛々しい、中性的な声色である。
目が合う。
理性的な光が灯る瞳。だがその顔は昏く、やつれているように見える。
女性の肩口から差し込む逆光に青年が目をしかめたその間に、卓袱台に湯のみを置いて、座っていた。
「波打ち際で倒れていた。朝の見まわりで私が発見しなかったら、どうなっていたことか」
お前も座れ、と言外に命令している。あまり快く思われていないようである。
青年はYシャツを羽織って立ち上がり、女性の向かい側に座った。
かこん。
庭の鹿威しが落ち、乾いた音を立てた。
「知らないのか。あの島がなんて呼ばれているか」
女性は厳しい目をして言う。
「神隠島だ。あの島に入ろうとして、何人行方不明になったことか……。無分別にも程がある。一体、何をしていたんだ」
どうやら、女性は相当の説教好きであるらしい。しかも、相当、精神に余裕が無いようだ。挨拶も紹介も礼儀もまるで忘れてしまっている。
差し出された茶に一口、口を付けてから、青年は口を開いた。
「――あの島の上で、紅白の化け物に襲われました」
「紅白?」女性は首をかしげ、眉を顰めた。「ああ、それは博麗の巫女だ。人間だよ」
青年は、苦笑しつつ。
「人間、でしたか。私はてっきり、妖怪変化の類かと思いましたよ。海に落とされて、まったく、死ぬかと思いました」
女性は表情を変えない。
「あの島が現れてから二週間。幾人もの人間が消えた。あの島が危険な場所だということは、里の人間なら誰でも知っている。誰でもな」
女性はずいと身を乗り出す。
「私はこの里の人間を全員記憶している。里以外の人妖だって。だがお前は見たことも聞いたこともない」
口調はまるで尋問である。
青年は目を閉じて茶を一すすりする。香り高く、苦味は強すぎず、口当たりはまろやかである。中々美味い茶だ。
目を開くのと一緒に、口を開く。それと同じく、心も開く。人と人との繋がりはそういうものだと、青年は師に教えこまれている。
「幻想郷について教えていただきたい。地形、歴史、経済、政治形態、要人の財政状況からその性格、性癖まで」
「何……?」
女性は眉を顰め、少し身を引く。
「少し話すだけでも分かります。聞いたとおり、貴女は聡明だ。此処へ来て、まず貴女のような方に出会えたのは幸運でした。貴女には是非とも私の仕事に協力をお願いしたい。上白沢慧音殿」
人間の里の教師にして半獣半人の守護神、上白沢慧音は、涼しく微笑む青年を睨みつけた。
「何故、私の名を……お前は一体、誰なんだ」
その言葉に応えるべく、青年はポケットの名刺入れから一枚の白い名刺を取り出し、びし、と机に置く。慧音はその名刺を覗き込むと、驚きに目を丸くした。
文字だけのシンプルな名刺に刻まれているのは、次のような文句である。
日本国政府 外務省 特務外交局 極区方面担当第二課 新興区担当 一等書記官 瀬名英志
「私は日本国政府外務省より派遣された特務外交官、瀬名英志です」
あまり聞きなれないだろう言葉の上に、行き倒れの男にいきなり名乗られたのでは無理もない。慧音はポカンとして、ただ英志の言葉を反芻するだけだった。
「セナエーシ……ガイコウカン……?」
英志は外交官らしく、凛とした表情を作って言った。
「貴女方との交渉に参りました。政府機関への取次をお願いしたい」
かこん、と鹿威しが落ちた。
レミリアは上機嫌だった。
「咲夜、二十年物のシャンパンがあったわよね。持ってきて」
「ここに」
咲夜の手の中には、白い布に包まれたシャンパンの瓶と、逆さにしたフルートグラスがあった。
望みを口にした時に、十六夜咲夜は既にそれを完了している。まったく、よく出来たメイドである。それでこそ、吸血鬼にして夜の帝王、レミリア・スカーレットに相応しい。レミリアは常々そう思っている。
湖の畔に立つ紅魔館。その一角、日差しの当たらないように計算して作られた階上のテラス。レミリアは湖を眺めていた。白いクロスを張ったテーブルの上、背の高い椅子に座り、あまった足をブラブラと揺らしながら。見た目は完全に、遠足前でワクワクしている幼女である。
太陽がその頂点に達するまで、もう少しという時間。
いつもは忌々しい湖の照り返しも、今日は心地が良い。鼻歌の一つでも歌いたくなるような気分だった。
レミリアにとっては遅い時間帯。眠たい目をこすりながら、グラスを傾ける。その甘く芳醇な香りが、齢五百を超えてなお幼いその体全体を包みこむよう。味はレミリア好みの、かすかな酸味を含んだとろけるように甘い味。もう朝は凍える時期であるからだろう、咲夜は常温にして持ってきてくれていた。それが一層甘みを深くし、炭酸が口の中でおだやかに弾ける度、レミリアは幸福を覚える。
「咲夜、あんたも飲みなさい」
「もったいないお言葉」
咲夜は辞退したが、レミリアは自分のグラスを押し付けて、無理に飲ませた。咲夜は顔色を変えず、抑揚の無い声で「おいしいです」とだけ言った。
「ずいぶん上機嫌ですね」
ナプキンで口元をぬぐいながら、咲夜が言う。
「前祝さ」
「前祝?」
「これから素敵なことが起こる。素敵なことが、ね……運命が、次のステージに入ったんだ」
東の方、湖の向こう。
紅魔館のテラスからは、出現した海とそこに浮かぶ島「神隠島」が見える。
「はあ」
咲夜が薄ぼんやりとうなずいていた。その鼻からだらりと鼻血が垂れているのは、レミリアの側からは見えない。
「ほらほら、暴れんなよ。傷が開いちまうぞ」
藤原妹紅は、竹林の中に在る自宅の縁側に座って、手当をしていた。迷いツバメの治療である。包帯片手に、ツバメの羽根に消毒薬をぶっかける。
当然、痛いのだろう、ツバメは身をよじって暴れた。怪我をしているわりには、バタバタと元気よく跳ねまわる。妹紅は悶えるツバメを左手で押さえつけながら、荒っぽく包帯を巻いてゆく。相手は野生動物、多少キツめに処置しなければ、すぐに包帯など外れてしまうからである。
傷を負ったのは何時だろうか、妹紅には鳥類に関する医学知識があまり無いので分からないが、まあこれだけ元気があれば大丈夫だろう。今朝、妹紅の部屋に迷い込んできた時は、羽ばたく力すら無かったというのに。
「しかしツバメなんて珍しいな。お前、どこから来たんだよ?」
荒々しく押さえた左手とは対照的に、右手の包帯は繊細に手早く動き、くるくると羽根に巻かれていく。最後に、両手で包帯を蝶々結びして、治療完了。
ツバメは妹紅を見上げ、はぐらかすように、礼を言うように、くりっ、くりっ、と顔を傾けた。
その仕草がおもしろ可愛くて、妹紅はケラケラと笑った。そんな様を見せられては、焼き鳥屋台の材料にしてやろうなんて気も起こらない。
「お前、里じゃ結構話題になってる有名人なんだぜ。今どき珍しい、それも時期遅れの迷いツバメだってな。ま、あの島が出てからは、そっちの話題でいっぱいだけど」
妹紅はツバメを手に乗せ、その頭を撫でようとしたが、直前、ツバメは飛び立ってしまった。
やってきた慧音の脇を通りすぎて、きゃっ、と慧音が可愛らしい声を上げる。それを見た妹紅はまた無邪気に笑い声を上げた。
ツバメは礼を言うように上空を大きく旋回すると、そのまま彼方へ飛び去って行った。
「もう怪我すんなよ~!」
妹紅は空に向かい手を振った。
慧音は妹紅の隣に無言で腰を下ろした。慧音の表情を見ると、妹紅から笑顔が消えた。
「行方不明者の捜索の方は?」
慧音は無言で首を振った。
「そっちもか。やっぱり、もう……」
「まだ諦めるのは早いさ。きっと生きている」
言葉とは裏腹に、慧音の顔は曇っている。普段は快活な慧音がこれほどまでに沈んでいるのは、頻発する神隠しの所為だ。
神隠し。
原因は様々である。口減し、事故、単なる家出、そして妖怪による食害や誘拐など。
しかし、今この時期に起こるそれは、否応無しにある事象と結び付けられる。そう、神隠島の出現とである。
慧音は空を見上げて、何かを振り払うように首を振った。
「でも、今日来たのは、そのことじゃないんだ。実は、妙なことを言い出す男を拾ってな」
慧音が差し出した名刺を受け取った妹紅は、眉をくねらせる。
「外交官? えっと、外交官て、ちょっと前に外の世界から現れた、あれか?」
外交官と名乗る人物の出現は、初めてではなかった。島の出現から三日と経たぬうちに現れた彼らは、守矢神社の神や神霊廟の道士、命蓮寺の尼僧などと交渉を行っていた。しかし現れた外交官達は、一週間前、突如行方不明となってしまっている。
慧音は頷く。
「それに、こんなものも一緒に渡された。分かるか、妹紅?」
またもや慧音が差し出したのは、一通の封書。
「これは……天皇の勅書じゃないか! 貴国との交渉の全権を委任する、だって?」
「本物か?」
「うん……、私の時代のとずいぶんと違うけど……」少し悩んだ後、妹紅は結論付けた。「たぶん、本物だと思う。こういうのは偽造する行為すら危ういものだからな。仮に偽書であったのなら、その国の警察能力の程度が知れるというもの。逆にその後の交渉がやりやすくなる」
千年前、ある経緯から不老不死の蓬莱人となった妹紅は、当時の知識と蓄えた近代知識を前提として、そう語った。時代は変われど、基本的な外交感覚というものはそう変わりはしない。要は、吐いた言葉に信頼が乗るかどうかである。
「やはりそうか。外交官は、私達にも分かりやすいよう勅書を頂戴してきたと言っていたが」
慧音は少し考えるように俯くが、すぐに顔を上げる。
「しかし、どう対処すべきか、私では判断が付かないんだ」
「先方はなんて言ってるんだい」
「この国の政府機関との交渉を望んでいるようだが……幻想郷にそんなものは無いからな……」
「なら、答えは簡単じゃないか」
妹紅が簡単にいうと、慧音は目をパチクリとさせた。
「八雲紫に引き会わせりゃいい」
「すっかり秋も暮れましたねえ」
箒片手に溜め息を吐くのは、妖怪の山の山頂にある守矢神社の巫女、東風谷早苗。
「秋ももう終わりかなー」
早苗は秋が好きだ。何故かと言うと、全ての物がカラフルになるからだ。それ以外、理由は無い。
「そろそろ冬が来ますね~」
早苗は冬も好きだ。何故かというと、雪が降るからだ。雪は白くて美しい。それ以外、理由は無い。
「冬の次は春、それに夏ですね~、楽しみだなぁ~」
早苗はまた、春も好きだ。春は咲き出す花が美しいからだ。また、夏も好きだ。夏は総てが色濃くなるからだ。それ以外、理由は無い。だが、早苗には十分な理由だ。何かを好きになるのに、理由なんて一つもあれば十分すぎる、早苗はそう考えている。
「早苗、喋ってないで手を動かしなよ」
石に腰掛けてぼんやりしていた洩矢諏訪子が、顔を向けて言う。
「今日日、境内の掃除くらい、麓のものぐさ巫女でもするよ」
諏訪子は何かを待つ子供のように、小さな体をゆらゆら揺らしている。体躯こそ幼女のようではあるが、洩矢諏訪子は守矢神社が祀る神の一柱、その具現した姿である。早苗にとっては信仰の対象であり、平たく言うと上司である。
「諏訪子様は」だから早苗は、諏訪子に敬語を使う。「どの季節がお好きですか?」
「ん? そうさね……」
諏訪子は目を閉じて、童顔に艶のある表情を浮かべ、空を仰ぎ見た。こう見えて、諏訪子は元人妻である。
「やっぱり春かね。春は、恋の季節だからねぇ」
「はあ。恋、ですか」
「早苗には少し早かったかな?」
諏訪子がからかう様に笑うと、早苗は膨れた。
「むっ、また子供扱いして。私はいつでも彼氏募集中ですよ。週末は人里でオトコ漁りに忙しいんですから!」
「そんな事してんのかい、この不良巫女が」
「まあ……」項垂れる早苗。「何故か皆さん、私が声を掛けると逃げて行くんですけど……」
諏訪子はニヤニヤと笑った。早苗は知らないが、後ろに鬼の様な形相で睨む柱神が控えていれば、巫女を口説こうなどどいう肝の据わった男はいないだろう。
「神奈子の過保護ぶりにも困ったものだわ」
「あ~、彼氏欲しいなぁ~」
「――血は争えないねぇ」
諏訪子は早苗のご先祖様である。実感はあまり無いが、早苗は神の血を引いているのだ。
風が舞った。
舞い踊るそれに乗って、赤く色付く楓の葉が、くるりくるりと回りながら空を飛んで行く。手裏剣てあんな感じで飛ぶのかしら、などと全く脈絡の無い事を考えながら、顔を空へ向けていると、そこに一つの影が過った。
「あら。ツバメ」
間違いない、外の世界の野球チームのシンボルマークに、あんなシルエットがあったもの。
つられて見上げた諏訪子は、急に目付きを鋭くさせた。
「早苗」
拝殿から顔を出した八坂神奈子が言う。神奈子も諏訪子と同じ、守矢神社の柱神である。
「これから出かけるぞ。支度しろ」
「は、はい」
早苗が返事をしたときには、神奈子はまた拝殿の中に引っ込んでしまった後だった。
「どうしたんだろう。怖い声……」
声色が普段フランクな神奈子のそれと違った。早苗はそれにかすかな胸騒ぎを覚えた。
諏訪子は、ぽつりとつぶやいた。
「戦争か……」
慧音が妹紅を連れて寺子屋に戻ったとき、外交官・瀬名英志は書台に座り、本を読んでいた。
「何をしている」
鋭く言うと、英志は気づき、頭を下げた。
「勝手ですが、読ませていただいています」
英志が読んでいる本の背表紙には、「幻想郷縁起」とある。稗田阿求が記した、幻想郷に住む妖怪を記録した書物である。稗田家は代々、幻想郷縁起を記すことを生業としている家系である。始祖である阿礼は、会得した転生術を用いて転生を繰り返しているという。現当主の稗田阿求も、阿礼の転生した姿であるという話だ。
「幻想郷縁起」は里の子どもたちの教育用に便利なので、寺子屋にも何部か所蔵があるのだ。外交官は蔵書庫からそれを引っ張り出してきたらしい。
「まあ、構わんが」
慧音がぶっきらぼうにそう言うと、妹紅が慧音の袖を引っ張った。妹紅のほうを見ると、無言で首を振っている。
慧音は英志への警戒感が抜けない。使う言葉もつい刺々しくなってしまう。妹紅はそれをたしなめたのだ。
「この稗田阿求という方……どうやら、怖ろしい人のようですね」幻想郷縁起を眺めながら、英志は苦虫を噛み潰したような顔をした。「程度の能力、とは……」
「何を言い出す?」
「稗田殿はこの言葉一つで、幻想郷の均衡を保とうとしているのではないでしょうか」
「何を言っているのか、よく分からんな」
慧音はそう言って、障子の戸を開け放った。昼の日差しが室内に満ち溢れ、英志は少し眩しそうに目を細めていた。
「そちらの方は、藤原妹紅殿ですか。私は日本国政府外交官の瀬名英志です。以後よろしく」
英志は慧音の後ろに立つ妹紅のほうを見て言った。
「ああ、そうだけど……よく分かったな」
妹紅は怪訝そうな顔をした。
「縁起には挿絵もついているんだぞ、妹紅。お前の絵もある。結構、似ているぞ」
「うぇ、そ、そうなのか?」
慧音が教えてやると、妹紅は慌てた。
「縁起は里の歴史書だからな」
「そ、それにしたって絵なんて……なんか恥ずかしいな」
顔を赤らめてもじもじする妹紅。そんなに恥ずかしがるようなことでも無いと慧音は思うのだが。
「それで、今は何処にいるのですか?」英志は本を閉じて書棚に戻しながら言う。「八雲紫殿は」
「なぜ、それを」
「先遣隊の報告と、幻想郷縁起の記述を見れば大体分かります。今、この状況で、私が会うべき人物が誰なのか」
先遣隊とは、行方不明になった最初の外交官達のことであろう。
「ブン屋の話では、博麗神社にいるらしい」
妹紅が言う。
「博麗神社……まあ、妥当な場所だな。会談には霊夢も立ち会ってもらおうと思っていたところだ」
博麗神社は、幻想郷と外の世界との境界に立つ。外の世界の使者と会談するのには打って付けの場所であろう。
そして、八雲紫をある程度押さえられるのも、慧音の知る限りでは、霊夢だけだからだ。
「ではさっそく、案内をお願い致します」
英志は立ち上がって、柱に掛けていたジャケットを羽織った。
「幽々子さま、お昼ご飯が出来ましたよ」
その言葉に反応したのか、ようやく主の眼差しは虚空を彷徨うのをやめた。考え事をする時の主の癖である。主の心はその時、思考の彼方へと連れ去られ、浮世ともあの世とも縁の無い、彼女だけの世界へ旅立つのだ。
魂魄妖夢は、知っている。
主が自分の世界に旅立つ時。それは、何らかの異変が起こる前触れなのだ。だから、剣術士である妖夢は、長物を差して主の前に傅いていた。主から異変の解決を命じられる、その言葉を待っている。
「――妖夢」
「はっ、はいっ」
主の指がついと動く。
その白百合の花弁のように滑らかな指先は、この屋敷、白玉楼の縁側を超え、庭師である妖夢自慢の手入れが行き届いた美しい庭を超え、白玉楼の名物でもある巨大桜「西行妖」の枝葉を超え、蒼く澄み渡る空の一点を示した。
「ん? 何かいますね。プリズムリバー三姉妹かな?」
目を凝らすと、果たして、それは違った。
「鳥だ。あれ? あの鳥……図鑑で見た事がある。もしかしてツバメじゃないですか?」
博麗大結界の影響か、幻想郷に渡り鳥は珍しい。群れからはぐれた迷いツバメであろうそれは、迷いに迷い、世にも迷ったのか、冥界に位置する白玉楼までやって来てしまったようだ。目の良い妖夢には、その翼に白い包帯が巻かれているのが見えた。親切な人間に治療でもされたのだろうか。
「運命が、追いついて来たのね」
ぽつり。主が溢す。
濡れた唇が薔薇色に燃えている。いつもいつでもどんなときでも脳天気な主には珍しく、目に涙を溜め、憂いで声が濁っている。まるで生きた人間のように艶めかしい。
妖夢の主、西行寺幽々子は、亡霊姫である。亡霊とは人間の思念そのもの。それは熱を帯び、情熱的で、生き生きとさえしているが、もちろん生きてはいない。主は亡霊として長い年月を過ごしており、相応の地位と名声さえあるのだ。亡霊なのに、この白玉楼で冥界の幽霊達の管理をしている。
普段の幽々子は、妖夢にとっては神に等しい存在だった。彼女の思考は妖夢のそれとは次元が違うようで、主が何を考えているのか、妖夢にはさっぱり分からないのだ。ただ一つ言えることは、幽々子のやる事に間違いは無いという事。主の御心は朧月、捉えどころがまるで無いが、分からないまま信じる事が出来るのは、幻想郷広しと言えど、我が主だけだろう。そう妖夢は考えている。それは妖夢の誇りでもあった。
「妖夢」
「はい」
だから、妖夢にとって、幽々子の命令は絶対なのだ。
「お昼は鳥肉が食べたいわ」
「え、だってさっき、牛肉のしぐれ煮が食べたいって……」
「そんな遠い昔の事、覚えてないわ」
……妖夢にとって、幽々子の命令は、絶対なのだ。
「はあ」肩で息を吐く。「分かりました。少々お待ちを」
妖夢にとって完全で、神にも等しい幽々子の、これが唯一にして最大の弱点である。亡霊の癖に、食い意地が張っているのだ。
この前締めた鶏の肉がまだ残っていたかしら、などと考えながら、妖夢は主の部屋から退出した。無用になった長物がやけに重く感じる。
「妖夢」
その華奢な背中が、幽々子の透き通った声で振り返る。
「な、なんですか? 幽々子さま」
いつもと違う調子の幽々子の言葉に、妖夢はグビリと喉を鳴らした。
幽々子は憂いを帯びた熱っぽい眼差しで、妖夢を射ながら言った。
「しぐれ煮も、食べるからね?」
博麗神社は里から少し離れた、幻想郷と外の世界との境界に立っている。里から神社までの整備された道は無く、獣道に毛が生えた程度の参道しかない。道の険しさはそれ程でも無いが、途中、ほんの少しだけ妖怪のテリトリーを横断する事になるので、里の人々は恐れている。一応、博麗神社周辺では人間を襲わないという妖怪同士の取り決めがあるらしいが、それは分別のある高位妖怪の話。頭の弱い妖怪であれば、襲ってくるとも限らないのだ。
「まあそれでも、祭りがあればみんなで神社に集まるんだがな。なんだかんだ言って、博麗の巫女だからな、霊夢は」
慧音はニコリともせずに言う。
「皆さん、健脚なのですね」
獣道を歩き慣れない英志にとって、博麗神社の参道は中々に険しい。気分はちょっとした低山登山である。
「心綺楼公演の時の入りはまあまあだったなあ」
「そう言えば妹紅は屋台を出していたな」
「おうよ、がっぽり儲けさせてもらったぜ」
にしし、と妹紅は笑った。
博麗神社周辺は完全な無人地帯というわけでは無く、まばらだが集落もある。参拝客を相手にするような休憩所もあり、栄えてはいないが、寂れ切っているわけでもない。博麗神社もきっと、そんな雰囲気を持つ場所なのであろう。
英志たちは参道沿いに建つ、古びて傾いた茶屋で休憩していた。
「外の世界はどんな所なんだ」
隣に座る慧音が聞く。慧音たち幻想郷の住人は、英志たちの国を外の世界と呼ぶ。
内と外。幻想郷と日本。それは博麗大結界によって隔てられる。博麗大結界が幻想郷を外界から隠し、隔離し、守護を行う。論理的な結界である博麗大結界は、幻想郷を物理的に隔離するだけでなく、人々の認識をもずらし、外界から発見されないように隠匿しているらしい。話を聞いた限りでは眉唾である。が、現に此処には、そうして生きながらえた妖怪と呼ばれる種族がいた。そしてそれは、今、目の前で会話をする、上白沢慧音や藤原妹紅も含んでいるのだ。
「別に面白くはありませんよ。確かに見た目は大分違いますが、人々の生き方なんてものは、何時の時代の何処の国でも、大体同じようなものです」
「そんなものか。つまらんな」
「だからこそ、こうして話も出来るのでしょう。文化は違えど、人は同じなのだから」
「……そう、だな」
慧音は少し思うところがあったのか、目を閉じて深く頷いた。
「おっ、あれ。見てみろよ」
妹紅がその細い声をあげる。
その先に見えた光景に、英志は眉を顰めた。
「な、なんですか、あれは」
「弾幕ごっこだ」
「弾幕? ごっこ?」
「ありゃあ魔理沙と、氷精のチルノだな」
箒に乗った白黒の、如何にも魔女服を纏った少女と、青い服を着た幼女と言っても差し支えない子ども――しかしその背には氷の結晶のような羽根がある――が、恐るべき事に空中を蝶が如く自在に飛び交い、さらに恐るべき事に、輝く光線、煌めく焔、凍てつく氷の塊や雪粒を、機関銃宜しく、激しく撃ち合っているのである。その様は宛ら花火、スターマイン。美しく華やかである。
しかし、空を彩るその爆影、それは英志も見た事があった。戦闘機のドッグファイトのそれである。
「あれは……な、なんなんですか?」
「だから、弾幕ごっこだって。遊びだよ、あ・そ・び」
「し、しかし、あれは実弾ではないですか?」
「まあそうだけど、力は抑えてる。当たっても死にはしないさ」
妹紅は、簡単に言う。
「弾幕とは形式化された決闘の事を言う。スペルカードと呼ばれる札で事前に宣言を行い、それを攻略できるかで勝敗を決定する。繰り出す攻撃の美しさも重要で、美しくない攻撃は無効となる。決闘を単に力と力のぶつかり合いにしないために。妖怪同士の小競り合いを平和裏に解決するには良い手段だ。まあ、里の風物詩のようなものだな」
慧音も特に慌てる風もなく、目を細めて見ている。
白黒の魔女は、見た所普通の人間にしか見えないが、氷の妖精とやらの放つ氷弾を、木の葉のようにゆらゆらと器用に回避し、幕間をぬって、星型の光を撒き散らしている。星型の光はある程度飛ぶと爆発し、空に大きな花が咲く。その爆発規模は、当たったらとても無事では済まないようにも見える。
「此処では人間が空を飛ぶ事も珍しくないと聞いてはいましたが……」
しかし、あの機動力は軍用ヘリのそれを大きく上回り、火力は戦闘機の空対空ミサイルにも匹敵するだろう。あんな力を持つ者が当たり前のように存在している事に、英志は戦慄した。
軍事的に脅威なのだ。戦争になれば、甚大な被害を覚悟せねばならない。日本国の保有する戦闘機は、あれ程の機動力を持つ物は無い。あれ程小さい的に超長距離からロックオン出来る火器管制システムも存在しない。そして、あの弾幕を受けてスクラップにならない装甲など保有していない。
先遣隊のレポートにあった幻想郷の「特異性」。その一端を垣間見て、英志は身体を強張らせた。戦慄と恐怖と、これから行う、日本国の命運を左右しかねない交渉への緊張で。
「おっ、魔理沙の十八番が出たな」
空を切り裂く一陣の、巨大な光の剣、極大のレーザー。
遠く離れた此処からでも見える光と衝撃、そして遅れて届く嵐の様な破壊音。世界最高出力のレーザー兵器でも、あんな威力は出せまい。何もかもが規格外である。
あれは本当に、『当たっても死にはしない』のか。
「魔理沙にマスタースパークを使わせるなんて、チルノの奴、腕を上げたか?」
「まったく、人里も近いと言うのに、あんなもの使いおって」
慧音と妹紅は立ち上がり、弾幕ごっこの行方を注視している。
英志は渋い顔で茶を啜っていた。
ふと、視界の端に、何か黒いものが映った。
目で追うと、それは少女の後ろ姿だった。肩まである金色の髪を揺らし、黒いスカートをひるがえして、両手を広げ、無邪気に駆けて行く。妖怪のテリトリーに近い場所で、それはあまりにも無防備に見えた。
「おっ、チルノもスペカを使うみたいだ、アイシクルフォールか?」
「大丈夫なのか、止めなくて。これ以上続くようなら、仲裁も考えんとならんな」
慧音と妹紅は弾幕に夢中である。少女の存在に気付いてもいなかった。
ため息を吐き、やむなく英志は一人で少女の後を追った。もう日が傾きかけている。危険な妖怪のテリトリーに入る前に、一刻も早く連れ戻さなければならない。
すぐに追いつけると踏んだ英志だったが、思いの外、少女の脚は速く、追いつくどころか離される始末である。
「君! 待ちなさい、そっちは危険だ!」
声を上げても、少女は振り返りもしない。
風のように走る少女は、いつしか英志の視界から消え、後には藪の中に残された英志だけが残された。
完全に見失ってしまった。
この上は戻って慧音に相談し、直ぐに捜索隊を出すしか無い。そう考え、英志が振り返ると、そこにはいつの間にか、件の少女が立っていた。
両手を広げ、ニコニコと屈託の無い笑顔を浮かべている。
「君は……」
英志が訝しげな目を向けると、金髪の少女は小鳥のようにくりっ、と首を傾げた。
「おにーさん、どーかしたの?」
英志は、感じた妙な違和感を振り払い、叱りつける様に強く言った。
「ここは危険だ。早く里に戻ろう」
「戻るの?」
「ああ。誰だって知っているぞ、此処が危険な場所だということは。此処は妖怪のテリトリーに近いらしいからな」
「そーなのかー」
金色の髪をした少女の、頭に付けた真っ赤なリボンが妖しく煌めく。その鬼灯の様に赤い瞳が、英志を舐めつけるように見つめる。
英志は、ようやく異変を感じ、一歩下がった。
「ねえねえ、おにーさん」
見た目は、あどけない少女だ。
英志は、気付くことが出来なかった。つい先程、人知を超えた力を持つ者たちを見たばかりであるというのに。
「おにーさんは、取って食べてもいい人間?」
少女の姿をした妖は、鋭い犬歯を剥き出しにして、返事も聞かずに英志に飛び掛った。その顔に張り付いたあどけない笑顔は、そのままに。