楽しんでいただければ幸いに思います。
それでは、どうぞ。
今日も一日が始まる。
普段と何も変わらない一日が、だ。
鳴り響く目覚まし時計に起こされ、一日の始まりを知る。
アリサの住んでいる屋敷、バニングス邸は海鳴市の中でも周囲の環境がよく地価の高い場所に建てられていた。周りにも同じように上流階級の者たちが住む家が建てられているが。二つの国をまたにかけている大企業の社長を務めているからか、バニングス邸と比べるとそれらは一般家庭のようにしか見えない。
アリサは別邸のあるアメリカでも生活をしたことがあり、そこでも何一つ不自由なく過すことができていたが、やはり自然の多いという面から考えるとこの海鳴市の方が気に入っていた。
アメリカの都市と比べると都市化が遅れているが、その分向こうでは大部分が失われてしまっている色がある。向こうは鉄やコンクリートという味のない色で埋め尽くされているのだ。
アリサは清潔感溢れる自室を見渡し、ベッドから起き上がってカーテンのすきまから差し込んでいる太陽の光に引き寄せられるかのように窓に近づく。
そのすきまから外を覗き込めば、整えられた屋敷の庭が見えた。
青々と茂った芝生や植木は隅々まで専門家の手入れが行き届いているためミリ単位の狂いもない。
いくつも庭にある噴水からは地下からくみ上げられた清涼感溢れる清潔な水が噴き上げられており、太陽の光を反射してキラキラと宝石のような輝きを放っている。
そんな毎日見ている光景。
一日に組み込まれている当たり前。
しかし、アリサにとってはとても大切なこと。
大切な、彼女にとって帰ってくる場所。そして、居場所。
アリサは勢いよくカーテンを引いて、全身に太陽の光を浴びせる。それから大きく伸びをして、身体を完全に目覚めさせる。
それからの彼女の行動は早い。
まずは滞りなく洗顔、整髪、着衣を済ませる。
就寝前に今日の準備は終えている。宿題など、IQ200の彼女からすればものの数分で終わらせることができる。必要なものが入っている鞄を机の上に置いておき、自室を出て階段をおり、食間へと移動する。そこにはアリサよりも早く起床する使用人たちの姿があった。アリサの姿に気づいた彼らは手本のような挨拶をしてくる。
アリサもそれに答え、席につく。
そこには父親と母親の姿はない。
普段彼女に付き人としている鮫島という使用人が両親は急ぎの仕事で朝早くに出勤したことを伝える。「そう……、分かったわ」と、別段珍しくもないことなので、興味なさげに反応する。
女性の使用人がトレーに乗った朝食をカーに乗せて持ってきた。彼女の前に並べられる出来立ての朝食。「いただきます」と呟いて食事を始める。ゆっくりと咀嚼して今日半日分の栄養補給を行なう。
食後の紅茶を飲んでから歯を磨き、自室に鞄を取りに戻る。
学校へは屋敷から鮫島の運転する車でバス停まで移動し、そこから学校前に停車するバスに乗り込む。それには親友ともいえる四人と会うことになっている。それも彼女にとっては当たり前のことであり、何より掛け替えのないものになっていた。
玄関の戸を使用人が開けてくれる。
「いってらっしゃいませ」
数人の使用人たちに見送られ、アリサは外に出る。門まで一直線に伸びている道を歩き、そこに停車している鮫島が運転する車に乗り込む。
車の中では特に会話はない。
バス停までは徒歩では時間がかかるが、車を使えばそれほど時間はかからない。いつも通りの時間帯に到着し、鮫島の手によって開けられたドアから下車し、そのまま停留所前に発射前の状態になっているバスへと乗り込む。
「それじゃあ、行ってくるわ」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
段差へと足をかけたところで、後ろに立っている鮫島に元気に言う。
鮫島もしわだらけの顔に笑みを浮かべ、丁寧な口調で返事をする。
アリサはバスのいつも座っている席に向かい、座る。
彼女が座るのと同時に自動ドアが閉められ、バスのエンジン音がさらに大きくなる。ゆっくりと動き出したバスは学校まで向かい途中にいくつかの停留所に寄る。そこで一人、また一人と友人たちが笑顔で挨拶してくる。
月村すずか――けんかをしてしまったが、結局それがきっかけで友人関係になった。アリサの家には及ばないが、彼女の家も月村重工というそこそこ海鳴市では有名な会社を経営しているなど、上流家庭で生活をしている。
高町なのは――アリサとすずかのけんかを止めに入った少女で、同じくそれをきっかけにして友人関係になった。彼女は一般家庭で生活をしているが、両親は海鳴市では広告で宣伝されるほど人気のある“翠屋”という喫茶店を経営している。
フェイト・T・ハラオウン――つい最近になって転校してきた外国人の少女だ。アリサは彼女に対して親近感を抱いた。それは長い金色の髪、血のように赤い瞳、西洋人のような白い肌……まるで自分を見ているかのようだったから。
彼女たちと過す毎日は楽しい。
彼女たちと一緒にいるそこが、彼女にとってのもう一つの居場所。
いつものように他愛もない会話をしながら学校へと登校する。
学校についてからも同じ。
退屈すぎる授業も、たまりにたまった鬱憤を晴らせる体育も、友人たちと一緒に食べる昼食も彼女にとっては掛け替えのない時間だった。
時間はあっという間に過ぎていく。
「また明日ね、アリサちゃん」
「ばいばい、アリサ」
「うん、ばいばい、なのは、フェイト」
放課後になるとなのはとフェイトは別れを告げて足早に帰っていく。最近一緒に帰ることが少なくなったような気がする。
しかし、彼女たちにも都合というものがある。無理に合わせろなどとは、アリサは言えない。
いつもならすずかと一緒に徒歩で塾へと向うはずだった。
しかし、この日は別の用事があるということで、学校の校門前に迎えに来ていた使用人のメイド服を着た女性が運転する車で帰っていった。
「ごめんね、アリサちゃん」
なぜか謝ってくるすずかにアリサは内心首を傾げる。
何であんたが謝るのよ――。
言葉にはせず、呆れた表情を彼女に向ける。
「いいわよ、一日二日休んだところで、あんたは痛くもかゆくもないでしょう?」
表情をそのままに、からかうように言う。
アリサの言葉に謙遜するように手を左右に振る。
「それは言い過ぎだよ、アリサちゃん」
クスクスと小さく笑い声をもらしながら言う。「わたしよりも、アリサちゃんの方がそうでしょう?」と切り返してくるのに対してアリサは「当然でしょう?」と胸を張りながら自慢げに言う。
「アリサちゃんらしいね」
すずかは笑みを深めてそう言う。
運転席に乗っている使用人の女性、名前は確かノエルと言っただろうか。彼女がそろそろ車を出すと、申しわけなさそうに言ってくる。
「引き止めちゃって悪いわね」
「ううん、そんなことないよ」
アリサが謝ると、すずかはかぶりを振ってそんなことはないと気遣うように言う。
誰だってする気遣いかもしれないが、彼女は他人に対して優しすぎる。それはさきほど別れたばかりのなのはやフェイトも同じかもしれない。自分の友人と呼べる三人は本当に優しすぎる。幼い頃から大人のみにくい部分を、自分たちと細部が違うだけで差別しようとする子どもの愚かな部分を嫌というほど見てきたし、経験してきた。小学校に上がっても、程度は違えど、周りの児童や教師は自分から必ず一歩ないし数歩距離を置いているのを理解していた。周りから受け入れられていない。彼女はずっと孤独だった。
容姿で差別されたことで父親を罵倒したこともある。
母親に泣きついたこともある。
そんな時、父親はアリサを叱ることもなく、ただ「ごめんな」と謝罪して優しく抱きしめてくれた。母親は「負けては駄目よ。見返してやるのよ、その子たちを。女というのはね、それくらいでへこたれていちゃいけないのよ」と言って優しく抱きしめてくれた。
だから、彼女たちと会うまで耐えてきた。何くそと意地になっていた。周り全員が同じように考えているのではないかと考えていた。だから、寄せ付けないようにしていた。それでは新しい居場所などできやしない。
それでも、彼女たちはこんな自分を受け入れてくれた。
あのきっかけがあったからこそ、自分は数少ない居場所を見つけられた。
あの時悪かったのは誰でもない、自分だ。
少し気になったすずかの頭にあったカチューシャ。
あの時は周りにいる無知な子どもと同じだった。自分がバニングス社の令嬢だから何をしてもよいのだと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
彼女のカチューシャを借りようとして、抵抗された。
意地になって力づくで取ろうとムキになった。
あの時彼女の髪の毛を引っ張っていたことに何も感じなかった。今ならなんて馬鹿なことをしたのだろうかと思う。
そんな愚かな自分を止めてくれたのが、なのはだった。
『痛いよね? この子だって髪の毛を引っ張られて痛かったんだよ?』などと優等生のようなことを言ってくる。瞳には悲しみの色を浮かべていた。
しかし、アリサの耳にはほとんど彼女の言葉は届いていなかった。
突然現れた彼女に頬を叩かれたことにただ痛みとともに苛立ちしか感じなかった。
『何するのよ、あんた!』
かなきり声を上げながら、彼女の頬を叩いた。
赤くなる頬。
よろける小さな体。
しかし、倒れない。
キッ、とにらむような視線を向けながら、彼女の手が同じように頬を張った。
パシンッ、という乾いた音。ジンジンッ、と赤くなり熱をもった痛みが頬に残る。やったらやり返す、その法則にのっとってなのはの髪の毛を掴み、引っ張る。なのはも同じようにする。お互い痛くて涙を流している。だけども、掴んだ手は離さない。しばらく取っ組み合いの喧嘩になっていたが、それに割って入ったのはおろおろとしていたすずかだった。彼女は涙声で「やめて!」と叫んだ。まさか彼女が止めに入ってくるとは思わず、なのはもアリサも思わず手を止めていた。
それからだろうか、彼女たちと少しずつ仲を深めていったのは。あのけんかがなければきっと今の自分はない。彼女たちと友人関係になるまでの孤独のままであっただろう。
何よりうれしかったのは彼女たちが自分のことをありのまま受け入れてくれたことだ。頭がいいことや容姿が日本人離れしていることなどはまったく気にしていなかった。ただそこにいるアリサ・バニングスという人間を受け入れてくれた。彼女たちと一緒にいる場所、そこがアリサにとって新しい居場所になっていた。そこに、最近になって新しくフェイトが入ってきた。彼女が入ってきたことで、また居場所が広がったような気がしていた。家族と言う居場所の他に、絶対に手放したくないと思うくらいにその居場所は大切なものになっていた。
すずかに別れを告げ、アリサは一人塾に向うべくすっかり秋の色が失せ、冬になろうとしている景色が広がっている道を歩いていた。
人通りの少ない、静かな道にアリさの足音だけが響いている。
時折吹きつける風は冷たく、そろそろマフラーや手袋がほしくなりそうだと思った。
身を縮こませて、手を口元に持ってきてはぁーっ、と息を吹きかける。冷え込んでいるためか、吐き出された息は白かった。少しだけぬくもりが手のひらを包み込む。
時間は十分間に合いそうであるが、寒い中歩き続けるのは厳しいということで進める足を速める。風を切るように走る。
アリサの前方から一斜線の道路を一台のワゴンカーがのろのろと走ってきたのが見えた。運転席と助手席には一人ずつ男性が座っている。黒いニット帽を深々とかぶっており、黒いサングラスはあからさまに怪しい。後部座席の方の窓には光を遮断するためか黒いシートが貼り付けられているため中の様子は見えない。
何となく不安に思ったアリサは足を止めずに車から離れようと急ぐ。
ちょうど車と横並びになった時だった。突然後部座席のドアが勢いよく開かれ、そこから数人の男性が飛び出してきた。服装は前に座っている二人と同じように黒い服に、サングラス、ニット帽と怪しい人間だと強調しているものだった。彼らは弾かれたように逃げ出すアリサのことを取り囲むように動く。前をふさがれ、立ち止まったところを後ろから迫っていた男に拘束され、口と鼻を何か薬品を含ませた布で覆われた。薬品独特のにおいがアリサの意識を奪っていく。必死に声をあげ、抵抗しようと身体に力を入れようとするがその意思に反して脱力していく。
急激な睡魔に抗うこともできず、アリサは意識を暗闇へと落とした。
深い眠りからゆっくりと意識を取り戻したアリサは頬に冷たい土の感触を感じた。
はっとして身を起こそうとしたが、手足をロープのようなもので拘束され、腕は後ろで組むようにされているために動くことができなかった。
えびぞりのような体勢になっただけで、すぐに地面に倒れてしまう。
すると、周りからそんなアリサの恥態を嘲笑うような声がいくつも聞こえてきた。声質は男性のもの、聞き取れた声の数からしてざっと五人ほどであろうか。キッ、とにらみつけるようにしてアリサは目を動かせるだけの範囲で辺りを見渡すようにする。彼女の視界に映ったのはやはり聞こえた声の数だけの人数である五人の男性だった。おそらく塾に行く途中で一斜線の道路に入ってきたワゴンカーに乗っていた者たちだろうと思う。突然誘拐されたアリサであるが、自分が被害にあった理由は理解しているつもりだった。
「よお、目が覚めたか?」
しゃがみ込んだ男性の一人が馴れ馴れしく話しかけてきた。
日焼けしたかのように小麦色をした肌、明るい茶髪と典型的な不良であることが分かる。耳にはいくつものピアスがあり、座り込んだときにシャランッ、と鈴の鳴るような音がした。
「気分はどうだい?」
「こんな状態にしておいてよく聞けるわね。最悪よ」
クイッ、とアリサの顎に手をかけて軽く持ち上げながら尋ねる。
男性の顔には気味の悪い笑顔が浮かんでおり、思わず顔をしかめる。
身動きの取れない状態にしておいて、尋ねることではないだろうとはき捨てるように言う。
「んだと、このガキ!」
彼女の立場違いの態度に機嫌を損ねた一人の男性が腹部を狙って蹴りを入れてきた。身動きの取れないアリサは当然のように無抵抗のままそれを受けることになる。革靴のつま先が槍のように彼女に突き刺さり――身体がくの字に曲がる。アリサは瞠目させ、がくがくと身体を痙攣させながら、激しく咳き込む。未消化なまま胃に残っていたものと胃液が混ざったものが嘔吐された。冷たい地面に汚れた水たまりを作るように広がった。
それを見た男性たちは異臭に鼻を押えてたじろぐ。
「うわ、こいつ吐きやがった」
「きたねえ……」
未だに悶絶しているアリサには反論するだけの余裕はなかった。
少しして、ようやく痛みが引いてきた。
顔を浸している嘔吐物の異臭には顔をしかめるざるを得ない。
たじろいで距離をとっていた男性たちの中から、さきほどの一人が近づき、方膝をついてアリサのことを髪の毛を引っ張って持ち上げた。身体を反らせる体勢になりながら、男性を警戒する猫のように威嚇するような目つきで見る。
「分かってるのか? てめえは誘拐されたんだよ、バニングス社のご令嬢さんよ」
やはりそうか、とアリサは達観する。
バニングス社は日本とアメリカの二国をまたにかけている大手の会社だ。住んでいる場所や屋敷からも相当なお金持ち、その言葉でも生ぬるいほどにだ。
バニングス社も競争に参加している会社の一つだ。当然のように他の会社から敵意をもたれている。友好的であったり、下手に出てすり寄ってきたりしている会社もあるが、それは利用しようという思惑があるというのがほとんどだ。
それと同時にこの手の誘拐犯たちにとっては格好の対象でもあった。狙われるのはもっぱら弱い立場にあるアリサ。大きな催しに出席する場合はボディーガードを両親とともにつけているが、学校に行く時など普段は基本的につけていない。四六時中監視されるようなことは息苦しくて耐えられなかった。それに学校にまで付いてこられると、他の児童や教師にも迷惑がかかる。初等部に入学した当初はボディーガードを付けていたが、うっかり鉢合わせてしまった同級生が彼らの風貌に圧倒されて泣き出してしまうということがあってからは断るようにしていたのだ。そのため普段の彼女は完全な無防備な状態。いつも専属の使用人である鮫島による送迎があるわけでないので危険が常に付き纏う。今日のようにアリサ一人で歩くというのはほとんどない。普段は必ず誰かなのはたち友人が一緒にいた。家に帰宅するにしても、鮫島の迎えがある。
しかし、今日のように人気のないところを一人で歩くというのは狙われる絶好の機会だった。
「身代金を要求した。一千万だ。あと一時間以内に用意できなかったらお前を殺すって脅しておいた」
一千万、大した額じゃないわね……。
一般人が聞いたら喉から手が出るほどの金額であるが、バニングス社にとっては用意することはそう難しいことではない。三十分もかからずに用意することができるだろう。彼らは指定場所に置かせて、自分をここに放置してから取りに行くだろう。だが、周りにボディーガードとして雇われている者たちが配置されないわけがない。嬉々として飛び出したところを袋叩きにされるのは容易に想像できた。だからこそ、アリサは心に余裕があった。余計なことをせずにしれば彼らに殺されることはない。
「――なんてことを考えているんだろう?」
「えっ……?」
まるでアリさの心を読んだかのように、思ったことを一文字も間違わずに言ってのけた。
それを聞いて、アリサは驚愕に表情が固まる。
男性がつかんでいた髪が離される。
支えるものがなくなり、アリサは再び嘔吐物が広がる地面に顔を沈めることになる。打ちつけた頬がジンジンと痛み、異臭が不快感とさらなる嘔吐感をもよおす。よほど強く引っ張られていたのか、生糸のような金色の自慢の髪の毛が数本抜け落ち、広がる嘔吐物の水たまりに浮かんだ。
ああ、あたしの、あたしの髪……。
呆然としながらアリサは汚れてしまった髪の毛を見つめる。
ママがほめてくれた、あたしの髪が……。
外国人の父親の遺伝子の影響から日本人離れした髪であるが、母親はそんなアリサの髪の毛をきれいだといってほめてくれた。それがうれしくて、毎日の手入れは欠かしたことがない。 髪の毛は女性の命だという母親の教えを忠実に守って大切にしてきた髪の毛が。
混乱しているアリサの心情など知りもせず、男性は歪んだ笑みを浮かべながら呟く。
「なあ、お前“オーヴァード”って知っているか?」
知らない。聞き慣れない単語に反応を示す。
彼女のそれに、知らないのだと理解した男性がかいつまんで説明を始める。
この世界に住んでいる人間は“レネゲイドウィルス”という一種のウィルスに感染しており、それが発症してしまい、超人的な力を、簡単に言えば超能力と似た力を得てしまった人間のことを“オーヴァード”と言う。アリサが知らないのも当然だ。“レネゲイドウィルス”、“オーヴァード”という存在は一般には秘匿の情報だからだ。いくらバニングス社が日本を代表する会社だといっても政治にまでは関与することはできない。政治家であっても知っているのはごく一部でしかなく、底辺の者たちはそのことを知らない。知ってしまったが最後、それを口にすることは禁忌であり、もしそれを破ってしまったのなら殺されても文句は言えない。多くの人間に対して混乱を与えるよりも、一人の人間が死んだ方がまだ平和が保たれるからだ。
その説明を聞いて、ここにいる五人全員がその“オーヴァード”という超人的な力の持ち主であることをアリサは理解する。
「例えばそうだな、俺は光を操ることができる」
そう言って彼は手のひらを広げると、その上に発光する光球を一つ生み出して見せた。
思わずアリサはそれに目を奪われ、一瞬だけきれいだと思ってしまう。
だが、すぐにそう思ってしまった自分を諌める。
彼が生み出した光球と同じものが、自分が転がされている場所にいくつもふわふわと霊魂のように浮いているのに気付いた。
まるで小さな証明のように、それがなければ薄暗い建物の内部をぼんやりと明るく照らしていた。
「そして、もう一つ。この廃工場は俺の領域、言ってみれば俺の体内だ」
そう言われてアリサは部屋を見渡してみる。
すると部屋の壁や天井にラインのようなものが張り巡らされているのが見えた。
「ここは海鳴海浜公園近くにある廃工場だ。ここに隔離されているだなんて、誰が気付くかよ。例え侵入者がいたとしても、すぐに感知して殺すことも可能だ」
言ってみれば、ここは要塞のようなもの。
いくら鍛えられた者たちが救出に入ってきても、返り討ちに遭うだけだ、と彼らの超人的な力の一部を見せられアリサは思ってしまう。
「金の用意ができるまでこのまま待っているのも退屈だな。ガキだけど、一回ヤッてみたかったんだよな」
「なっ……、あ、あんたたち……、まさか」
「ああん? 最近の小学生はませてるな。もう理解していやがる」
嫌な予感はしていた。
思わず声に出してしまったが、嘘だと言ってほしかった。
だが、現実は非情だ。
アリサの最悪の予感が当たってしまう。
顔面蒼白のアリサを見ながら、男性たちはこれからすることに心躍らせているという気味の悪い笑みを浮かべている。
リーダー格の男性がドレッドヘアーの髪型をしている男性をアリサの前に出す。
髪型もそうであるが、長い蛇のような下がだらしなく口から出されており、それには鎖つきのピアスがされており、長い鎖が首周りのネックレスとつながっていた。
空気が抜けるような呼吸音をもらしながら、男性は顔をアリサに近づける。
その長い舌で、アリサの顔をひと舐めする。
生温かく、ざらざらとした感触がした。
不快の伴う悪寒が背筋を走る。
びくん、と身体を震わせたアリサの反応を楽しんでいるようで、笑い声をもらす。くちゃくちゃ、と口の中で唾液を汚らしく鳴らし、ねっとりとしたそれを大量に吐き出した。
それが糸を引きながらアリサの着ていた初等部の制服に落ち、煙を上げながら溶かしていく。
溶解液――!?
アリサはすぐに男性が吐き出したものがなんなのかを、混乱していながら天才的な頭脳で理解してしまう。
それはアリサの着ているものだけを溶かしていく。直接肌を焼くようなことはなく、制服、 下着と溶かされていき、日焼けのない白磁陶器のような滑らかで白い肌が露になる。
恐怖と羞恥のあまりのどの筋肉がひきつってしまったのか、アリサは声を出すことができない。
彼女の身体を男性たちの目から隠すものがほとんどなくなる。
完全に生まれた時と同じ状態で横たわることになる。
蛇のような男性は長い舌で唇に残る唾液を舐めとる。
それから顔をアリサの身体に近づけて、羞恥からほんのりと赤くなり、冬が近いということで寒さから震えているアリサの身体に舌を触れさせる。なぞるように舌を動かしていく。まるで日焼け止めのクリームか何かを塗りこむかのように丹念にだ。
「や、やめなさいよ! 気持ち悪い!」
蛇のような男性を罵倒するようにし、身体を動かして抵抗しようとするも硬く拘束されているために動くことができない。さらに体温が急激に上昇するのを感じる。まるで熱を患ったかのように、頭がボゥーッ、とする。不快感しかなかった彼の行為が与える小さな刺激を幼いアリサの身体は徐々に快感として受け入れ始めていた。
「いやぁ、やめなさいよ……」
必死に拒絶の声をもらす。
だが、それはあまりにも弱弱しいもの。
男性たちにとっては興奮させるスパイスにしかならない。
数人の男性たちはすでにはない気を荒くして、興奮している。
「さてと、もう十分だろう?」
バサバサッ、と布が地面に触れる音がいくつも聞こえる。
アリサは朦朧とする意識の状態でその音のする方を見る。
地面に一枚、また一枚と脱ぎ捨てられた男性たちの私服が見えた。
「あ、あああぁ、ああぁ……」
まともに口が回らず、ひきつった声をもらす。
やめて、ヤめて、ヤメて、ヤメテ……。
のろのろと首を横に振り、必死に虚勢を張ろうとする。
手足を拘束していた縄をまた違う男性が異形の腕と化したそれにある鋭い爪で切り裂いた。 しかし、アリサは四肢を投げ出すようにされた状態のまま動くことができなかった。
恐怖、絶望、高揚……。
陰と陽の感情が入り混じり、互いに打ち消しあっているために動くことができないでいた。 アリサと同じように身体を覆うものが一つもない男性たちが彼女を取り囲むようにして立つ。
手足を地面に縫い付けるように押さえつけ、残った一人が仰向けになったアリさの正面に座り込んだ。
そして――アリサの視界が真っ白に染まった。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
蛍のように空中を浮かんでいる淡い光を放っている光球だけが、この薄暗い廃工場にある一室の照明代わりだった。
一つだけ窓があるが、板が打ち付けられており、光を完全に遮断しているために空気はこもった状態である。
強烈な雄と雌の行為による淫臭が濃縮されたままこの部屋の中に押し留められていた。むせ返りそうになる臭いであるが、休息をとっている汗と体液で身体をぬらした男性たちにとっては気分を高揚させてくれるシンナーなどの類とそう代わらなかった。
椅子代わりにされている机が円を描くように置かれている。
その中心に地面に横たわったままのアリサがいた。
ぐったりとしており、照明の足りないこの部屋の状況下においては死んでいるのかも分からない。
瞳から生気が奪われており、どこを見ているのか、視線は虚空に投げ出されている。
長かった艶のある生糸のような金色の長い髪は半分の短いショートに変わっている。不揃いに切りそろえられ、彼女の周りにぞんざいに投げ捨てられている髪の毛を見れば、男たちの手によってされたのだろうというのが容易に分かる。
彼女の白い顔全体にドロリとした粘着質な白濁としたものが付着している。
それはまるでケーキにデコレーションとして使われる生クリームのように。うっすらと朱色をしている彼女の肌を考えると、イチゴにかけるコンデンスミルクのように。それは顔だけではなく全身に塗りたくられている。
もはやその光景はケーキやイチゴと見るよりも、幼子がウェディングドレスを着ているかのようにも見える。
冷たい地面に横たわっている彼女は、さしずめ悲劇の花嫁であろうか。
わずかに上下している胸の動きが見られ、それだけが彼女が未だに生きていることを照明していた。だが、幼い身体で犯され、脳を、身体を、心を崩壊させるような得体の知れない薬物を投与された彼女がまともな生活を送れる可能性は皆無に近かった。心を完全に砕かれた彼女が未だに生きていられるのは、まともに意識が働いていた頃のある一つの思い、感情、衝動が要因にあった。
殺してやる、殺してヤル、殺シテヤル、ころシテヤル、コロシテヤル……。
純粋な殺意。
憎い、自分を犯し、辱めたこの男たちが憎い。
自分が大切にしていたものを弄び、奪ったこの男たちが憎い。
金がほしい、小さい子どもを犯してみたかった――そんなくだらない理由のために理不尽なまでに何もかも奪いつくされ、弄ばれた。
IQ200という天才的な頭脳などは、この時何も役に立たなかった。いくら頭がよくても、純粋な力の前には紙くずも同然なのだ。
なら、どうすれば彼らから奪われなかった?
なら、どうすれば彼らから弄ばれなかった?
どうすれば、どうすれば、どうすれば、ドウスレバ……?
力、そう力だ。
彼らの“オーヴァード”としてもつ力よりも、さらに強い力があればそうされることはなかったのだ。
奪われたのは、あたしが弱かったから。
弄ばれたのは、あたしが弱かったから。
弱者が強者から奪われ、蹂躙されるのはこの世の摂理。
弱肉強食の世界では当然のこと。
分かっていたはずだ、力があればどんなことでもできることを。
それを目の前でいつも見てきたはずだ。
ふつふつと砕け散ったはずの心に湧き上がるこの思いは何だろうか。
力を欲するか――?
声が聞こえる。
姿は見えない。だが、分かることがある。その声の主はアリサのことを嘲笑うかのような笑みを浮かべていることを。
再び声が聞こえる、力を欲するか――?
今度はさらにはっきりとした声で聞こえた。男なのか女なのか、子どもなのか老人なのか……そんなことは分からない。だが、アリサにはその声の主が天使の皮をかぶった悪魔としか思えなかった。
死かし、ここでようやく欠片となった心に湧き上がる思いが何なのかにアリサは気付いた。
それは渇望。
未だに雑談にふけっている男性たちを殺す、そのための力を欲するという渇望。
だから、アリサは求めた。
圧倒的な力を、誰にも負けない、力を。
姿の見えない天使の皮をかぶった悪魔が狡猾な笑みを浮かべたような気がした。
だが、アリサにとってはどうでもいいことだった。
力を得るために、悪魔に魂を売ってもいいとさえ思っていたから。
それを自覚し、求めた時、アリサは自分の身体が灼熱の炎に包まれているかのような感覚を覚える。そして、アリサの全身から、紅蓮の炎が噴き出した。薄暗い部屋を一瞬にして明るく照らし出す炎。それは強力無比な力を感じさせる。圧倒的なまでの迫力はまるで空から太陽がそのまま落ちてきたかのよう。
突然のことに呆然、唖然、驚愕といった感情をさまざま見せている男性たちにとっては恐怖の象徴。しかし、アリサにとっては自分のことを包み込んでくれるような温かい優しさの象徴であった。
糸の切れた操り人形のように横たわっていたアリサがユラリと幽鬼のように立ち上がる。
ヒィッ、と一人の男性が小さく悲鳴をあげたのが聞こえた。
おそらくこの五人の中ではもっとも弱腰なのだろうと思う。
無感情な顔をしたまま白濁した水たまりの上を歩くアリサを見て、腰を抜かしたのか尻から地面に座り込んでしまう。
慌てて能力を発動させたのか手元に落ちていた鉄屑を音速に匹敵する速さで放ってきた。
だが、アリサに直撃する直前に噴き出していた炎が壁となり、鉄屑を溶解させる。ドロリと液状化された鉄屑はその男性の希望を表しているかのようだ。
アリサはそんな男性に対して指を向ける。
まるで死の宣告を言い渡されるようなひきつった表情でいた男性は、突然身体中の血液が沸騰するような感覚を覚えた。
否、事実身体が異常なほど熱を帯びていたのだ。
まるで生きたまま火葬されているかのような感覚。
次の瞬間男の身体に亀裂が走り、そこから紅蓮の炎が噴き出した。
アリサは男性に触れてなどいない、ただ指を向けただけ。それだけで、男性はまるで自然発火現象が起きたかのように亀裂から炎が噴き出し、それが全身を包み込んだ。
完全に炎に飲まれた男性の身体は身体に一方的にあぶられるだけで、もはやどうすることもできない。
”オーヴァード”として修復能力があるが、それをも上回る勢いで炎は暴れまわる。
そして、ついには数歩助けを求めるように手を仲間に向けながら地面に倒れ、動かなくなった。それと同時に炎も霧散し、濃厚な淫臭を掻き消すほどの肉の焦げる臭いが充満した。
見下ろすように視線を向けているアリサの視界に黒焦げとなり、無様な死に様をさらしている男性だったものが映る。しかし、アリサの心には何の感情も生まれてこない。すでに動かなくなったものになど、興味すら抱かない。
まだ、残ってる……。
衝動である渇望がアリサを突き動かす。
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、ころせ、コロセ……。
呪詛のような声が聞こえる。
アリサはその声を拒まない。なぜなら、彼女自身もそれを望んでいるから。
まだ、殺し足りない……。
アリサは腕を横に振るう。炎が鋭利な刃となり、男たちを焼き切る。服の上から身体に火傷と裂傷を与える。アリサの背後からまるで特定の身体を持たない異形の魔物が姿を現す。紅蓮の炎が鋭い爪を作り出した。それは一本や二本ではなくこの部屋を埋め尽くさんとするばかりにあった。
残っている男性たちはまがりなりにもアリサよりも“オーヴァード”として能力を行使している時間の積み重ねがある。しかし、彼らは一方的に相手を蹂躙する経験はあっても、逆に蹂躙されるという経験は皆無だった。
そのため、今まで彼らのアリサを含む被害者と同じ心境だった。ただ、目の前の光景に恐怖し、本能的に生存を求める。逃げ出す者、怒りに任せて戦いを挑んでくる者がいた。前者には行く先々に悪魔の爪となった炎が襲いかかる。床を抉り、壁を貫き、悲鳴をあげて逃げまどう者たちを弄ぶ。そして、閉められていたドアを開け外に飛び出していったところで巨大な爪が彼らを背後からつかみ、再び処刑場へと連れ戻す。命乞いをするも、アリサは聞く耳を持たず、彼らを爪で引き裂き、肉片を劫火で焼き尽くす。黒ずんだ灰にしてしまえば、再生することなど不可能だろう。
戦いを挑んできたリーダー格の男性は自らの領域を利用してアリサの動きを殺そうとする。結界のようなものを作り出し、彼女を閉じ込める。捕らえられた獰猛な肉食動物のように彼女は不可視の結界の壁を殴り続ける。炎が噴き出し、引き裂き、貫こうとする。だが、能力を行使すればするほど、結果以内の酸素は奪われていく。男性はそれを狙っており、まんまと上手くいったことにほくそ笑む。すでに結界のなかは火災が起きているかのように炎で満ちており、アリサの姿は見えなくなっていた。
そろそろだろうか――あれだけの炎を生み出したのだから、すでに結界内の酸素は皆無だろうと思う。
中にいるアリサは酸素不足により気絶、または死亡しているだろうと予想された。
だが、あれだけ蹂躙せんとして暴れまわっていた炎が大人しくなるように収束していったのだ。
そして、結界の中央に立っていたのは、肩を大きく上下させているアリさの姿だった。
彼女の手のひらには圧縮されたような赤い球体があった。
それは彼女が限界にまで生み出した炎だった。
そして、小さな球体はさながら小太陽。
内部の温度はとても人間が手にしていられるようなものではない。最悪、この辺り一帯でメルトダウンを発生させられるほどのものだと予想できた。
表面温度だけでもこの結界を溶解させられるほどだろう。
そんなものをなぜ彼女が平気な顔で手にしていられるのか。それは彼女の“シンドローム”が熱を操る能力に特化している“サラマンダー”であり、彼女の手にしている部分の温度だけを平気な温度まで下げられているからだった。
アリサはゆっくりとその小太陽を結界の壁に触れさせる。すると結界はそれがふれたところからゆっくりと溶解し始めた。いくら強固なものであっても耐熱には限界がある。慌てて男性が能力を行使しようと思ったときにはすでに結界が完全に崩壊した瞬間だった。音もなく消えて行く結界。ゆっくりと歩み寄ってくる“オーヴァード”の少女。
男性は戦意を喪失させ、地面に額を摩りつけるようにして命乞いをする。
そんな彼をアリサは無表情なまま見下ろす。そして、ゆっくりと開けられたドアの向こうへと視線を移す。
まだ、やって来るのね……。
自分を弄び、奪おうとする者が。
アリサは感じ取っていた。
それはとてつもなく大きな力であることを。
未だに姿は見えず、響いてくる足音だけが何者かの存在を証明しているが、向こうから感じられる冷たく鋭い殺意が自分に向けられていることだけは分かった。
そして、ようやく人影がぼんやりと見えた。
離れているためか、小さな子どもほどの背丈しかないように見える。
だが、その何者かは自分にとっての敵。アリサは衝動に促されるがままに、収束させていた炎を解放し、再び無数の魔物の爪へと形を変えさせた。その時、足元にいた男性は炎に呑み込まれ、他の仲間と同じ末路を辿っていた。アリサはそのことに気づいていない。否、気付く必要など、ありはしない。
何者かがついに部屋に足を踏み入れた。
その瞬間、アリサは炎の爪をそれに向けて叩き込んだ。それに反応した何者かが武器を構え、反撃した。
衝撃と部屋を蹂躙する音が響き渡った。
アリサが差し向ける爪を次々と強力な武器によって打ち砕き、炎を四散させる。
だが、アリサには部屋を覆いつくすほどの爪がすでに生み出されており、数本消し飛ばされたとしても痛くもかゆくもなかった。
炎の爪を生み出すたびに、アリサは身体の内部を何かが侵しているのを感じ取っていた。能力を行使するたびに、自分を突き動かす衝動は強くなり、ただそれを求めようとしてしまう。
「殺してやる! あたしから大切な物を奪う者を、弄ぶ者を!」
敵意を、殺意を剥き出しにしたアリサの絶叫が蹂躙されていく部屋に響く。
死角からの攻撃を仕掛けても、何者かはすばやく反応して腕で打ち払い、軽快な身のこなしでかわしていく。
だが、サウナのような室内で激しい運動をし続けるのは体力を大幅に削る好意でもあった。目に見えて何者かの動きと反応は鈍くなっていった。地面に着地した時、ついに大きく膝が折れるのが見えた。
それを好機と見て、アリサは一転集中の攻撃を仕掛ける。
それに気づいた何者かがすぐさま地面を蹴って回避行動に移ろうとする。だが、アリさの仕掛けた攻撃の方が早く、何者かの背中を捉えて地面に叩きつけた。追撃として、雪崩のような怒涛の攻撃が襲い掛かった。
「消えろ、消えろおおおおおおおぉ!」
炎の海に飲まれ、蹂躙されていく光景を目の当たりにしながら、アリサは咆哮した。
何者かを呑み込んだ炎はついに部屋を貫き、下の階にまで被害を広げた。下に回収されずにそのまま残されていたドラム缶に引火したのか、まるで爆弾が爆発したかのような凄まじい音が響き渡った。地震のような揺れが廃工場を中心にして発生する。
土煙か黒煙かも分からない視界を遮る煙が辺りに漂う。
力を行使しすぎたアリサは大きく肩で息をし、その場に崩れ落ちるように座り込む。
終わった、終わったはずだ――渾身の一撃からの、慈悲も与えぬ攻撃だった。
荒い呼吸をそのままに、ようやく終わったのだということにアリサは笑みを浮かべる。
ゆっくりと部屋に充満していた煙が収まっていく。
「……っ!?」
アリサは目の前の光景に息を呑んだ。
ありえない――ただ驚愕の表情を浮かべる。
あれだけの攻撃を受けながら、何者かは未だにアリサの視線の先に仁王立ちしていたのだ。
板が打ち付けられていた窓が開放されたためか、そこから吹き込んでくる冷たい風がその者が着ている漆黒のロングコートをなびかせる。それはまるで死を司る神が身に纏っているマントのようだった。地獄での執行人のような血のような赤い瞳は、顔の上半分を覆い隠してしまうほどの大きな機械的なゴーグルに点滅している赤い光点だ。そして、アリサの炎をろうそくの火のように掻き消したのは、大型の自動式拳銃。
身に纏っている漆黒のロングコートはまるでカマイタチにでもあったかのようにズタズタであり、ところどころ焦げている。見ただけでは傷の度合いは分からないが、あの炎の海に呑まれたのだ、全身火傷は免れないだろう。やせ我慢をしているのか、口は一文字にされており、大きく肩を上下させている。
「どうして、どうして死なないのよ……」
かすれそうな意識の状態で、アリサは呟く。
アリサにとって新しい恐怖の権化としている何者――圧倒的な存在感と自分をも上回る力を持つ人物は、よく見てみると自分となんら変わらぬ年齢の少年だった。
「あなたは、敵なの……」
アリサはおそるおそる尋ねてみる。
しかし、少年が示した反応はそれを否定するもので、首を横に振った。
「あんたは、誰なの……?」
「――“ネームレス”」
アリサの問いに対して、疲労と苦痛の感じられる声で少年が答えた。
「あなたは、何のためにここに来たの……?」
「それは私が答えるわ」
三度尋ねる。
その問いに対して答えたのは“ネームレス”という名の少年ではなく、最近聞いた女性の声だった。
まさかと思い、視線を彼の背後にあるドアへと向ける。
ゆっくりとした足取りで部屋へと入ってくる女性。以前父親の主催したパーティーにも出席していたUGN海鳴市支部の支部長である湊恵子だった。
なぜ彼女がこんなところに――アリサには場違いである彼女の突然の登場に理解が追いつかなかった。
「間に合ってほしかったけれども……この惨状を見る限り、無理だったようね」
嘆息し、重苦しい雰囲気のまま恵子が言う。
「遅くなってごめんなさいね、アリサちゃん」
座り込み、一歩も動けなくなっていたアリサに近づき、しゃがみ込んだ恵子が話しかける。彼女の瞳から申し訳ないという思いが感じられた。
「私たちが彼らの件について、もっと早くに対処していれば」
恵子は部屋に転がっている五つの焼死体を見ながら言う。
「彼らは野良者の“オーヴァード”なの。今回のように若い女性や少女を狙った犯行を繰り返していてね、警察では手に負えないということで私たちUGNに依頼が回ってきていたところだったの。
彼らが潜伏している場所をここだと分かってね、味方を送ろうとした矢先にあなたが被害に遭ったの。ごめんなさい。もっと早く動いていれば、あなたがこちらの世界にくることはなかったのに」
何度も謝りながら恵子はアリサのことを抱きしめる。
アリサはようやく人の温もりというものに包まれ、瞳に生気が戻る。恐怖や絶望によって打ち砕かれていた心が優しさという接着剤で少しずつ修復されていく。
安堵したためか、目からとめどなく涙が溢れていきた。
現実感を取り戻したところで、自分が手にしてしまった力の強大さと恐ろしさ、そして、その力を行使して犯してしまった罪を自覚する。
「あたし、あたしは……」
人を殺すという罪を犯してしまったことに、アリサは罪悪感に襲われる。
次に考えたのは両親への申し訳なさである。
自分の犯してしまった罪によって、もしかしたら経営しているバニングス社に悪影響を与えてしまうのではないか、なまじ頭がよいアリサはすぐにそのことにいきついてしまった。
しかし、恵子は戸惑うばかりのアリサを落ち着かせようと「大丈夫」と言葉をかけ、背中を優しく叩いてやる。
「あなたは悪くない。あなたは悪くないの。もう二度と、あなたにこんな目にはあわせないし、罪を重ねさせはしない」
抱擁を解き、まっすぐな瞳で見つめ合う。
「今のあなたには酷かもしれないけれど、もう普通に日常には戻れない。あなたはこちらの世界、非日常に足を踏み入れてしまったの。
今日のようなことが平然と行なわれている、そんな世界」
アリサは恵子の言葉を聞き、身体を恐怖と絶望で震わせる。
だが、包み込んでいる恵子の温もりが、多少なりとも彼女を安心させる。
「あなたはそんな世界で生きていくことになる。もちろんご両親には説明するわ。ちゃんと了承も貰う。できる限り、これまで通りの生活が送れるように私も、彼も協力する」
そう言って、後ろに立っている“ネームレス”へと視線を向ける。
つられるように、アリサも彼のことを見る。
いつの間にか、顔の大部分を覆っているゴーグルを外していた。
そこにあった顔は、恵子と同じくつい最近見た顔だった。
名を湊ナナシと言った少年。
ナナシ、名前がない、“ネームレス”……。
アリサは名前の連想をして、納得する。
「あたしはもう、奪われないの……?」
“レネゲイドウィルス”、“オーヴァード”によって奪われてしまうかもしれない当たり前のようにあった生活。
「奪われないわ……」
「あたしはもう、弄ばれないの……?」
「大丈夫。そのために私たちが協力する」
付け加えるようにして恵子が、「強くなるのよ」と言う。
アリサが求めた力という名の強さ。
しかし、彼女が言った強さとは一体何なのか。
彼女はまだ知らない。
だが、これから彼女は知っていくだろう。
多くの喜びと悲しみを繰り返したその先で。
新たな魂の息吹が、ここにあった――