ハルへ   作:はるのいと

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第十話「認知的不協和と彼女の錯覚」

 さてと、次が本命だな……。Sクリニックをあとにすると如月は軽く吐息を漏らし、ゆっくりと歩みを進めた。目的地は先日、早苗たちと訪れたファッションビルだ。来訪理由は、なぜ三島小夜に大切なビー玉をタダで譲ったのか? それを聞きだす為だった。

 

 彼女は ”特別なことはしていない” といっていたが、如月はその言葉を全く信用してはいなかった。それどころか、万引きの可能性も十分にあり得ると彼は踏んでいる。

 あの女ならそのくらいのことは平気でやってのける……。如月は胸ポケットのピルケースに手をあてながら、静かに溜め息を漏らした。

 

 十数分歩いた所で目的のビルに到着した。自動ドアを通り抜けると、お決まりの冷気が体をすり抜けてゆく。如月は軽く身震いすると、目的のショップに足を向けた。

 

 店内を覗くと先日のビー玉マニアの姿があった。彼女はレジのカウンターで頬杖をつきながら、ノートパソコンを眺めている。

 確か名前は原田だったな……。如月は彼女を見つめながら記憶を巡らせた。

 

「あら、こないだの」

 

 彼に気付いた原田は微笑みを浮かべた。一方、如月は彼女のもとに歩み寄りながら「どうも」と、いって軽く頭を下げた。

 

「随分と顔つきが変わったわね。整形でもしたの?」

 

「単純に腫れが引いただけですよ」

 

「分ってるって。冗談よ、冗談」

 

「ええ。こっちも分ってて付き合ってあげてるんです」

 

「……可愛くない子」

 

「よくいわれます」

 

 不機嫌そうに口元を尖らせる原田に対し、如月はいつもの無表情で応えた。

 

「それで、今日はなんの用? まさかまたプレゼント探しって訳でもないんでしょ?」

 

「ええ、残念ながら。じつはちょっとコレについて聞きたいことが」

 

 如月はピルケースからビー玉を一つとり出した。すると原田の曇っていた表情が、パッと明るくなった。 

 

「ああっ! やっぱり相手はキミだったか」

 

「どうして彼女にこれを?」

 

「あの子に聞けば?」

 

「勿論、聞きましたよ。返ってきた答えは ”普通に頼んだらタダでくれた” です」

 

「あの子がそういうんなら、そうなんじゃないの?」

 

 原田は先日のように、試すような眼差しを如月に向けてきた。

 

 やっぱり何かあったようだな……。如月はそう思いつつ、意地の悪い店員を見据えた。

 

「ビー玉マニアとは思えない、いい草ですね」

 

「彼女に譲った理由がそんなに気になる?」

 

「ええ。これを手に入れるために、彼女が何かを犠牲にしたのなら、僕はこのビー玉を受け取る訳にはいかないんで」

 

「どうして?」

 

「理由なんてありません。単純に今までそうやって生きてきただけです」

 

 如月は黒い瞳で原田を見据えた。すると数秒の沈黙が店内に訪れた。程なくして彼女は根負けするように、静かに口を開き始めた。

 

「…… ”ハメ撮り動画、撮ってきて” っていったのよ」

 

「どういうことですか?」

 

「あの子があんまりにもしつこいからさあ、流石にこっちもイラッときて……だからその辺にいた男をさして ”あのオヤジとヤッてるとこをスマートフォンで撮影してきたら、タダであげる” っていったのよ」

 

 原田はバツが悪そうに溜め息を漏らした。そして如月の鋭い視線に気づいた彼女は、慌ててこう付け加えた。

 

「分ってると思うけど冗談でいったのよ、冗談でっ!」

 

「それで、彼女は?」

 

「何の躊躇もなくそのオヤジをナンパして、ホテルに向かった……勿論、すんでのところで止めたわよ。もしやと思って密かにあとをつけてたから」

 

 万引きの方がまだマシだ……。如月はビー玉を見つめながら心の中で呟いた。そして原田に向き直ると、ビー玉を無言で彼女に差し出した。

 

「悪いけど受け取れない」

 

 原田はきつい眼差しを如月に向けた。その表情は先程とはガラリと変わって、真剣なものになっていた。

 

「どうして?」

 

「それはあの子に、あげたものだから」

 

「あなたにとっても、大事な物なんじゃなかったんですか?」

 

「そうよ。でも前にもいったでしょ? ”譲ってもいいと思える理由があれば” ってね。キミの為にあんなことまでする彼女の思いは、そのビー玉を譲るに値するわ」

 

「めちゃくちゃですね」

 

「ええ、ホントめちゃくちゃね。私も彼女も……でもキミだって欲しかったものが結果的に手に入ったんだから、何の問題もないでしょう?」

 

「いいえ、問題大アリです。さっきもいいましたよね? 僕は誰かを犠牲にしてまでなにかを望んだり、{欲|ほっ}したくはないんです。だから――」

 

「そんなことじゃ、何も手に入んないわよ」

 

 あんたにいわれなくても、そんなことは重々承知のうえだよ。

 

「構いませんね」

 

「あっそ。なら直接、彼女にそういいなさい」

 

 原田はもう話は終わった、とばかりに頬杖をつきながら、ノートパソコンに視線を戻した。如月はそんな彼女を静かに見据えた。

 どうあっても受け取らないつもりか……。彼はそう心の中で呟くと、原田に軽く会釈をしてその場をあとにした。

 

 

 

 如月は電車に乗り込むと、ゆっくりとシートに体を預けた。すると途端に、疲れがどっと体と心に重くのしかかってくる。こうなってはお得意の人間観察も、広告の文字遊びも全くヤル気が起きない。原因は三島小夜の予想外の行動だ。彼は溜め息を漏らしながら、静かに瞼を閉じた。

 

 朱里駅を出るとお決まりの蒸し暑さが、冷房で冷えた体に纏わりついてきた。そういえば家の掃除は、まだ半分も終わっていない。これから帰って続きをやるのは面倒だな……。如月はそう思いながら自宅を目指し、とぼとぼと歩みを進めた。

 

 程なくして自宅に到着すると、如月は門扉の前で溜め息を漏らした。そんな彼に、玄関口で腰を下ろしていた人物が微笑みを向けてくる。

 

「おかえり」

 

「キミはストーカーか?」

 

「考えたんだけどさ、掃除って二人でやった方が効率が――」

 

「悪いけど帰ってくれるかな……疲れてるんだ」

 

「何よ、せっかくお手伝いに来てあげたのにっ!」

 

「頼んでないよ」

 

「それに夕飯の材料も――」

 

 小夜は手に持っていたビニール袋をかざした。

 

「三島さん、やっぱり返すよこれ」

 

 もう、うんざりだ……。如月は溜め息を一つ漏らすと、小夜にビー玉を手渡した。

 

「……どうして?」

 

「さっき例のアクセサリーショップにいってきた」

 

「……怒ってるよね? やっぱり」

 

 小夜が上目づかいで如月を見つめると、彼は静かにかぶりを振った。

 

「いいや、呆れてる」

 

「ごめん……でも、ああでもしないと譲ってくれなかったよ、あの人」

 

「だからって……あの店員が止めに入らなかったら、一体どうしてたんだい?」

 

「まあ、それは…… ♪~ケセラセラ、なるようになるさ~♪ かな」

 

小夜はおどけるように体を揺らしてみせた。そんな彼女に如月はいつもの冷めた無表情を向けた。

 

「そんなことまでして、それを手に入れてキミになんの得が?」

 

「如月君の喜ぶ顔が見れる。中々見れないからね、あなたの笑顔は」

 

「そんなくだらないことのために――」

 

「くだらなくなんかないよ。少なくても私にとっては……」

 

「そうやって献身的に尽すのは、本当に好きな人にしなよ」

 

「そうだよね。でも、あの人(・・・)は私を必要としてないから……」

 

「なんだか込み入ってる感じだね」

 

「ええ、そうなの……でもまあ、それとは別に今やあなたが私にとって、結構掛け替えのない存在になっているのも事実だよ」

 

 そいうことをいわれるのが、一番迷惑なんだよ。如月は以前として冷たい眼差しを小夜に向けた。

 

「僕が掛け替えのない存在? 替えのきく代用品の間違いだろ」

 

「……ひどいよ、何でそんなこというの? こないだ1週間ぐらい話さなかった時だって、私かなりキツかったんだよっ! それなのに――」

 

「それはね、認知的不協和によるただの錯覚だよ」

 

 如月はメガネを持ち上げながら、小夜を見据えた。

 

「認知的不協和?」

 

「タバコを吸うという行為に対して ”タバコを吸うと肺がんになりやすい” という事実がある。すると行為と事実の間に矛盾が生じる。その時、人はタバコをやめるか、その事実を否定するという選択に迫られるんだ。しかしタバコには依存性があり、やめるのは困難。 だから人は、事実の方を否定して矛盾を解消しようとするんだ。 ”タバコを吸っていても長寿の人も沢山いる” っていう新しい事実を作ってね」

 

「……なにがいいたいわけ?」

 

「理由は知らないが、本当に好きな人にはキミの気持ちは届かない。だが諦めることも出来ない。だからキミは僕に目を付けたんだ。今までの男と違いキミに夢中になることもないし、体を要求してくることもない。話しかければそれなりに返すし、それ以外はわずらわしいことをいう訳でもない。都合が良いんだよ、キミにとって僕は……だから錯覚(・・)して掛け替えのない人だ、っていう新しい事実を作ったんだ」

 

「何よそれ、いい加減な屁理屈で人を勝手に分析しないでっ!」

 

「いい加減でもないし、屁理屈でもない。いま僕がいったことはキミの本当の気持ちだ。断じてキミは僕を ”掛け替えのない人” だと思ってる訳じゃない。ただの錯覚だよ」

 

「……もういい、帰るっ!」

 

 小夜は持っていたビー玉を如月に投げつけた。

 

「気をつけて」

 

 彼はビー玉を拾い上げると、いつもの無表情な顔を小夜に向けた。すると彼女は瞳に涙を溜めて、如月家の門扉を駆け足で通り抜けていった。

 やっぱり掃除の続きでもするか。体でも動かしてないと、何だか吐きそうだ……。如月は小さくなってゆく小夜の背中を眺めながら「ああ、気持ち悪い」と、気だるそうに呟いた。

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