ハルへ   作:はるのいと

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第三十五話「氷姫の優しいキス」

 気が付くと目の前には、どこまでも続く真っ白な世界が広がっていた。周りを見回してもなにもなく、ただ白いだけの空間がどこまでも続いている。そこは境界線すらなく、上下左右の感覚すらない混沌とした世界だった。

 

「ここは……どこだ」

 

 辺りを見渡しながら僕は呟いた。ただ一ついえるのはここは普通の世界ではない、ということだ。どうして僕はこんな所にいるんだろう……それに加えて更に厄介なのは、自分自身が何者かすら覚えていない、ということだった。

 

 だが焦っても事態が好転する訳ではない。さてどうしたもんかな……僕が浮遊しながらそんなことをぼんやりと考えていると、不意に誰かの声が聞こえてきた。

 

「ここは壱の世界だよ」

 

 声がした方向に目を向けると、そこには黒縁眼鏡をした幼児が、人差し指を立てながら浮遊していた。どこか覚えのあるその懐かしい顔と声――僕はその幼児を静かに見つめた。この子は誰だっけ……思い出せないが、とても大切な存在だったような気がする。

 

「キミは誰だい?」

 

 浮遊しながら僕は幼児に尋ねた。

 

「僕はこの世界の管理人だよ」

 

「管理人?……随分と若手だね」

 

「まあね。でもここはなんでもアリの世界だから」

 

 幼児はそういって指をパチンと鳴らした。すると白一色の世界に二脚のチェアが突然現れる。それと同時に混沌とした世界に上下の境界線が生まれた。

 

「シットダウン、プリーズ」

 

 幼児は仰々しくチェアを勧めてきた。彼にいわれるがままに僕はチェアに腰を下ろしてゆく。その斬新なデザインと座り心地には覚えがあった。

 

「イームズ……」

 

「正解っ! 小洒落たカフェなんかにはよくあるよね」

 

「小洒落たカフェ?」

 

 僕が尋ねると幼児は待ってました、とばかりにニヤッと口角を上げた。そして再度パチンと指を鳴らした。すると目の前に一脚のテーブルが現れる。そしてなぜかそこには抹茶パフェが二つ置かれていた。

 

「さあ、召し上がれ」

 

「……どうしていきなりパフェなんだい?」

 

「キミもおかしなことをいうねえ、だって今日は ”パフェの日” じゃないか」

 

「パフェの日?……」

 

 どこかで聞いたような胡散臭い記念日……いつ、どこで誰から聞いたんだっけ。靄がかかったようにはっきりしない、いまの頭では思い出すのは不可能だった。

 

 僕がそんなことを考えていると、幼児はつまらなそうに指を一つ鳴らした。すると目の前のテーブルとパフェは、一瞬して消えてなくなった。

 

「折角、御馳走してあげようと思ったのに……パフェは嫌いなのかい?」

 

 幼児は拗ねたような眼差しを向けてきた。

 

「なるほど、キミが指を鳴らせば望んだものが具現化される。そして瞬時に消すことも可能、という訳だね」

 

「正解。でも具現化されるのは僕が望んだものじゃなくて、キミが望んだものだよ」

 

「僕が望んだもの?……僕はなに一つ望んじゃいないよ」

 

「いいや、キミは確かに望んだんだ。この混沌とした世界に秩序を、と。だから僕がチェアを具現化せて、上下の境界を作ってあげたって訳さ。いわゆる深層心理ってやつだよ」

 

 幼児はチェア摩りながら更にこう続けた。

 

「これはその為のオプションみたいなものさ」

 

「百歩譲ってこのチェアの必要性は理解したよ。だけど抹茶パフェは必要ないだろ?」

 

「つまらないねえ、キミは。これは演出だよ、演出っ!」

 

 幼児はそういって再び指を鳴らした。すると真っ白だった世界は突然、熱帯雨林のような場所に切り替わった。

 

「弐の世界へようこそ」

 

 そういった幼児の服装はいつの間にか、ベージュのサファリハットと、同系色のシャツと短パンに変わっていた。そして斜め掛けしにした虫捕りカゴと、右手に持った大きな虫取り網を、誇らしげにかざしながら僕を見据えてきた。

 

「随分と準備がいいね」

 

「まあ、これでも管理人だからね」

 

「……これも僕が望んだことかい?」

 

 鬱蒼と生い茂るジャングルを見渡しながら、僕は幼児に冷めた眼差しを向けた。

 

「うん。どうやら壱の世界に飽きてたみたいだからね。気を利かせてあげたって訳さ」

 

「余計なお世話だ……因みに世界はいくつまであるの?」

 

「それはキミ次第だよ」幼児は小首を傾げながら微笑んだ。「そんなことよりね、この熱帯雨林にはとても珍しい昆虫や動物たちが、沢山いるんだ。折角だから少し散策でもしないかい?」

 

 幼児は虫取り網を振りながら微笑みを向けてきた。

 

「別に構わないよ、どうせ暇だから……」

 

 本当はそんな面倒なごとはご免だった。だけど自分が何者かも分らず、この訳の分からない世界に放り出されたいま、頼れるのはこの小生意気な幼児しかいなかった。

 

「よしっ、じゃ行こうっ!」

 

 僕は幼児の背中を見つめながら、ジャングルを散策し始めた。すると早速、変わった昆虫を見つけたらしく幼児はそれをつまみみながら、誇らしげに僕に見せてきた。

 

「これはね、マスダ・ナナフシ・ハムカツモドキ、という目面しい昆虫なんだよ。どこが目面しいかというとね、普通のナナフシは枝に擬態するんだけど、こいつはハムカツに擬態するんだ。ほらっ見てごらん、もうハムカツになっちゃったよっ!」

 

 幼児のいう通りその昆虫はとても美味しそうな、 ”厚切りハムカツ” に擬態していた。

 

「一つ聞くけど……食べ物に擬態してなんのメリットが?」

 

「あっ! シラガ・ヘンクツ・トウリョウだっ!」幼児は僕の言葉を無視すると、樹木に張り付いていたクワガタをささした。「あれはね、昆虫界の中でも非常に偏屈なことで有名なんだ」

 

「……昆虫に偏屈も素直もないだろ?」

 

「いいや、あるさ。少なくてもこの世界ではね」

 

 幼児はそういうと珍しい昆虫やら動物などを、続々と見つけていった。そしてジャングル探索も飽きてきた頃だった、一匹のシャムネコが咥え煙草で僕らの前に現れた。

 涼しげな目元と、余計な脂肪が全て削ぎ落とされたしなやか身体つき――そんな彼女(・・)には凛とした白衣がとても似合っていた。

 

「この寝坊助が」

 

 シャムネコはそういって、煙草の煙を僕に吹きかけてきた。咥え煙草で人間の言語をあやつる猫――しかも白衣まで羽織っている……。呆気にとられる僕をよそにシャムネコは更にこう続けた。

 

「今日は随分と大人しいじゃない。いつもの ”達者なお口” はどうしたのよ?」

 

 シャムネコはそういって再度、煙草の煙を豪快に吹きかけてきた。

僕はその煙を手で払いながら、目の前のシャムネコを見据えた。

 

「猫風情が人間様に向かって、有害な呼出煙(こしゅつえん)を吹きかけるな」

 

「ふふっ、調子出て来たじゃない」

 

 シャムネコは満足そうにいうと、真剣な眼差しを向けながらこう続けた。

 

「それで、キミはいつまでこんな所でアホ面を浮べながら遊んでるわけ?」

 

「アホ面を浮かべた覚えはないし、見ず知らずの小生意気な猫に答えてやる義務もない」

 

相変(・・)わらず(・・・)、ああいえば、こういうんだから……」

 

 シャムネコは大げさに溜め息を漏らした。

 

「そんなことより早く戻ってこないと、あの(・・)()に捨てられちゃうわよ」

 

 あの子って誰だ? それにこの猫、いま確かに相変わらずっていったぞ……。

 

「あの子って誰だい?」

 

 僕は眉にしわを寄せながら尋ねた。

 

「思い当たるふしは?」

 

「ないから聞いてるんだ」

 

「それが人にものを頼む態度?」

 

「人じゃない、猫だろ?」

 

 人と猫の睨み合いが暫し続く。そして根負けしたのは猫のほうだった。

 

「キミの宝物よ」

 

「宝物?」

 

「ええ、なにか思い出さない?」

 

「……悪いけど全く話が見えてこないんだけど」

 

「そう、なら仕方がないわね」

 

 シャムネコはそういうと、溜め息交じりで煙草の煙を吐き出した。そして鋭い眼差しを

向けたまま、更にこう続けた。

 

「私が話せるのはここまでよ。あとは自分の力でなんとかしなさい」

 

 シャムネコはそういい残し、森の奥へと消えて行った。そのどこか聞き覚えのある説教染みた話し方に、なぜだか安心する自分がいた……僕はそんなことを思いながら、隣で佇む幼児に顔を向けた。

 

「この世界では猫は喋るのかい?」

 

「ああ、よくあることさ」幼児は当たり前のようにいってのけた「気にしない、気にしない。一休さんの精神でいこう」

 

 幼児は更に密林の奥へと足を進めてゆく。

 

「……どうしてジャングルにシャムネコがいるんだい?」

 

「キミも学習能力がないね。さっきからいってるだろ? この世界はなんでもアリなんだよ」幼児は呆れ顔を浮かべた。「あっ! アレを見てごらん」

 

 幼児が指さした先には一匹のゴリラがいた。たくましい大胸筋と丸太のような腕周り。見るからに屈強な雄ゴリラだ。だがなぜかゴリラの頭の上には、ピンクの可愛らしいカチューシャが乗せられていた……もしかしてあれは雌なのか? 僕はそう思いながら目の前のゴリラを見つめた。

 

「戻ってこいっ!」ゴリラはドラミングしながらいった。「お前がいなくなったら、そっちのクラスで弁当食いずらいじゃねえかっ! だから……だから早く戻ってこいっ!」

 

 ピンクのカチューシャを付けたゴリラはそういって、先程のシャムネコと同様に、森の奥へと消えていった。

 

「また喋った。しかも今回も意味不明なことを……」

 

「キミは運があるね。さっきのドクターシャムや、いまのメイドゴリは、中々出会えないレアものなんだよ」幼児は微笑みながら僕に顔を向けた。そして「運がない割には……ついてるじゃないか」と、いって屈託のない笑み浮かべた。

 

 呆けた様子の僕をよそに、幼児はまたパチンと指を鳴らした。すると世界は突然ジャングルから、水中へと移っていた。だがなぜか不思議と呼吸は苦しくない。辺りを見渡すと様々な海底生物の姿が見えてくる。またこっちの都合も考えずに……僕は水中をただよいながら心の中で呟いた。

 

「参の世界へようこそ」

 

 幼児はレギュレーターを外すと、したり顔を浮かべた。そしていつの間にかダイビングスーツに身を包んでいた彼は、微笑みを浮べながらこう続けた。

 

「ほら、新たな刺客が来たよ」

 

「刺客?」

 

 そういった瞬間だった、鼻っ柱に強烈な痛みが走った。どうやら誰かに殴られたようだ。僕は鼻を押さえながら襲ってきた相手を目で追った。するとそこには一匹の黒ヒョウが海中に浮かんでいた。その漆黒の美しい毛並と細く引き締まった身体つきは、まさに肉食獣といった感じであった。

 

「こんなとこで一体なにやってんのよっ!」黒ヒョウは犬かきならぬ、ヒョウかきをしながらいってきた。「いったわよね? あの子のこと任せるってっ!」

 

 また、例のあの子か……誰だか知らないが相当な人気者のようだ。僕は心の中で溜め息を一つ漏らすと、目の前の黒ヒョウを見据えた。

 

「いきなり殴りかかってきて、訳の分からないことをいうな……見てみろ、鼻血が出たじゃないか」

 

 僕は海水にただよう赤い血を、鼻を押さえながら見つめた。

 

「男が鼻血くらいでガタガタいいなさんなっ!」

 

「鼻血に男も女もないだろ? 殴られた痛みは平等なはずだ。それに、そもそもキミは――」

 

「ああ、もうっ! うるさい、うるさいっ!」

 

 黒ヒョウは耳を押さえながら叫んだ。すると途端に海底に沈黙が訪れた。まったく……ヒステリックな黒ヒョウだ。僕がそんなことを思ってると、真横を黒マグロが勢いよく通りすぎていった。

 

 それは有名所の寿司屋が買い付けるような、大層立派な物だった。高級店では一貫幾らぐらいするんだろうなあ。そういえばマグロはスズキ目サバ科。ああ見えて青魚なんだよな……僕が鼻血を止血しながらぼんやりとそんなことを考えていると、黒ヒョウが静かに口を開いた。

 

「……なんで黙るわけ?」

 

「うるさい、といったのそっちじゃないか」

 

「そうだけど……急に黙んないでよ」

 

 黒ヒョウは途端にしおらしくなった。

 

「なら聞くけど僕への暴行の動機は一体なんだ?」

 

「あんたが無責任だから……」

 

「僕が無責任? 分かるように説明しろ。そうじゃなきゃ――」

 

「いえない」

 

「どうして?」

 

「そういう決まりなの」

 

「誰が決めたんだい?」

 

「そんなことはいいから、あんたは四の五のいわずに黙って、こっちに戻ってくればいいのっ!……そんでさ、いつもみたいに私に憎まれ口でもたたいてよ」

 

 黒ヒョウは悲しげにそういい残すと、海上へと消えて行った。

 

「どうして海底に黒ヒョウが?」

 

 僕は先程と同様に幼児に尋ねた。

 

「本当は弐の世界で現れる予定だったんだけど、僕が指を鳴らしちゃったから慌てて追いかけて来たんじゃないかな」

 

「相変わらず考えなしだな……うん、相変わらず?」

 

「なにか思い出したかい?」

 

「いいや、いい線までいったけど……やっぱりまだ頭がぼーっとしてるみたいだ」

 

 僕は重い頭を振りながら幼児を静かに見つめた。

 

「焦らない、焦らない。さっきもいっただろ? 一休さんの精神で行こう」

 

「でも一つだけ分ったことがあるよ。動物が人間の言語を話す、そんな事は現実世界では絶対にあり得ない。ということはこれは僕の精神世界だね?」

 

「大正解っ!」幼児はそういって微笑むと、またパチンと指を弾いた。「肆の世界へようこそ。四……死という縁起の悪い数字でもあるし、幸せの ”四” ともとれる厄介な世界だね」

 

 辺り一面は黄金色の砂漠――そんな中、幼児はアラブの民族衣装であるカンドーラに身を包み、頭にはチェックのターバン、といった如何にもな中東ファッションで、フタコブラクダに腰を下ろしていた。

 

「キミの目的はなんなんだい?」

 

 僕は幼児を静かに見上げた。

 

「僕の目的はキミの目的だよ。ここはキミの頭の中の世界なんだから」幼児は真剣な眼差しを向けてきた。「でも僕が出来るのはここまでだ。いくかもどるか(・・・・・・・)、あとはキミ次第だよ」

 

 彼は小さく微笑むと静かにふっと消えた。誰もいなくなった一人きりの砂漠……いくかもどるか、ってどういう意味だ?

 

「管理人なら最後まで責任もてよ」

 

 僕はそう呟きながら灼熱の砂漠を歩いて行く。暫く歩いた所で猛烈な喉の渇きを覚えた。辺りを見渡すと、遠くに小さなオアシスが見えた。なるほど、あの幼児のいっていた通り ”望めば” というやつらしい。そこまで走って行って、間近でオアシスが消えるなんていう、ベタなオチはなしだぞ。僕はそう呟きながら駈け出した。

 

 だがいくら必死で走っても、そのオアシスにはたどり着けない。一体どういうことだ。溜め息を漏らし額の汗を拭った時だった、砂漠には似つかわしくない新緑の木の下で、一匹のミーヤキャットが二足で佇みながら静かに僕を見つめていた。

 

「あのう、ちょっといいですか……」

 

 この世界は自分の意識下……幾分恥ずかしさはあったが僕はミーヤキャットに話しかけた。

 

「ここに座って」

 

 するとミーヤキャットは隣に座るよう促すと、冷えた水筒の水を僕に手渡してきた。

 

「お腹はへってない?」

 

 確かに腹はへっていた。その旨を伝えるとミーヤキャットは弁当を差し出してきた。それはとても温かく、なぜか懐かしくて涙が出そうになった。

 

「これはキミが作ったの?」

 

「うん……美味しくなかった?」

 

 ミーヤキャットは上目づかいで尋ねてきた。どこかで見た色素の薄い潤んだ瞳……。

 

「いいや、凄く美味しいよ」

 

 僕は素直に答えた。

 

「嬉しい。彼は頷くだけで、滅多にそんなこといってくれなかったから……」

 

「彼?」

 

「私の一番大切な人」

 

「ああ、キミの恋人か」

 

 僕は弁当を頬張りながら納得するように頷いた。

 

「うん。でもね、その彼はいま寝てるの。悪い魔法使いに魔法をかけられちゃって、物凄い深い眠りについちゃったの……」

 

 ミーヤキャットはそういうと、僕の頬を両手で優しく包んできた。

 

「私のダーリンはね、超ド級のややこしい人間なの。人間嫌いなくせに、本当は超優しいのよ。あの黒縁メガネで、いつも私を見守ってくれていたの」

 

「黒縁メガネ?」

 

「そう、黒縁メガネ。なにか思い出さない?」

 

 黒縁メガネ……ぼんやりする頭で考えてみた。すると先程の幼児の顔が不意に浮かんできた。やっぱり彼とはどこかで会ったことがある、そんなことを考えていると、ミーヤキャットはさらにこう続けた。

 

「彼は地味でねえ。容姿端麗、才色兼備の私みたいな完璧な女の子には、全く釣り合わないんだけど、なぜだか惹かれちゃったんだなあ……」

 

 容姿端麗、才色兼備? 自画自賛も甚だしいが、その前に四文字熟語の意味がかぶってる。相変わらず国語力が足りないなこの女は……うん? 相変わらず? この女? このセリフもどこかでいった覚えがある。

 

「なにかを思い出してきた?」

 

 ミーヤキャットは小首を傾げると、微笑みながらこう呟いた。

 

「ヒントはここまでだよ」

 

 そういってメガネを上げる仕草をすると、ふっと煙のように消えてしまった。また一人か。まあ、一人きりは慣れてるけど……いいや、一人に慣れている覚えはないぞ。どうして僕はなんのためらいもなくそう思った? 

 

 相変わらず頭の中に靄がかかっているようで、考えがまとまらない。僕は額に手を当てながら何度も頭を振った。丁度その時だった、聞きなれた声がどこからともなく聞こえてきた。

 

「眠れる森の王子様って知ってる? いくら博学なキミでもこの物語は知らないはずよ」 

 

 聞きなれた涼やかな声は、優しく笑いながらいった。

 

「その王子様はね、地味で黒縁メガネで見た目のほうはもう全然なの。加えて性格も超ひねくれててね、なにをいっても返ってくるのはぶっきら棒な生返事ばかり」

 

 声の主はそういいと一呼吸置いた。

 

「余計なお世話だ……」

 

 なぜだか僕はそう声に出していた。それにしてもこの話……僕はさっきのミーヤキャットのことを思い起こした。

 

「そして厄介なことに私の手におえないほどのトラウマだらけで……でもね、そんな厄介な王子様だけど……氷姫のピンチには必ず駆け付けて、いつも助けてくれるの」

 

 声の主はしゃくりあげるようにいった。

 

「助けられていたのは、いつも僕のほうだよ……」

 

 自然に呟いていた。

 

「でもね、その王子様は悪い奴に魔法をかけられて深い眠りについちゃうの。そしてその魔法を解けるのは氷姫のキスだけ……だからお願い早く戻ってきて」

 

 唇に優しい温もりが伝わってきた。その瞬間、頭の中にかかっていた靄が一瞬にして消えてなくなった。それと同時に全てを思い出した。すると気が付いた時の、あの白い世界に舞い戻っていた。

 

「悪かったね、一人にして」

 

 目の前には、黒縁メガネの幼児が微笑みながら佇んでいた。

 

「管理人なら最後まで責任持ってよ」

 

 如月はハル(・・)に困り顔を向けた。

 

「ごめん、ごめん。でも自分でいうのもなんだけど、結構いい仕事したと思うよ」ハルは優しい微笑みを浮かべた。「ほら、早く戻ってあげなよ。キミの一番大切な人が首を長くして待っている」

 

「もしかして、これでお別れって訳じゃないよね?」

 

「相変わらず甘えん坊だなあ」

 

 ハルはそういって溜め息を漏らすと、優しい表情でこう続けた。

 

「大丈夫だよ。ナツには大切な人たちがいっぱい出来たじゃないか。だから僕はもう必要ないんだよ」

 

「そんなことないよ、だって――」

 

「いまここにいる僕はキミの心が作った ”ハルちゃん” だ」幼児は真剣な眼差しで、如月を見据えてた。「そんなものにいつまでも頼ってちゃだめなんだよ」

 

 この世界は僕の意識下にある。そうなるとハルちゃんがいっている言葉は僕自身の想い、ということだ……そんなの嘘だ、僕は自分の心をどうしても認めることが出来なかった。

 「盆暮れ正月……あと命日くらいは逢いに来てくれてもいいんじゃない?」

 

 如月は苦し紛れの言葉と、苦笑いを浮かべた。

 

「それが無理だってことは、ナツが一番よく分ってるだろ?」ハルは諭すように如月の頭を優しくなでた。「大丈夫、これからは()()()い方向に向かうから」

 

「無責任なこといわないでよ」

 

「もういない人間に責任を求めるなよ」

 

 ハルは肩を落としながら困り顔を浮かべた。

 

「……ごめん」

 

 如月は俯きながら呟くと、彼は12年前のあの時から、ずっと聞きたかったことを尋ねた。

 

「ねえ、ハルちゃん……僕のこと恨んでる?」

 

 こんな質問は無意味だ。なぜならこの世界は僕の意識下にある。それゆえに返ってくる答えは、常に僕の願望に基づいたものになるからだ。だけど、どうしても聞かずにはいられなかった。

 

「嫌な質問だね」

 

「ねえ……答えてよ、ハルちゃん」

 

「そうだなあ……」ハルは宙に視線を彷徨わせると、閃いたように人差し指をかかげた。

 

「その答えは先送り、ということで」

 

「先送りって、どういうこと?」

 

 予想外の答えだった。

 

「先送りは、先送りだよ。 ”その時点ですべき判断や処理を、日時を延ばして行うことにする” という逃げの一手だ」

 

「そっか……じゃあ、その答えは僕がそっちの世界に行った時にでも、じっくりと聞かせてもらうことにしようかな」

 

「うん、そうしてくれると助かるよ」

 

 ハルは微笑みながら頷いた。すると暫しの沈黙が二人の間に流れる。程なくして如月が静かに口を開いた。

 

「じゃあ、暫しのお別れだね」

 

 ナツがいった。

 

 「うん、暫しのお別れだよ」

 

 ハルが応えた。

 

 二人の幼児は、あの頃のように無邪気な笑顔を浮かべた。

 

 

 

 瞼を開くと目の前には、憂いだ表情を浮かべる小夜の姿があった。如月はそんな彼女を優しく見つめると、静かに口を開いた。

 

「やあ……」

 

 すると一瞬なにが起こったのか分らない、といった表情で小夜は呆然と目覚めたばかりの如月を見つめた。

 

「どうした、暫く見ないうちに無口キャラに変更でもしたのかい?」

 

「……う、うっさい、バカ」

 

 小夜は俯きながら涙をこらえた。

 

「今日の氷姫は随分とご機嫌斜めみたいだ」

 

「寝起きのくせにに相変わらず口の減らない……」

 

「僕の数少ない魅力の一つだよ」如月は微笑みを浮かべると、俯く小夜の頬に優しく手をあてた。「……痩せたな」

 

「うん、ちょっとね……」

 

 小夜は微笑みながら、やつれた顔を如月に向けた。

 すると如月は「ちょっとじゃないだろ」と、いって優しく小夜を抱きよせてゆく。久しぶりに抱きしめた彼女の体は、とても華奢で少し力を入れただけでも砕けてしまいそうだった。

 

「5キロ……いいや、6キロ?」

 

「大げさだよ。それに最近ちょっと幸せ太り気味だったから、これくらいで丁度どいいの」

 

 如月の胸に顔を埋めながら、小夜は照れくさそうに微笑んだ。

 

「辛い思いをさせたね……ごめん」

 

「……男がそう簡単に謝っちゃだめだよ。前にもいったでしょ? 私は亭主関白な人が好きだって」

 

 小夜は顔を上げると、潤んだ瞳で如月に微笑みかけた。

 

「本当……変わった女だ」

 

「そりゃそうよ。なんせ如月君を選んだくらいだからね」

 

「なるほど……確かにキミのいう通りだ」

 

「でしょ」

 

 小夜は悪戯っぽく微笑んだ。すると如月はそんな彼女を幸せそうに見つめた。

 

「あの雨の日、キミと出会えて本当によかった」如月がそういった途端、いままで必死にこらえていた涙が小夜の頬を静かに伝った。「また泣く」

 

 彼はそういって優しく小夜の頭を撫でた。

 

「誰のせいよ」小夜はいつぞやと同じセリフを口にすと、彼の胸に顔を埋めた。「もう……もう、一人にしちゃ嫌だよ」

 

「ああ、分かってる」

 

 如月は静かに頷くと、いつも通りの良く通る声でこう続けた。

 

「大丈夫、これからは()()()(・・)方向(・・)に向かうから」

 

 そうだよね? ハルちゃん。

 

「本当?」

 

 如月の胸から顔を上げると、小夜は涙を流しながら尋ねた。

 

「ああ、約束するよ」

 

「じゃあ……信じる」小夜はそういって如月の腹部の傷を優しくさすった。そして静かに彼を見つめると「お帰りなさい」と、いって微笑を浮かべた。

 

「ただいま」

 

 如月は頬を伝う小夜の涙を拭うと、もう一度、心の中で ”ただいま” と呟いた。そして優しく彼女の唇を塞いでゆく。その瞬間、曇り空の隙間からひとすじの、柔らかい木漏れ日が二人に降り注いできた。

 

 温かいなあ……。小夜の温もりと窓から注ぐ木漏れ日を感じながら、如月は心の中で呟いた。

 やっと全てが終わった。正直かなり疲れたなあ。本当に長かった……でも悪いことばかりじゃなかった。だってこんなに大切な人に出会えたんだから……。

 そうだよ。いまなら自信を持っていえるさ、悪いことばかりじゃなかったよ……。如月は心の底から安らぎを覚えながら、静かに瞳を閉じた。

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