黎明は闇に散る薔薇と共に…… 1
何物もそれ自体意味を持たない。
ただ其処に存在するのみ。ある形質を纏っている、それ以外に何も持たない。
上滑りだと思うならば、考えてみるがいい。
意味を与えるのはただ意識を持ちし存在であり、それの主観であり、独断。
傲慢な、独断。
それ以外に、何がある。
0も1もいわゆる無限に考え得る表象の一つであり、それに何の意味もない。元来数ですらありはしない。
奇跡の果てに、因子が絡まり合い生まれる命は。
それに意味はない。意味など与えられない。何者もそんな権利を持ちはしない。
だがそれは美しい。意味などなくとも。
意味などなくとも生命はそこにあり、美しく輝いている。
涙が流れる程に。
羨望に、嫉妬に、涙が流れる程に。
私を不要な存在だと、無意味な存在と決めたのは。
私を生まれ落ちるその前に拒絶したのは。
世界だ。光ある世界。
それはあまりに傲慢な独断で、私を締め出し、虚無の闇に打ち捨てた。
無価値なものは世界に要らぬと。価値無きものはすなわち無意味と。
私の意識に権利をくれ。
私の存在に意味を与える権利をくれ。
私の哀しみはねじ曲がった。分かっている。
けれども止められない。
光を恨むことを。
世界を恨むことを。
――意味ある存在を、葬ってやる。
***
昼夜、天を覆い尽くすは黒雲だ。
陽光も、月光も一筋すら通さず、厚く垂れ込める。今にも篠を突く雨が降り注ぎ、雷鳴が轟きそうな危うさが漂っている。
だが実際には完全に渇水し、ひび割れて大きな裂け目を幾つも作り、草の一本も生やさぬ広漠な大地にも、黒霧が立ちこめる。彼方を見晴るかす事は叶わない、まさに五里霧中である。
そして、何者かの呪詛あるいは悪意を思わせる、邪な気配が辺り一帯に充満する。それがまるで黒雲と霧という形を成しているのだと思わせる程だ。此処が、ダークエリアという深淵、いわば地獄界の直上に位置しているからなのだろう。
一人の騎士が荒野を駆けていた。
おおよそこの禍々しい空間には似つかわしくない、華やかで美しい騎士だ。暗黒の中で彼の姿だけぼんやりと紗幕を通したように浮かび上がっているのは、彼自身が輝きを放っているからなのだろうか。すらりと均整の取れた肢体に纏うのは薔薇輝石の色をした流麗な鎧で、肩から黄金色の帯刃が伸びており、彼が足の運びを変える度風になびくように揺れる。
晦冥を抜けた先には、さながら日を受けて綺羅綺羅しい細氷の柱のような光の楼があるのを彼は知っている。そして、其処へ向かって足を馳せているのだ。
この電脳世界――デジタルワールドに数個存在する、別位相世界へのエレベーターの内の一つだ。アクセスポイントと呼ばれたりもするが、その事実は半ば風化した伝説と化されていて大衆の与り知る所ではない。他世界への干渉によるみだりな節理の「歪み」を懸念して、意図的にこの世界の守護者がそうしたのだ。
しかし、時として「歪まねばならない」場合もある。その為にこのアクセスポイントは存在していると言えよう。
何を隠そう、彼――ロードナイトモンは自身守護者聖騎士集団ロイヤルナイツ――の一員であり、アクセスポイントの存在を秘匿した者の一人なのだ。
彼はその秘する異世界への扉たる煌めきを目指しているものの、自分が異界へと行くためにそこを目指しているのではない。
振り返ると、後ろから、薄紫のなめらかな体毛をした不思議な動物が付いて来ているのが見える。
名はドルモンという。大きさは大型犬ぐらいだろうか。しかしその外見は奇妙である。狐のような尻尾にぴんと尖った両耳。爪は大きく鋭い。そして何より額に埋め込まれた、逆三角形の赤い宝石のようなものが、この生物の特異性を雄弁に物語る。
ドルモンはロードナイトモンの飛ぶように軽やかな足取りとは反対に、せわしなく短い四肢を動かし精一杯眼前にぼんやり見える姿に付いていこうとしている。その様子が本当に微笑ましいと思えると同時に、騎士の胸の内に寂寥の念が込み上げて来る。
今はまだ見えて来ないが、光柱に辿り着いてしまったら、もう永らく、いや、もしかするともう二度と――ドルモンとは逢えなくなってしまうだろうと分かっているから。
そう、この可愛らしい連れをへとある異世界へと送る事こそ彼の目的であった。
節理を歪め、デジタルワールドを元に戻すために。
***
よく噛み、よく食べる奴だ――それが、保護を委託されたドルモンに対するロードナイトモンの第一印象だった。
自分をじーっと見るなり、がっつりと手に噛み付いて来た時、大切にしていた庭園の花を食い荒らされた時。心底ロードナイトモンは怒りを覚えた。なんだこの獣は、と。
それでもきちんと誠意を込めて世話をし、守ってやり、やがて愛着が湧き、当初憎たらしかったはずのドルモンの性が可愛く思えるまでに至ったのは、ロイヤルナイツとしての使命感が成せる業だったのだろう。
ぼんやりと沈潜しながら歩を進めていると、背後の方で今までしていた地面を蹴る音がふっと途絶えた。
反射的に身を返して足を止めると、眼下にドルモンがへばってうずくまっている様子がそれとなく認められた。
「ドルモンもうだめ~。やすみたい~」
弱々しく声を絞り出し、くーんとすがるような鳴き声まで付ける。
「もう少し頑張れないか?」
「むり~。もうつかれた~」
問い掛けに頑としてそう言い張る小動物。薔薇色の騎士は、こんな気味の悪く「美しくない」場所に必要以上に留まりたくなかったがゆえにしばしの間逡巡したが、薄紫色のこの動物に優雅な足取りで歩み寄ると、それを左腕で何やら術でも用いたようにふわりと俵担ぎした。
「お前はかなり重たいから、本当はこんな事はしたくないのだがな」
「やった~。ドルモンおんぶ、おんぶ~」
ロードナイトモンが漏らした本音などどうでも良く、ドルモンは休める事に無邪気に喜んだ。目を閉じて、ロードナイトモンという快適な乗り物に身を委ねる。
彼の肩が辛くならないうちに、遠方に遥か天まで立ち昇る光の柱が微かに見えてきた。
ロードナイトモンの心が再び感傷に痛んだ。彼処に辿り着いてしまうと、もうドルモンとは今生の別れなのかも知れないのだ。ドルモンと過ごした日々は期限付きの契約でしかなかったのだと改めて思い直す事になった。
突如、ドルモンに休ませておけば良かったという後悔の念が波濤の如く彼に押し寄せた。勿論、それはドルモンの為なんかではない。ドルモンともう少し一緒に居たかったという彼自身の為だ。こんな場所に長く留まるのを良しとしない彼の美意識とやらも、掠れてしまう程に。
然れども、ロードナイトモンは聖騎士ロイヤルナイツの一員にして、デジタルワールドの「希望」を然るべき時まで護るという大任を帯びた者。私情を挟む余地など何処にもありはしない。抱いている思いをおくびにも出さずに、ただただ薔薇色の騎士は前進する。
すると、ドルモンが堰を切ったようにわんわんと泣き出した。
「やっぱりやだ~!ドルモン、おわかれやだ~! かえろうよ~、かえろうよ~!」
足をばたつかせてわめくドルモンをしなやかな腕でしっかりと押さえつけながら、彼はひたすら歩を進める。そして静かに諭すように言った。同時に自らに言い聞かせるように。
「もうここまで来てしまったのだぞ。覚悟を決めるんだ」
「やだやだ~! ロードナイトモンとおわかれやだ~!」
しかしひたすら幼子のように泣き立てるドルモンを、ロードナイトモンは責める気になれなかった。事実、ドルモンはまだほんの子供であるし、彼のわがままは叶えてやるべきなのだ。
それというのも、ドルモンの半生に、彼の意思などというものは全くなかったからだ。全ては必然的に押しつけられたものでしかない。
それでもドルモンが自分との別れをこうして惜しんでくれる。ロードナイトモンは救われたような気がした。
「ご機嫌麗しゅう、ロードナイトモン様」
薔薇色の騎士は直ちに感情を捨て去った。
だしぬけに、強烈な妖気――そしてそれに潜むように含まれた殺気が二人の背後から襲いかかって来た。ロードナイトモンが声がしたのと殆ど同時に身を翻したのは流石というべきだろう。即座に右手に装備した大振りの盾の様な武器を構える。ドルモンの方はと言えば、泣くのをぴたりとやめてぶるぶると身を震わせ、騎士の鎧にがっちりしがみつく。
「――貴様は……!」
一面の黒霧の中でもはっきりと浮き立ったその姿を認め、ロードナイトモンは呟いた。
濃艶。真っ先に思い浮かべるならその言葉だろう。胸元の開いた黒衣の上に藍紫を纏う、結ったぬばたま色の髪に黄金のかんざしを差した美女は、それだけを見るなら人間にも見えるだろう。しかし、その背から生えた大小二枚の漆黒の翼、袖から覗く獣染みた金の五爪が、彼女が尋常ならざる存在である事を示す。
「――七大魔王、“色欲”のリリスモン……!!」
「ロードナイトモン様。初お目にかかります」
緊迫感にさいなまれている二人とは違って、余裕に満ちた様子で左手を口元に当てて妖女は笑った。
七大魔王――その身に大罪を背負い、デジタルワールドの暗黒に君臨する恐るべき禍つ者達。その名を知らぬ者などいるはずがない。勿論、ドルモンだって知っている。
言葉面は大変上品に聞こえるが、何故か嫌悪感にも似た感覚を覚えたのは、“色欲の”魔王ならではの何かがあったからだろう。
「何故、かような場所にいらっしゃるのかしら?」
「それは貴様とて同じ事だろう」
ロードナイトモンは動揺を一切表に出さずに冷たく言い返す。
彼の言う通りであった。七大魔王がダークエリア――まさにこの真下にあるわけだが――の地下宮殿から表に出てくるのは、ただ事ではないのだから。
「久々に外に出てみたら、珍しい公達の御姿が見えたから追ってみたのよ。それも、騎士達の王にしてロイヤルナイツの一員である貴方様がいらしたので」
飄々とした笑みを浮かべながらリリスモンは言った。しかし、その外出した理由の一端でも知りたかったロードナイトモンからすると、彼女の言葉は答えになんぞなっていなかった。
それにしても、何故自分達の尾行なぞしたのだろうか。ロイヤルナイツをここぞとばかりに始末するために? それはそれでおかしい。後ろから強襲すれば実に簡単な話なのだから、自分達はさっさとやられているはずだ。それとも――?
いや、そんな事は後で考えて然るべきだ。
「ドルモン、私から降りるのだ。走れ。場所は――無論分かるな?」
「う~」
「行け! 絶対に振り返るな!」
「うん~」
ロードナイトモンの殆ど激昂に近い命令で、この哀れな小動物は震えながらも、疲労の取れた体で――その代わり恐怖感と緊張を新たに得たが――器用に聖騎士の肩からひょいと飛び降りると、視界の果てに映る微かな光へと一直線に駆けて行った。
その様子に向けて、二つの蠱惑的な視線が向けられている。
「あらあら、可愛いデジモンだこと。どちらに向かわれるのでして?」
妖艶なる魔女はぞくりとするような笑みを浮かべ、決定的な言葉を唇の間から滑らせた。
「もしかして、“アクセスポイント”かしら?」
ロードナイトモンは一瞬凍り付いた。
厭な予感が当たってしまった。だが何故その言葉を知っている――?
思い巡らす暇はなかった。
「やはりそう?」
束の間無言でいたロードナイトモンに対して、リリスモンが一層口の端を吊り上げて鎌を掛ける。
その直後、紫に彩られた唇を開き、ほうと吐息を漏らす。
途端、吐息が変じた。
周囲の黒霧よりも遥かに暗く、おぞましい霧に――。
それが捕らえようとしているのは、懸命に走るドルモンの後ろ姿だ。
ロードナイトモンの知る限り、それは「絶対に触れてはいけない」呪いの吐息。触れてしまったら最後、死してなおその痛みに苦しみ続けるという禍つ吐息――。
「そうはさせん!」
ロードナイトモンは一声叫び、刹那、自分が霧の進行方向から右方に飛びずさる。
鎧の帯刃が何本も素早く空を裂いて伸び、黒い霧に立ち塞がった。
黄金の刃に当たって霧は文字通り雲散霧消したが、刃が末端から粒子に分解されて空塵と化してゆく。その浸食はロードナイトモンの鎧の留め具まで及んで、帯刃がまる三本消滅した。
「わたくしの“ファントムペイン”をお防ぎになるなんて……流石」
リリスモンがわざとらしく驚いて見せる中、虚空の粒子データが煌めきながら集束し、再び目映い色の帯が形成される。色欲の魔王は今度は本気で目を丸くする。しかしそれは同時に楽しんでいるようでもあった。
ロードナイトモンの方はといえば冷静さを保つのに必死だった。もし帯刃が鎧の「付属品」でなかったのなら、帯刃は再生しないどころか、とっくにロードナイトモン自身が消滅していたであろう。
ロードナイトモンは、守護騎士ロイヤルナイツの一員として、危険な任務を幾つもこなし、数え切れない死地を潜り抜けてきた。それゆえ、彼は何時如何なる危機に対しても泰然としていられる、精神の境地に達しているといえよう。
けれども、今回は違った。
確かにこれもまた危険任務である事には違いないが、過去のそれとは一線を画している。
電脳核の鼓動を微かにでも乱す不規則なパルス――これは恐怖だ。
しかし、いくらそれに己を乱されようとも、寧ろ己を殺し、何としてでもこの七大魔王をこの先に進ませる訳にはいかない。
しかしここで、最も引っかかる疑問をロードナイトモンは呈する。
「――何故、知っているのだ」
「アクセスポイントの事かしら?」
「無論」
「そのような事、貴方様がお知りになってどうなさるの。貴方様だからこそ教えて差し上げるべきなのかも知れないけれど」
「――どういう意味だ?」
「貴方だからこそ」――様々な波紋を広げるその言葉。しかしロードナイトモンの問い掛けを無視し、リリスモンは相変わらず顔に笑みを貼り付けたまま言った。
「……いいえ、これから死んでゆく御仁には、やはり知る必要のない事ではなくって?」
「……成る程」
この妖女――リリスモンは、自分に一切の事情を教える気は無いが、勝利する気は満々らしい。
「ならば、問答無用というわけか」
静かにロードナイトモンの闘気が爆発し、薔薇色の鎧からしゅるしゅると四本の帯刃が伸びる。
今度は守る為の帯刃ではない――切り刻むための帯刃だ。