やっと色んな事情を明かせました。
龍輝はなるべく何も考えず、たった今発生した事態の一部始終を反芻した。
デジヴァイスが突然アラーム音を発したと思ったらそれはデジモン来襲のお知らせであり、てっきり倒すのを忘れていたデビドラモンが出向いて来たのかと思えば違い、しかも部屋の中に天使――もとい人型のデジモンが降臨し、何故か自分達の事を知っており、しかも敬語を使い、跪いた。更に、謝罪したのである。
どうやって部屋に入って来られたのか。そもそも一体何がどうなっているのか。
脳が情報流入過多で機能停止する前に、ノートという別のハードにデータを移しておいて正解だった。しかしある事実はそれ一個で絶大なデータ容量を誇り、龍輝の脳を圧迫する。圧縮不可能、拡張子変更不可能、削除不可能。
そう、テイマーが責任重大な職業だというのは十二分に理解したが――まさか敬語で話され、跪かれるレベルの話だとは思ってもみなかったのである。
腹を押し潰され仰向けのままダウンしているドルモン、床に座り込んだままドルモンから手をどけるのを忘れて固まっている龍輝、跪いている姿勢の大天使――ではなく、ヴァルキリモン。ちなみに
朝川龍輝の部屋に存在している以上三つの生命体は、暫く名状しがたい沈黙の内に静止していた。暫くといってもせいぜい一、二秒程度の事ではあるが、龍輝には恐ろしく長い間のように感じられた。どうしたらいいのか皆目見当も付かず、精神的に危機に陥っていたからである。
「あの……」
龍輝は漸く、と言うべきか、声を出した。
「とりあえず、立って頂けないでしょうか?」
テイマーがデジタルワールド的にはものすごくえらい立場の者であるとしても、リアルワールド的には普通一般の高校2年生であり、寧ろ年長者にぺこぺこしなければならない社会的に低い立場の人間である龍輝としては、跪かれる立場にまで急激に押し上げられるのは相当負担になっていた。更に、相手は異世界――デジタルワールドの住民なのだとしても、自分より遥かに高貴な身分の存在であるようにしか見えない。そのギャップが余計にきつい。
龍輝の言葉に対して、純白の鳥戦士――ヴァルキリモンは顔を僅かに上げたように見えた。なので何となく色よい答えが期待できそうな感じがしたが、それは龍輝の勘違いであった。
「有り難く存じます。しかしテイマー殿……わたしが貴殿をそういう意図がないとしても見下す姿勢を取るなどとは、とても恐ろしくて出来ません」
「えっ……」
声が途中で詰まる。テイマーとはそこまで偉い、まさか大王とか皇帝のような存在なのだろうか。
しかも生まれて初めての「貴殿」呼ばわり。龍輝はそんな単語は、国語辞典か小説の中でしか見た事が無かった。果たして日本人男性の何%が、生涯で「貴殿」呼ばわりされる経験があるのか。
「況して、わたしはただでさえ貴殿のプライバシーを侵害するような真似をしている。それについても、今一度謝罪を致します――本当に申し訳ありません」
状況が状況なので、龍輝は言われるまでプライバシー権を侵害されていた事に気が付かなかった。まあ、気が付いたところでそんな些細な事はどうだっていい。
何だか逆に自分が申し訳ない気分である。初めて会う相手、それも人間の若造風情に頭を下げ、謝罪を繰り返し、跪かねばならないヴァルキリモンは、恐らく大変不快な思いをしているだろう。そこまで考えて、龍輝は自分が平生の冷静さを取り戻している事に気が付いた。
彼はさっきまで抜けたようになっていた腰をしゃんと立たせると、何とか両足で立ち上がる。自分も跪いている相手を見下す姿勢になるのが不遜な感じがして嫌だったが、そこはぐっと堪える。
「いや、あの……別に大丈夫です。気にしていません。それに、どうか立って頂けないでしょうか。跪かれる理由も良く分からないのに跪かれたくないです」
***
そういう訳で、只今龍輝と訪問者――ヴァルキリモンは客間のソファにテーブルを挟んで腰掛けている。
ドルモンはあのまま部屋の床に放置してある。元々すやすや眠っていたところを無理矢理叩き起こしてしまったという所以があるし、ヴァルキリモンもドルモンは居合わせる必要がないと言うので、引っ張ってくる必要はない。今頃はまた眠りに就いているだろう。
「……つまり、ヴァルキリモン――さんは、予てからその……ロイヤルナイツ? から、ドルモンがリアルワールドに来るからテイマーが見つかるまで保護し、テイマーが見つかったら見つかったで協力を取り付けるように頼まれていた……という事でいいですか?」
龍輝は持ってきたデジモンノートの余白に早速新情報を書き入れる。ヴァルキリモンはノートとペンを見た事が無いらしく、「それは何ですか?」と最初に聞いてきたが、よく考えると電脳世界の住民がアナログな筆記具を使うはずもないので不思議でも何でもないのであった。
ノートに既に書き込んでいるドルモンの証言――「ロイヤルナイツっていうすごくえらくてつよいひとたち」を元にすると、相当に誉れ高き集団と直接関係を持ち、その上重要な任務に就かされているこのヴァルキリモンもまた、相当高位のデジモンである事は明らかである。そんな存在に畏れ多くも自分は跪かれたのか、と龍輝はぶるっと身震いした。
「そうです。詳しい話は別途させて頂きますが、概略はその通りです。しかし、さん付けはどうかおやめ下さいますよう」
「あ、はい。じゃあ――ヴァルキリモン、で」
「それで結構です。――さて、本題に入ってよろしいでしょうか」
「大丈夫です」
龍輝はノートの右側のページ最上部にペン先を置いた。
「わたしが本日参りましたのは、先程も申し上げた通り、是非協力して頂くためにこの方の事情――我々の世界、デジタルワールドで発生した事態、発生している事態について説明致す為です。しかしそれにあたって、まず基本事項についてご存じかどうか確認させて頂きます。よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「ではまず、“デジモン”についてはどの程度ご存じでしょうか?」
龍輝はノートをぱらっとめくり文字列に目を通しつつ答えた。
「この次元とは位相が異なる“デジタルワールド”に住む二進数から成る電子生命体で、ワクチン・データ・ウィルスの三属性があって、子供? と大人? と究極? というレベルがある……この位です」
「十分です。レベルについては間違いがありますが、それについて詳しくは後ほど」
「あ、はい。分かりました」
デジヴァイスのディスプレイ表示が日本語ではなく英語で、しかしこうしてデジモンと会話する時には日本語でコミュニケーションを取るというのだから、齟齬が生じるのは仕方なさそうだ。ともあれ、龍輝はデジモンのレベルについてメモした箇所を丸で囲い、「要修正」と傍らに小さく書いた。
「では、“ダークエリア”については?」
初めて聞く単語だ。しかも物騒な響きがある。龍輝は頭を振ったついでに、まっさらなページを開き直しペン先を触れさせる。
「いえ……全く何も」
「“ダークエリア”とは、デジタルワールドの地獄界です。デジモンが外的要因――戦闘などで死亡した場合、彼を構成していたデータは直ちにダークエリアに転送され、ある一定のスパンでまとめて消去されます。そして、魔族や魔王――殊に“七大魔王”が住まう場所でもあります。地理的に言うと地下に存在しており、生きたまま訪う事は一応可能です」
龍輝はペンをささっと走らせる。死者がその罪状の為に苦痛を受け「死んでもまだ死ねない」仏教の地獄や、キリスト教の地獄とは事情が異なるらしい。人生は一度きりで死んだら何も無くなるという点に於いては、龍輝の死生観と同じであるので受け入れやすい。一方で、ちゃんと現世に入り口が存在しているという点ではギリシャ神話などと共通しているのでこれもまた受け入れやすい。
「七大魔王については?」
ノートにメモを続けながら、龍輝は単語の響きを吟味する。それは確か――ドルモンの大切な保護者を死に追いやった恐るべき輩だったはずだ。だが、それ以外に何も知らないので、無知であるのと同義になる。
「いえ……全く」
「デジタルワールドの魔族――一般に“ナイトメアソルジャーズ”と呼ばれます――その頂点に立つ、強大無比な力を持った者達です。それぞれリアルワールドでいうキリスト教の『七つの大罪』を冠し、一体を除いてはダークエリアに居を構えます」
「七つの大罪」――龍輝は宗教関係にはそこまで詳しくないが、それ自体が罪というよりは罪に導く可能性のある欲求や感情の事だというのは知っている。確か、「傲慢」「憤怒」「強欲」「嫉妬」「色欲」「怠惰」「暴食」だったはずだ。それを背負った魔王如何ならんとは、余りにもスケールが大きく推し量る気にもなれない。
「サーバを不安定にしかねない強大な力、いざというとダークエリアのみならずデジタルワールド全域をも掌中に収めようとするその野心――彼らの動向は常に“ロイヤルナイツ”の監視対象です。――さて、最後ですが……“ロイヤルナイツ”については?」
「いえ、全く」
龍輝は前項と同じ理由でそう答えた。
「“ロイヤルナイツ”とは、デジタルワールドのセキュリティ最高位に位置する十三体の聖騎士です。彼らは最高神であるホストコンピュータ“イグドラシル”に仕え、その命令通りに動くのが主な役割です。サーバの安定性保持、が使命といって差し支えないでしょう」
成る程、確かにドルモンも言っていたように「すごくえらくてつよい」存在のようだ。改めてその存在に直接頼みごとをされるこのヴァルキリモンもまた非常に偉い存在である訳だが、そういう存在に跪かれた自分はデジタルワールド的にはそういう位置づけなのか。龍輝は改めて湧き起こってくる畏れに軽く身震いした。
「さて、此処からが話の本題になるわけですが……」
ヴァルキリモンが軽く座り直して姿勢を改めた。龍輝もそれにつられ、背筋を若干伸ばす。心なしか、心臓が脈打つにあたって酷く熱くなっているようだ。
「ロイヤルナイツ諸将は、彼ら以外何者も持ち得ない至上の特権を持っていました」
「特権?」
「そう、死してもダークエリアに残留データを送られず、再び元の姿のままで蘇る事が出来るという特権です」
つまりそれは、ロイヤルナイツは不死であるという事を意味する。
しかし、それならば何故ロードナイトモンは「殺されて死んだ」のだろうか? そこで龍輝ははっとした。ヴァルキリモンは、「過去形で話している」。
「此処で一つ質問をさせて頂きます。何故、ロイヤルナイツはかような特権を得ていたのだとお思いでしょうか?」
「え、えっと……」
突然の問い掛けであったので、龍輝はかなり狼狽えて固まった。が、この程度の事で思考停止するとは、入試本番になったらどうするんだ、と自分を叱り付けて平素の冷静さを取り戻す。解答は直ぐに導き出せた、が正しいかどうかは不安が残る。
「……ロイヤルナイツはデジモンというより寧ろセキュリティシステムで、システムの欠損は大変まずい事になる可能性がある……から?」
「その通りです」
ヴァルキリモンがそう満足そうに首肯したのを見て、龍輝は幾分ほっとした。もし答えを間違えたら、テイマーの器ではないと少なからず失望されたのではないかと怖かったのだ。
「イグドラシルのかの聖騎士方に対する認識は、当然このヴァルキリモンも含めて他のデジモンに対するそれと著しく異なっていました。『デジモン』というよりは、『セキュリティエージェント』として見ていたのです。そして同時に、誰一人として替えの利かない最上のデジモン達で構成されているのだとも」
プログラム的に言うと、エージェントとは高度化され、自律性を持ったオブジェクトの事であり、各自の役割分担、連携を理想としている。成る程、その図式に聖騎士を配置する事は無理がないな――と龍輝は得心した。その傍ら、何か首を傾げたくなる違和感もあるが――今はじっくり考える時間ではない、とひとまず思考の脇に避け置く。
「しかし、イグドラシルは突然――ロイヤルナイツを見捨てました。即ち、彼らから不死性を奪い去りました」
「それは……どうして!?」
「イグドラシルは、ロイヤルナイツが完璧なエージェントとは成り得ない事に気付いたからです」
その理由を、龍輝は一瞬で分かってしまった。違和感の正体だ。ドルモンやヴァルキリモンのように、リアルワールドの生物と何ら変わりなく意思を持ち、感情を持った存在を高遠な理想である「セキュリティエージェント」に割り当てようとすると、ある点に於いて絶対にしっくり嵌まることはない。
「――感情があるから?」
ヴァルキリモンは答えを受けて、項垂れたように見えた。
「その通りです。ロイヤルナイツが譬えセキュリティの
イグドラシルの命を受け、デジタルワールドの均衡を保つのが存在意義だった者が、頂きから地べたに一気に墜落するのは一体どんな気分だったろうか。聖騎士の誇りを奪われたのに、決闘でそれを取り返せない悔しさはどうだろうか。どういう虚しさと無力感の中に投げ出されただろうか。慮れない、慮れる訳が無い。
どうしてそんな残酷な真似をするくらいなら、最初から「完全無欠の」エージェントを造り出し、守護の座に据えなかったのか。全能のホストコンピュータなら、そのくらい簡単ではないのか。
様々な思い――取り分け怒りが一気に込み上げてきて、龍輝は胸が詰まりそうになった。
「随分……勝手な最高神ですね」
左手をぎりりと握りしめる。きちんと切っているはずの爪が掌に食い込む。
「それに、どうしてその時になって初めて気付くんでしょうか。ホストコンピュータなら、最初からそんな事分かっているんじゃないでしょうか。感情がある者は、無機質にはなれないと」
「テイマー殿、まさしくそれなのです。我々でさえ少し考えてみれば分かるその事実に、イグドラシルとあろう者が気付かぬはずがない。もっと単純で非生物的プログラムの方が、高いセキュリティ性を発揮すると……!」
そう答えたヴァルキリモンの語調は、柔和さの花を散らせ憤怒の棘を覗かせていた。彼もまた、最高神の独善に怒りを押さえられないのだろう。況してやその最高神の治める世界が故郷なのだ、未だ其処に行った事がない龍輝より怒りが強いのは当たり前である。そして――絶望や悲愴ではなく怒りは、反抗する者の意思である。
「……そんな矢先でした。七大魔王、その一角を占める“怠惰の魔王”ベルフェモン……デジタルワールドの時間で千年に一度目覚め、理性無き破壊の権化と化すかの魔王が覚醒したのは」
何というタイミングだろう。千年に一度の災厄と、よりによって時期を同じくするなんて。ずっと眠りに就いているのも伊達に眠りこけているのではなく、力を蓄積しているのだとしたら、それが解放された時の凄まじさは一体どうなるのか。
「直ぐさま、かの魔王を斃し危険分子を取り除くため、ロイヤルナイツの内実に6体がダークエリアに赴きました。何とかベルフェモンを鎮める事は叶いましたが、実に4体もの聖騎士が殉職されました」
魔王1体に、最高位の聖騎士を6体もぶつけなければならない。そして、それでも尚十分過ぎるとは断じられない次元の話に龍輝は目眩がするのを禁じられなかった。
「そして、犠牲になった聖騎士はもう復活する事はなかった……と?」
「そうです。更に……ロイヤルナイツの席が永久に空白になるという事態はこれだけでは終わりません。オメガモン様――ロイヤルナイツでも屈指の実力を誇る方が、直接イグドラシルのコアに赴き、真意を確かめに行くと仰りました。イグドラシルは自分達を守護聖騎士の座から投げ出しておきながら、代わりとなるセキュリティシステムを創造する素振りも見せず、自分達を尚もヴァルハラ宮に居させている。実に矛盾している、と」
何に付けても中途半端に過ぎる処遇、とても電脳世界の最高神がする事だとは龍輝には思えない。まるで、ロイヤルナイツの名誉を奪うだけの行為の様だ。そのオメガモンの言い分には、全く同意できる。
「そうして、イグドラシルの深部に単身乗り込んだまま、帰っていらっしゃる事はありませんでした」
「――それは……イグドラシルに、殺された?」
「……そうではないか、と」
ヴァルキリモンの声色からは棘が抜けていたが、今度は弱々しささえ感じさせるものに変質していた。
己にもはや不死性は無い事を知りながら、尚死を恐れぬ騎士としての勇敢さをオメガモンは有していたに違いない。もはやホストコンピュータとしては、まともな思考を放棄していると言わざるを得ない存在に対しても。龍輝は今は亡き聖騎士の美徳に賞賛を送ると同時に、ひどくやるせない気持ちになった。無情とは、こういう事だ。
「――それから暫くが経ちました。ダークエリアでも魔王の目立った動きは見られず、ベルフェモンの件以来事態は沈静化したように思われました。そんな中、ドルモンが発見されました」
いよいよ、自分達に話が絡んでくるようだ。イグドラシルに対し、負の感情を抱いている暇はない。龍輝はより一層気を引き締めて耳を傾ける。
「ドルモン、が?」
「そうです。ドルモンはすぐにロイヤルナイツによって保護され、全体会議でロードナイトモン様――『薔薇輝石の騎士王』と渾名される方に預けられる事が決定しました。ドルモンがある程度まで成長し、リアルワールドでテイマーと上手くやっていけるだろうと判断されるようになるまでの期限付きで」
龍輝はノートにペンを走らせながら、納得する。ドルモンがロードナイトモンと一緒に住んでいたのはこういう事であったのか。ドルモンにその事を聞いたときの嘆きようといったらなかったので、きっとロードナイトモンはロイヤルナイツ全体が一様に認める程の素晴らしい保護者たる者だったのだろう。
「ドルモンがそんな破格の待遇を受けたのも、偏にドルモンこそがロイヤルナイツのSiege Perilous――『空白の席』の主になる者として予てから予言されていたからです。それも、皮肉なことにイグドラシルより」
「Siege Perilous……」
その言葉の意味する所に、心の臓が小刻みに震え、ペンを持つ指先がおぼつかなくなるのを龍輝は感じた。溜まった唾をごくりと嚥下する。
宗教の類には片々的な知識しかない龍輝であったが、その代わり神話や伝説は好きで良く本を読んでいるので分かる。Siege Perilous――アーサー王伝説に登場する円卓の席の内、相応しい者以外が腰掛けると命を落とすという「危険の座」だ。その席に座する事になるのは、全円卓の騎士で最も若く、最も高潔にして偉大なるガラハド卿。彼が磔刑に処されたキリストの血を受けたという、伝説の聖杯を探索する事に成功するのだ。
「開闢以来その姿を現すことは一度たりともなかった、そして全ロイヤルナイツで、比肩しうる者のない程強大な力を持つと定められた聖騎士です。デジタルワールドが未曾有の危機に陥った時に初めて出現するとされておりましたが」
「それでは……ドルモンが生まれたのは、正に未曾有の危機が起こっているとデジタルワールドが判断した、から?」
「まさしくその通りかと思います。イグドラシルではなく、デジタルワールドが判断したのだと」
イグドラシルではなく。何にも増して大切な部分かも知れなかった。
ホストコンピュータとしての権能を著しく損ねている存在なんかではなく、一個の魂を持った電子的有機生命体としてのデジタルワールドの意思こそが、ドルモンを生み出した。その世界に生きる存在――デジモンの息遣いが寄り合って、一個の巨大な意思を形成している。セキュリティの崩壊と、均衡の崩れに対する底なしの危惧を。
「そしてもう一つ。その空白の席の主はリアルワールドの人間がその役目を担う『デジモンテイマー』により姿を現す事になるとも、予言にはあります」
「それが……僕である、と?」
「その通りです」
ドルモンを――ガラハド卿のように、あらゆる騎士を凌ぐ武勇を身に付け、真に清き者のみ手に出来る聖杯に触れる権利を持てる騎士に成長させるのが、自分の役目。龍輝のぼんやりとしていたヴィジョンは、画素数が増えたように鮮やかなものに変貌した。その代わり、責任重大さも倍加した。
ドルモンのあの蒸留水の如き純粋さを騎士の高潔さへと。眠れる獅子の力を、猛る獅子王のそれへと。出来るだろうか? 果たして、自分に務まる大役なのか? 龍輝はもはや疑問を持たなかった。やれるから、デジタルワールドは自分を選んだのだ、と。
「……現在、ロードナイトモン様、『紅の聖騎士』デュークモン様までもがダークエリアに旅立たれ、ロイヤルナイツの成員数はたったの5名にまで減ってしまいました。このままでは、守護の座が手薄になっているのを見計らって、魔王が進出してくるのは時間の問題です。いや、実際に彼らは動いています。今のままでいけば……」
突然、ヴァルキリモンが椅子から崩れ落ちるように降り、跪いてみせた。
龍輝は驚いてペンを止め、純白の鳥戦士の姿を凝視して固まった。今度ばかりは「跪くな」と言えなかった。彼の――騎士の最大限の請願表現、それをやめろというのは、拒絶であり、相手に対する侮辱だ。
「テイマー殿、どうか力をお貸し頂きたい。まさしく真に選ばれた方であり、唯一希望への捷路を開くであろう貴殿に。貴殿に何の関係もない世界の話であり、貴殿の尽力が貴殿ご自身の生活とは何ら関わりを持たぬ事は重々承知しております。それを承知で、このヴァルキリモン、お願い致します」
立てた膝に掛けた腕、それに食い込む位ヴァルキリモンが頭を下げた。
龍輝は甚だしく疑問であった。今や、誰がこの頼みごとを無下にするというのだろう。彼の話を聞いていたなら、心ある者は断る理由がないのだから。
「無関係なんかではありません。僕はドルモンを拾いました。そして、ヴァルキリモンの話を聞いて、イグドラシルに対して怒りや悲しみを覚えました。感情を共有した時点で、無関係なはずがありません」
龍輝は今までにない毅然とした口調でそうはっきり告げると、今度はすっくとソファから立ち上がった。跪くヴァルキリモンを遥か目下に見下ろす構図だ。
しかし、龍輝に自身の優越性を意図するような意味は何もない。ただ、堂々たる意思を、それに相応しい姿勢で示してみせるという儀礼ゆえ。そして、相手の礼に従いて、その懇願の一切を受け入れるという意思表示のため。
「僕は、必ずドルモンを空白の席の主へと成長させます。ヴァルキリモン、貴方に――ロイヤルナイツに、協力させて頂きます。ゆくゆくは、その一員として」
「テイマー殿……感謝致します」
ヴァルキリモンの声が急に滲み、掠れた。バイザーの隙間から、一筋の流れが白い頬を伝っていく。
それはきっと、ロイヤルナイツ全員のもの、そしてデジタルワールドのものだったのかも知れない。
これにてMatrix-1終了です。次話からは新章突入です。