ドルモンはひたすら皿の上の菓子を食べながら、至上の幸福感に包まれていた。物を掴むようには出来ていない前肢の構造上、口を直接皿に近づけて菓子を食べるせいで口回りがスナック菓子のかすだらけである。
(これもおいしい~。あれもおいしい~。ドルモンしあわせ~)
一通り食べ終わると、皿の上に残った残滓をぺろりと舌で回収し、口回りに付いたものも前肢で拭って綺麗に舐め尽くすという意地汚さを発揮した。ロードナイトモンにきちんと躾けられなかったのか、というと決してそういう訳にはあらず。獣型のデジモンには獣型のマナーが、人型のデジモンもまた然りというデジタルワールドに於ける一般論に認められる行動を取ったというだけである。もっとも、高貴な人間のように獣染みた下賤さを忌み嫌ったロードナイトモン本人は、がっつき舐め尽くすようなドルモンの食べ方にあまりいい顔をしなかったのもまた事実ではある。
リアルワールドに到着してからすぐさま災難に見舞われたが、同時にすぐさま安住の地を見つけ、尚且つ素晴らしく質の高い食糧にありつけるとは、大変幸運だと言えよう。
ドルモンは親切で優しい人間・リュウキに非常に良い印象を持っている。何と言ったって、行き倒れていた見ず知らずの自分を――それどころか常識から外れたような存在とも言える自分を――拾ってくれた上に、この上なく美味しいご馳走を振る舞ってくれたのだ。
彼の都合はどうあれ、出来るだけ一緒にいたいとすらドルモンは思っている。自分の探し求めなければならない「テイマー」を見つけるまで、それか「テイマー」の方が自分を捜し当ててくれるその時まで――いや、彼がその「テイマー」であって欲しいとドルモンは密やかに願っている。
しかし、ロードナイトモン曰く「テイマー」はそのデジモンに相応しい人間が選ばれるものの、巡り会える確率は砂浜にたった一粒のある砂を探すのにも等しい。だからリュウキがテイマーでない可能性の方が遥かに高いのだ。
別の人間が己のテイマーとして選ばれ邂逅するのを待つか、長らく出逢えないならば、何とかこんとかという組織が自分を迎えに来るから心配無用だ――そうだが、その時は残念だが仕方無いと諦めるしかない、と一応はドルモンも理解している。頭では――
けれども、「テイマー」はどうしてもリュウキでなければならないと、
もしくは、ドルモンは一番大切だった存在を失ったばかりで――無意識に、空いてしまった巨大すぎる穴を埋めてくれる存在を求めているところから、自分とこれから何者にも切りがたく、解きがたい関係を結ぶことになる「テイマー」を、早く得たいと思っているからなのかも知れない。
幸せを感じている時であっても、ドルモンのデジタルの心はひび割れて、0と1が流れ出してしまいやがて壊れてしまうような疼痛を感じている。
その姿は極彩色の花のように鮮明に、その存在感は栴檀の香りのように格調高くデジコアの記憶野を支配する。それは自分の親のような存在だった者が――ロードナイトモンが生きていた頃は、心安らぐ表象であったのに、今は違う。思い起こされたならそれは――フラッシュバックに等しい。
しかし、鬱々と哀しみにくれているだけでは心に悪いだけだ。その悲嘆を綺麗さっぱり忘れ去ってしまいたいなどとは勿論爪の先程も思ってはいないが、ずっと塞ぎ込んで何もしたくないとも思わない。
もう終わってしまった事に対してこだわり続けうじうじするのは、最も悪かろう事の一つと知るべき――ロードナイトモンに口を酸っぱくする程言って聞かされた、騎士たる者かくあれという事項に数えられる。この場合の騎士とは別に誰そに忠誠を誓い、誰そを守る役目を担った者という意味ではなく、騎士道を心得、それに決して外れる事のない者を指すらしい。ドルモンは、騎士道について「とてもいいひとのすること」という認識しかしていないが。
何はともあれ、絶対に――振り返ってはいけない。背後にもはや道はない。戻る場所だって――美しく平和なあの空中庭園世界だって――戻る手立てがないのならば、無いのと同じ。
自分はリアルワールドに送り込まれた。そこの住民となり、これからはデジモンとではなく、人間と生きていくよう宿命づけられているのだ。絶対に、振り返ってはいけない。ドルモンは再び心を決めた。
ロードナイトモンの言葉の残響はドルモンの情報処理機構に轟き続け、やがて小さくなり消えるだけの木霊とはまるで違う存在として、ドルモンが消えるその時まで留まり続けるのだろう。
「ごちそうさま~」
すっかりお菓子を食べ終わってしまったので、ドルモンは肉眼で汚れが確認出来ない程綺麗な紙皿を器用に両前肢で挟み、近くにあったごみ箱に――中にくしゃくしゃに丸められた紙や冊子が捨てられていた事から、それが使い捨てのものを捨てる容器だと判別した――すとんと落とした。ごみを処理するという習慣は、城で身に付けさせられた。
別段何もする事がなくなってしまったので、ドルモンはごろんと床に四肢を投げ出して寝転がった。何となしに天井を見上げると、つましさが漂う、模様も何も無くひたすらに白いだけの広がりが目に入った。思わず黄玉の瞳をぱちぱちと瞬き、やがては目を逸らしてしまった。視線を集中させる目印のようなものが無いと、目のやり場に大変困りどうしたものか分からなくなるものである。
そうしてつまらなそうにごろりと体を右横に向けると、ちょうど本棚が目に入った。黒檀造りらしく、しかも四段構えの構造という、高校生の一人部屋にはあるまじき物品である。首を少し持ち上げて上から下まで眺めると、びっしりと隙間無く本が収納されているのが分かった。
「ほんがいっぱいある~」
大変興味深そうに、ドルモンは口元をほころばせた。見てくれは犬や狐のような畜生の類だが、文章を読み理解するという芸当をやってのけることが出来るし、そればかりか楽しむのである。
「うんしょ~」
ドルモンは身を起こして本棚まで歩き、前肢を上げて棚の一番下に並んでいる本を一冊取った。あまり厚さがないものでかつ、爪で本を傷付けてしまわないよう、表紙の硬そうなものを選んだ。無論題名や内容など、知った事ではない。
こう見えて、意外と読書家なのだ、と本人は信じている。実際、ドルモンはロードナイトモンに文字の読み方書き方――前肢の構造上ペンは持てないので書くのは爪で板に彫るとかだ――、文法、文章読解などはきっちり教わり、色々な本を読み漁った。しかし、喋り方だけはどうしても幼いままである。いや寧ろ、幼いのに喋り方以外がしっかりしていると言った方がいいのか。
早速引っ張ってきた本を広げながら床に置くと、中には綺麗な白い生物の絵ばかり描かれていた。猫だったり、鳥だったり、ライオンだったり、鰐だったり。勿論ドルモンはそんな動物の名前も存在もいざ知らず。これがリアルワールドの普遍的な動物なんだと勘違いした。
(リアルワールドのいきものって、にんげんいがいはみんなまっしろなんだ~)
成る程そうなのか、と紫色の愛らしい動物はそれで納得してしまった。リアルワールドでは世界は白いので――これもまたとんでもない誤解である――きっと体が白いと敵に見つかりにくいのだろう、という一見辻褄の合った勝手な解釈を突き通す。
しかし此処で問題が一つあった。何か絵の近くに細々と字と思しきものが書いてあるようだが、さっぱり読めないのだ。
紫色の幼き動物は、怒ったように目をきっと吊り上げた。
「なんで~」
全く謎であった。おかしい、リュウキとは普通に話が通じたのに。
デジタルワールドの文字と違って、簡単そうな文字は概して丸みがあって直線が少ない。と思ったら概ね直線で構成されている簡単そうな文字も見つかった。複雑な文字の方は結構角張っているが、デジタルワールドの文字よりうんと書くのがめんどくさそうだ。
ドルモンは一瞬どうにか解読しようと頭をひねったが、絶対無理だと一瞬で悟り、本をぱたんと閉じてしまった。リュウキが帰ってきたら是非読み方を教えてもらわねばなるまい、とドルモンは決意する。
(はやくリュウキかえってきてよ~。つまんない~。ドルモンとあそんでよ~)
ドルモンはふてくされてぷうと頬を膨らませた。言いつけられた通り寝るのが一番らしい。ドルモンは本を元の場所にえいやと戻しにまた身を起こす。そして窓の方へ行くと後ろ肢で立ち上がり――ちなみにこの姿勢はとても疲れるので長くは持たない――、全開になったカーテンを前肢で挟むようにして閉めようとした。
その時だった。
窓の外に見える雪を屋根に積もらせた家々、電柱、鉛色がかった空、何処までも白い地面――その景色の中忽然と、奇妙なものが現れたのをドルモンの双眸が捕らえた。
飛翔する、翼はためかす漆黒の巨体。
異様に細長い両腕、鋭利な爪の先の深紅、そしてまた四つの禍々しい眼を塗り尽くすも鮮血の色。
一体だけではない――二体いる。
それは、白き世界に似つかわしくない、全く異質な存在、そしてその世界を破壊するべき存在のような、許されざるとして浮き立っていた。
ドルモンは黄褐色の両眼を見開いて固まり、ついでぶるぶると震え上がり、そして――確信した。
招かざる客であり、自分と同じ存在がやってきたのだと。
「デジモンだ~……! わるいデジモン~……!」
ドルモンは唸った。あの漆黒の邪竜を見たことはない。だが、何となく分かる。
あれは、デジタルワールドの奈落――ダークエリアの眷属だ。あの恐ろしき七大魔王が一員、色欲のリリスモンに面と向かった時と、同じ種類の何かを感じる。それは、破壊の「ウィルス」属性を持つ邪なる存在特有の波動だというのは、ドルモンはいざ知らず。
おそらくは自分と同じ方法で――要は「アクセスポイント」経由で、こちらの世界にやってきている。
その目的は何か。ドルモンは薄々感づく。
(きっとドルモンをさがしてる~)
ぶるぶるとドルモンは震え上がり、さっと身を屈め窓の下に隠れた。発見されれば、ドルモンは確実に、立ち所に殺される――デリートされてしまう。ならば部屋にこうして隠れ続けていた方がいいのか。
それは無駄である。如何に安全そうに思える場所に隠れていたとしても駄目なのだ。デジモンにしか分からない
発見されるのも、時間の問題である。あの黒竜共が此処にドルモンが潜伏している事を突き止めたら、奴らは遠慮や配慮もなくリュウキの家の外壁を破壊して侵入して来るだろう。そうしたら、自分の安住の地もなくなってしまうし、何よりリュウキがどういう反応をするだろうか。
ドルモンはどうしてもそんなのは嫌だった。自分が死んでしまったら――デリートされてしまったら、命を賭して自分を守ってくれたロードナイトモンの努力が無駄になってしまう。だけれども、決してリュウキに悲しい思いをさせたくはなかった。
いや――リュウキを悲しませないだけでは足りない。彼を悲しませず、かつ自分も生き残らなくてはならないのだ。
(リュウキにあまりはしりまわったりしちゃだめっていわれたけど~……いいつけやぶっちゃう~。ごめんね~……)
ドルモンは覚悟を決めた。全身がつりそうになるのを耐え、精一杯体を垂直に伸ばして窓の取っ手に手を掛け――幸い施錠はされていなかった――、がらっと開けた。
そして何の躊躇いもなく一気に――七メートルもの高さから飛び降りる。
ごわっと雪を踏む音を立てて、ドルモンは着地した。
もう震えてはいない。顔を上げ、両眼をきりりとさせ、敵方を確認する。先程よりも高い場所を飛翔しているようだ。だいたいこちらとの距離は家四軒分程かと思われる。そう、決して遠くはないのだ。
まずは、奴らに先回りするように広い場所まで駆け抜け、それまで何とかあの黒竜共に気付かれないようにし――
――それから、倒す。
無謀以外の何でもない話だ。しかし、ドルモンの凛とした黄玉の瞳に、恐怖、疑問――どの翳りもなかった。
身を低く構え、肢に力をぐぐぐと溜め――地を全力で蹴る。その凄まじい勢いに、雪塵がぶわりと吹き上がった。