エルドは繊細で整った、どちらかというと中性的は顔に冷たい笑みを浮かべた。冷笑はフィレスに対してであり、彼女に対する嘲りである。表情は言葉よりも雄弁にそれを物語る。
フィレスの顎を掴んだ手はそのままに、エルドは自分の顔を蔑む相手の方へと近づけた。
迫るエルドの顔に彼の意図を理解したフィレスは怯えと驚きが混ざり合った硬い表情をした。エルドから逃れようとしたフィレスだが、いくら中性的とはいえエルドは立派な成人男性である。固定された顔はどうやっても動かす事が出来ず、背後は壁が塞ぎ、前方はエルドが立ちはだかる。
逃れようがなかった。
エルドは、フィレスの硬い表情を見ながら勝ち誇った様に、にや、と哂う。視線は水色の瞳を射抜いたままで、少し開いたフィレスの唇に自分の唇をゆっくりと重ねた。
そして――――
「・・・ッ!!」
呻くエルドは自分の口に手を当てながら、身体を仰け反らせつつ数歩後退った。
その機を逃さず、フィレスはぐいっと両手で相手を押しやる。二人の間に出来た空間を泳ぐように手を伸ばし、その向こうにある扉へと走った。
「待て!!」
エルドは小さく叫ぶと、自分から離れてゆく若草色の服を着た小さな体を引き戻さんがため咄嗟に手を伸ばす。
道に咲く蒲公英と同じ色をしたフィレスの頭部は振り返りもせず、ただただ扉へと逃げた。
フィレスの腕とエルドの伸ばした手の間、距離にして僅か数センチをエルドは詰める事が出来なかった。彼の左手は空を虚しく掴んだのである。
盛大に舌打ちをしたエルドは、次にフィレスへと近寄る。
フィレスは扉の取っ手に手を掛け、いつでも逃げれる体勢のまま少し俯いている。消えそうな声で「近付かないで」と言った。
いつも明るく笑っている表情が、口を一直線に引き結び、眉根を寄せている。フィレスは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
そんな横顔を見たエルドは思わず足を止める。だが次に凄まじい形相でエルドはフィレスの横顔を睨みつけた。
「ディパンは人の唇を噛む習慣があるのかよ。」
フィレスの顔はまだエルドへと向けられない。その事に苛立つようにエルドは更に追い討ちをかけた。
「王族なんかじゃねーよ、テメエは。」
悪態をついた唇の端は血が滲んでいる。
「気が済んだでしょ?」
僅かに震える声は、やはりエルドではない方向へと響いた。
水色の瞳、文字通りじわじわと涙という水分が覆い始める。取っ手を掴む手に力を込めた。
「腐った王族にも誇りはあるのよ。」
言い終えるやいなや、フィレスは取っ手を引いて部屋の外へ飛び出した。
エルドの前でフィレスは最後まで泣かなかった。
その事実がエルドに怒りや苛立ちといった感情を煽り立てる。
ぱたぱたと廊下を走り、階段を下りていく足音はどんどん遠ざかる。
「クソ蛮族が!!」
エルドは怒鳴りながら床に転がっていた遊戯版を踏みつけた。
靴の下の遊戯版を一時見つめていたエルドは、唇に指先を当てる。唇の端からちりちりとした痛みを感じた。
唇を重ね、舌を入れようとした瞬間にしてやられた。
フィレスが嫌悪する行為で、相手の自尊心をエルドは踏みにじろうとしていた。相手はフィレスはその事にちゃんと気付いていたのだ。
フィレスは自分が傷つくと同時に、一方的に踏みにじられるのは御免とばかりに相手に手痛い反撃をした。と同時に逃げる機会を作ったのである。
尚且つ最後まで傷ついたであろう姿を見せずに、立ち去った。
エルドは血が付いた指先を見つめながら、舌で傷ついたくちびるを舐める。
恐怖と驚愕が入り混じった顔を見た時は、優越感に浸った。
だが、次の瞬間には徹底した抵抗をされ、あろうことか唇を噛まれた。
怒りとも苛立ちともかない、或いはその両方を孕んだ激しい感情は、フィレスの自分に対する抵抗に対するものなのか、それとも己の下から逃げ去ろうとした事に対するものなのか。
エルドに対して最後まで泣き顔を見せようとしなかった、屈しなかった態度になのか。
ささくれ立った心に、今にも出しそうな横顔が脳裏に焼きついている。当分の間、自分の心から消えそうにない、と気付くとエルドは吐き捨てた。
「すげぇムカつく。」
不機嫌全開でエルドは部屋の外へと出た。
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廊下から階下を見ると、赤錆色の髪をした女性の肩口に蒲公英色の頭がある。
赤錆色の女性は、蒲公英色の髪をゆっくりと撫でていた。
姉のセレスは小さな声で語りかけ、妹を包み込んでいる。
フィレスの肩が小刻みに震えて、小さな嗚咽が二人の足元にひとつ、またひとつと落ちてゆく。
穏やかな時が二人の周りでたゆたう。
だが、二階の踊り場にいるエルドに気付くと、セレスは緑青の眼を細めた。
一変して怒気を孕んだ空気に妹は顔を上げて姉を見た。
「この子の『上位者』は、今では私一人なの。」
下から上を見上げているのに、支配者階級独特の倣岸不遜な言葉と態度だ。しかもそれを隠そうなどとはしない。
エルドは触れれば切れんばかりの表情で階下のセレスを睨め付けた。
「私以外にこの子が膝を折る相手なんて、存在しないのよ。」
凄まじい物言いであった。だが、貴女より私が上位だと姉に言い切られた当のフィレスは小さく微笑んだだけである。
エルドとセレススは無言のまま互いに視線を外そうとはしなかった。
暫く沈黙が続く。娼館の女将の言いつけで様子を見に来た見習いの若い娘がセレスに奥を示す。
フィレスを抱きかかえたままセレスは奥へと歩いていった。
エルドはさっきまで自分の支配下に存在した「姫君」が、完全に自分の手から離れた事を悟った。鋭い顔をしたまま、階段を下りてサロンを兼ねた玄関へと向かう。
フィレスは最後までエルドを見ようとしなかった。
そんな二人の攻防戦はここで幕を閉じる。
勝者はどちらなのか、敗者は誰なのか。
それは当事者以外は与り知らぬ事である。