アインが憑依する前に何があったのか、そして彼が消え去った後何があったのか。
これを以てアンコール・リフレイン編、完全に完結です。
余談となりますが、今回の話を書くにあたって、ヒントを頂いたのは川原礫先生の「ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ」です。
この場を借りてお礼申し上げます。
『――目が醒めたみたいですね』
女の声にゆっくりと目を開ける。
まるで水の中にいるかのような浮遊感があった。自分を包む澄んだ緑色の液体、そしてそれらを閉じ込めるかのような機械。
だが意識は霞のように薄れていて、そのせいか体も動かない。手を握りしめられるかどうか――その程度が限界だった。
『私の声が聞こえたら、頷いてください』
ガラス越しに女を見る。液体と同色の影響か見え辛いが、緑色の髪に眼鏡をかけた女性で体つきはまるで少女のような印象を受ける。
――頷く。その言葉が分からない。
頷くとはどういうことか。それがまったく分からなかった。
彼が何もしないのを不思議に思い、それからほんの数秒の思考を経て彼女は手を打った。
『言い方が悪かったですね……。私の真似をしてくれますか? こう、頭を下げて上げるだけですから』
女のした動作を真似してみる。手を握るよりもあっさりと行えた。
たったそれだけの事だと言うのに、女はひどく喜んでいた。
『よかった……。何とか知性と言語認識はありますね。後は』
『またこんなところに籠ってんのか』
ぼんやりとした視界の中で、視線を動かすともう一人女がいる。黒髪の女は、彼女の眼前に立っていた。
『何だ、目が醒めたみてぇだな』
『えぇ、今からある程度の言語を覚えさせるつもり。だから悪いけど、貴方の仕事はない』
『単独行動は死につながるぜ? 何せ、男のIS使いが誕生したんだ。事情がしれればどこもこぞって欲しがるだろうよ。いくらテメェがたった一人で完遂させた計画でもよ』
『ならば私が守り抜くまで。貴方達に手は出させない』
『……フン、食えねぇ女だな』
『同性愛者に興味ない。さっさと消えなさい』
女は舌打ちして、部屋を出ていく。
彼女は誰もいなくなったことを確認して、ガラスに顔を近づけた。
『いいですか、私のいう事を聞いてください。目覚めたばかりかもしれませんけど、今から少し遠くに貴方を送ります。そこには私の先輩がいるので、彼女に貴方を引き取ってもらいますね』
何を言っているのか、どういう事なのかは理解できない。
だがそれでも、声には温かさがあった。受け入れてくれる心地よさがあった。
彼女は彼から目線を逸らすと何かを読み上げるかのような文を口にする。
『テロメアが短い。持って数年以内が限界。……だけど、世界を救うには十分』
その声は、己の心に決意を固めたかのようで、確かな力強さを持っていた。
それから数日後、彼はある女性によって引き取られた。
「ほら、とりあえず着替えておけ」
無造作に投げ出された服。黒いズボンに黒いシャツは彼を引き取った女性が選んで買ってきた物だ。無論、少年が色を指定していたわけではない。
濡れた服を着替える。彼女は濡れた服を拾い上げると、それを洗濯機へと入れ込んだ。
ついてこいと言って、少年を椅子に座らせる。
「お前の名前は?」
「……名前」
分からない。あの女性も名前までは教えてくれなかった。
何と答えるべきか考えて、そして迷う。
それを察したのか、女性は小さくため息をついて頭を振った。
「知り合いに頼んでお前の家族らしき人物を探させたが、アイツにも分からなかったようだ。……お前は、どこから来た? 何故あんな場所にいた?」
「……分からない。俺が何なのかも、どうして、ここにいるのかも」
限定的な記憶喪失かと呟いて、女性は考える。
もしかすれば捨て子で、それ故に記憶を失ったのかもしれない。
「……お前の名前は一夏だ。一つの夏と書く」
「一……夏……」
「幸いお前の歳は学校編入に通用する。知り合いに頼んで、お前の名前と出生を偽造してある。生活面での心配はするな」
コクリと頷く。
その様子に女性は少しだけ笑って、彼の頭をなでてくれた。
「私の名前は織斑千冬だ。これからお前の姉になるな。何でも呼びたいように呼べ。後世界最強だのなんだの言われているがそれは忘れろ」
「……千冬姉」
彼の言葉に千冬が視線を動かす。
そして彼女は小さく笑った。
「……千冬姉か。悪くない響きだ」
「よぉ、お前が転入生か?」
「あぁ、そうだけど」
小学校へ編入し―とは言っても後一年くらいで卒業するが―彼を待っていたのは、熱烈な歓迎だった。
中でも赤い髪の少年、五反田弾は激しかった。
女子達が騒いでいるのはパッとした人物でいなかったようで、男子達が騒いでいるのは女顔の男子が入ってきたからだそうである。
「俺は五反田弾だ。よろしくな、でコイツが……」
「シャルロット・デュノアだよ、よろしくね!」
「よろしくな」
金髪の少女はにこやかに笑うと、一夏と手を合わせる。俗に言う握手だ。
見たところ外人であるようだが、その日本語は非常に流暢でまったく違和感を感じさせない。
「僕もこっちに引っ越してきた経験があるんだ。だから困った事があったら何でも聞いて!」
「よっし、じゃあ次は俺だな」
そういって弾の隣に現れたのは銀髪にオッドアイの少年である。一見すると奇妙な容姿だったが、その顔には快活な笑顔を見せていた。
「俺は桜崎紅夜。よろしくな、趣味はゲームとマンガ。後……何かカッコイイ物を考える事だ」
「小学生の癖に中二病かよ……」
「中二って言うなー!」
傍で気怠そうにしていた少年―確かクラス委員長であり、名前は天道と言っていたような気がする―に桜崎が突撃していった。
あー、と頬を掻いて弾が指をさす。
「……でー、あっちにいるのが篠ノ之箒だ。口数も少ねぇし不愛想な顔してるけど悪い奴じゃねぇからな」
「口数が少ないも無愛想も余計だ、弾!」
座っていた少女はうがーと立ち上がり、弾へと詰め寄る。
その様子も思わず笑ってしまい、つられてシャルロットも笑った。
「な、何がおかしい織斑! シャルロットも笑うなっ」
「ごめんごめん。やっぱり箒は面白いなぁって」
「面白くとも何ともないぞ阿呆っ」
赤面になり涙目で喚く箒。その様子にクラスもほとんど笑っているように見える。
「でよ、一夏。まだもう一人いるんだがそいつは放課後紹介するぜ」
箒の追及に顔を逸らしながら、弾は一夏に向けて小さくウィンクをした。
「人の話を聞けぇ!」
弾がアッパーで吹き飛んだ。
あれが男女平等パンチの原型だ、と言う声が挙がったがそれらは箒の眼光で封殺された。
それから数年が経った。
結局彼らは同じ学校に進学した。奇妙な事に通学路も同じである。
シャルロットの家に泊まり込んで、彼女の両親に挨拶したこともあれば学園祭で弾や桜崎、天道、新しい親友の御手洗一馬と共にバンドを組んだ事だってあった。無論、一夏がボーカル扱いであり、その時は千冬や箒の姉が見に来たものだ。
部活はそれぞれが様々な部活に入った。一夏、箒、一馬、弾は剣道部へ。シャルロットと鈴は家庭科部へ。桜崎と天道は帰宅部である。これは余談ではあるが、箒はISの開発者である束の妹らしい。それをマスコミに狙われたりもしたらしいが、束が脅迫を世界に出す事により彼女の家族は引き離されないで済んだようである。
三年――それにしては十分すぎる程の青春を謳歌出来たはずだ。気が付けばもう中学生に進学しており、三年生になった以上進路を考えていかねばならない時期である。
弾や一馬、天道と桜崎は大学への進学を希望するため、進学校に進むと言っていた。無論女子達は―何でもシャルロットと鈴は国家代表候補生らしい―はIS学園へ行くらしい。最難関ではあるが、彼女達はIS関係で強い面を持っているため恐らく入学は確実である。
一夏は藍越学園への進学を希望していた。無論姉である千冬を助けるためだ。彼女には世話になった恩返しをしなくてはならない。
だが一つ――急浮上してきた問題がある。いや急浮上では無い。元々見えていた問題だ。それが見えないフリをしていただけ。
「……っ!」
千冬に気づかれぬようにして、一夏はトイレへと入り込む。激しい発作が襲ったが、声は出さなかった。
彼女に無用な心配をされたくはないからだ。
「……せめて……せめて後五年は持ってくれ」
掌に付着した血。それはもう彼の体の限界を現していた。
ここで死ぬには早すぎる。まだ、何もできていない。
せめて、せめて彼女に恩を返さなくては。
体調は悪化する日々だった。だが決してそれを周りに悟らせず、診察にも行かなかった。
一夏には分かっている。これは自分の体の影響であると。
だからどうしようもないのだ。
せめてその時間が長続きするように祈るしかない。
既に視力も弱ってきている。体の影響か、それとも心の影響か。
藍越学園の入試なのだから、力を入れなくては。
気づかれてはいけないのだ。悟られてもいけないのだ。
「……ここ、か?」
胸を抑え、校舎の中を歩く。マップのGPSを見ながら歩いているのだ。音声案内のため、これならば目が多少は見えなくなろうとも通学は出来る。
そこは狭いロッカーのようだった。金属の手触りがい地下にそれを予感させた。
「あれ、何だ……」
おかしい。違和感を持ち始める。
GPSの音声は前に行けと言っていた。
この通路を通れば、入試会場なのだろうか。
足を踏み出そうとした時、何かが触れる。
「――!」
様々なデータが脳裏に流れ込んだ。
一夏が触れたモノは――。
「IS……? っ!」
体が痛い。体の中が焼かれているかのように熱い。息が出来ない。
心臓が一拍を打つ度に、体を串刺しされているかのような激痛があった。
理解できない。
脳裏を埋め尽くすのは、痛みと叫びだけ。
己が何であるのかを思い出す前に、それが激痛で塗りつぶされた。
そうして織斑一夏の意識は闇の底へと落ちていった。
「起きたか、一夏」
「千冬……姉」
目を開ける。――右目が見えない。だが体は動いてくれるようだ。
上体を起こす。そこは自宅のリビングで、一夏はソファに寝かせられていたようだ。
ここまで運んでくれたのは、千冬だろうか。
窓を見るからに夕方である。昼の入試はどうなったのだろう。
「珍しく厄介事を持ち込んだな。テレビを見てみろ」
千冬がリモコンのボタンを押すと、テレビ画面が映る。
午後、夕方のニュースであるがそこには一夏の顔写真が写されていた。
『世界で初めてISを起動させた男性が見つかりました。名前は織斑一夏君です。尚今回の事で政府は緊急のIS検査を実施。その結果、二名ほど同じ男性が見つかりました。名前は天道覇龍君と桜崎紅夜君の二名です』
そこまでキャスターが述べたところで、千冬はテレビを消した。
「……一夏、お前とあの二人はIS学園への強制入学が決まった」
「そんな……。だって、だって俺は、俺は藍越学園に……」
「政府からの取り決めだ。それにあそこならお前の身柄も保証される。そこ以外の場合……お前の安全が保証される可能性は無い」
手を握りしめる。
そんな事で、そんな事で未来が決まったと言うのか。
出来なかった。
大切な姉への恩返しが――果たせなかった。
「千冬姉……」
漏れた声。
千冬は黙って、一夏を抱きしめる。その温もりと力強さを忘れた事など一度も無かった。
「……一夏、泣け。私はお前の姉だ。どんな事があろうと必ずお前の味方になる。必ず私が守る。だから、今は泣いておけ」
「うん……ごめん、ごめんなさい」
「謝るな馬鹿者。お前は悪くない」
この日、彼は一つ確信した。
自分は姉に何も恩を返す事が出来ず、彼女を守ってやることが出来ず、この世を去るのだと。
迷惑をかけるだけかけて、消えていくのだと。
ISを起動させた一件から数日後。身柄保護のため、一夏は自宅から出ないよう政府から通達されている。
だがそれが在りがたい。
数日、その間一夏の体調はさらに悪化していった。最早体は限界だ。立って歩く事だけが精一杯になりつつある。最早目は霞んでしまい、ほとんど見えない。識別出来るのは色だけだ。
一日中ベッドの上に寝たままと言うのも、珍しくない事になってしまった。だがそれも今日で終わりだろう。
外の世界を見る事は出来ない。
こうして消えていくしかない。
鳥籠の中で、一人死んでいくしかなかった。
「いや……一人じゃなかったな」
手を伸ばす。体調の悪化とは反面に、体の状態はギリギリ健康を保っていた。体調が悪い自覚はあると言うのに、不思議な事に体は体調不良を感じさせていない。
ならば死にかけているのは一夏の精神だろう。何故、体と心がかみ合っていないのかは分からない。
でもそんな事はどうでもよくなった。
「短かったけど……楽しかったよ」
小学校では、親友と共に様々な所へ行った。長期の休みには彼女達の故郷に連れて行ってもらったりもしたし、馬鹿騒ぎして楽しんだ。
中学校では、親友達だけで泊まりに行ったりもした。下らない事をして楽しんで、時に泣き合ったりもした。
五反田弾に出会えた。篠ノ之箒に出会えた。シャルロット・デュノアに出会えた。凰鈴音に出会えた。御手洗一馬に出会えた。桜崎紅夜に出会えた。天道覇龍に出会えた。
そして、大切な人の家族になれた。
織斑千冬の弟として、この世界で生きた。
「これで……ようやく眠れる」
IS学園への入学はいつだったか。それはもう忘れてしまった。明日か明後日か。そう遠くない時期に違いない。
だけどもう関係ない話だ。
自分はここで旅立つのだから。
伸ばした手を布団に落とす。
もう体は動かない。
「――」
ありがとうと言う声が出なかった。
涙が零れる。
今まで出会ってきた人々の感謝を胸にして、彼は――織斑一夏は眠るように、息を引き取った。
貴方に会えてよかった。
貴方の家族としてこの一生を終えられるから。
貴方の思い出を胸にして眠る事が出来るから。
お休みなさい、千冬姉。
生きた。この世界で、貴方の弟として、織斑一夏として生きたよ。
自覚があった。自分が誰であるかと言う認識はある。
そして温かいモノに包まれている。まるであの始まりのようだった。
声が聞こえる。外から響く声だろう。
『アイン様、ようやく調整が終わりました。……まさかアイン様の記憶から、別の世界の織斑一夏を再現するとは……時折とんでもない事を思いつくようになりましたね』
『あぁ、無茶を言って悪かった。……だがこれでようやくあの世界の未練が無くなる。それで彼のスペックは?』
『はい、アイン様の体を基準にしているため、恐らく肉体面はアイン様と同格です。ISの起動も出来るようにしてあります。……身体面はIS学園にいる織斑一夏とはほとんど変わっておりません。強いて言うならば、体の頑丈さが並ならない事でしょう。力は普通の人と変わらないと思われます。アイン様の体をベースにしているため、戦闘経験は同格でしょう。……出来る限り、アイン様の要望に合わせたつもりです』
『……そうか、ありがとうアルカ』
コンコンとノックされた。
『この声が聞こえてるなら、聞いてほしい。――オレが生きられなかった時代を、あの続きを生きてくれ。彼女達と共に、天道や桜崎と一緒に、あの世界で笑ってくれ。お前がその願いを果たしてくれる事が、今回の報酬だ』
誰かは分からない。
だがそれでも、頷いていた。
彼の事を、何故か信頼していた。
そして、ありがとうと言った。
少年がいた。白髪で赤い目をした少年はこちらをじっと見つめていた。そんな彼の傍らには長い黒髪の女性がいた。彼女の目線はどこを向いているのか分からない。
そして呆れたように、二人とも小さく微笑んだ。
少年が振り返ると女性もまた同じように振り返り、ゆっくりと歩き去っていった。
「……え?」
目が醒めると、そこは自宅だった。
ベッドに寝たままの姿勢である。
時計を見れば、土曜日の昼頃で、年は一夏が知るよりも一年を跨いでいた。
あの時、確かに眠ったはずなのに。だとすれば――もう一度感じたあの感覚は夢ではなかったのか。
壁に掛けられたIS学園の制服。そして生徒手帳。そして置かれているノートを開くと、色々な言葉が殴り書きされていた。
「さっさと帰ってこい……か」
何故か心は落ち着いている。
ともかく行ってみよう。IS学園に。
そこで分かるはずだ。何があったのか、一体どういう事なのか。
IS学園の制服に着替え、一夏は外へ出る。
春のさわやかな日差しが、彼を出迎えた――。
人は旅をする。体は歩き、心は巡る。例え体は無くなってもその魂は何度も旅をしていく。
繰り返す時の中で、人はいつか大切な人達に出会う。引き離されたとしても再び巡り合う。そんな強いつながりを持った大切な人達と。
遠ざかっていた日常へ伸ばされた手は届いた。
この手を決して放す事は無い。放される事も無い。
故に少年はもう一度、再会する。