僕こと坂井悠二は、学生を継続している。
中学校を卒業した僕は、高校の入学試験に合格した。
余裕とは言い難い試験結果だったけれど、合格した事に違いはない。
自宅から歩いて20分の場所に高校はあるから、引っ越しの準備をする必要もなかった。
そういう訳で僕は慌てる事もなく、穏やかに春休みを過ごしている。
このまま何事もなく、高校へ入学する日を迎えると思っていた。
命の危機を覚える非日常の影なんて、どこにも見当たらなかった。
トラックに跳ね飛ばされる事もなく、殺人鬼に命を狙われる事もない。
いつも通っている本屋やCDショップへ寄った程度で、怪しい場所へ踏み入った覚えもない。
それなのに僕は目覚めると、暗くて冷たい土に寝転がっていた。
「やあ、目が覚めたようだね」
「えっ、貴方は誰ですか?」
金色の髪と黒い瞳を持つ、見知らぬ外国人がいた。
滑らかで違和感のない言葉を聞いて、僕は驚く。
日本語を主要言語としている日本で育った人なのだろうか。
ここに彼も連れて来られたのか。それとも僕を連れて来たのか。
とりあえず話が通じるのならば、事情を聞き出す必要があるだろう。
そう僕が思っている少しの間に、彼は先手を打った。
「君は、どうやって、ここに来たのかな?」
「分かりません。自分の部屋で寝て起きたら、この場所にいました」
自分の事を先に話すのは良くない。
僕の話に合わせて、相手が話を変える恐れがあった。
彼の質問に対して答え続ける事に、僕は危機感を覚える。
彼の質問に答えた今、僕が質問をするべきだろう。
僕は土で形作られた天井や地面や壁と、闇に包まれた通路の先を見た。
「いつから貴方は、ここにいるんですか?」
「君の目覚める少し前からだよ。僕が起きてから、まだ3分も経っていないかな」
……僕が起きてから、まだ1分も経っていない。
まあ、それは仕方ない。僕だって直ぐに起こさず、様子を見るだろう。
僕が"彼"を疑っているように、彼も"僕"を疑っている。
彼がネガティブな情報を話したのは、「信頼して欲しい」というメッセージなのかも知れない。
とりあえず知られても問題のない事実ならば、彼に話しても良いだろう。
最も知られてはならない事は「今の僕が何を疑っているのか」だ。
「すいません。少し混乱していました。僕の名前は悠二(ゆうじ)で、日本の御崎市に住んでいる学生です」
「こんな状況だから仕方ないよ。僕は旅人のヨーハン、最後にいた場所はアジアだったかな」
「アジア、ですか?」
「日本の方じゃないよ。ちょっと事情があって、国を跨いで飛び回っていたんだ」
ヨーハンさんは忙しい人らしい。
まさか「飛び回っていた」のではなく、「逃げ回っていた」のではないか。
ヨーハンさんが国を跨いだ犯罪者ではない事を、僕は祈るしかない。
ヨーハンさんの言葉を信じるのならば、僕とヨーハンさんは遠く離れた場所にいた。
一眠りしている間に、その距離はゼロになった訳だ。
「出口は、どっちでしょうか」
「何とも言えないね」
松明(たいまつ)が土の壁に突き立っている。
その松明を引き抜いてみると、火は急に消えた。
まるで水へ突っ込んだかのように、突然の事だった。
とりあえず壁の穴へ差し戻してみると、再び松明に火が灯る。
僕は穴を覗いてみるものの、土に開いた単なる穴だった。
意味が分からない。
「これは怪奇現象の類いでしょうか」
「二酸化炭素が溜まって、窒息する恐れがあるね」
そんな現実はいらない。
ちゃんと換気はしてあるのかも分からない。
体感温度は少し低くて、冷たい空気が肌から体温を奪う。
ヨーハンさんは普段着の上にコートを着ているけれど僕はパジャマだ。
パジャマの薄くて柔らかいポケットを探ってみたものの、なにも入っていなかった。
ズル……ズル……
なにかを引きずる音が聴こえる。
闇に飲まれている通路の"両側"から、なにかが近付いて来ている。
僕とヨーハンさんは目と目で通じ合い、無言のまま通路の片方へ進んだ。
息を殺して姿を隠し、通り過ぎるまで待ちたい気分だけれど、それは出来ない。
一本道の可能性が高い通路に留まれば、ここで挟み撃ちにされる恐れがあった。
1人分の幅しかない狭い通路だ。
ヨーハンさんは自然に先頭へ立ってくれた。
僕は後ろを確認しながら、ヨーハンさんの後ろを付いていく。
ベッドで寝る際に靴下を脱いでいたので、僕は裸足だ
空気と同じように地面も冷たくて、僕の熱を奪っていく。
ヨーハンさんの足が止まった。
なにかを引きずる音は、すぐ近くにある。
後ろの音は遠くなっているから、少しの間は持つだろう。
ヨーハンさんの頭の横から、僕は通路の先を覗く。
すると奥深い闇から松明の灯りの下へ、黒い影が這い出ていた。
頭があって、胴体があって、両腕がある。
その形だけ見れば、その影は人のようだった。
ただし表面に人肌のような柔らかさは無く、闇を固めて作ったように見える。
腹部から下の下半身は失われていて、その影は両腕を使って地面を這っていた。
断面のような部分が地面と擦れて、ズルズルと音を立てている。
人による誘拐の可能性は低くなった。
どうやら僕は、怪奇現象に巻き込まれているらしい。
パニックを起こそうとする体を抑えるのに精一杯で、どうすれば良いのか分からない。
そもそも、見るからに幽霊っぽい影は、物理攻撃で倒せる存在なのだろうか。
喧嘩に慣れていない僕にとって、武器を持たないまま素手で挑むのは厳しい。
「僕がやろう」
「……ヨーハンさん」
「大丈夫、僕に任せてくれ」
怯える僕を、ヨーハンさんは励ましてくれる。
僕の中にあるヨーハンさんを警戒する気持ちは薄くなっていた。
ヨーハンさんは僕に背を向けると、這いずる影を見つめる。
すると間もなくヨーハンさんの下から、黄褐色の火が放たれた。
どこからか現れた"炎弾"と言うべき塊は、あの影に中って炸裂する。
黄褐色の炎に包まれて、這いずる影は崩れ落ちた。
でも、今の火は何処から出てきたのだろう。
まるで金属と反応しているような火の色だった。
宝石のような黄褐色の火は、琥珀(こはく)のような輝きを宿している。
その輝きを僕は、美しいと思った。
「綺麗な色ですね」
「そうだろう。この炎の色は、僕と彼女を繋ぐ絆の証なんだ」
火の色を誉めたせいか、ヨーハンさんは急に元気になる。
影に放たれた火の事も合わせて、どういう事か聞きたいものだ。
その時、地面に崩れ落ちた影が再び動き出した。
人としての形を失った影は、地面を素早く這う。
ヨーハンさんの足下に影は伸びて、その体を這い上がった。
「うわぁ」
「ヨーハンさん!?」
ヨーハンさんの体が、琥珀色の炎に包まれた。
焼死体寸前と思われるヨーハンさんを見た僕は慌てて、炎を消そうと近寄る。
しかし、ちょっと気持ち悪そうにしているヨーハンさんに止められた。
自然と炎は消えたものの、炎に包まれたはずのヨーハンさんは平然としている。
さっきから発揮されているヨーハンさんの人外っぷりに、僕の理解は追い付けない。
「ヨーハンさんは、人間なんですか?」
「昔はね」
今は人間じゃないらしい。
とりあえず僕とヨーハンさんは先を急ぐ。
ズルズルと後ろから聞こえる音から遠退いた。
すると、狭い通路の先にあった広い部屋へ出る。
松明の灯りに照らされて、部屋の中央に落ちている槍が浮かび上がった。
槍の先端は錆びて、茶色くなっている。
錆びによって刃の側面が剥がれて、凸凹になっていた。
黒い液体の染み込んだ跡が、木で作られた柄の部分にある。
あれは血の跡だろうか。
武器として考えると不安の残る、古びた槍だった。
「ユージくん、身を守る武器は持っておいた方がいい」
「……そうですね。ヨーハンさんの言葉に甘えて、いただきます」
武器を持つことに、僕は抵抗を感じていた。
しかし、そんな事を言える状況ではない。
僕は古びた槍を両手で握り、刃の重さを感じ取った。
土の壁に突き立って、周囲を照らしている松明の下に座る。
そうして僕とヨーハンさんは、状況の再確認を始めた。
「僕は"彼女"や"友人"と一緒に居た所で殺人鬼と遭遇し、重傷を負った。そうして目覚めたら、ここに居た」
「僕は"特に変わった事はありません"。いつも通りベッドで寝たら、ここに居ました」
「ここには影を固めて作ったような超常の存在がいて、攻撃すれば倒す事はできる」
「そういえばヨーハンさん、炎に包まれて大丈夫だったんですか?」
「僕の炎については後で説明しよう」
「分かりました」
「助けを呼ぶ方法はないし、危険を冒して出口の探索を続けるしかないだろうね」
「武器となる物は、この古びた槍と、ヨーハンさんの不思議な火ですね」
「他に道具はなく、あると言えば身に付けていた物だけだ。食料も水もない」
「僕は寝ていたから、裸足の上にパジャマしか着ていません」
「そうだった。僕は遠距離でも戦えるから、靴はユージくんにあげよう」
「分かりました。でも、靴のサイズは合うでしょうか」
古びた槍を持っている僕が前衛だ。
もっとも、その槍を拾うように言ったのはヨーハンさんだった。
ヨーハンさんは靴下で地面に足を着き、その靴を僕は履く。
しかし、やはり靴のサイズが大きく、ブカブカになっていた。
仕方ないので逆にして、ヨーハンさんの靴下を僕が履き、ヨーハンさんは靴を履く。
「じゃあ、さっきの炎弾について説明しよう。あれは俗に言う"魔法"のようなものだ」
「魔法ですか。それは僕も使えるようになりますか?」
「頑張れば使えるようになる技術じゃない。魔力を感じ取る才能が必要なんだ」
「そうですか。それならば仕方ありません。その魔力という物は無限にあるんですか?」
「いいや、有限だ。僕にとって魔力は体力と同じ物なんだ。時間が経つほど減っていくし、無くなれば死んでしまう」
「時間が経つほど減っていくって……体を休めれば回復するんですか?」
「前は失った魔力を無かった事に出来たけれど、今は他人を殺して奪うしか方法はないよ」
「ヨーハンさんの魔法に頼り切ることは出来ない、という事ですね」
「あの影が体を這い上がってきた時に使ったのも魔法で、毒や汚れを清める効果があるんだ」
「状態異常の回復ですか。もしかして回復魔法のような物も使えるんですか?」
「傷を治す魔法も使えるよ。正確に言うと、"物体の魔力に干渉して整形する魔法"だけどね」
「それは、すごい。攻撃よりも回復に備えて、魔力を温存する必要がありますね」
ここの深度が、どのくらいなのか分からない。
「天井に穴を開ければ地上に出る」という保証はなかった。
何の仕掛けもないのに「松明を取り外すと消火されて、元に戻すと再点火される」という奇妙な場所だ。
まるでヨーハンさんの使う魔法のように、物理法則の存在は無視されている。
なんらかの特殊な条件を満たさなければ、外に出られないという可能性もあった。
そもそも、ここは現実に存在しているのか。ここから外に出たとしても、逃げ道のない異空間ではないのか。
「あと、あの影は僕の体に染み込んだようだ。少し体が軽くなった気がするよ」
「ポジティブな効果があるという事でしょうか」
「あまり良い気はしないけれどね」
僕が前衛として戦う方向へ誘導されている。
ヨーハンさんの言葉の中に偽りは含まれていたのだろうか。
と疑って見るものの、ヨーハンさんだけに戦わせる訳にはいかない。
そろそろ休憩は終わりにして、立ち上がるべきだろう。
ズルズルと地面を引きずる音が、近付いて来ていた。
通路の奥から、影が這ってくる。
黒い染みの着いた柄を両手で握り、僕は槍を構えた。
そうして突き出そうと思ったものの、古びた槍を握る手が震える。
そんな有り様でも、影は待ってくれない。
後ろを向いて、ヨーハンさんに助けを求める事なんて出来なかった。
「行きます!」
這いずる影の頭に向かって、槍を突き出す。
まるで泥に突き立てたような感覚だった。
錆びて茶色くなった槍の先端が、影の頭を突き抜ける。
すると影は形を失って、地面に崩れ落ちた。
問題は、この後だ。
崩れ落ちた影が、僕の足下へ伸びる。
影は下半身を這い上がって、僕の体に染み込んだ。
体の中を侵される感覚を覚えて、「うわぁ」と僕は声を上げる。
さっきのヨーハンさんと同じ反応だ。
ちょっと気持ち良く感じてしまった点が気に障る。
ヨーハンさんの言ったように良い気はしなかった。
「あの影は意外に脆(もろ)いようですね」
「そうだね、ユージくん。これならば影は問題なさそうだ」
僕が先頭になって、通路を進む。
目覚めた場所を通り過ぎて、次の部屋へ辿り着いた。
部屋の奥と左右を合わせて、新たに3つの通路がある。
その部屋の中央に、落とし穴のような四角い穴が開いていた。
階段も梯子も付いていない、底の見えない深い穴だ。
「どっちへ行きますか?」
「左から時計回りに探索しよう」
まずは左の通路へ進む。
始めの通路と同じように1人分の幅しかない、狭くて長い通路だ。
この通路にも間隔を置いて、壁に松明が突き立てられていた。
するとズルズルと地面を這う音が聞こえ始める。
通路の先に見えた部屋で、2体の這いずる影が動き回っていた。
それと松明の灯りに照らされた部屋の中央に、古くて色の濃い木製の箱が見える。
「……どうしましょうか?」
「炎弾を撃つ準備は整えておくよ」
魔力の事を考えると、ヨーハンさんの魔法は使わない方がいい。
自然に失われる上に、魔力が回復しないというのは大変だ。
ただし、ヨーハンさんにとって都合のいいウソという可能性もある。
古びた槍を構えた僕は、2体の影がいる部屋へ駆け込んだ。
一線を越えてしまえば、槍を突き出す事に迷いはない。
地面を這いずる影の動きは遅くて、ヨーハンさんが魔法を使う必要もなかった。
「罠が仕掛けられていそうな、いかにも怪しい箱だね」
「ヨーハンさん。魔力の消費が少ないのは攻撃と回復の、どちらですか」
「形を整えるだけの回復魔法だよ」
「毒を清める魔法は、どうですか?」
「魔力の消費は回復·浄化·攻撃の順で大きくなる」
「だったら僕が箱を開けましょう。ヨーハンさんが気を失ったら治療できません」
「すまない、ユージくん。君に負担をかけてしまう」
「任せてください。ヨーハンさんは安全のために通路へ」
ヨーハンさんを部屋の外へ避難させる。
木箱は腐っているのか湿って、白いカビが生えていた。
留め具が錆びて、キイキイと高い音を鳴らしている。
僕は木箱の蓋を少し持ち上げて、その隙間に槍を差し込んで開けた。
トラップを警戒して身を屈めていたけれど、何も起こらない。
湿った木箱に入っていた物は、赤い液体の入った透明な小瓶だ。
「賞味期限も説明書もありません」
「少なくとも、ただの水ではないだろうね」
「僕は槍を持っているので、これはヨーハンさんが持っていてください」
「分かった。ついでに、この木箱に入れて持っていこう……!?」
それは出来なかった。
僕とヨーハンさんの目の前で、木箱が崩れていく。
まるで映像の早送りを見ているようだった。
グズグズになった木箱は、もはや容れ物として使えない。
見る間に粉々になって、地面に積もる小さなゴミの山と化してしまった。
「ユージくん、先を急ごう」
「……そうですね」
不気味な場所だ。
正気を失ってしまいそうな場所だった。
ヨーハンさんと言葉を交わす事で、僕は自分を認識する。
もしもヨーハンさんが居なかったら僕は、最初の通路で影に殺されていた。
僕にとってヨーハンさんは、必要な存在である事を思い知る。
四角い穴の開いている部屋へ戻る。
時計回りに、まだ探索を行っていない通路へ進んだ。
次の部屋に影は見当たらない。
前の部屋と同じように、また部屋の中央に木箱が置かれていた。
測定に用いるメジャーで測ったかのように、正確に部屋の中央に置かれている。
「ここに道具を設置している存在は、細かい所まで気になる性格のようだ」
「几帳面(きちょうめん)とも言いますね」
古びた槍も木箱も、部屋の中央に置かれていた。
明らかに何者かが、意図して道具を設置している。
それなのに、この部屋には影が配置されていなかった。
そこへ何気なく置かれているのは、道具の入っているであろう木箱だ。
今度こそ、なにか仕掛けがあるに違いない。
「では、さっきと同じようにヨーハンさんは通路へ」
「なにか起きたら直ぐに合流するんだよ、ユージくん」
まずは木箱を少し開ける。
その隙間に槍を突っ込んで、木蓋を開けようとしていた。
その時、地面から影が生える。
影を固めて作ったような手が、僕の右腕を掴んだ。
僕は驚いて声を上げる前に、激しい痛みを感じて叫ぶ。
「あああああああ!!」
「ユージくん!」
黒い影を引き離そうとして、僕は必死に腕を引っ張る。
掴まれた腕を右や左へ振り回し、槍を手放した手で殴り付けた。
そうして黒い影を引き剥がし、左手で槍を拾って飛び退く。
しばらくの間、ドキドキと鳴る胸は治まりそうにない。
辺りを見回してみたものの、黒い影は見当たらなかった。
しばらくの間、ヨーハンさんと共に警戒する。
しかし、黒い影が姿を見せる事はなかった。
松明の灯りに照らされた薄暗い部屋で、僕とヨーハンさんは警戒を解く。
黒い影に掴まれた所は、パジャマを溶かされて肌が露出していた。
火傷を負ったように赤く染まって膨れ上がり、痛みは継続している。
「治療しよう」
「おねがいします」
ヨーハンさんの指が、僕の肌に触れる。
すると琥珀色の炎が噴き上がった。
黒い影を燃やしたヨーハンさんの炎だ。
燃やされると思った僕は、慌てて体を引く。
しかし、熱くもないし、痛くもなかった。
「ごめんごめん。回復魔法はファイヤーなんだ」
「変わった回復魔法ですね!?」
心臓に悪いから事前に言ってほしい。
それとも炎が回復魔法と言うのは、魔法使いの常識なのだろうか。
わずか10秒ほどで怪我の治療は完了し、僕の腕は元の色に戻る。
まるで怪我なんて、最初から負っていなかったように思えた。
破れたパジャマも直っている事に、僕は感動する。
「すごいですね。綺麗に治っています」
「痛かったろう。ユージくんも、ご苦労様」
改めて木箱を開ける。
警戒していたけれど、今度は何も起こらなかった。
木箱に入っていた物は、黄色い液体の入った透明な小瓶だ
さっきの部屋と同じように、木箱は見る間に腐り落ちた。
木箱に入れて持ち運ぶ事は叶わず、ヨーハンさんは両手に小瓶を持つ事になる。
そのままでは動き難いのでヨーハンさんは、コートのポケットへ小瓶を入れようとしていた。
……その小瓶がヨーハンさんの中へ沈み込んだ。
「えっ?」
「えっ?」
僕とヨーハンさんは揃って、疑問の声を上げる。
するとヨーハンさんはコートの表面から、小瓶を引き出した。
どうやらヨーハンさんのコートは異空間へ繋がっているらしい。
しかし、そのヨーハンさんも不思議そうに小瓶を出し入れしている。
僕も試しに槍の柄を胴体に当ててみると、ズブズブと沈んでいった。
意味が分からない。
僕とヨーハンさんは考える事を放棄する。
「拾った道具を体の内側に収納できる」と分かっていればいい。
もしかすると僕は知らぬ間に、人外の仲間入りをしていたのかも知れない。
僕とヨーハンさんは四角い穴のある部屋へ戻り、最後の通路へ進んだ。
そこは這いずる影のいない部屋に木箱だ。
安心できる要素がなく、嫌な予感で胸が一杯になる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
木箱を開けている途中で、腕を掴まれたのは記憶に新しい。
身を屈めるのは止めて、立ったまま槍で木蓋を開ける。
すると突然、真っ暗になった。
壁に突き立っていた松明の方を見ると、灯りが消えている。
すぐ近くからズルズルと地面を這う音が聞こえて、反射的に僕は跳び退いた。
「炎弾!!」
これはヨーハンさんの合図だ。
僕は頭を低くして、ヨーハンさんの魔法に備える。
琥珀色の塊が壁に着弾して燃え上がった。
その琥珀色に輝きに、黒い影が照らし出される。
闇から浮かび上がった這いずる影に向かって、僕は槍を突き出した。
這いずる影は崩れ落ちて、僕の体に染み込んでいく。
「助かりました、ヨーハンさん」
「無事で安心したよ、ユージくん」
木箱に入っていた物は、青い液体の入った透明な小瓶だ。
僕とヨーハンさんは探索を終えて、四角い穴のある部屋へ戻る。
木箱から入手した物は、赤い液体·黄色い液体·青い液体の3つだ。
薬なのか毒なのか、まったく分からない。
それよりも重要な点として、上へ続く道が見つからなかった。
ここに在るのは、部屋の中央に開いた四角い穴に限られる。
「もう一度、壁や天井を調べて見ようか」
「隠し扉があるかも知れませんね」
そうして再び探索を行って壁や天井を調べたものの、なにも無い。
這いずる影は倒すと現れないらしくて、新たに遭遇する事はなかった。
僕とヨーハンさんは、四角い穴を前に相談する。
この四角い穴の他に、別の場所へ通じる道はなかった。
しかし底の見えないほど深い穴となると、降りるのは危険だ。
「行くしかないだろう」
「……そうですね」
良い案は思い浮かばなかった。
ヨーハンさんが僕を抱えて、穴の底まで降りる計画だ。
魔法を用いて減速するために、魔力の消費は大きくなる。
ここで目覚めて、どのくらい時間が経っているのか分からない。
ずいぶんと長い間、ここに居るように思えた。
冷たい風が吹く。
俺とヨーハンさんは顔を見合わせた。
この淀んだ場所で風が吹くなんて、初めての事だ。
風の吹いてくる方向へ目を向ける。
しかし、俺とヨーハンさんは勘違いに気付いた。
風が吹いているのではなく、空気が一点へ吸い込まれている。
何もない空間に闇が生まれた。
そこから青白い顔色の女性が現れる。
その髪の色も目の色も、白く濁っていた。
外見を控え目に見ても、ただの人間とは思えない。
血色が悪いとか、色素が抜けているとか、そういう問題ではなかった。
「ユージくん、逃げーー」
ヨーハンさんが黒い闇に飲み込まれる。
まるでブラックホールに吸い込まれたかのようだ。
ヨーハンさんの体が歪んで捻れて、圧し潰されていくように見える。
そしてヨーハンさんの姿は消えた。
後には何一つ残っていない。
「うわああああああ!!」
心の支えを失った僕は逃げ出した。
僕一人では、こんなに弱かったのか。
情けなく逃げ出すほどに、脆(もろ)い物だったのか。
青白い女性に背を向けて、僕は全力で走る。
ヨーハンさんから貰った靴下は、走る僕を助けてくれた。
視界が黒く染まっていく。
腕が歪んで、黒い闇に巻き込まれていく。
ヨーハンさんと同じ運命を辿ることを思い知った。
失われていく体に痛みは感じない。
グルグルと視界が回って、なにも分からなくなった。
――
――――
――――――
本当に嫌な夢を見た。
夢から覚めて僕は安心する。
心に刻まれた恐怖が、まだ体を震わせていた。
カーテンの隙間から差し込む光に、僕は安心感を覚える。
こんなにも世界は美しい物なのだと、僕は感動していた。
時計を見ると、まだ早い時間だ。
でも、ひどい夢を見たから目は冴えている。
僕は布団から体を起こそうとしていた。
その手に固いものが触れる。
何かと思って僕は、軽い気持ちで布団をめくった。
「うわぁ!?」
布団を吹っ飛ばして、僕は飛び退く。
そこに在ったのは、黒い染みの着いた木の柄だった。
その先に錆びて茶色くなった刃が付いている。
古びた槍は異様な存在感と共に、そこに在った。
僕の日常に、異物が紛れ込んでいる。
寝る前に脱いだはずの靴下も履いていた。
僕が持っていないはずの靴下だ。
ヨーハンさんに貰った靴下だった。
靴下に付いた泥は、布団を汚している。
その光景が現実なのか僕は疑った。
――まだ悪夢は終わっていない。