湿った土に囲まれた空間があって、その中心に四角い穴が開いている。
底の見えない真っ暗な穴を覗き込むと、言い知れない気持ち悪さを覚えた。
僕はヨーハンさんと手を繋いで、その闇の中へ飛び降りる。
次の悪夢が始まった時、ヨーハンさんと一緒に居られるように僕は願う。
そのまま地面へ着地する事はなく、いつものように自分の部屋で僕は悪夢から覚めた。
――
――――
――――――
「あら、悠ちゃん。また虫に刺されたの?」
「母さんの方は大丈夫だった? あとで殺虫剤を撒いておくよ」
良かった。怪物に食われた証である灯りは、母さんの胸に見えない。
僕や平井さんのように灯りがあると、いずれ燃え尽きて消滅する。
平井さんの消滅を防ぐために僕は、ヨーハンさんから"青い液体"を譲ってもらった。
その代わり、ヨーハンさんの持つ力の消費を抑えるために、怪我の治療は断っている。
折れた槍で這いずる影と戦ったために、熱湯に突っ込んだ時のように、僕の手は膨れていた。
「お休みして、病院へ行った方が良いんじゃないかしら」
「大丈夫だよ、学校に馬油(ばぁゆ)持っていくから」
昨日、怪物に喰われて「トーチになった平井さん」を観察しなければならない。
正しく言うと、本当の平井さんは死んでいるから「平井さん(故人)のトーチ」だ。
もしも胸に見える灯りが消えそうだったら、ヨーハンさんから譲ってもらった薬を飲ませる。
ヨーハンさんから"口移し"という条件を付されているけれど、本当に必要なのか疑問に思っていた。
しかし、"青い液体"が変質する過程を見たことのない僕の、素人判断で失敗すれば後はない。
膨れた手に馬油を塗ると瞬く間に、火傷のような絶え間のない痛みは引いていく。
ちなみに馬油は、蚊に刺された時などに塗る薬だ。
とは言っても、ヨーハンさんの治療を受けた時のように、跡形もなく治った訳ではない。
手が膨れているのは変わらない上に、皮の手袋を着けた時のように感覚は鈍くなっていた。
それでも、手を動かせない訳じゃない。
たとえ病院へ行ったとしても、今夜の悪夢を見るまでに治せないのならば意味はなかった。
「平井さん! おはよう」
「……」
自宅を出た僕は、運良く平井さんと出会う。
そういえば昨日、平井さんから「帰り道は同じ方向」と聞いていた。
でも、今日の平井さんは元気がなくて、僕の挨拶に返された声も小さい。
いつもの平井さんは「おしとやか」と表現するには難しい「くだけた」性格をしていた。
それなのに今日は声を掛けても反応は薄くて、明らかに様子が変わっている。
僕は平井さんと一緒に登校する。
「一緒に」というよりは僕が、勝手に平井さんの横に並んだ。
高校へ近付くほど、人通りは多くなってくる。
すると、平井さんは通行人と衝突するようになった。
他人は衝突して初めて、平井さんの存在に気付くようだ。
平井さんの手を引っ張って、僕は登校する。
僕の手の鈍い感覚を通して、たしかな平井さんの存在を感じていた。
でも、その胸に見える灯りは、暗い。
どんな時に燃え尽きるのか不安で、早く薬を飲ませる必要があると感じた。
その際に"口移し"するのは僕ではなく、平井さんの好きな池の方が良いのではないか。
「坂井、なんで軍手なんて着けてるんだ?」
「ちょっと熱湯に手を突っ込んじゃってさ」
僕と手を繋いで登校した平井さんの事を、親友の池は疑問に思わない。
当然のように学校であっても、平井さんの存在感は薄かった。
平井さんと幼馴染みらしい吉田さんも、平井さんを認識し難くなっている。
やはり病院へ行かなくて良かった。もはや平井さんの灯りが消えるまで余裕はない。
そう感じた僕は授業合間の休み時間になると、池と平井さんを教室から連れ出した。
「池。今日の放課後、平井さんと付き合ってくれないか?」
「おまえ、なに言ってるんだ?」
「昨日、聞いたんだ。平井さんは、おまえが気になるって」
「……なあ、坂井。それは"おせっかい"って奴だろ」
「平井さんも、池とデートしたいよね?」
反応の薄い平井さんの首は、縦にも横にも振られない。
表情も薄くて良く分からないけれど、困惑しているのだろう。
――しかし平井さんは、嫌とは言っていない。
そう思っていたとしても、"今の平井さんは明確に答えられない"。
強引に行こう。平井さんの思いは昨日、怪物と遭遇する前に聞いている。
「平井さんは恥ずかしがってるんだよ」
「そうかぁ?」
そして池も、平井さんに対しては反応が薄い。
僕が平井さんの話を出さなければ、"僕の隣にある置物"程度の扱いだ。
そうして見ての通り池は、平井さんの意思を確認しなかった。
重要なのは平井さんの意思ではなく、池が僕の頼みを聞いてくれるのか否かだ。
この"存在感が薄れる"という現象を利用しよう。
「"今すぐ恋人になれ"なんて言わないから一回、平井さんとデートしてくれないか?」
「そう言われてもな」
「じゃあ僕も一緒に行くよ。3人で遊ぼう」
「なんだ坂井も行くのか。じゃあ今日は塾もないし、放課後の予定は空けておくよ」
会話の不自然さに、池は気付かない。
普通だったら僕に「おまえが行ったらデートじゃねえ!」と突っ込む所だ。
実際、池は僕と遊びに行くつもりで、平井さんとデートする気はないのだろう。
それでも建前としては「池と平井さんデート」で、僕は仲人となる。
平井さんの思いを告げないまま、ただの遊びとして行くよりは良い。
そうして放課後となる。
僕たち3人はゲームセンターへ向かった。
僕が平井さんをサポートして、デートを成立させる。
プリントシール機で、池と平井さんのツーショットを撮る事にも成功した。
なにしろ僕は仲人に過ぎないのだから、わざわざ3人で撮る必要はない。
しかし昨日、紅蓮の少女に「トーチは物」と言われた意味が、よく分かる。
"物"に対する感情は薄くなり、"物"を見ても何も思わなくなる。
「生きている」とか「生きていない」とか、そういう前の物理的な事実としてトーチは物なんだ。
もしも存在の力を回復させる薬を持っていなかったら、もっと僕は混乱していた事だろう
ヨーハンさんから譲ってもらった薬は、僕に勇気を与えてくれる。
僕が手を洗いに行く間、平井さんは自由になる。
そうなると平井さんを認識しにくい池は、平井さんを無視する形になるだろう。
そこで池と平井さんの手首を、僕はオモチャの手錠で繋げた。
池は文句を言うけれど、これも"平井さんを無くさない"ためだ。
そこまで遣ったのに戻ってみれば、池に付けた手錠の反対側は床に落ちていた。
「平井さんは如何したんだよ?」
「さあ? そういえば、さっき出ていったような……」
そんな事は如何でも良いという感じだ。
アーケードゲームに張り付いている池の軽い返答に、僕は怒りを覚えた。
落ち着け、これはトーチの身に起こる現象として当然の事だ。
平井さんの事を池が忘れていたら、その存在は消えたという事になる。
しかし、「行き先を知らない」という事ならば、まだ平井さんは消えていない。
「池、平井さんを探しに行くぞ」
「待てよ。今、良いところなんだ」
――もはや我慢の限界だ。
ゲームなんて、やってる場合じゃないんだよ!
手袋に覆われた手で池の首筋を掴み、その体を強引に持ち上げる。
そのまま池に有無を言わせず、ゲームセンターから出て街中を走り回った。
最近あがった視力を生かして、広い川の向こうある堤防の上を歩く小さな平井さんの影を見つける。
「平井さーん!」
僕らが駆け付けた時、平井さんは堤防の斜面にある石段に座っていた。
安心したら手の痛みが戻ってきたので、掴んでいた親友の池を放り捨てる。
僕は膨れ上がった手の痛みに苦しみ、連れ回された池は気分が悪いのか座り込んでいた。
そんな僕らを存在が薄れている影響なのか、目の死んでいる平井さんが無表情に眺めている。
この混沌とした状況は何なのだろうか。
「平井さん、デートだよ。最後に池とキスをしよう」
「おい、坂井、なに言って」
アーアー、聞こえなーい。
ダウンしている池を平井さんの前へ連れていく。
あいかわらず平井さんの反応は薄いけれど、今さら気にする事はない。
右手で平井さんの後頭部を押さえ、左手で池の後頭部を押さえる。
そうして2人の頭を強引に重ね、キスを成立させた。
「よし! 良かったね、平井さん!」
「"良かったね"じゃない! いきなり何をするんだ!」
「デートの最後だからキスをしたんだよ」
「人の頭を押さえてやる事か!?」
「大丈夫だよ。平井さんも池の事が嫌いじゃないから」
「そういう問題じゃないだろ!?」
「平井さんは如何だった?」
平井さんは棒立ちだ。
池とキスをしても大きな反応は見られない。
でも、その唇は微かに動いていた。
もはや喋る事も難しいらしく、なにを言っているのかも分からない。
それを僕は都合の良いように解釈した。
「ほら、平井さんも嬉しいって」
「そうかぁ?」
存在の消えかかっている平井さんが関わると、明らかに池の反応は鈍くなる。
池にとっては人間ではなく、石とキスをしたような物なのだろう。
さて、薬を飲ませるために達成するべき段階は越えた。
今にも消えそうな平井さんに、今すぐ薬を飲ませるべきだ。
その際、池は居ない方がいい。
「池、今日はありがとう。平井さんも、きっと楽しかったよ」
「おまえの訳の分からない行動に付き合わされた埋め合わせは、あとで遣ってもらうからな」
去っていく池を、平井さんと共に見送る。
強引だったけれど、時間がなかったから許してほしい。
池の姿が見えなくなっても、平井さんは遠くを見つめていた。
その手に池とツーショットのシールがある。
僕は体の内側から"青い液体の入った透明な小瓶"を取り出した。
「――ごめんね、平井さん」
小瓶を開封して、青い液体を口に含む。
そうして平井さんの首筋を両手で挟み、唇を密着させた。
少し上から平井さんを見下ろす形で、青い液体を送り込む。
すでに口の中で液体が粘性を持ち、固まり始めている様子を感じ取れた。
平井さんの喉がコクリと動き、青い液体を体の中に通す。
「……!? んー! んー!!」
平井さんの表情に色が戻る。
半開きだった平井さんの目が、驚きで見開かれた。
平井さんは僕を押し退けようとするけれど、そうは行かない。
元気になった平井さんは足を使って、ゲシゲシと必死に僕を蹴っている。
でも、ショーウィンドウに突っ込んでも無事だった僕の体は、その程度では痛まない。
「ぷはっ!?」
平井さんから唇を離す。
口の中に残っていた液体を、僕は飲み込んだ。
そうして平井さんの胸を見れば、灯りは明るくなっている。
怪物に喰われた直後よりも明るいし、しばらく平井さんが消える心配はしなくていい。
そんな事を思っていると僕の視線を遮るように、平井さんは両腕で胸を隠した。
「うええええええ、なんで!? なんでアタシ、チューされたの!?」
「違うよ、平井さん。これは人口呼吸」
「へんたい! へんたい! ドへんたいー!!」
僕の声を掻き消し、悲鳴を上げながら平井さんは走り去る。
捕まえようと思えば捕まえられるけれど……まぁ、いいか。
目の死んでいた平井さんが元気になって良かった。
あの様子だと、自分の変化に気付いていないのだろう。
存在が薄くなっていた間の記憶は、どうなっているのだろうか。
「――おまえ、何をしているの」
聞き覚えのある鋭い声が、僕を呼び止める。
どこから現れたのか、すぐ側に紅蓮の少女が立っていた。
彼女は「存在の力を喰らう紅世の徒を狩り出して討滅するもの」だ。
短く言えば「人を喰らう怪物を狩る魔法使いのようなもの」と言える。
そんな少女の聞きたい事は当然、「平井さんに宿る存在の力を回復した件について」だろう。
「僕の持っている宝具の1つだよ」
「……おまえ、なにを言っているの?」
紅蓮の少女は苛立っている。
宝具という言い訳は不味かったらしい。
昨日の話からすると、宝具は珍しいものだ。
そんな貴重な物を複数個もっていると言えば疑問に思われる。
しかし、「他のトーチから存在の力を集めた」なんてウソよりは良い方だった。
体の内側から道具を取り出す事は出来るけれど、僕は存在の力に干渉する事はできない。
『"壮挙"を唱えた"とむらいの鐘"の有していた"九垓天秤"を始め、"存在の力を他者に移譲する宝具"は在れど、"存在の力を回復する宝具"など秘宝中の秘宝だ。覚えておくと良い』
それは僕の無知を指摘する言葉だった。
遠くから響いてくるような声が、少女の首飾りから発せられている。
しかし、薬は悪夢から持ち出した物で、それが何なのか僕も知らない。
少女と初対面だった昨日までならば、悪夢の解決を目指しても問題はなかった。
その悪夢が今となっては、平井さんや僕に宿る存在の力を回復させるために必要なものだ。
『とは言え、実際に存在の力を回復させて見せた事は明らかだ。紅世と関わりなく宝具に関する知識もないまま、偶然に複数の宝具を持っているなど有り得ぬ――貴様は何者だ』
説明できない。
無意識の内に足を動かしていた。
そうして地面を擦る動きは、少女に警戒を抱かせる。
「――封絶」
火線が浮かび上がり、陽炎が過ぎ去った。
少女の言葉と共に、閉ざされた空間で紅蓮の欠片が舞い散る。
風も止まり、川も止まり、鳥も止まり、僕と少女に限って動いていた。
身に纏う黒衣から、少女は大きな刀を抜き出す。
僕も体の内側から、折れた槍を取り出した。
「おまえ、どこで宝具を手に入れたの」
その答えは悪夢の中だ。
しかし正直に話すのは危険な事に思える。
僕を物として扱う少女は、こちらの事情を考えない。
昨日、容赦なく刀で斬り裂かれた事は記憶に新しい。
そもそも少女は、どうして宝具の出所を気にしているのか。
【フレイムヘイズの使命】
【紅世の徒を狩り出して討滅する】
【この街に潜む紅世の徒】
【宝具の入っているミステス】
【複数の宝具を持っている事は有り得ない】
「そうか。僕と紅世の徒に繋がりがあると思って!」
「理解できたようね。そいつは何処にいるの?」
「それは君の勘違い……」
いいや、そうだろうか。
「あの悪夢に徒は関係していない」と僕は言い切れない。
僕の気付いていない間に干渉されている可能性はある。
それにしては昨日の"怪物"、徒のシモベである"燐子"は僕の事を知らない様子だった。
僕と紅世の徒に関係があるとすれば、それは"2体目"だ。
ますます話せなくなった。
この少女は紅世の徒と見れば、すぐに討滅を試みるのではないか。
そして再び言うけれど少女は、トーチである僕の事情を考えるとは思えない。
さらに再び言うけれど悪夢は、平井さんや僕の存在を保つために必要だ。
紅蓮の少女と会って間もない僕は、彼女を信頼できなかった。
「君に隠している事はある。でも僕は、僕以外の人間の命も背負っているんだ。だから話せない」
「そう――じゃあ、話したくなるようにしてあげる」
殺されるのは困る。
だから「理由があって話せない」と僕は言った。
これで僕という紅世の徒に繋がる手掛かりを、破壊される可能性は下がったはずだ。
悪夢の事は秘密にして、後は耐えるしかない。
紅蓮の少女が感情に任せて、僕を殺さない事を祈ろう。
髪と瞳を赤く染めた少女が、大地を踏み鳴らす。
大太刀が振り下ろされる事はなかったけれど、腹に蹴りを叩き込まれた。
僕は堤防の上から飛んで、浮遊感を味わったあと下の川辺へ落ちる。
普通の人間だったら死んでいる所だ。
地面から立ち上がってみると、両手の槍が行方不明になっていた。
堤防から飛び降りた少女が、軽やかに着地する。
急ぐ様子もなく歩いて迫り、少女は手に持った大太刀を振るった。
抵抗もなく右腕を斬り飛ばされ、狂った体の重さで僕はバランスを崩す。
断面から血は出ていない。
これも"トーチを加工する技術"の応用だろう。
「アラストール。"これ"、昨日よりも、ちょっとだけ固くなってる」
『ふむ、こちらの干渉を防ぐ術は知らぬようであるし、何者かに弄(いじ)られたか』
斬り飛ばされた右腕が軽い。
右腕を支えていた力が余って、僕の体は変に傾いていた。
痛みを感じないとしても、もう体を斬られたくない。
体の一部を失う感覚に、さっそく僕は追い詰められていた。
この紅蓮の少女は僕を斬って、心は痛まないのだろうか。
『このミステスは言動を制御されているのやも知れぬ』
「でも、"人質を取られているから喋れない"って言ってた」
僕は引きずり倒されて、背中を踏まれる。
少しずつ力は増して行き、伝わった痛みで手足が跳ねた。
あんな小さな体の何処に、こんな重量があるのか。
強度が増しているはずの体でも耐えきれない。
体の中から骨の折れる鈍い音が聞こえて、僕は意識を失った。
――――――
――――
――
湿った土の感触が、今は心地いい。
いつもならば冷たい土に寝転がろうなんて思わない。
でも、体調の悪い時は別だ。このまま動きたくない。
体温を奪われる事が安らぎに思えた。
さっきまでの地獄と比べれば、ここは天国だ。
「ユージくん、そのまま寝ると死ぬよ」
「あー、うー」
喋る気力も湧かない。
死ぬかと思うほど酷い目にあった。
そんな僕の体を琥珀色の炎が包み込む。
大天使ヨーハンさんによって体の痛みは消えた。
それでも受けた衝撃は治まらず、僕の意識は曖昧な物となっている。
「ありがとうございます、ヨーハンさん。おかげで楽になりました」
「いったい外で何があったんだい?」
ん? 外で?
ヨーハンさんの言葉を、ちょっと疑問に思った。
疑問に思いつつも"外"で、紅蓮の少女に襲われた事を説明する。
……なるほど。ヨーハンさんの"外"という表現も、おかしな物ではない。
まるでヨーハンさんが、ずっと"内"にいたように聞こえて、戸惑ってしまった。
「"天壌の却火"アラストールのフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』か」
「存在の力を回復する薬を手に入れるために、この夢の事は黙っておく事にしました」
「"使命に忠実なフレイムヘイズ"という話は、彼女に親しい人から聞いた事があるね」
「存在の力を喰らう紅世の徒を狩り出して討滅する、ですか」
「そんな心配しなくても戦闘狂と違って、『炎髪灼眼の討ち手』は無暗に徒を討滅する事はないよ」
「死ぬような目にあった僕としては反論したい所です」
「ちゃんと夢の事を話せば誤解は解けるさ」
「……そうでしょうか」
「そのためにも、ちゃんとユージくんを帰してあげよう」
まっすぐな通路の先へ、ヨーハンさんは視線を向ける。
いつもの1人分しかない通路と違って、たとえば車も走れるほどに広かった。
両端の壁に松明が並び立てられ、広い通路を明るく照らしている。
這いずる影も見当たらない。
ただ、大きな扉が通路の奥を塞いでいた。
「ユージくんは、ここで待っているといい」
「いいえ、僕も行きます。ヨーハンさんを独りで戦わせる事はできません」
右腕の欠損は直してもらった。
ついでに膨れていた手も直っている。
しかし、武器の槍は行方不明だ。
這いずる影が現れれば、素手で戦わなければならない。
だからと言っても、武器がないのはヨーハンさんも同じだった。
「ユージくん、僕は魔法使い――自在師なんだ。心配はいらないよ」
「僕の右腕を生やすために、相当の魔力――存在の力を使ったでしょう」
「僕の胸の灯りは、まだ明るいだろう?」
「囮くらいになら成れます」
「今のユージくんは、いつものように動けない」
たしかに、そうだ。
怪我は直っても、精神は直っていない。
今の精神状態で戦えば、大きなミスを犯しても不思議ではなかった。
これほどヨーハンさんが断るのならば、それほど不安があるという事だろう。
初めて紅蓮の少女に斬られた時、"笑い出した"という前歴がある。思えば昨日のことか。
「今の僕は自分で思っているよりも、正常ではないのかも知れませんね」
「その自覚がある分、まともな方さ。ここで大人しく待っていなさい」
子供のように頭を撫でられる。
まるで保護者のような、いつもと違う口調だった。
それだけで目が熱くなり、涙が出そうになる。
なるほど。こんな僕は、"まったく正常ではない"。
今回はヨーハンさんの邪魔にならないように、大人しく待つべきだ。
折れた槍は行方不明で、薬も平井さんに使って、ヨーハンさんに渡せる物は持っていない。
大きな扉へ向かって、ヨーハンさんは歩いていく。
本当に大丈夫なのかと、僕は不安に思った。
だからと言っても、今の僕は有力な手段を持っていない。
僕らにある唯一の武器は、ヨーハンさんの自在師という力だった。
もっと武器があれば、もっと薬があれば、もっと力があれば――
ゴォン!!
通路の奥を塞いでいた茶色い扉が、向こう側から弾け飛んだ。
前触れもない衝撃に、ヨーハンさんは巻き込まれている。
扉を形作っていた古い木片が降り注ぎ、辺りの地面に散らばった。
周囲の風が渦を巻き、土を巻き上げて、ヨーハンさんの体を覆い隠す。
しかし、奥から姿を現した紅蓮の騎士が、炎の剣を振り下ろして風を切り裂いた。
「ヨーハンさーーーん!!」
お気に入り3件、記念パピコ