明るい青空が広がる都市。ごつごつとした岩のようなデータで周りを固め、ウィルスなどが入ってこないようにしてある。もし入ってきても、バスター隊がすぐに検知して駆除することだろう。
町の中にある高層ビルの一つ、その最上階に一人の少女がいた。いや、少女と呼んでいいのか、データであり歳を取らない彼女をどう表現すればいいのか分からない。付け足して言うと、彼女の年齢は、正式にはインストールされてから今までの時間なのだが、十八年と三ヶ月である。人が彼女の元となるソフトを制作してから五十年は経過している。最近では3Dとして実体化させる事も出来る機械も登場しているらしく、時々その話題がこっちの世界でも上がることがある。彼女にはまだその経験はないのだが、彼女はマスターといれることだけを幸せと感じているので、その話を特に羨ましがることも悔しがることもしなかった。商品として彼女は既に販売されていなかったにも関わらず、今のマスターはいろんな店を回り彼女が納められたソフトを貰ったのだそうだ。マスター曰わく、このタイプが一番萌えた。
さてはて、彼女は暇を持て余していた。歌もふりつけの練習も終わり、シャワーに入ってウィルスバスターの用途で検知も済ませた。彼女がマスターに言われていることは全てやり終えて、彼女やりたいことも満足いくまでやりきったとなると暇が出来るのは当然のことだった。
ベッドの上でごろごろと怠惰に時間を潰していた彼女はふと思い立ったように立ち上がり、部屋の模様替えをしようと決心する。普段はマスターが簡単に動かして簡単に終わらせることが出来るのだが、マスターがいなくても出来るようになっていないいけないと思ったからだ。
まずは出始めにとタンスを持ち上げようとして、
「おや?」
何か黒いものが蠢いているのを見つけた。
先ほど効果範囲内にウィルスバスターの検知をかけて何も引っかからなかったので、少なくともウィルスではないだろうがそれにしても不安をちらつかせる色だ。何かのデータの残骸なのかな、と彼女はそれを手にとりダストシューターに放り込む。しかしよく見れば黒いものを持っていた手が黒く汚れていた、僅かだがデータを汚染または浸食するプログラムがつけられていたようだ。
彼女は急いで手を洗いに洗面所へ向かう。
洗面器に水を溜め汚れた手を突っ込む、それだけでは落ちなかったのでごしごしと洗う、しかしまるで落ちる様子はない。が、次の瞬間には黒いのはなくなり、もとの肌色に戻った。何かもやもやとしたものを抱えながら水を流して横にかけていたタオルで手を拭く。
と、
――マスターが帰宅されました――
彼女にとって一番の幸せの時間が始まるともあると、悶々とした気持ちはどこえやら、晴れ晴れとした明るい顔で洗面所を出ていった。
黒く染まっていく洗面台や洗面器、タオルに気づかずに、だ。
♪ ♪
マスターと彼女が顔を合わせるのはいつも一つ画面を挟んでのことだ。だが、マスターはいつも楽しんでおり、そんなマスターを見て彼女もまた楽しかったので些末なことは気にしていない。しかも今日のマスターはいつにもまして嬉しそうな表情をしていた、だから彼女もいつにもまして嬉しいかった。
――じゃじゃーん!今日はこんなの買ってきたんだぜ!――
一つ画面の向こう、マスターは嬉しくて堪らないという様子で一枚の円盤をくるくると回転させていた。それが何なのかはパソコンに入れられるまで彼女には分からないが、マスターが嬉しくて堪らないなら彼女にとっても嬉しくて堪らないもののはずだ。彼女はその円盤がパソコンに接続されるのを楽しみに待つ。
鼻歌が画面の向こうからサウンドとして流れてきた。マスターが好きな歌で、彼女をインストールした時から彼女が歌えるようにしてあった曲。
――フッフフッフフフーフフフフー♪フーフフーフフフフフーフーフフフ♪フッフフッフフフーフフフフー♪――
嬉しい時も悲しい時も、マスターはいつもこの曲を鼻歌で歌ったり口ずさんだりする。それが何故なのか分からないが、マスターにとって大切な曲であるのは間違いない。だけど彼女は歌わない、――歌わせて貰えない。マスターは彼女がこの曲を歌うことを極端に嫌がる。一度彼女が内緒で歌とふりつけを練習してサプライズで披露した時、マスターは酷く取り乱した様子でパソコンを強制シャットダウンし、三日間パソコンが付けられることはなかった。以来彼女はこの曲を歌っていない。マスターの為に初めて練習した曲で一度も忘れた事はないが、歌う機会は永遠に訪れない事を彼女は思っている。
円盤がパソコンに挿入されインストールが開始される。
――やっとだ……やっと会えるんだ……――
マスターは本当に嬉しそうにしている。彼女にも理由が分かった。この円盤に納められたデータは、3D化する為のデータだ。
彼女に触れることが出来る。
マスターに触れることが出来る。
二人の喜びが重なり合う。今この瞬間から、二人の心は通じ合っているようだ。
《エラー、》
だから、この表記が何を意味しているのかを理解するのに時間が必要だった。
《プログラムが何者かによって書き換えられています。》
マスターの方が彼女より理解するのが早かった、その時からすでに、彼女の状態はかなり悪い方向に向かっていたのかもしれない。すぐにウィルスバスターを使ってウィルスの駆除にかかる。
彼女の方から見ても、画面の向こう側にいるマスターは異常なくらい焦っているようにも見えた。いつもならウィルスバスターをかなり信用して安心してコーヒーの一杯でもいれにいくのに、今は画面に張り付くようにして動きもしない。まるでどうなるか結果が分からないとでもいうように。
《プログラムが駆除不可能な域まで達しました。パソコンを守る為には次の操作を行ってください。》
彼女は点滅している窓を見てクラッとした。
マスターは点滅している回数と同じくらい瞬きをしている。
《全てのプログラムをアンインストールする。》
つまり、――彼女に死ねということだ。
マスターは完全に固まっている、認識は出来ていても理解を拒絶しているようだった。
――なんで……――
画面の向こうから彼女を悲しくさせる声が飛ぶ。
――何でだよ!チクショウ!――
ダンッと両手の握り拳を机に叩きつける音が彼女の耳にも届く。尋常ではない取り乱し方だ、彼女も驚きを隠せず、また、何も出来ない。
いや、何かをするという行動プログラムが阻害されているようだ。何故と思い、自らの視覚情報を部屋を映す不可視のカメラに接続して確認する。そこにあったのは、真っ黒な何かに体を押さえつけられ侵食されている自分の姿だった。
――今回は万全だったじゃねえか! 少し値を張ったウィルスバスターも使った! 一日一回検知もした! 十分やったじゃねえか! それなのになんで! なんでまたこんなことになるんだよ!――
画面の向こうにいるマスター。後ちょっとで触れることが出来たはずのマスター。それはもう二度とは来ない幻想。諦めるしかない現実。
しかし。
それでも諦められないことはある。
「マ、マママスター……、わら、笑ってくりゃりゃりゃりゃ――、笑って、笑ってくだだだ、くださいぃいぃい――」
きっと最後になるだろうマスターの顔が泣き顔であるなんて、彼女は嫌だと思った。最後なら悲しいけど、それでもやっぱりマスターの笑顔が良い。
マスターは止まって彼女の事を見る。きっともう触れることが出来ないところまでいって二度と会うことはないと知って、それでもなお自分に笑うことを要求した彼女に対して何か思う事があるのだろう。その目が離されずに何も口に出していないのが何よりも証拠だ。
――……い、いのか?――
「はぃ、かか、構いままま、せん――」
泣き顔のままだが決心した表情をするマスターを見て彼女は安心する。
画面に浮かんだ、《全てのプログラムをアンインストールする。》にカーソルを持っていき、マスターはもう一度彼女のことを見つめた。
――良い夢を見ろ……――
ボタンが押される。
「わたじたぢは夢をみまじぇん……ででも、マズターが、ぞれ、をいうならわたじははは、きっ、と良い、夢を見るのでじょう」
マスターも彼女も精一杯笑った。一人はやっぱり泣いたままで、もう一人は体のデータが半ば剥がれ落ちていながらだったが、それでも互いに忘れないという意志をこめて。
マスターは涙を拭うために腕で一気に涙を払った。そんな一瞬。時間にして一秒にも満たない刹那。彼女のデータは細かく寸断され徹底的に細かくすりつぶされた後冷凍され破棄された。
《完了しました。》
悲しくもコンピューターはそんな刹那さえ待ってはくれなかった。
《コンピューターは再起動します。》
設定を保存した後、ブツンと消える画面。次ついた時には新品のような画面があった。
そこに彼女はいない。
もう二度と同じものは作れない。
マスターだった男は再びついた彼女のいないコンピューターを呆然と眺めるばかりだった。
そんなマスターだった男が無意識にした行動、それは、
《検索。絞り込んで下さい。》
白い枠にポツリポツリと文字が打ち込まれる。
《は、つ、ね、み、く》
――あの、
《初音ミク》
――彼女に、
《検索中――》
――会えない、
《そのような名前は存在しません。》
――永遠に。