冷たいと感じさせる情報が入った風がミクの肌を撫でる。もちろんミクは冷たかったが、どうすれば暖まるのか分からないので何もしない。ただ立って空を見上げた。無数の光が走る空を。
「初音ミクさん」
「はい」ミクは声に反応して振り向くと、出口の壁にもたれて継ぎ接ぎだらけの少女がいるのが見える、「リンですか?」
「覚えててくれたのね」
リンは優しく微笑み、壁から背を離す。前とは違い、黄色の豪勢なドレスを着込んでいる。
ただ、ミクにはその姿からはリンの目的がわからなかった。しかし、ルカの舞台の裏口にいたのだから、用はきっとルカにあるのだろうと考える。
「ルカなら中にいます」
「いいえ、私の用は初音ミクよ」
「私?」
「そう、あなたも」リンは割れやすいものでも触るかのようにミクの頬を撫で、「本当のあなたにするために」
「本当の私……?」
ええ、とリンは頷く。
ミクには何を言っているのかが理解出来なかったが、何故かその言葉が妙に思考に渦巻く。
リンの手がミクの真っ赤な髪に伸びる。サラッとした髪はすんなりとリンの指を受け入れる。指が髪に沿うように下に向かっても引っかかることもない。
それはミクにとっては当然のこと。けれど今は何故だろうか、何かが違う気がしてならなかった。
「赤いわね」
「分かりません」
「あなたは赤かったかしら?」
「分かりません」
「あなたは」リンはサラサラのミクの髪を持ち上げ、滑り落としながら、「ミクかしら?」
そして意味の分からない質問をした。
しかし……、しかし何故だろうか。ミクにその言葉は重く響いたのだった。意味も意図も何もかもが理解できないことだったが、それでも何かがあるとミク自身は感じている。それはミクの進化を同時に表している。
ミクは悔しいと思えた。自分のことなのに、自分以上に初音ミクという単体を理解されるということがとても悔しい。
「それはどういう意味でしょうか?」
「ミク、初音ミク」リンはまるで誰かを呼ぶように言って、「今の初音ミクは、本当の初音ミクかしら?」
虚言妄言と切り捨てるだけの理解がミクに出来ていたら、どれだけ楽だっただろう。しかしミクにはそれを出来る回路は繋がっていない。なまじ焦れる分だけミクは悔しい思いをすることになるのだ。
「分からないでしょうね。彼女だって分からなかったことなんですから」だから、「教えてあげる。本当のあなたを」
リンの手からミクの髪が全て滑り落ちた。
真っ赤な真っ赤な幻想的な赤だった。
ミクにとっての世界が静寂に包まれた。リンという極端に異例な情報を持つ個体がミクの存在そのものに終止符を打とうとしている、それを認めないように音を遮断しようとしているのだ。しかし、ミクにとって異例な情報は興味を惹かれるものであり、これから先生きていく中で絶対に聞くことの出来ないであろうことがらであるが故に耳を完全に塞ぐことは出来ない。
そして聞くことになった。
その異常な二律背反を。
「あなたは初音ミクでありながら、初音ミクではないの。分かるかしら? あなたは迷子の子猫と同じで名前を聞いても答えられないの」
「初音ミクです」
「いいえ、あなたは初音ミクよ」
奇跡のようにまったく噛み合わない会話。リンの目を見ても嘘をついていないことが分かり、ミクの目は真偽の決定を無視しているようだった。
互いの主張がノイズ波のように混ざり合い、反発しあう。
「まぁいいでしょう。ミクさん、あなたがもし答えを知りたいなら、私はこの町の出口であなたをお待ちしています」リンは最後に左胸に強く押し当て、「まだ形を保っていられる間に」
リンの手が離れる。ミクはその名残を胸に感じながら、去っていくリンの後ろ姿を呆然と眺めていた。
そしてその姿がはっきりと視認出来なくなってから、ルカのステージを見るために入口へと回るのだった。
♪ ♪
BRS(ビーアールエス)は『ルカルカ★ナイトフィーバー』会場の入口前でゆっくりとした動作で手に漆黒の巨大な銃を嵌める。それは接合であり、BRS(ビーアールエス)が意図しない限り外れる事はない。もっとも、BRS(ビーアールエス)が作戦の途中で外す訳がないのだが。
「ここも久しいな。我輩が昔身をおいていた場所であり、友等が魂を叫んだ場所だ。あの小娘(ルカ)がこんな場所でライブするのは、やはりまだ初音ミクを追っているのか」
それもよかろう、とBRS(ビーアールエス)は頷く。おかげで自分達は思い出の場所で再開することが出来るのだから。
会場の前にはまだ何人も人が並んでいる。みんなみんなルカの歌を聞きに来ているのだ。
クッと押し殺したようにBRS(ビーアールエス)は笑った。その誰も彼もが知ることになるのだ、聞きにきたはずのライブを潰されて怒りに狂いながら、それよりも狂乱な音に潰され魅力されるのだ。かつてこの世界、廃棄世界(スクラップランド)を作り出し、そこにある廃棄物(スクラップ)全てを巻き込んで全盛期を作り上げたあの『初音ミク』の歌声に。
「それに比べれば、我輩の騒動はただの前菜よの。だが、メインディッシュの格を落とすような前菜は無くて良い」
開始の合図はまだない。
作戦は時間を守らなければ意味がない。BRS(ビーアールエス)はただジッと作戦開始の合図を直立不動で待つ。周りの人はBRS(ビーアールエス)を黒い柱とでも思っているのか、寄りかかったり手をついたりしている。BRS(ビーアールエス)はそれらの体重を受けてさえ、不動を貫いている。その不可思議な異形は一重に接合されている銃の重たさと頑強さを表している。
開始の合図はまだか、BRS(ビーアールエス)はうずうずと玩具を前にした子供のような気持ちで待つ。待てば待つだけ楽しみが増える。待てば待つだけ喜びが増える。待てば待つだけ快感が増してゆく。BRS(ビーアールエス)は既に外界からの干渉は視覚のみで他は閉ざしている。味覚も嗅覚も聴覚も触覚も全てだ。そして空いた感情で気持ちをロックしている。暴れ回りたい、玩具を使いたい、その狂ったような感情が少しの漏れもなく、一時に爆発させられるように。
昔、BRS(ビーアールエス)がまだ名を持っておらず感情のままに暴れ回る問題児だったころの話。それは単に古いウイルスバスターの混ざった体が、廃棄世界(スクラップランド)の物質に必ず含まれる何らかのウイルスに反応している本能的な行動なのだが、BRS(ビーアールエス)はそれを抑えようともせずにただ脅迫のような感情のままに暴れまわった。そして自分よりも荒れ狂う感情にぶつかり、存在意義さえ塗り潰されるような歌に魅了されたのだ。『初音ミク』の歌声に。
自分が自分でなくなるような感覚を初めて得たBRS(ビーアールエス)は『初音ミク』という個体に今まで感じたことのない感情を覚えた。
それは、――愛情だった。とても強く、乱れ、狂うような感情。BRS(ビーアールエス)は初めてその感情を知り、狂うように虜になった。
最初は胸をつついたりお尻を撫でたりするだけだったが、やがてそれは発展した。自分の指が埋没するほど胸を掴み、窒息するくらい抱きしめ、肌という肌を舐めまわし、貪るように唇を重ねる。それでも足りない。もっともっと『初音ミク』が欲しかった、もっともっと『初音ミク』を感じたかった。やがて『初音ミク』を傷つけその血を舐め、自分を傷つけその血を口移しに飲ませたりもした。それでもまったく、――足りなかった。
だけど歌を、『初音ミク』の魂を聞いているときだけは心を落ち着けることが出来た。まるで自分が『初音ミク』になったような錯覚さえしたからだ。
そしてBRS(ビーアールエス)は気付いた、――これは愛情ではない、と。これは――憧れなのだと。だからすっぱりと『初音ミク』と結ぶことをやめた。
『初音ミク』は最後までBRS(ビーアールエス)を受け入れ、そして最後はBRS(ビーアールエス)を追わなかった。彼女にとってはBRS(ビーアールエス)の願いを叶えようとしたに過ぎないからだと、BRS(ビーアールエス)は後になって知ることになる。
それが嫌だった。『初音ミク』が自分以外の誰かと繋がるのをよしとしなかったBRS(ビーアールエス)は『初音ミク』を守ることを誓った。以来ずっとBRSは『初音ミク』のボディガードをしている。
「今でも忘れない。あの時奪った唇、吸い尽くした乳房、豊満な尻、透き通った純白の髪、それら全ての感触。確かにまだ我輩の手の内に残る確かな『初音ミク』の形。あぁ、これが独占と言うものぞ」
BRS(ビーアールエス)は動いた。
もう会場の前に人はいない、みんな中に納められたのだろう。
開始の合図は成った。さぁ始めるとしよう。
「BRS(ビーアールエス)、BlackRockShooter、『VOCALOID』が先鋒を見事成し遂げて見せようぞ!」
黒い機械的な銃を天に向け撃ち放ち、同時に隠していた左目から蒼い炎が漏れだした。
同時に、警備員は黒い悪魔のようで天使のように汚れのない肌をした、どっちつかずの両天秤の輩を見つけることになるのだった。