ミクは観衆の中でただ一人ぼんやりと突っ立っていた。何かをしようというのが湧かず、ただぼんやりとルカの歌に聞き入っていた。
上手い歌だ、――ミクはそう思ったが、――それだけだった。それ以上は何も、心に響くような何かは確かにあるが、聞いているとき以外は何も残らない。普通の中では最上級の歌になるだろう。
「歌――――ですか」
ミクは胸が熱い気がした。今まで異常がなかった何かのプログラムが書き換わような、欲求が迫ってくるような感覚を味わう。だけどそれがなんの欲求なのか、何をすればいいのかが分からずじれったい。どうにかしてこのもやもやを解消する方法はないだろうかと思案する。
そして、――ある歌を、まるで自分の一部のような歌を口に出そうとした。しかし、出来ない。声に出そうとした瞬間、脳髄に熱された鉄でも当てられたかのような不愉快な感覚が襲い、その場に立っていられなくなり座りこむ。
丁度その時、舞台の電気が落ちてルカの声も姿も、近くにいる観衆達も見えなくなるような闇がミクを包んだ。
観衆達からの苛立った声がミクの耳にも届く。しかし、ミクは今がどういった状況かわからないので、何の感情も動かなかった。それにはもちろん頭の中をかける気持ちの悪い感覚が強すぎるからというのもあるのだが。
やがて、ステージに向けられた光が強くなっていき、一人の純白の女性を浮かび上がらせる。
ミクはその姿を確かめて、目を大きく開いた。
――みっくみくにしてやんよ!――
怒声にも似た力強い音が会場を呑み込んだ。
それ一言、たった一言しかなかったのに、――心は簡単に満たされた。かいとのようにじわじわと魂を侵食していくような音じゃない、一瞬で、それもたったワンフレーズにも関わらず、抵抗の余地さえ与えず魂が包まれた感覚。でも嫌な気はしない、会場の雰囲気そのものが包みこんだ魂であり、隣り合う観衆達はみな同じ魂を共有しているのだ、嫌に感じる理由がない。周りと同一化したような、まるで歌手と観衆が合わさり一つの生き物になったかのような感じ。そう、まるでそのまま言葉通りに、――呑み込んだのだ。
ミクは立ち上がることすら忘れて、その声を聞いていた。周りにはまだ理解出来ている人がいないようだ、この歌がどれほど凄く、歌っている人がどんな人なのかを。
一瞬でその場を支配した音の次は、その音をさらに揺らすギターの音。どちらも込められたものが違い、どんな歌よりりも言葉を失う。――否、どんな音よりも。
ようやく観衆達の自我は追いつき、見にきたはずのライブがこんな形で潰されたことに苛立ちを覚える。しかし、それは徒労だった。そんな気持ちはものの数秒で『初音ミク』の音に潰されて消え去ってしまう。そして、潰された後には強迫じみた感動を与えさせられる。一人が声を上げた。我慢できなかったのだろう。するとその一人を起点に、波紋のように広がっていった。一人二人十人百人千人――、もはや会場内で歌っていないのはミクだけだった。
ミクだけは歌えなかった。歌おうと思っても声が出せなかった。無理に出そうとすると言いようのない痛みが頭の回路を焼き、痛覚が麻痺する手前まで跳ね上がる。何故なのかは分からない。
「ハ……ク……」
ステージの上の『初音ミク』を見ながらミクは声を漏らした。当然それは周りの音に飲み込まれて届かない筈だ、それくらい音が会場に充満している。けれど、――『初音ミク』はミクの方を確かに見た。
「歌いたいかい?」
『初音ミク』が歌うのを止めてミクに聞く。けれど歌は止まない。一度入ったエンジンはそう簡単には止まる筈がない。
ミクは真正面から『初音ミク』を見据え、その上で、心から声を出した。
「歌……歌い、たい!」
「そうかい」『初音ミク』はステージから飛び立つ、「なら行くよ、あんたのステージにね」
『初音ミク』はミクの手を掴み、観衆の中を駆け抜ける。誰も引き止めようとはしない、まるでそうするように雰囲気が強制しているかのように。
外に出た。そこには信じられない光景が広がっていた。人だ、今までいなかったような人までそこにいて、建物すら混じった欠片の自我をもつ異物が反応して光輝いている。それが、廃棄世界(スクラップランド)の全てのデータだということが分かる。
「これから何をするのであるか?」
出口にはBRS(ビーアールエス)が傍らに接続されたままの銃を突き立て、それにもたれ掛かるようにして待っていた。
「本番さね」『初音ミク』は人差し指ごと腕を天に向け、「今からあそこに送るよ!」
ミクには何のことかさっぱり理解出来なかった。
♪ ♪
ルカはステージの端でただ呆然としていた。目の前にいる女性は、自分からギタリストを奪い、そして最も憧れている女性その人だったからだ。しかもその近くにはそのギタリストも同じようにいるではないか。何がなんだか、理解出来るのは自分のライブがいとも簡単に乗っ取られ、ルカ自身もその女性とギタリストの魂の歌に、――圧倒的な音に魅了されているということだ。
正直悔しいと思う。――けれど、勝てるとは思えない。『初音ミク』がいなかった間もルカは歌い続けていたのに、ルカの積み重ねてきた音は簡単に、――それこそたった十とちょっとの音に負けてしまったのだから。悔しくないわけがない。そして、久しぶりにこの歌を聞いて、嬉しくないわけがない。
「ルカ、歌えるか」
茫然自失としていたルカに我を取り戻させたのは、後ろからかけられたかいいとの声だった。熱狂的な音が響く中、かいとはギターを弾くのを止めてルカに近寄っている。
ふとステージを見ると『初音ミク』はすでにいなくなっていた。
「無理、だよ。私じゃ彼女みたいに歌えない」
ルカは呟いた。そんな声、今この場を支配している音に塗りつぶされてしまうような声だったのだが、かいとには確かに聞こえた。自分に向けられた心からの音を聞き逃すのは、例えこもる音に込められた魂が分からなくてもやってはいけない。
がっくりとうなだれたままのルカは遠い彼方を見るようにかいとを見た。
「私は彼女みたいに歌えない」だから、「私は今は歌えない」
それが全てだ。歌の良さを分かるから、その歌がどれだけ凄いのかを分かってしまうから。ルカはそれに続くようには歌えない。
「馬鹿だな」しかし、かいとはそう言ってルカに手を差し出し、「あいつみたいに歌う必要はねぇだろ。俺はお前が歌えるかを聞いてんだよ」
「でも……」
ルカは差し出された手を、取りたかった。けれど、それはまだ出来ない。自分はまだ『初音ミク』のようには歌えないと知っているからだ。まだ約束は果たされていないのだ。
けれど、かいとは強引にルカの手を取り、自分に引き寄せた。そして背中に手を回して抱きしめる。
「歌えよ」ルカの耳元でかいとの音が囁かれ、「一緒に奏でようぜ、俺達の魂を」
トクンと一際大きな鼓動がルカを包んだ。経験したことのある感覚、そうそれは、ずっと昔――、隣にはいつもかいとがいた時に感じていた優しい気持ち。ルカは震える腕をかいとの背中に回す、もう絶対離さないように。
「分かった。歌う……頑張って歌うから……だから、だからちゃんと弾いてよね!」
「任せろ!」
もう抱き合っていなくてもいい。体が繋がっていても心は繋がっているから。いや、もしかしたらもとから二人は、――否、ルカは、そのことに気付いていなかっただけなのかもしれない。そして長い月日だけが流れて、再確認しただけなのかも。
ルカはステージに立つ。みんなルカを見上げるが、ルカ自身を見ているのはいない。みんな『初音ミク』という雰囲気の中で同じ気持ちが歌おうとしているとしか見ていない。ルカはそれでもいい、勝てないのは分かっている。けれどルカは見つけることができたのだ、とっても近くにあってあまりにも当然だったから忘れてしまっていた気持ちを。
だけど言わない。当然のままでいいから。当然のままで嬉しいから。だから言わない。――だから歌う。
かいとが前奏に入った。ルカはそれでも気付かされた、やっぱりかいとは凄い。前奏が終わる頃には、ステージの前にいる観衆はルカ自身を見ていた。そこに『初音ミク』の影は見えない。
「ルカ、いつでもいいぞ!」
「うん……ありがとう、かいと」
いつも当然のようにステージを用意してくれる、当然のように当然をしてくれていたことに気付けなかった過去の自分を恥じたい。ルカはそんな思いを胸に秘めてマイクを近付ける。一度切られたこのマイクは、きっと今は繋がっている。そんな感じがする。もし繋がっていなくても、きっと思いは歌うことが出来るはずだ。
だから、貰ったいっぱいいっぱいな大切なものを、本当は抱えきれないけれど頑張って持ち上げて、一つ一つ丁寧に返すつもりで、歌おう。
きっと、そうじゃなきゃ。
ルカは歌う。叫ぶような歌は出せないけど、精一杯心を込めて歌いだす。
――だ~めだめよ♪――
それはほんのちょっとしか魅了できないけど、確かに始まった真実の歌。
私達はこれからも歌い続けるのだ。