ぱかぱかと馬の蹄が地面を叩く音がする。
真っ暗な世界。灰色が空を塗りつぶし、あらゆる世界がゴミとして排出した壊れたデータの残骸が荒涼とした大地に散らばっていた。これらは一日や二日、一年や十年で蓄積されたものではない。人がコンピューターを作り、ネットワークを作り出してから蓄積されてきたデータの全てだ。どこかの会社の古い会計報告書のデータ、ロボットを作り出すために作られた構造を知る模型図のデータ、本当に様々なデータが残骸になってここに辿り着き、そして灰色のデータの仲間入りを果たす。
中には高度なAIとして生まれる筈だったものまでもが無残に捨てられていたりもし、そしてそのAIが入るためにネットワーク上に情報の塊として作られた人間のデータもある。手だけ足だけ上半身だけ下半身だけ、五臓六腑は無惨に飛び出し、関節はあらぬ方向に折れ曲がったり増えたり、男と女の身体的特徴を取り入れたもの、またはその逆。見ているだけで吐き気がするような地獄絵図が生み出されている場所だってある。
ガラガラと新たなデータの残骸がまるで夕立のように降ってきた。どこかの家のデータが捨てられたのかと思うほど家庭的なデータが豪雨のように降っている。
その中に、人のデータが一つだけ混じり込んでいる。ドスッと先に落ちたデータの上に無様に落ちた人のデータ、女性のデータ、は動かない。行動プログラムや言語プログラム、果ては構成単位でバグってしまっているからだった。幸運なのはそれだけのデータの圧迫を受けてなお原型を保っていられたということだ。
やがて彼女を含めた情報の墓場に灰色の空から雨が降る、雨粒もまた灰色であった。この雨は大地にある残骸データの中で悪性のものに働き、その悪性を完全に溶かし尽くすというものだ。
あちらこちらで排煙があがっている。残骸データの一部が雨と反応して悪性のデータを吐き出しているのだ。そしてこの煙こそが空に浮かぶ悪性のデータを溶かす雨のもとになるのだ。
彼女もまた煙を吐き出している。しばらく雨に打たれた彼女はやがてぴくぴくと体の一部を動かし始めた。悪性の溶けてなくなった後の無害なデータが行動プログラムと別の何かをくっつけたようだ。しばらく慣れない体を動かす機能に戸惑うように少ししか動けなかったが、慣れてきたのか体を起こす動作まで可能にした。
彼女は意味もなく空を見上げた。
流れ星のように光が駆け回っている。あれは情報伝達されている光景だ、光の速さでの情報伝達は今や人間社会にとって不可欠なものになっている。しかし彼女はそのことを知らないため社会事情から何かを感じるということはないし、そもそも光が何なのかすら分かっていない。
ただ、美しいと思うだけだ。
雨が止み、いまだ煙を吐き出しているデータの残骸を踏み越え、一番近く高い場所に立つ。
世界が広がったような気分だ。確認出来る限り地平の彼方まで排煙が上がっている。三百六十度全てがそういう風になっていたのだ。
彼女は刺激を受け取って何かの感情を出すことはない。というよりも出来なくなったというほうが正しいかもしれない。流れ星のような情報伝達の光景を見て美しいとは思えないが、光る何かが動いている様を美しいと思って見ることは出来るということだ。
ぱかぱかと馬の蹄が地面を叩く音がする。
彼女は楽しげな音に導かれて音源の方を向く。そこにいたのは頭がなく体中に損傷をきたしながらも悠然と立つ馬と、その馬が引き連れている箱のような体に車輪を付けた車体の馬車だった。
馬車は彼女の前で止められ、車体の扉はまるで導くように開かれた。彼女は中から聞こえてくる音楽に導かれて扉をくぐる。
入って左右に椅子がセットされている中、彼女は小窓から馬が見える方の椅子に座りゆっくりと背もたれに体を預けた。中に入って見るとパカパカと楽しげな蹄の音とカタコトという車輪の回転する音の二重奏が彼女を包みこむように響く。
彼女はふと大きな窓から外を見た。景色は残骸データが延々と続いているだけだが、彼女が興味を持ったのはそのことではない。
深紅。彼女が見ている窓には確かに赤い何かが写っていた。馬車内に赤いものはない、ただたんに汚くなってなくなっただけかもしれないが今赤いものはないのは確かなことだ。では何が写っているのか。答えは簡単だ、この馬車内で馬車以外のものと言えば彼女しかいない。つまり彼女こそが赤の原因だったのだ。
彼女は狭い馬車内で立ち上がり自分の全貌を確認する。漆黒の下地に端少しだけ深紅データで装飾した服、漆黒の短いスカート、漆黒のニーソックス、漆黒の手袋、そして左右で二つにくくったツインテールは悲しみを秘めた深紅の色をしている。彼女は初めて自分の姿を知る。その姿は、自分が想像していたよりかは何倍もまともな姿だった。
パカパカ、カタコト、――二重奏が続く。
♪ ♪
パカパカ、カタコト、パカパカ、カタコト。二重奏は止まらない。
一体何時間この馬車に乗っていたのか、ただジッと何もせずに窓の外の変わらない残骸データの大地を眺めていた彼女には分からない。そもそも彼女は知ろうとすらしていない。
以前何も喋らず無感動のまま体を揺らされている彼女に一匹の虫が取り付いた。
全身をガラクタのような機械でできているその虫は、彼女の肩に止まると忙しなく動かしていた羽を閉じて休め、彼女と同じようにジッと動かずにしていた。
変わらない景色からその虫に視線を移した彼女は虫を払いのけることもせずにまるで木のようにジッと虫の休憩所となっていた。よく見ると馬が見える窓枠には窓がはめ込まれていない、虫はここから入ってきたのだ。だが彼女はそんなことを知らない、知っていても行動しないだろう。
彼女と虫の視線が混じり合った。両者の目は空っぽだが、しかし大きな違いがある。虫の目はもとから何も感じないために透明な空っぽであり、感じる必要性がなくその他伝達手段がありそちらを利用しているからに過ぎない。一方で彼女の目は一度あったものが抜けたためか混沌としたものが逆に空っぽさを強調しているようでもあり、あらゆる外からの感情を自ら拒絶しているようでもあった。
カタコトと揺れる振動が虫に伝わっているのか、時折休むための位置を確保するために彼女の肩をよじ登る。かさかさと動く虫をやっぱり眺めるだけの彼女は、視界の端で腕を天に伸ばして固まっている人型をみつけても視線を動かさず、あくまで自分が一番見たいと思った対象を眺めている。
やがて休憩するには十分な時間をかけて虫は彼女の肩から飛び立つ。しかし開いている窓はおそらく一つだけ。彼女は虫を逃がそうと思い、一つ遅れてどうしようかと考える。
息を吹きかけて風で誘導してみよう、そう考えついた彼女はすぐに虫に息を吹きかける。すると虫は飛ぶのを止めてぴたりと車内の壁に張り付いて動かなくなってしまった。ただの息でさえ強風に感じているのかも知れないし、彼女ひいては女性に息を吹きかけられるということに何か思う事があるのかもしれない。彼女は構成単位がデータであることを除けば限りなく人間に近しい存在だ、その唇はおそらく狂暴的なまでに柔らかく、ましてそんな人に吹きかける息が甘酸っぱいものではないはずがない。
息を吹きかけるのが失敗して次は何をしようかと考え始めると、虫はまた馬車の中を飛び回り始めた。忙しなく動いている虫は時折見えない壁に阻まれながら外へ行くために頑張っている。
次に彼女が考えついたのは、虫を自分の手で掴み取り窓の外まで導くというものだ。
彼女は虫を捕まえるために手を伸ばすが、すばしっこい虫は簡単に逃れて手は空を掴む。面白いと彼女は思った。再び手を伸ばす、今度はくるくると腕で円を描くようにしながら逃げ道を塞ぐ。しかし虫は簡単に円を突破して彼女の目の前を挑戦的に通り過ぎた。くるくる回したせいで疲れた一方の手はだらりと休め、もう一方で今度は強引に掴もうとする。しかしやっぱり捕まえられない。
諦めたように背もたれに背中をつける彼女の目の前を通る虫は、次の瞬間には神隠しにあったように消えた。彼女は顔を少し上向きに変えていたこと以外は何の奇怪な点はない。
彼女は体を持ち上げ、唯一外に出ることが出来る小窓から口を突き出すようにして、まるで誰かにキスするように唇を尖らせる。しかしその唇に誰かの唇は重ねられることはなく、ふっと吐かれた甘酸っぱい息の中には虫が一匹混ざり込んでいた。
虫は彼女にお礼を言うように八の時に飛んだ後どこかへ飛び去る。彼女はその姿を見送った後再び座り直し、外の景色を眺める。しかしどうしたことか瞼が自然と落ちてくるのを感じ、そして視界を閉ざした。
パカパカ、カタコトと二重奏を奏でながら馬車は進んでいる。